わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
―― 宮沢賢治『春と修羅』「序」
File.1 ゴースト・ハント(Ⅰ)
しずかなピアノ・ジャズが流れる空間に、豆を挽く小気味の良い音がこぼれた。
ハンドルを回す手は、丁寧に心を込めて。どこか遠くで聞こえるようなBGM、挽かれる豆の音と、手に伝わる感触。自分という存在さえも忘れて、ただひたすら目の前の行為に没頭する。
何人も入りこめない静謐なるとき。ネルを取りあげ、ドリップケトルから湯を注ぐと、豆に染みこむ音のない音が、じわりと身体の芯を温めた。
「お待たせしました」
わが子のように愛おしんだ一杯を、ソーサーに乗せてテーブルに運ぶ。OLとおぼしき女性客がそっとカップに口をつけるまで、安室はカウンターから注意深く見守った。
喉をこくりと上下させた後、女が、ほう、と声を漏らす。それを見とどけて、安室もまた満足げに、ほう、と息を吐いた。
ガラスごしに通りを眺める女性、新聞を読むサラリーマン、レポートとにらめっこをする大学生。知った顔も、知らない顔もある。
平和なコーヒーの香りが、昼下がりを満たしていく。
もっとも効率よく『仕事』ができる場所。だが、安室透がアルバイト先にここを選んだ理由は、もしかするとそれだけではなかったのかもしれない。
しばらく余韻にひたってから、使った道具を片づけようとしたとき、安室は何かの気配を感じてぴたりと動きを止めた。
一瞬後、予想のとおりにカランカラン、とけたたましくドアベルがわめき、小さな影がゴムまりのようになだれ込んできた。
「こんにちはー!」
「あっ、安室の兄ちゃんだ!」
「安室さんだ!」
「しっ、三人とも静かにしなさい。ほかのお客さんの迷惑になるじゃろうが」
あたりを見まわしながら、引率の博士が小声で慌てて注意する。だが、少年探偵団の面々も慣れたもの、元気いっぱいに「はーい!」である。
「とほほ。じゃから静かに……」
困りきった博士はへろりと頭をかいた。子どもたちを追いかけて慌てて家から出てきたのだろう、大きなハンカチがこれまたへろりと鞄からはみ出ている。連れている小学生は三人きり。
なるほど。
と、安室は苦笑した。こういうとき子どもたちを大人しくさせるのは決まって、今ここにはいないもうひとりの少年だ。
ほかの客から苦情がこないうちに、と小学生向けの注意の台詞を考えながらカウンターを出ようとした安室だったが、それに先んじた影があった。
「みんな、今日はどんなパフェを食べにきたの?」
姉ちゃん、と幼い三人が声をあげる。
はたして、そこにいたのは若い女だった。
今日も今日とて隅の席に陣取ってレポートと格闘しているあの大学生である。
子どもたちがふたたびきゃっきゃと騒ぎだす。どうやら知りあいらしい。
レポートパットを小脇に抱えた彼女は、慌てたように周囲を見まわしたあと、小学生の視線に合わせて背をかがめた。「しい」と遠慮がちに立てられた人さし指に、子どもたちもさすがにはっとしたらしい。彼らはささやき声で順番に返事をした。
「僕はポアロサンデーの予定です」
「歩美はプリンスペシャル」
「俺はチョコマウンテン。ちなみに阿笠博士はストロベリーノックだぜい」
トウコ姉ちゃんも食うのか?とのひと言で、安室はようやく彼女の名を知ることになった。
これまで気にとめることのなかった客と、顔なじみの子どもたちの意外な人間関係。まなじりがわずかに鋭くなったのは、彼自身意図せずしてのことである。
初めて店に来たのは三ヶ月ほど前。それからは週一回来るか来ないか、地毛そのままの黒髪に、日本人らしい小づくりな顔だち。可もなければ不可もない、どこにでもいそうな普通の大学生。春休みの課題レポートの提出日が近いらしく、ここ三日続けて来店している。その他、特筆すべきことはなし。
