「小狐丸くん、申し訳ないのですがもう少し離れていただけないでしょうか?このままでは洗濯物が干せません……」
他人に離れてくださいなどと言うのはなかなか気が引けるが、菊は頑張ってそう伝えた。
「ああ、すみませぬ。これはお邪魔でしたかな」
すぐ側にぴたりと控えていた小狐丸は、気にした風もなく少し距離を取った。はっはっはと愉快そうに笑っている。
菊がここに来てから数日が経った。
少し前にちょっとした会話(というほど楽しげなものではなかったのだが)をしてから、この小狐丸は何かと菊に付きまとうようになった。
菊殿、喉は渇いておりませぬか。菊殿、この毛艶を見てくだされ。などと時間があればぴょこぴょこと周りを行き来する。
今日も菊が洗濯物を干しだすと、では私も、と一緒に手伝い始めた。楽しそうに着物を掛けていく小狐丸は、狐というよりももはや懐いた大型犬のようだ。当人が言う通りの名に似合わぬ立派な身体は、じゃれついて来るとなかなか迫力がある。しかしどんな形であれ親しげに接してくれる存在はありがたかった。
現状を思い出して少し憂鬱になる。
初日を除けばまだほとんどの刀剣男士とまともに接触すらできていない。なんとかまともな生活が送れているのはひとえに薬研藤四郎の気遣いのおかげである。いつまでもこの状態をつづけるわけにはいかなかった。さまざまな障害を掻い潜ってここに来たのにはそれなりの理由があるのだ。しかしこんなことではいつまでたっても目的なんて達成できないだろう。
菊は弱気になりろうな自分をたしなめた。今更怖気づいてどうするのです。散々悩んで決めたではないですか。頑張りなさい、菊。そう己を叱咤し、ぶんぶんと頭を振る。
「どうされました、菊殿」
「いいえ、何でもありません。それよりも今日はいいお天気ですね」
良い大豆が育ちまする、と小狐丸はにっこり微笑んだ。
第三話 泥も滴るいい男(前)
小狐丸と黒髪の青年が何やら仲良さげに話をしている。石壁に隠れた加州清光と大和守安定は先ほどからじっと二人の様子を観察していた。
「へえ、すごいや。あの小狐丸が懐くなんて」
安定が感心したように言う。
人当たりの良さげな小狐丸は実のところかなり警戒心が強い。同じ刀剣男士である自分たちですら、まともに会話できるようになるまで相当な時間がかかったのだ。本丸に来たばかりの頃は遠くからにこにこ笑っているばかりで、主以外とはまともに話そうともしなかった。まあこちらの方もそれほど興味がなかったので、積極的に関わりはしなかったのだが。
「あの節操なし、主じゃない相手にぶんぶん尻尾振って」
急な方針変更をした小狐丸に清光は苛立っていた。穴を空けそうな勢いで二人を睨む。
「そんなに殺気送ったらバレるだろ、馬鹿」
ばしりと安定が清光の頭を叩く。
「ってえ、せっかく綺麗に整えてたのにぐちゃぐちゃにするなって」
慌てて髪の毛を直す清光に、安定はうんざりしたようにぼやいた。
「なんでこんなことに付き合わなきゃならないんだよ。結構どうでもいいんだけど。早く戻って鍛錬したい」
「二人揃って出歯亀か?」
後ろから急に声をかけられて二人は飛び上がった。立っていたのは和泉守兼定だった。その後ろにはもちろん堀川国広が控えている。
「もう、驚かさないでよね」
「いくら本丸とは言え、簡単に背後をお留守にしてんじゃねえよ。アイツに言いたいことがあるなら、こそこそしてねえではっきり言やあいいだろ」
兼定の言にむっとしながら、清光は再び髪に手櫛を通した。
それができるなら初めからそうしている。
『ばーか、アンタなんかより俺の方がずっと可愛いし、主にも大切にされてるもんね!』
そう叫んでやれたらどんなにすっきりするだろう。しかし客を無碍に扱って主に嫌われてしまったら、と思うと怖くてできない。腹の立つことにあの青年は、かつて見たことがないほどの丁重さでもって主に迎え入れられていた。親しげに話していた光景を思い出す度に、加州清光は不安になって苛つくのだった。
「アンタは気にならないの?」
「あのモヤシが俺らに手出しできると思うか?害にならないなら、別にどうとも思わねえよ。だいたい今更ケチつけたってどうにもならねえしな」
兼定の思考はどんな時でも合理的である。もっともその冷静さの裏に激しい感情を隠していることもしばしばだったが。そういうところを含めて彼は元の主にそっくりだった。
「兼さんの言う通り!それに、もしあの人が兼さんや皆に何かしようとしたらその時は斬っちゃえばいいし。ね、兼さん!」
後ろの堀川が笑顔で物騒なことを言った。兼定と比べると温厚に見える彼だが、中身は意外と過激だったりする。「兼さん」が絡むと特に。結局、この脇差も元主の影響を色濃く受けているのだった。
その言葉を大して否定もしないまま、兼定は低い声で二人に言った。
「お前がアイツに何を思おうが勝手だが、情けねえことはするなよ。名に傷がつく」
具体的な名前が出ずとも、清光と安定はそれが何を指しているのか良く承知していた。ここに集う全員にとって今でも命以上の重みを持つものである。見えるはずのない浅葱色が視界にちらついた気がして、清光はしぶしぶ頷いた。
その反応に満足した兼定は、苦笑しながら二人の頭をぽんぽんと叩く。
「まあ、分からなくはないけどな」
彼はちらりと向こうに視線をやると、そのまま踵を返して行ってしまった。
「兼さーん!待ってくださいよー!」
置いて行かれそうになった堀川が必死に後を追いかけていく。彼らはいつでもどこでも変わらない。清光にはそれがなんだか羨ましく思えた。
「げ」
安定が突然焦った声を出した。振り返ると小狐丸が遠くからこちらを見つめていた。いつも通りのにこにこした笑みが今はなんとも気味悪い。何かされた訳でもないのにぞわりと鳥肌がたつ。黒髪の青年が首をかしげて小狐丸に話しかけたのも見えた。
まずい。じっと見てたなんてアイツにバレたらすごく嫌だ。
清光は安定を引きずって、一目散に逃げ出した。
「どうしました?小狐丸くん」
「大したことではありませぬ。鼠が二匹ちょろちょろしていたもので」
「ネズミですか。世間では害獣と呼ばれることもありますが、私は結構好きです。なにせエンターテイメントの神様ですからね」
「宴多亭?それはなにやら楽しげな」
「ええ、客として楽しむ分には夢の国です。それ以外でちょっかいを出すことはオススメしませんが」
菊の頭の中には、感情のない瞳で『著作権侵害』のプラカードを掲げる某有名ネズミが浮かんでいた。良い子はマネしちゃダメだよ、ハハッ。
「よし、これでお洗濯は終わりですね。少し休憩しましょうか」
「この小狐丸、陽の当たる良い場所を存じております」
白い毛並みをきらきらと光らせた小狐丸は嬉しそうに菊を先導し始めた。