八時十五分
安室透には、やらなければならないことが山ほどある。
「ねえねえ安室さん、いっしょに写真とろうよ」
と、大人びた薄ピンクの携帯をかざして、はしゃいだ声をあげる女子高生たちには、
「すみません、写真はちょっと。すごく写りが悪くて」
と、箒を使う手をとめて困ったような顔で答えなければならないし、彼女たちが「絶対そんなことないから!」と異口同音に唇をとんがらせたら、即座に盤面ごとハッピーエンドにくつがえす非の打ちどころのない一手を指さなければならない。
たとえば、こんなふうに。
「今日は夕方までいる予定ですよ。写真のかわりに、本物じゃだめでしょうか?」
はにかんだように笑って、小さなウインクをおまけする。きゃあきゃあとすっかり満足した様子の彼女たちが見られたら、ひと安心だ。
「さあさあ、はやく行かないと遅刻しますよ」
背中を押して、そっと通学路へと戻してやる。はーい、と元気よく去っていった後ろすがたを見おくって、彼はふたたび掃除にもどるのだ。
うわさどおりの人だなあ。
と、ガラスの向こうで熱心に箒を動かす、文字どおりの看板息子を眺めながら、トウコは紅茶のカップに手をのばした。
一限がないのをいいことに、こちらは朝からブラブラお気楽な大学生である。
手もとに折りかさなるのは、七割ほど埋まった課題レポートの紙っぺら。
こぼしたら一巻のおわり、とレポート用紙の上空をとおってゆっくりゆっくりカップを口元まで引きよせた。
朝の光を反射して小粋にきらめくオレンジ・ブラウンの水面。上品なアールグレイの香気が立ちのぼって、まだ飲んでもいないのに身体のうちがあたたかな何かに満たされる。
いよいよ一口ふくむと、ほどよいぬくもりが幸福感とともに喉の奥にすべりおちていった。
おいしい。
トウコはおもわず目じりをふわふわゆるませた。常連のような顔でくつろいでいるが、ポアロに来たのは、じつは今日がはじめてだったりする。お味のほうは前評判にたがわない。
―― ポアロのアールグレイは世界の半分。
古い知人がもう何年も前にそんなことを言っていた。そして、その『世界の半分』なお茶を淹れてくれた例の店員についても、おうわさはかねがね、といった感じだ。
こちらの情報源は大学の友人たちである。
死ぬまでにいちどは見ておくべき名物店員。
彼女たちの言葉をそのまま借りるなら『超カリスマ・クール・ファンタスティック・フォーなイケメン』は、その看板に偽りなしの名バリスタだった。今回頼んだのは紅茶だったが、コーヒーの方も推して図るべしだろう。
エプロンをつけてせっせと掃除をする背中をぼんやり眺めた。
背は高いが、決して痩せぎすではない。均整のとれた身体の上に、いわゆるイケメンがのっかっている。おまけに愛想も最高とくれば、熱狂的になった友人たちがトウコに『あんなこと』を言いだしたのも当然かもしれない。
と、部外者までつい納得させてしまうあたりが彼の業の深さだろうか。南無。
「どうしようかなあ」
やろうかやるまいか。好き嫌いというよりも、リスクとリターンの話である。勘違いはしないでほしいが、トウコだってべつにイケメンが嫌いなわけじゃない。好きか嫌いかと言われれば、当然ながら前者を選ぶ。
でもなんというか、あそこまでいい感じに完成していると、すこし現実味がないような。いろいろな意味で。
だから結論としては、どっちでもよかったといえばどっちでもよかったし、興味があったかなかったかと言えば、たぶんなかった。
ビル街を一生懸命に早足で歩く会社員、ベランダで布団をパタパタやるお母さん、ねむい目をこすりながら登校する小学生、のんきにあくびをする犬、もうしばらくすれば咲きはじめるであろう桜並木。
おそらくはどこにでもある、ありふれた、何の変哲もない朝である。
そんなものを背景にして、男がひとり立っている。それはそのまま視界の右から左へと流れていくはずのものだった。
