第二話 私はだれでしょう
「私はずいぶんと嫌われているようですね」
主が発ったその日の夜、一緒に夕食の後片付けをしていた青年が唐突に言った。
薬研藤四郎は黙々と手元の作業に集中しながら耳だけを傾けた。同じように漆器の片付けをしていた小狐丸も一瞬ぴくりと反応したが手は止めなかった。
なんと返事をしよう。主の客人を傷つけずに済む言葉を探す。
この青年に対して己自身はそれほど強い嫌悪感を抱いていない。誰であろうと主が信用しろと言ったのならそうするつもりだ。好意を持たれているとは言いがたいが、誰もが彼を嫌っているわけではなかった。
しかしその一方で苛立ちを露わにしたり、目に見えて避けようとする者がいるのもやはり事実であった。その空気を感じてか当番の手伝いをする時以外、彼はずっと独りでいた。
返答に困る薬研の代わりに小狐丸が返事をした。
「あまりお気になさらず。皆、余所から来た代理殿に気後れしておるだけですから」
「……そうだと良いのですが」
童顔の青年は黒目がちな瞳をそっと伏せた。かちゃかちゃと食器の鳴る音だけがする。
薬研はその瞳に見覚えがあった。穏やかに凪ぎながらも奥底に悲しみをたたえた瞳。その持ち主は一体だれだったか。
記憶を辿ったところで思い出せるはずがなかった。嘆きや無念さを抱えた者などあの戦国の世には数え切れないほどいたのだから。はるか昔、とある寺にて裏切りの炎に焼かれた元の主。自分が失われたのもその時だった。
『考えても今更どうしようもない。歴史はすでに定まった』
どれだけそう思おうとしても、やり場のない無念さは思い出したように彼を苦しめた。主を喪い、身体を失った己。救ってくれる者などいなかった。
「何もできなくて、本当にすみません。私はいつだって見ているばかりです」
応じたかのような言葉に心臓がはねる。しかしすぐにその謝罪がこの本丸におけるものだと理解した。自分の心中など目の前の青年が知るはずもない。
「いや、誰でも初めはそんなもんだ。気にしなくていい。それよりもアンタはなんでここへ来ようと思ったんだ?」
できるだけ柔らかい口調で話題を変える。この青年の悲しそうな顔をなぜだかこれ以上見たくなかった。
「あなた達に会いたかったのです。その姿をもう一度見たいと思った。それだけです」
そう言って、青年は表情を少し和らげた。
「なるほど。見物に来られたという訳ですか」
刺のある言い方で口を挟んだのは小狐丸だった。
「私やそこにいる薬研などはとうの昔に行方知れずとなった刀ですからね。この世に生きる人間で我らの姿を知る者は、今となっては誰もいない。お帰りまでに好きなだけ御覧くださいませ」
彼は皮肉げな調子でつづけた。薬研には小狐丸の気持ちが分からなくもなかった。
刀剣に興味がある人間の中には、すでに失われた存在を見たいと望む者もいるだろう。かつてなら珍重されることに悪い気はしなかった。しかし今は珍しいなどと言われたくなかった。それは己の姿を知る者がもはや存在しないという証なのだから。
主の力によって呼び戻されるまでこの世から消失していた自分や小狐丸は、「存在したらしい」という記録のみが後世に伝え残っている。本体のない自分たちがどうやって現世に戻ってこられたのか、正直今になっても分からない。自分たちの姿を知る者はもはやどこにもいないし、これからも現れない。あるのは紙に書かれた記録だけである。
本当に自分は実在したのだろうか。ここにいる自分は誰かの想像の産物で、何かの拍子に消えてしまうのではないか。そんな風に思うことさえあった。
この記憶とこの意識がかつて実在したものであると、いったい誰が証明してくれるのだろう。本体を喪失している刀剣たちは皆そのような不安で不安定な思いを捨てられずにいた。
架空の刀であるとさえ言われる小狐丸。
普段は飄々としたこの男であるが、きっと自分よりも複雑な思いがあるに違いなかった。彼は最後にぽつりと付け加えた。
「なにせ、我らはいつ消えても不思議のない身にて」
もはや厨には何の音もしなくなっていた。
「そんなこと、言わないでください」
絞り出すような声で青年が沈黙を破った。
「確かにあなた方は過去にその身を喪ってしまいました。けれどその存在は記録に残り語り継がれ、忘れられたことなど一度もありません。そうでなければどうしてこうやって再び姿を現すことができたでしょうか。形の有無が重要なのではありません。例え身体がなくとも、あなた方はいまだ大勢の人々の心に生きています。それが『存在する』ということです」
拳を握りしめて、見ている方が痛くなるような表情で彼はつづけた。
「だから、消えるだなんて悲しいことを言わないで」
小狐丸は目を見開いたが、すぐに再び伏せてしまった。
「人の心に生きている、などと言ってもそれはとても曖昧なものでしょう。結局は私の本当の姿を知る者も、実在したと証明できる者もいないのですから」
しゅんとした彼はまるで尻尾を垂れた犬のようだった。小狐丸の言うことはどこまでも事実で、否定できる者などいない。ところが青年は背筋を伸ばし、絶対の自信を帯びた声で言った。
「いいえ、いますよ。少なくとも一人知っています」
普通に考えればありえないその言葉が、薬研には不思議と嘘に思えなかった。
「……お話になりませぬ。千年を生きる人間がいるとでも。仕事は終わりましたので、これにてさがらせていただきまする」
小狐丸はそっけなく言い残すと、背を丸めて出て行ってしまった。
「知ったような口を聞きました。すみません」
取り残された彼は、同じく取り残された薬研に向かって申し訳なさそうな、恥じたような顔をした。さっきの勢いはどこへやら、また元の気弱そうな青年に戻っていた。
ところが今はその謙虚な様子もなかなか悪くないと思える。薬研はいつの間にか自分がこの青年を気に入ってしまったことに気付いた。
「いいや、なかなか気分の良いことを聞いた。アンタ、見た目に似合わず結構熱いんだな。あの調子だとアイツのことは気にしなくて大丈夫だろうよ」
薬研は彼の落ち込んだ肩をぽんと親しげに叩いてやった。
「短い間だが、まあ仲良くやろうぜ菊の旦那」
青年は丸い目を一層丸くした後、本当に嬉しそうな顔で微笑んだ。初めて見るにもかかわらず、薬研はその表情にどこか懐かしさを覚えて仕方がなかった。