女に視線を据えたまま、記憶の中から該当データを引きだした。
彼の記憶力をもってすれば、顔見知りのプロフィールを作成することなど造作もない。そこにさっそく、今しがた入手したばかりの新情報「名前:トウコ」「子どもたちとの面識有り」を追記している己に気づき、安室は我ながらすこし呆れた。
情報を集めたがるのは職業病である。
「けどさあ、どうして俺たちがパフェを食いにきたってわかったんだよ、姉ちゃん!」
「あ、あとで教えてあげるから。それより元太くん、もうちょっと小さい声で」
まただんだんと大きな声になってきた元太の肩に手を置き、許しを請うように、もしくは助けを求めるように女は店員である安室をちらりと見上げた。
その下がりきった眉の、あまりに情けなく困った様子といったら。
彼はたまらず小さく噴きだした。口元を覆っていた手を返し、今度は人さし指を己の唇に当てる。おもしろいように女がつられてこちらを見上げる。
その視線を絡めとるように、安室は目を細め、しい、とほほえんでみせた。
「お客様方、店内ではお静かに」
「それでね、それでね。元太くんったら、学校にマンガを持ってきたのがバレたら困るからって、光彦くんのロッカーにいたずらしたんだよ。自分のロッカーにマンガを入れたあと、ロッカーのお名前カードを勝手に入れかえちゃって」
「そうですよ、マンガの入った元太くんのロッカーがまるで僕のロッカーみたいに見えて、カンちがいした先生がもうカンカン!『円谷くん、学校に漫画を持ってきちゃだめでしょ!』って。もう少しで廊下に立たされるところでした」
「だってよう。おれ、前にもそれでしかられてるし」
ぷりぷり怒る光彦に、元太はテーブルに「の」の字を書いた。そんな元太を見て女・トウコが笑う。
「あはは、それは怒られても仕方がないねえ」
「トウコねえちゃんまで……」
ぶすくれた元太を見て、トウコがもう一度噴き出す。さっきのやりとりのあと席がえをした彼女だったが、もうすっかり場に馴染んでいた。
「でも元太くん、どうして名前のカードを入れかえたりしたの?そんな面倒なことをしなくても、マンガを押しつけたいだけなら光彦くんのロッカーにそのまま入れちゃえばよかったんじゃないのかな」
と、トウコは安室が今まさに考えていたことを口にした。まあ、今の話なら誰だってそういう疑問に至るだろうが。
「もちろんそうしたかったんだけどよ。光彦のやつ、その日たまたまロッカーにカギをかけっぱなしにしてたんだよ。入れたくても入れられなかったから、しかたなく名前のカードを入れかえただけで」
元太は大きな体に見合わないしぐさで指の先をつんつんと合わせた。
「あーあ、『戦う警官24時』とかでやってるじゃんか。どんな鍵でもばばっーって開けちゃうドロボウの話。俺にもあんな必殺技があれば、バレずに光彦のロッカーにマンガを入れられたのになあ」
「あっはっは、元太くん。そりゃあ犯罪のはじまりじゃぞ。先生に怒られた方が何倍もマシってもんじゃ」
そっかあ、と残念そうな顔をする元太を一同が笑う。カウンター奥で注文のパフェを用意しながら、こっそり聞き耳をたてていた安室も、つられて口の端に笑みをのせた。子供の無邪気さは、平和のバロメーターだ。
ゆるみがちな頬を接客用に整えながら、安室は店頭の見本そのままに、クリームを絞っていった。ただし、チョコソースに関しては通常の分よりもくるりと一周分だけ多めに。注意されて以降、大きな声を出さないように気をつけている子どもたちへのごほうびである。
パフェを仕上げている間にも、テーブルでの会話はすすんでいく。
「そういえばトウコお姉ちゃん。最近よくポアロに来てるね」
「ああ、うん……たしかにそうかも」
よくある世間話が続くかと思いきや、意外にも返事のトーンは芳しくなかった。
「あれ、お姉ちゃん。もしかして、ちょっと元気ない?」
「うー、いや、そういうわけでもないんだけど……」
