自分がわがままを言っているのは分かっていた。
でも、どうしても帰って欲しくなかった。
こんなに短い間に自分の心を変えてしまうなんて、やっぱり菊は普通じゃない。
第十話 風雲急を告げる(後)
部屋から逃げ出した清光は、走って走っていつの間にか本丸のはずれまで来てしまっていた。
だんだんと頭が冷えてくる。疲れた足が徐々に遅くなり、最後にはゆっくりと止まった。
子供みたいな駄々をこねて困らせてしまった。あの不思議な包容力に自分は甘えていたのだ。
菊と主を比べることはできない。主は敬愛すべき主君だ。彼のためなら自分の命など躊躇いなく使い潰せる。菊が来てからも、主への忠誠は一欠片とて失われていない。
菊に感じているのは、それとはまた違った感情だった。一緒にいると安心する。自分たちを見守り、時には叱咤し、どこまでも愛おしそうに包み込む菊。人間のように言うと……そう、ああいうのを「親」というのだろうか。菊といると、自分がまるで幼い子どもにでもなったような気がする。年齢だって、見た目だって全くそぐわないのに。
でも自分がどう感じていようと、彼はやはりただの青年なのである。ドジでのん気で、ちょっぴり新選組が好きなだけの。それを「親」のように思っているなんておかしな話だ。そんなことを知ったら菊本人だってびっくりしてしまうだろう。
戻って謝らなきゃ。勢いに任せて酷い癇癪を起こしてしまった。彼には彼の事情がある。帰りを待つ人だって居るに違いない。自分に菊を引き止める権利などないのだ。
戻らなければと思いながらも、清光の足はいつまでたっても動かなかった。
謝っても許してくれなかったら。
嫌われてしまったかもしれないという不安が彼を地に縛り付けていた。そもそも一緒にいたいと思っているのは自分の方だけかもしれない。菊は本当は自分のことなど何とも思っていないのではないか。さきほど菊にぶつけてしまった言葉の全てが駄々という訳ではなかった。
愛されていることを教えてくれたのは菊だった。ただ長年染み付いた思考の癖はそう簡単に治らない。暗い気持ちに襲われて、清光はうなだれた。
どうしたら許してもらえる?どうしたら愛してもらえる?
その時、視界に小さな影がぽんと飛び込んできた。見知ったその姿に思わず顔を上げる。
こんのすけだ。審神者と時の政府を仲介するこの狐は、用事がある時にしか本丸に姿を現さない。普段はどこにいるのか知らないが、少なくとも今まで主の留守中に見かけたことはなかった。
加えて、今日はどことなく焦ったような気配すら感じる。ますます珍しいこんのすけの様子に、清光は首をかしげた。
「審神者殿はどこにいらっしゃいますか?探ってみたのですが本丸内に感じ取れなくて」
「そりゃそうだよ。主は十日前から外出中。明日になったら帰ってくるけど」
なるほど。留守を知らなかったらしい。肝心の当人が見当たらなくてこんなところをうろついていたのか。
「なんとお留守ですか。全く存じ上げませんでした。どうしましょう、困りました。これは重大な伝達ミスです」
まるで主が失態を犯したかのような言い方にむっとする。清光はぶっきらぼうに言った。
「へえ。で、何?用事があるならとりあえず聞いておくけど」
「実は緊急事態が発生したのです。想定外の場所に遡行軍が現れました。敵は少勢ですが精鋭で、放置すれば歴史改変の発生は避けられないと」
こんのすけは早口で用件を伝え始めた。
「管轄内の他の白刃隊は別件で出払ってしまっていて、出陣が可能なのは現在この本丸だけなのです。しかし審神者殿がいらっしゃらなくては」
他の部隊の帰還時刻は、いえ、それだと遅すぎる、などと言いながら考えこむこんのすけ。清光の口が勝手に動いた。
「出陣、できるよ。だって主が残していった代理殿がいるもん。あの人の指示で出陣すればいい」
嘘だ。菊に審神者の代わりはできない。これは主からも菊からも何度も念を押されていたことだった。
しかしとある考えが清光の心を支配し始めていた。
これで功をあげれば、菊は自分を見直してくれるかもしれない。
歴史を変えないで欲しい、そう訴えた菊の声を思い出す。もちろん彼は審神者がいない状態での出陣など決して許さないだろうから、彼に伝えるつもりはない。自分一人で行く。無事に帰れば良いだけの話だ。
「そうなのですか。それは助かりました。時間がないのでこの場でご説明します。終わり次第すぐに代理殿にお伝えください。遡る時代は―― 」
遡行軍を倒せば菊は喜ぶ。そしたらきっと好きになってくれる。今回のことだって許してくれるだろう。
清光は自分が重大な過ちを犯そうとしていることに気付かなかった。正しくは気付かないフリをした。正常な判断力は無意識のうちに抑えつけられていた。不安と焦りに追い立てられた彼はもはや何かをせずにはいられなかったのだ。
これから向かう戦場の具体的な説明を聞いた後、こんのすけに告げた。
「じゃあ代理殿に伝えて、すぐに出陣するよ」
「どうぞよろしくお願いします。本当は私も代理殿と直接お話したいのですが、すぐに政府へ報告に向かわなければ」
一礼をしたこんのすけの姿が消えるのを見届けて、時空転移装置のある場所へ走りだした。その操作は審神者だけに許されたものだったが、古株の清光はそれを見覚えていた。
話を聞いたかぎり、敵は精鋭だが極少数だ。奇襲を仕掛ければ一人でもなんとかなる。
帰ったらまず『遡行軍は俺が倒しちゃったから安心して』、それから『さっきはごめん』って言おう。これならきっと許してくれるだろう。
……けど、一人で行ったら菊は心配するだろうなあ。
ほんの一瞬だけ、そんな思いが足を止めた。しかし彼は心の制止を振りきって再び走りはじめた。心配させる前に帰って来れば問題ない。