「いつまで逃げるつもりかな」
 哀れな少年を壁際に追い詰める。
 部屋の隅で毛を逆立てている彼は、先ほど拘束から抜けだしたばかりだ。するりと素早い身のこなしと鋭い目つきが野生の動物を思わせる。黒髪からは今も雫が垂れていた。
「殺す気か」
 視線は油断なく私の右手に注がれている。
 一歩近づくと、彼もまた一歩下がった。
 瞳に浮かぶ感情は主に怒りと疑いだが、ほんの少しの怯えも見てとれる。
 こちらが距離を詰めた分だけ、相手も下がった。
 どん、と背中が壁に当たる音がして、彼はとうとう逃げ場を失った。
「さあ捕まえた。観念しなさい。とうの昔に袋のネズミなんだって」
 犬歯を剥き出して威嚇しながらも、少年はわずかにその身をこわばらせた。
 勝利を確信した私がにやりと笑って右手をかざしたその時、ケーブルがぴんと張って、腕の動きが固定された。
 しまった。
 その隙を見逃すはずもなく、少年はネズミというよりも猫のようなしなやかさで袋小路から抜けだしてしまった。
 反対側の部屋の隅に陣取ると、再び私の右手―― に握られたドライヤーを睨みつけた。
「ああもう!さっさと髪の毛を乾かさないと風邪引くって言ってるのに!」




CAT AND HUNTER

01 汚い刀剣男士を拾ったので虐待することにした



 はじめまして、私は検非違使。
 ごめんごめん、急に喋りかけられて驚いたかな。
 仕事中は喋らないようにしているだけで別に話せないわけじゃないんだ。見ての通り、普通の人間と同じように会話できる。検非違使が見境のない化け物だなんてとんでもない誤解なのです。
 まあ、あの鎧姿だとそう思われても仕方ないかもしれないけれど。
 あの不気味でいかつい鎧は言うなれば検非違使のユニフォームみたいなもので、重いわ、ダサいわ、着脱面倒だわで若手の間ではすこぶる評判が悪い。
 なに、イカでも釣るの?とばかりに青く光るのも仕様です。
 せめて光るのだけでもどうにかしてほしい!目立って仕方がない!そう訴えたこともあるが、頭の固い爺どもから「何を言う!神聖な戦装束であるぞ!」とお叱りをいただくだけの結果に終わった。最近ではもう諦めてパトカーのランプみたいなものだと思うことにしている。
「ここに検非違使いるよ、違反しちゃだめだよ」みたいな。
 ということで中に入っているのは実は普通の人型なんです。
 バラしちゃいけないっていう決まり事があるので、他言無用でお願いしたい。
 私が人間なのかどうかは……さて、どうでしょう。それはご想像にお任せします。

 話が逸れたね。
 名前は同じでも私たちは平安時代の検非違使とは全く別物で、彼らよりもはるか昔から特別な任と力を負ってきた集団なんだ。ここだけの話、皆が知ってる「検非違使」の名の由来こそが私たちだったりする。
 そしてすでにご存知だろうけど、その特別な任こそがいわゆる「歴史の異物の排除」―― みんな大好きネコ型ロボットアニメ風に言うとタイムパトロールかな。
 あらゆる時代を監視し、発生した異物を片付けるのが私たち検非違使のお仕事です。
 いつの時代も過去を変えたいと願う人間は後を絶たない。気持ちは分からないでもないけれど、それを許していたら秩序も何もあったもんじゃないわけで。
「過去に干渉する者」はどんな理由があろうとも問答無用でしょっぴく。骨一本、髪一本すら残さない。それが私たちの、そして歴史の決まり事。
 ―― のはずだったんだけど。