どうしたの、と顔を近づける歩美の横で、元太がばん、と机を叩いて立ち上がった。
「わかった!姉ちゃん、さては彼氏にフラれたんだろ!」
「あー!元太くんそれはプライバシーがないわよ!」
「歩美ちゃん、それを言うならデリカシーですよ!」
そんなことを公衆の面前で騒ぎたてている時点で、プライバシーもデリカシーもないのでは。
と、安室と同じことを考えていたかどうかは知らないが、トウコは能面のような顔で「プライバシーもデリカシーもいらないから、イケメンカレシーが欲しい」と身も蓋もない返事をした。
パフェ四つと紅茶一つをトレイにのせ、テーブルの近くへ出ていった安室は、ささやかな助け舟をサービスすることにした。
「何かご自宅にお悩みでも? ここ数日、家で昼食をとられていないようですが」
はっと女が顔を上げる。図星であると確信した彼は、パフェをテーブルに並べながらつづきを述べた。
「ご自宅までは徒歩でたった五分ほど、今までは昼前になったら帰宅して、家で食事をとっていた。ちがいますか?」
「え、ええ。そのとおりです。でもどうして……」
どうして喫茶店の一店員がそんなことを知っているのか、という驚きと困惑が入りまじった顔に、彼は店の柱時計を指さした。
「店を出ていく時刻はきまって11時55分頃。それはきっと、12時前後に帰宅できるようにとの計算ですね。トウコさん、でしたか。明應大学の学生さんですよね?」
えっ、と彼女が手の中のカップを取りおとす前に、安室はさっと手を添えてトウコの手ごとカップを支えた。
「以前こちらの店で明應大学のパンフレットをごらんになっていたことがあるでしょう」
「ええ」
「そのとき、パンフレットに書かれていた大学の電話番号を『大学』という名称で携帯電話に登録されている場面を、偶然拝見したんです。ちょうどこういうふうに紅茶をお持ちしたときにね。正式名を略して『大学』などと表現するのは、そこに通う学生か教員くらいのものです。トウコさんは教員には見えませんし」
一同の視線を集めたまま、安室は続けた。
「明應大学では12時きっかりに昼休みがはじまります。今はまだ春休み中ですが、12時すぐに食事をはじめる習慣がこれまでの学期中ですでにできていたとすれば……というのが、昼食時間についての推理です。要するにトウコさんのご自宅はこの近く。今までかならず食事時に帰宅していたのに、突然それを変えた。となれば、何かご自宅に帰りたくない事情がおありなのかと」
トウコは口をパクパクさせて、安室を凝視していた。なかなか次の言葉を発さない女に向けて、安室は内心は余裕たっぷりに、だが外見上はいかにも残念そうに言った。
「僕の考えは以上ですが、そのご様子ではもしかすると見当ちがいのことを申しあげたのかもしれませんね……外野が差し出がましい口をきいて申し訳ありませんでした」
「あ、あたりです。ぜんぶ」
カウンターに戻ろうとする安室を引きとめるように、トウコが言った。スーパーヒサシ君案件だ、これは。とかなんとか年齢がバレそうな独り言を呟いている。
「すっげえな安室の兄ちゃん。おっちゃんよりもだいぶユーノウなんじゃねぇか」
「安室さんは元々すごいんですよ、元太くん」
「お姉ちゃん。お家のことで心配ごとがあるなら、おじさんに相談してみたら?」
「おじさん?」
と少し別の方向に流れた会話に、トウコが首を傾げた。
「知らないの?毛利のおじさんだよ。ここに住んでて、探偵の」
「探偵で、毛利で……?って、ちょっ、もしかしてそれって」
答えに気付いたトウコに向けて、小学生三人はわが事のようにそろって胸を張った。
「はい、名探偵・毛利小五郎です!」
ポアロに出入りする者なら日常的に耳にしているはずの名に、だがトウコはあやうくイスからひっくり返りそうになった。
「あ、あの毛利小五郎!?」
