今日も辛気臭い顔してるねぇ。また、怒ってるのかい?あっはっはっは!」
 次郎太刀がばしんと山姥切国広の背中を叩いた。大柄な身体から繰り出された平手に彼は思わず呻いた。
「飲まないからそんな顔になっちゃうのさあ!ほらほら」
 酒臭い息を吐きながら、頬に徳利をぐいぐい押し付けてくる。いつものこととは言え、この絡み酒にはイラっとくる。
 見かねた太郎太刀がすかさず次郎太刀をたしなめた。
「次郎太刀、少し飲み過ぎです。彼が迷惑している」
 どんな時でも眉ひとつ動かさない太郎太刀は次郎太刀と何から何まで対照的だ。似ているのは身体の大きさばかりである。
「いいじゃなーい。主が帰って来るまでは出陣もないんだし」
 そう言って次郎太刀は再びぐびぐびと徳利を傾けた。酒が絡むと全く言うことをきかなくなる弟に兄はため息をついた。




第七話 厠の神様(前)



「で、アンタはなんでそこまであの代理くんを気にしてるのさ?確かに小柄でなよっちいけど、あれはあれで可愛いと思うんだよねぇ。まあ、アタシ達から見りゃあ、代理くんに限らず皆小さいんだけどさぁ」
「気にしてなどいない。ただ余所者がうろついているのが目障りなだけだ」
 山姥切は次郎太刀の言葉に少しだけむっとしたが、きちんと返答をした。
 他の相手ならとっくの昔に気分を害して部屋から飛び出していただろう。しかしこの二人に対しては不思議と普段から敵愾心が湧かなかった。現世の価値観に振り回されず我が道をゆく彼らは山姥切の古傷をえぐらない。とにもかくにも山姥切は意外にも彼らを数少ない話し相手として認めていた。
「ふうん。けど来たばっかりの割には結構頑張ってるじゃん。謙虚だしさぁ。ね、兄さん」
「私は最近呼び出されたばかりで現世の人間のことは良く分かりませんが、少なくとも誠実な人柄だということは」
 大太刀二人にそう言われて山姥切は黙りこむ。
「アタシはせっかくだから楽しくやれりゃあいいと思っただけだよ。無理はしなさんな」
「あの目が。あの目がどうにも気に食わないんだ」
 凪いだ黒い瞳。あの瞳で見つめられると逃げ出したい気持ちになる。人真似の身体に隠れた、からっぽの中身を見透かされそうで。
「ほら、またそんな暗い顔して!」
 今度は口をこじ開けて酒を流し込もうとしてきた次郎太刀に、山姥切は後ろへ飛び退った。
 以前、酔った次郎太刀に捉まって酷い目にあったことがある。また飲まされてはたまらない。この体格で羽交い締めにされたら逃げられないのだ。
 諦めた顔の太郎太刀と目が合う。彼は視線で山姥切に撤退を薦めてきた。
「お、俺はそろそろ内番だ。じゃあな」
 山姥切は適当な言い訳を告げて、早足で部屋から飛び出した。

 見る間に遠くなった彼の背に、取り残された次郎太刀がつぶやいた。
「逃げられちゃったなあ。でもアタシはやっぱり彼と代理くんは意外と合う気がしてならないよ」
「私にはなんとも。それよりも次郎太刀、いい加減に飲むのをやめないとこの兄もそろそろ愛想を尽かしますよ」
 太郎太刀は字面だけは穏やかに、しかし能面のような顔をして言った。一気に酔いが吹き飛んだ次郎太刀は、青い顔をしてようやく徳利を手放したのであった。


◇◇◇


「トイレにはァ、それはァ、それはキレイなァァ」
 見た目からは想像できない渋い男声が腹に響いてくる。
 なんなんだコイツは。
 山姥切の少し向こうには厠を掃除しながら、一人で聞き知らぬ歌を歌う黒髪の後姿があった。鼻歌どころか空いた手で拳を振りながらの熱唱である。山姥切は苛立つことも立ち去ることも忘れて立ち呆けていた。
「女神様がァいるんやでェェ」
 本丸でも比較的人通りが少ないこのあたりは、山姥切お気に入りの避難・引き篭もり場所であった。そのはずだった。まさか避けたい張本人(それも絶賛歌唱中)がいるとは予想の斜め上である。
「だァかァらァ、毎日ィ……綺麗にして、たら、うっ、えぐっ」
 いまだ聴衆がいることに気づかず歌い続けていた男は、歌の途中で急に肩を震わせはじめた。
 泣いている。さらに耳を澄ますと涙声で「おばあちゃん、おばあちゃん……」とつぶやいていた。思わず顔がひきつった。怖い。
 さすがの山姥切も、この異様な光景に思わず後退った。

 その時、後ろに立てかけてあった竹箒が大きな音をたてて倒れた。
 がちゃあん。
 ぴたり。胸に手を当てて涙の熱唱を再開していた青年がそのままの姿勢で停止した。つられて山姥切も停止する。男がゆっくりと振り向いた。
「……っ!!」
 一瞬沈黙した後、声にならない叫びを上げて彼は床に突っ伏した。
「お、おい」
 山姥切の声に対応して、ゴン、ゴンと床に頭を打ち付けはじめる。呆気にとられて見ている間に、床への鐘つきは激しさを増していった。ゴンッ!ゴンッ!床が鈍く吠える。
 さきほどから混乱をはじめていた山姥切の頭はここでついにショートした。
「あ、アンタ!何やってる、ちょっと待て!」
 錯乱した彼はあろうことか親の仇のごとく憎んでいた相手を助け起こすという失態を犯した。山姥切にホールドされてようやく上を向いた青年の顔は、茹でダコもかくやという赤面ぶりであった。目が右往左往している。
 聞こえないほどの小声で問いかけられた。
「き、聞きましたか?」
「ああ。いや、別に歌などは……」
 言いかけてはたと気づく。俺は一体何をやっているんだ。
 我に返って慌てて離れようとするが、すでに腕をがしりと捕らえられてしまっていた。
「やはり聞いていらっしゃったのですね!ああああ」
 青年は山姥切にしがみついたまま、がくりとへたりこんだ。口から魂が抜け出ている。
 しばらくそのままでいると、彼は生気のない声で山姥切に話しかけてきた。
「すみません。助けてくださったのに、ご迷惑をおかけして」
 調子を狂わされていた山姥切だったが、その言葉にようやく自分を取り戻した。
「勘違いするな。助けた訳じゃない。俺はお前など認めていないんだ」
 ぴしゃりと言い放つ。そうだ、これが正しい。しかしそれでも解放されない腕に、押し込められていた苛立ちが再び蘇った。
「分かったらさっさとその手を放――
「いやァァ!!」
 青年は突如さっきまでとは違う、今度こそ正真正銘の悲鳴を上げた。腕を振り払おうとしていた山姥切は度肝を抜かれて手を止める。その隙にさらにガッチリと力を込められてしまった。細いわりに力が強い。
「な、なんだ、急に!放せっ!」
「あそこっ!あそこです!箒の近く!ゴ、ゴ……」
 視線の先にあったのは、黒光りする親指大の物体がゴソゴソと床を這って行く姿だった。


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