 部屋の隅から絶え間なく飛んでくる鋭い視線と殺気。思わずため息が出る。
 うかつに近づこうものなら、食い殺されかねない雰囲気だ。
 もちろん武器は取り上げてあるし、あまりに暴れるので今は軽く拘束もしてある。身体は傷だらけで服はボロボロ。髪の毛や頬には乾いた血がこびりついている。
 しかしそんな状態でもこちらを睨めつける眼光にはいささかの衰えもなかった。
「そろそろ観念したらどうかな?暴れないんだったら縄をとってあげるよ。私に少年を縛っておく趣味はないんだって。あ、いや、もちろん成人を縛る趣味もないんだけど」
 少年が不快そうに眉を上げたので、慌てて言い直す。余計に警戒させてどうする。
「それに、そろそろちゃんと手当をした方がいいよ」
 相手を刺激しないように今度はそっと話しかけた。
 返事はない。
 黒い瞳がこちらの動きを隙なく観察している。
 思い切って少しだけ足を進めた。
「近寄るな」
 懸命なる歩み寄りは、地を這うような低い声で即座に斬って捨てられた。凍てついた瞳の奥に燃えたぎる炎が見え隠れしている。
「だから何もしないって言ってるじゃん……分かった分かった。近づきません。近づかないから」
 毛を逆立てて唸る姿にハンズアップした私は、諦めて元の場所に戻った。距離をとったことで、張り詰めた空気がほんの少しだけ緩まった。
 ソファにもたれこんで、遠目に見やる。
 艶やかな黒い髪に、少し吊り気味な黒曜石の瞳。
 細身だがしなやかに鍛えられた身体。
 いたるところに傷を負った彼は、動く度に乾いた血をパラパラと床へ落としていた。
 こちらを油断なく伺う様子は野生の猫にそっくりだ。とんでもなく愛想の悪い黒猫。
 はあ。再びため息が出た。

 私が拾ってしまった刀剣男士、いや手負いの獣と呼んだ方が正しい彼はさっきからずっとこの調子で私の部屋に居座っている。
 なぜこんなことになったのか。
 それを説明するには少し時を遡らなければならない。


◇◇◇


「お疲れさん。今日はここで解散する。次の仕事はいつも通りに連絡を入れるからな」
 長柄槍を担いだ隊長が仕事の終わりを告げる。隊員たちは一様に息をついて伸びをした。
「今日も良く働いたー!」
 ナンセンスな鎧を脱いで身体が軽くなる瞬間はいつだって爽快である。
 汗でべったりとした髪の毛を手櫛で梳き、その天辺を労るように撫でた。

 若手検非違使の間では、とある重大で致命的なテーマが長らく取り沙汰されている。
 それは『湿気のこもる兜を若いうちから長期間に渡ってかぶりつづけたら、そのうちハゲるんじゃないか』という極めて深刻なものだ。
「おう、頑張ってたらしいな。えらいえらい」
 古傷だらけの顔をほころばせた他部隊の隊長が、のしのしとこちらへやって来た。
 いつもの癖で思わず視線を上げて確認してしまう。彼の頭頂部はやはり後光の射すような輝きに満ちていた。その明るさと反比例して私の心はどんどん暗くなっていく。
 私の統計によれば、中年検非違使における毛根死滅者率は85%を上回る。これは絶望的な値ではなかろうか。恐ろしすぎる結果のため、この研究成果はまだ誰にも発表できていない。

 絶望が顔に出ていたのだろうか、隊長は手持ちの袋から何かを取り出した。
「おおお!そ、それは!」
 手渡されたものに、思わず口を押さえる。そこにあったのは某高級チョコレートメーカーの期間限定トリュフだった。
 仕事の帰り道にべったりとデパ地下に貼り付くことはや一週間、どうしても踏ん切りのつかなかった一品である。
 『それぐらい買っちゃえよ。大丈夫大丈夫、結構貯金してるだろ』
 『いいえいけません、小さなお金こそ大切にしなければ。何かあった時に貴方を支えてくれる者はいないのですよ』
 ショーケースの前で繰り広げられた天使と悪魔の攻防戦を思い出す。あれは激しい戦いだった。
「あ、貴方という方は……神よ、ああ、もう一生ついていきます」
 先ほどまでの無礼な考えはすっかり忘れて、私は跪いて神に祈るポーズをとった。隊長の後光は私の心をどこまでも明るく照らす。これが恵みの光なのね。さすが我が扱いを良く心得ていらっしゃる。
 ところが突如その神聖なる空間にいつもの横槍が入った。
「隊長、そいつに餌をやらないでください。そのことしか考えなくなって仕事に支障が出ますので」
 立っていたのは同じ部隊の先輩である。ことある毎に私をいびりにやってくる姑のような男だ。
「先輩、何ということを!隊長への無礼はこの私が許しませんよ!」
「乞食のような後輩が見ていられなくなってな。だいたい菓子に目がないなんてそんな子供みたいなことを言ってるから、いつまでたっても彼氏の一人もできないんだろう」
 この男、決して言ってはならないことを!しかし正論すぎてぐうの音も出ない。
「くっ……いつか必ずセクハラで訴えてやりますからね。覚えてろ!」
 負け犬のように遠吠えた私は、尻尾を巻いて退散した。もちろん心優しき隊長には這いつくばって心からのお礼をしておいた。