本当に、その程度だったのだ。
あの瞬間、掃除を終えてふと視線を上げた彼の横顔を見るまでは。
彼は何かを見つめていた。
弾けるような青い光を瞳の奥に宿して。
喉と心臓がひくりと震えた。彼から見えているであろうものといえば、ビル街を一生懸命に早足で歩く会社員、ベランダで布団をパタパタやるお母さん、ねむい目を―― ああもう、とにかくそんな感じのものばかりだ。めぼしいものは何もない。
なのに彼は、朝の光の中に溶けこみ、今にも透けてしまいそうな横顔で、やはり確かに何かを熱心に見つめているのである。
彼の見ているものが知りたくて、トウコも必死になって目を凝らした。だが、結局わかったことといえば、それがトウコにはわからない何かであるということ、それくらいだった。
気がつけば、震える手が携帯を取りあげていた。
あとから思えば、それは多分、本能的な行動だった。生の衝動と言いかえてもいい。今そこにあるらしい『何か』をとにもかくにも逃してはならない、という。
シャッター音を消すアプリを起動する。なみなみと満たされたカップをレポート用紙の上で持ちあげるよりももっと慎重に、誰からも見えない角度を探し、カメラを構える。
ガラスをへだてたこちら側の企みに、彼はまだ気づかない。
男をレンズにとらえ、シャッターのボタンを押そうとしたとき、心の声のようなものがその指を押しとどめた。
らしくない。後悔するぞ、と。
だが、そんな自分に、トウコはすこし妙な気分になった。らしくない、ってなんだ。らしいとか、らしくないとか、そんなことを考えていること自体が『らしくない』んじゃないのか。
らしくない、だなんて、もし人生でいちどだけそんな言葉を使ってもいいのだとしたら、きっとそれは今この瞬間を指すに違いないのだから。
走馬灯のような一考のあと、トウコはシャッターのボタンを押した。音のないそれが、カシャリと男の横顔を切りとる。そしてそのあと、彼女は案の定、あわれなほど的確に我にかえった。
やってしまった。
自分でもわかるほど青くなったが、あとの祭りである。
一瞬遅れて、男が振りむいた。すでに携帯はカバンの底、物証はどこにもない。が、彼はじっとトウコを見つめてきた。さきほどの熱い雷光は跡形もなく消えさって、色素の薄い瞳にはこちらの心を見透かそうとする冷静な観察者の色だけが乗っている。
おちつけ、おちつけ。
たとえば、あなたを狙って撮ったわけじゃない、とか、すみませんついやってしまいました、とか、いろいろな未来の選択肢たちが頭の中を飛びかって、選ばれるときを待っている。なのに、言いようのない不安が喉元でそれらのすべてをシャットアウトしていた。
この人には、この人にだけは絶対にバレてはいけない。
何の根拠もない、しいていえば、ただの勘のようなものだった。
だが最終的にトウコが縋ったのはその『ただの勘』だった。
内心は冷や汗ダラダラ、緊張で瞳孔がかっ開いているんじゃないかと気が気でないまま、トウコは一生懸命に平常心を装ってほほえんだ。カップを指さし、ガラスの向こうに向かって口をパクパクさせる。
『おかわりください』
我ながら呆れるような言い訳だった。浅知恵もいいところである。
そんな彼女をにらみ下ろすように男のまなじりがきつく細められる、かと思いきや、意外にもそんなことはなかった。彼はむしろどこかほっとしたような様子で、『いまいきます』とガラスのむこうで同じくパクパク口を動かした。
彼が背を向けたのを見とどけて、トウコは胸をなでおろした。
よかった。バレなかった。
だが結論からいえば、この日このとき、バレてしまわなかったことが互いにとっての運の尽きだった。たぶん。
あのシャッターの瞬きの瞬間、トウコは『こちら側』から『あちら側』へと強制的に引きずりこまれたのだ。