痛む身体を引きずって、ひたすら走りつづける。
 後ろから飛んできた矢が肩口を掠めた。体勢を崩して地面に倒れ込むと、流れだした血が土に染みこんでいった。
 地面の振動がすぐ近くに追手の存在を伝えてくる。早く逃げなければ。荒い息を吐きながら立ち上がって、再びよろよろと走り出した。
 きっとこれは愚かな自分への天罰なのだ。  




第九話 風雲急を告げる(前)



 時はいつだって早足で駆け抜けていく。
 明日にはここを去らねばならない。
 持参した手帳を眺めながら、菊はここでの日々を思い起こした。一人縁側に座っているのは初日と同じだが、その心中は全く異なっている。疎まれて避けられてたった独りで悩んだ彼はもうどこにもいなかった。
 世話焼き兄貴の薬研藤四郎に、昼寝場所ならおまかせ小狐丸。加州清光はいつだって菊の寝癖を直してくれるし、大和守安定も照れくさそうに返事を返すようになった。三日月宗近と鶴丸国永とは今ではすっかりお茶仲間である。それと山姥切国広。ぶっきらぼうなのは変わらないが、困っているとさりげなく助けてくれる。太郎太刀と次郎太刀。和泉守兼定と堀川国広。
 あの主殿の代わりになるなど、そんな大それたことは元から考えていなかった。とある思いを伝えたい。それが無理をおしてここを訪れた理由だった。あとは刀剣男士たちが元気に過ごしている様子を見て、ほんの少しでも仲良くなれれば十分だった。
 だからたった十日弱でこんなにも受け入れてもらえるなんて夢にも思わなかったのだ。勇気を出して来て良かった。
 しかしその一方で肝心の目的はいまだ達成できていなかった。
 刀剣男士たちと親しくなればなるほど、それを口にするのが躊躇われ、もう少し、また明日、そう言って先延ばしにしているうちにとうとう今日を迎えてしまった。
 このまま帰ってしまいたい。刀剣オタクで、新選組の追っかけで、爺臭い若者で、ゴキブリ嫌いの、ただの本田菊のまま。良い思い出のまま。そういえばそんな奴もいたなあ、なんて時々思い出してもらったりして。
 伝えなければならないと考えているのは自分だけで、本当は彼らにとっては知らない方がいいことなのかもしれない。そんな思いさえ浮かんでくる。
 だが今回を逃せば次はいつになるか分からない。もう二度とこうして会うことは叶わないかもしれない。いろいろな偶然が重なった末に手に入った唯一のチャンスだった。
 真実を明かせば彼らはきっと私を許さないだろう。許されるはずがない。それもすべて覚悟した上でここに来た。それなのに自分はいまだ迷っている。
 この臆病者。いつまで逃げるつもりなのか。
 菊は自分を叱咤し、そっと湯のみを置いた。
 残された時間は少ない。そろそろけじめをつけなければ。
 