 人気のない通路をひとりで歩く。
 ちくしょうめ。あのセクハラ野郎。
 スーツケースを転がす乱暴な音をあたりに響かせながら、下品な言葉を吐き捨てる。
 検非違使の本部から外に出るにはここを通るのが一番早い。この道は戦場へ出立する際にもたまに使われることのある道で、そこを途中でそれると私の家の方角へと続いていく。
 かばんの中でさっきもらったお菓子の包みががさがさと鳴っている。
 仕事柄、検非違使はほぼ全員が男性である。探せばいるのかもしれないが、今のところ女性は見かけたことがない。私はまあ、少し特殊な事情があってこの仕事をするようになっただけだ。
 そういう訳で大柄な男性ばかりの中で良くも悪くも目立ってしまう私は、こうやってしょっちゅう子供扱いされる。一般的な基準で見ればもう大人なんだけど。
「へいへい、どうせ彼氏もいないチンケな小娘ですよ」
 誰にともなく愚痴を言う。
 容姿は平凡、性格はこの通り。女子力?戦闘力ならそこそこあるが。
 職場に出会いを求めようともおっさんと姑しかいない。その上、オフィスカジュアルが鎧ときたらいったいどこで誰と出逢えというのだ。
 合コンは高嶺の花、せいぜい甲冑同好会にお呼ばれするのが関の山だろう。
 『教えてよ、何が好きか』
 『兜!』
 『僕と同じじゃないか!』
 『私たちは、よく似てるね♪』
 そういう感じのデート。身の毛もよだつ。
「なにかこう、この荒んだ生活の慰めになるものってないかな。お菓子以外で」
 例えば動物とか。猫なんていいかもしれない。
 真っ白で上品な大和撫子もいいし、おとぼけな三毛も捨てがたい。けれどやっぱり、つやつやな毛並みの黒猫。ちょっとツンな性格ならさらに理想的だ。
 遠征で数日まるっと留守にすることも多いからどうせ無理な話なのだが、考えるくらいは許されるだろう。

「はあ、世知辛い世知辛い」
 そんなくだらない独り言を呟きながら足を進めていると、鋭敏な耳が背後にかすかな物音を捉えた。
 びりり、じりりと何かが裂けるような音だ。
 ぱっと振り返ればすぐ後ろに真っ暗な裂け目―― 時の隧道―― が浮かび上がっていた。
 時代の行き来に使うそれが、なぜか今ここで開きはじめている。
「なんで!?」
 時空の道が勝手に開くなんて聞いたことがない。それなりの手順を踏まなければ、道は決して開かない。
 過去と未来はそう簡単に繋がっていいものではないのだ。
 あっけに取られて見ているうちに、時の裂け目はどんどん広がっていった。化け物の腔内のような黒々とした空間が目の前に現れる。
 これから起こることを想像して、私は身体をこわばらせた。
 敵の軍勢が現代にせめこんでくる。裂け目がこのまま大きくなり続けて時代の壁を壊してしまう。何が起こったとしてもきっと恐ろしいことに違いない。
 ところが私の予想はあっけなく裏切られた。
 成長した裂け目はその口からぽとりと何かを落とすと、まるで用事は済んだと言わんばかりにみるみる小さくなって消えてしまったのだ。
 いったいなんだったんだ。
 状況が掴めないまま、産み落とされた物体におそるおそる近づいていく。
 傷だらけの少年が、倒れていた。
 咄嗟に助け起こそうとしたが、彼が身に帯びているものを見て動きを止める。その手に握られていたのは鈍く光る短刀だった。
 その身体からは同時に覚えのある気配を感じた。
「まさか刀剣男士……?」


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