水はけの悪い地面には数日前に降った雨がいまだにじめじめと残っている。足を進める度に今朝磨いたばかりの靴が泥にまみれていった。
「ああ、もう嫌んなっちゃうな」
第四話 泥も滴るいい男(後)
清光は一人で本丸のはずれを歩いていた。
内番があるらしい安定とは四半刻ほど前に別れた。なかなか珍しいことである。この打刀二人は大抵いつも一緒の当番を割り当てられていた。
愚痴の相手を取り上げられた彼はいつになくむしゃくしゃしていた。誰にも会いたくなくなってこんな辺鄙なとこまで来たのだが、いまやお気に入りの靴もすっかり泥だらけである。
アイツが来てから嫌なことばっかりだ。何もかもアイツのせい。
動かしたつま先にゴツンと石が当たる。黒っぽくてまん丸なそれは、あの青年の瞳を思い出させた。
足を引いて思いっきり蹴り飛ばす。綺麗な弧を描いて飛んでいった石は去り際、お返しとばかりに付着していた泥を浴びせてきた。
べちゃり。顔や衣服に茶色い斑点ができる。
耐え切れなくなった清光は、ついに泣きべそをかいてへたりこんだ。
「あーもー!なんなんだよ……」
「泥の中に座っていては風邪をひいてしまいますよ」
今一番聞きたくなかった声が耳に届いた。黒髪の青年は衣服が汚れるのも構わず清光の前にしゃがみこみ、清潔そうな手ぬぐいが差し出した。
「放っといてよ」
「すみません。でも―― 」
「放っといてって言ってるだろ!アンタのこと嫌いなんだよ!」
差し出された手を払いのける。手ぬぐいが泥の中に落ちた。じわじわと染みが広がっていく。
「あ……」
我に返った清光は自分の失態に気付いて青くなった。恐ろしくて顔が上げられない。どうしよう。怒りに打ち震えたこの男は、帰ってきた主にこの無礼な行いを洗いざらい告げるに違いない。大切な客人をないがしろにした自分に主はなんと言うだろうか。
「ごめんなさい……お願いだから主に言わないで。ごめんなさい」
くりかえし許しを乞うが、男は何も答えない。
「こんなに汚くなって、その上悪い子だってバレたら嫌われちゃう。もう要らないって言われちゃうよ」
下を向いたまま小さな声で訴える。後半はほとんど涙声だった。
「あなたなど要らない」
冷たい声が上から落ちてくる。びくりと身体が震えた。いやだ、聞きたくない。
「そう、誰かが言ったのですか」
落ち着いた低い声が淡々とつづける。俯いたまま首を振った。
前の主は決してそんなことを言わなかった。もちろん今の主も。けど、だからこそ不安なのだ。その愛情が失われてしまった時のことを考えずにはいられない。
「でしょうね。誰かに愛されている存在というのはひと目見れば分かるものです」
突然変わった声色に、清光は弾けるように顔を上げた。そこにあったのはどこまでも穏やかで慈愛に満ちた微笑みだった。
「あ、主は俺なんかより、アンタの方を大事にしてる!こんなに汚くなった俺なんて―― 」
むぐ。頬を圧迫されて言葉が止まる。青年は清光の汚れた頬に着物の袖を押し付けていた。そのままごしごしと拭い始める。
「清光くんにケチをつける人なんて居るわけがありません。だって泥だらけでもこんなに素敵なんですから」
泥を吸い込んで袖口がどんどん汚れていく。控えめだが繊細な色のこの着物を清光は本当のところ美しいと感じていた。
「ふ、服が!」
「ごわごわしてすみません。私としたことが予備のハンカチを忘れてしまったのです。準備の良さには定評があるのですけれど」
黒髪の青年は構わず袖を動かす。清光は何も言えなくなって、されるがままになっていた。ついでに乱れた髪の毛も丁寧に整えられた。
「さっきのもワイルドで悪くありませんでしたが、うん、こっちの方がやはり良い」
彼はしばらくあちこちを観察した後、満足そうに頷いた。手を引いて清光を立たせる。華奢に見えた彼の腕は意外に力強く逞しかった。
「そろそろ日が暮れます。さあ、夕ごはんの前に服も着替えてしまいましょう……ん、どうしました?」
何も言わずに突っ立っている清光に、青年は不思議そうに問いかけた。
「ねえ、怒ってないの?」
「どうして私が怒るのですか?」
疑問を疑問で返されて困惑する。
「だって今までアンタに結構嫌がらせしたじゃん。こっそりご飯の量を少なくしたり、草履の上に石を置いたり。さっきだって……」
「なるほど、そう言われてみれば」
菊は少し考えこんでから、ぽんと手を打って納得のいった顔をした。
「あはは、ちっとも気付きませんでしたよ。清光くんは忍者になれそうですね」
これには清光も唖然とした。あんなに露骨にやったのに、まさか気づいていなかったとは。抜けた奴だとは思っていたが、いくらなんでも鈍すぎだ。
「しかし、そういうことならば少し罰が必要ですね」
清光はしょんぼりと萎れた。この青年に逆らう気はもはや起きない。自分は叱られても仕方ないことをしたのだ。今は素直にそう思える。
「清光くんには罰として―― 私の友人になってもらいます」
茶目っ気たっぷりに、彼は裁定を下した。思わず聞き返してしまう。
「友人?」
「ええ。一緒にお菓子を食べたり、話相手になってもらったりします。明日からみっちりですよ。どうです、なかなか厳しい処罰でしょう」
拍子抜けした清光はぐったりとなった。
「アンタさ、変な奴って言われない?」
おや心外ですね、などと言いながら青年は幼く頬を膨らませている。自分も彼も泥だらけで、まるで泥遊びをした小さな兄弟のようだった。
今まで一人でムキになっていたことが馬鹿みたいだ。
「さて、戻りましょうか」
汚れた服も髪もどうでもよくなって、清光はひとり苦笑した。
「たまには汚れるのも悪くないね」