◇◇◇


 角を曲がると見知ったボロ布が視界を遮った。
「げ」
 一週間ほど前にも見た光景に、さっと後ろに飛び退く。機敏な動きのおかげでまたもや正面衝突は免れた。
 内番上がりの加州清光の前に立ちふさがっていたのは、やはり山姥切だった。うんざりした清光は彼に指を突きつけた。
「だーかーらー、よそ見ばっかりするなよ!転んだら汚れちゃうって言ってるだろ。さっき着替えたばっかりなんだから」
「悪い」
「たまには素直に謝ったらど……は?」
 言いかけて固まる。とんでもない言葉を聞いたような気がした。
 おそるおそる見やると、山姥切はいつも通りの仏頂面である。ほら、やっぱり聞き間違いだ。コイツが自分に謝罪するなんて絶対にありえない。
 気を取りなおして相対する。そういえば、コイツに言おうと思っていたことがあったのだ。あまり気分の良い話ではないが、今言っておかなかればならない。
「あのさ、この前言ったの訂正する。菊、ドジで変な奴だけど、やっぱりそんなに嫌いじゃない。偉そうにしないし、親切だし。それに、俺たちのことをすごく優しい目で見てくれる」
 思いを少しずつ言葉にしていく。恥ずかしい。やっぱりやめておけば良かったかな。しかし山姥切は馬鹿にすることも、鼻で笑うこともしなかった。ただ黙って耳を傾けている。
「だからさ、あんまりきつく菊に当たるの止めてほしいんだ。もう、あんまり時間もないし、最後ぐらい」
「誰にどう接しようとも俺の勝手だろう」
 すげない即答が語尾を掠めていく。予想していた返事だったが、いざ言われると少し辛い。菊の悲しそうな顔は見たくなかった。
「そうだけどさ……」
―― だが、あんな子供みたいな奴を虐める趣味はない」
 そっぽを向いてそう言った山姥切に、清光は開いた口が塞がらなくなった。
「勘違いするな。別にアイツを認めたわけじゃない」
 山姥切は不機嫌そうに言うとそのまま立ち去って行った。しかしその後ろ姿に普段の刺々しさはない。
 なんだよ。わざわざ自分が恥ずかしい思いをする必要はなかったわけだ。
 それにしてもやっぱり信じられない。どうやってコイツみたいな頑固者を手懐けたんだ。菊はやっぱり普通じゃない。
 飴でもくれてやったのだろうか。ひねくれているようで、山姥切は案外単純なのだ。
「はあ、結局お揃いかあ。やんなっちゃう」


◇◇◇


 太陽が中天を過ぎてからもうずいぶんと経った。この青空ももう少しすれば夕焼け色に染まり始めるだろう。
「いよいよ明日になってしまいましたね」
 雲ひとつない空を見上げながら、菊は隣の清光に話しかけた。同時に自分自身にも言い聞かせていた。もとから物の少ない部屋はいまや綺麗に片付いていて、あとは使用者が退去するだけで元の姿に戻る。
「本当に帰っちゃうの?」
「はい。十日の約束でしたから。明日には主殿がお帰りになります。そうなれば私の役目もおしまいです」
 自分でも分かるほど声に力が籠もらない。菊の心に重くしているのはやり残したことばかりではなかった。
 もっとここにいたい。生きて動く彼らと共に過ごし、他愛のない話をしていたい。
「主の帰りはそれはもう待ち遠しいよ。けど、入れ替わりに菊がいなくなるのは嫌だ。これからもずっとここにいてよ。皆そう思ってる。小狐丸も薬研藤四郎も、三日月宗近も山姥切も。安定も、俺も。主だって菊がいてくれたらきっと喜ぶ」
 菊の着物の裾をぎゅっと握りしめ、清光は縋るように言った。何度も繰り返される甘美な誘いに菊の心は揺らがずにはいられなかった。深呼吸をして思いを断つ。
「ありがとうございます、清光くん。気持ちは本当に、本当に嬉しいです。でもそういう訳にはいかないのです」
 いつも通りに出そうとした声は、後になるほど小さく弱々しくなっていった。頑なな菊の答えに苛立ったのだろうか。清光が声を荒らげた。
「なんでだよ!こんなことって本当にないんだよ!アイツらが主以外の人間に心を許してるなんて。ねえ、ここにいるの嫌になっちゃった?俺や皆がアンタに意地悪したから」
 悲痛な顔で必死に訴える清光。ずっと言おうと思っていて、ずっと言えなかった言葉が菊の口にせり上がってきた。
「まさか。そんなことあるはずがない。聞いてください、私にとってあなた達は――
「違う、嫌いだから帰るんだ。そうに決まってる!」
 言葉を遮って、清光は部屋を飛び出していった。
 伝えたかった思いはついに届かず、がらんどうの部屋に消えていった。


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