「なんだ、油虫か。そんなことくらいで驚かせるな。本丸を歩き回ればあんなものどこにでもいる」
「ど、どこにでもいる!?その発言は大問題です!」
 青年は目を剥いた。怯えを走らせて、ガタガタと震えだす。こうして見るとただの子供にしか見えなかった。己が怖れた冷徹さなどどこにも見当たらない。
 山姥切は苛立ちを募らせていたことが急に馬鹿馬鹿しくなってきた。ため息をついた後、箒で虫を追い払おうとする。
「いけません、奴の最終形態を引き出しては…!戦闘力53万では済みませんよ!」
「訳の分からないことばかり言うな。このまま放っておいたらアンタがうるさくて仕方ない」
 構わず箒でつつくと、虫はバサリと羽を広げた。
 飛ぶ。
 そう思った一瞬後にはもう目の前に迫ってきていた。
「ああ!だからダメだと言ったのにィ!」
「うるさい黙れ!」
 背中に男、いや子供がしがみつかせたまま、山姥切は飛行してくる虫を鍛えられた動体視力で叩き斬った。もちろん得物は箒である。断じて刀ではない。
 薙ぎ払われた黒い虫は中庭の方へすっとんで行って、そのまま行方知れずとなった。
「助かった……ゴキくんすみません、ご冥福を」
 青年は中庭に向かって手を合わせた。




第八話 厠の神様(後)



「こっちのこれはマンゴー、こっちはメロン、端っこのはリンゴです」
 手の平にばらばらと乗せられた色とりどりの飴玉を見て、山姥切は何度目かのため息をついた。
「おや、もしかしてマンゴーやメロンはお嫌いですか?仕方ありません、私のとっておきのソーダをあげましょう。言っておきますが、一つだけですからね」
 さらにもうひとつ薄水色が増えた。
 そういうことじゃない。この青年はやはりどうにもズレている。
「これでもまだ何か不満があるのですか」
「い、いや、もうそれでいい」
 目を見開いて恐ろしげな顔で詰め寄ってくる青年に山姥切は慌てて頷いた。彼は一連の流れですっかり毒気を抜かれてしまい、毛嫌いしていたはずの相手といつの間にかお茶をする羽目に陥っていた。
「しっかりと働いた後の休憩は心地よいです」
「アンタは虫から逃げまわっていただけだろうが」
「あはは、そうでした。でもトイレの掃除はきちんとしましたよ」
「『といれ』というのは厠のことか。そういえば、アンタの歌にもあったな」
 余裕をぶっていた青年が一時停止した。
「お願いですから、他の方には内緒にしてくださいね。恥ずかしすぎて年寄りの心臓にはきついです」
 年寄りなどとまた訳の分からないことを言い出したので、適当に頷いておいてやった。彼はほっと安心したように息をつくと、話をつづけた。
「あの歌はトイレ、そう厠のお掃除の歌なんです。厠には女神様が居て、毎日ピカピカに磨いたら彼女のように美しくなれるっていう――
「美しさなど、生まれついて決まっているものだ」
 つい低い声でこぼしてしまう。山姥切はこの手の話題に劣等感を刺激されずにはいられなかった。もちろんこの青年に他意はない。他者を害するほどの度胸がないのは少し接しただけでわかった。良くも悪くも人畜無害である。
「そうでしょうか。美しい容姿はいつか必ず朽ちていきます。色褪せぬ美しさとは内側にあるのですよ。有り体に言えば心ということですが。そしてそれは誰でも磨くことのできるものです」
 そう続けて再び茶をすする。若い姿をした彼がまるで知恵ある老爺のように見えた。
「その心すらも人真似の偽物だったらどうする?偽物はいくら磨いても醜い偽物でしかない」
 自分の中にわだかまってきたものをぶつける。見た目や力だけじゃない、俺は中身まで偽物だ。価値のない贋作。
「この世に偽物など存在しません。似ているように見えるだけ。全く同じものなど一つとしてなく、だから偽物もありえないのです」
「それならっ、なぜ俺は―― ――
 彼は山姥切に向き直った。
 両手でそっと頬をつつみこまれる。
「心ない者が 贋物だと言う、そういうこともあるかもしれませんね。価値は分かる者にしか分からない。―― 忘れないでください。この世界に在るすべてはただそこに在るだけで尊く美しく愛おしい」
 知ったふうな口をきくな。
 いつもの台詞は出てこなかった。この青年の言葉が、なぜか上滑りのものに思えなかったのだ。
「負けてはいけません、山姥切国広くん。あなたの価値はこの私が知っている」
 青年は傲慢にすら聞こえる言葉を吐いた。もはや普段の頼りなさは微塵も感じられない。今の彼は全てを見守り、包み込むとてつもなく大きな何かだった。
 その黒い瞳は、穏やかに凪いだ夜の海のように彼の心を癒していった。


 目を覚ました山姥切は自分が一人で柱にもたれていることに気付いた。
 どれくらい寝ていたのだろう。
「ほんの半刻ほどですよ」
 心を読んだように後ろから声がかかった。振り返るとぱさりと肩から毛布が落ちる。もちろん被った覚えはない。被せた張本人は赤く染まりつつある空を見上げてつぶやく。
「この分だと明日もお天気になりそうです」
「ああ、そのようだ」
 心が軽い。こんなのはいつぶりだろう。
「のんびりしている場合ではありませんよ。明日は掃討作戦を行います。あなたには対策本部長をお願いしたいと思っているのです」
 彼は何かを決意したように強い口調で言った。また訳の分からないことを言っている。
「確かに彼らも生きとし生けるもの……しかしっ!」
 ああ、なるほど。握り拳を作って熱弁する青年に思わず笑いがこみ上げてくる。たかだかそれくらいのことで。
「分かった分かった。掃除でも虫退治でも手伝ってやる。そうだな……まずは厠からやるか」


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