傾きかけた背もたれを、安室は空いた片手でさっと押さえた。咄嗟のフォローが功を奏し、テーブルに並んだ大盛りパフェの倒壊はかろうじて未然に防がれた。
「二階が探偵事務所になってるんですよ。ご存知ありませんでしたか?」
ひょいと後ろから覗きこんで訊ねると、トウコは目を見開いたまま何度も首を横に振った。
「し、知りませんでした。こ、ここに毛利小五郎がいるなんて」
「お姉ちゃん、もしよければ私たちからも頼んであげるよ?」
「なにそれ嬉し、いや、ええ!?ととと、とんでもない!こんな些事に毛利探偵の手を煩わせるなんて、お、恐れおおすぎ、オー・ソレ・ミヨだ!ありがと、大丈夫ッ、自分で解決できるから!」
さっきまでと比べると別人のようなテンションの上がり具合である。安室はなんともいえない思いで、黒いつむじを見おろした。
大人しそうな顔して、どうやら熱烈な過激派らしい。
「毛利先生は確かに有名人ですけど、そこまでかしこまる必要はないのでは……」
「あ、あの毛利探偵ですよ!む、むしろ皆さん、どうしてそんなに平然としていられるんですか」
壊れたおもちゃのように顔を横に振りつづける女。ここで間が良いのか悪いのか、追いうちをかけるように、ドアベルが鳴った。
「おーい、昼飯食わせてくれえ」
くたびれたスーツ姿がドアをくぐって入ってくる。子どもたちが声をそろえた。
「毛利のおじさん、依頼だよ!」
「たいへん失礼しました。つい取り乱してしまって」
本日三杯目になる紅茶を差しだすと、彼女は恐縮しきった様子でソーサーを手元に寄せた。
毛利小五郎本人を目の前にしたトウコのパニックぶりときたら、少年探偵団の面々でさえ思うところがあったらしく、今は少々イスを引いて遠巻きに様子を見まもっている。
安室のほうは言わずもがなで、さっさとカウンターに戻って黙々と給仕に徹していた。
この状況、髭をこすってにやにやしているのは本人ばかりである。
「なるほど。悩み事はあるが、この名探偵・毛利小五郎に依頼するのはあまりにも恐れ多いと」
毛利はふふん、と鷹揚に腕を組んで、王様かなにかのようにふんぞりかえっていた。たしかに毛利小五郎といえば有名人だし、一部にはファンもいるというが、ここまで持ちあげられるのはレアケースだろう。
おだてに弱いのはこの人の長所でもあり短所でもある、と安室は横目で様子を見ながら、注文の品であるミートスパゲティを毛利の前に置いた。
ところが、立ちさろうとすると、名探偵はこちらを見もせず黙って右手を差しだしてくる。オペ中の医者が「メス」とやるような感じである。
さすがにすこしむっとした安室は、毛利のすぐ目の前にあったカトラリーケースに手をのばし、彼にしては乱暴にフォークを押しつけたのだった。
「だが、お嬢さん。俺としても悩める依頼人を放っておくのはしのびない」
わかるかね、とさっそくミートソースだらけになったフォークを魔法の杖のように振る。
「そこでだ」
毛利はフォークを置くとカウンターに向けてパンパン、と無造作に手を打った。やっとこさカウンターに戻ったところだった安室は、この扱いにまたもやちょっとうんざりした。
僕は執事じゃないんだが。
そもそもこの時点で安室はこれから起こりうるだいたいの結末を察していた。察したうえで逃げられないことも悟っていた。よって、表面上は完璧な所作とスマイルでテーブルまで馳せ参じた。
「お呼びですか?」
毛利はその背をぽんと叩き、したり顔で笑った。
「ご存知かどうかは知らないが、彼は安室くん。俺の弟子だ。はい、ごあいさつは」
「申し遅れました、安室透です」
そして、やっぱり彼の師匠は彼が想像していたとおりの言葉を口にしたのだった。
「彼が俺のかわりに依頼を受ける。安室くんはまだまだ半人前だから、研修ということで特に料金もいらない。存分にこきつかってやってくれ。しかし、だからと言って心配はご無用。安室くんが解決できなかったときには、この毛利小五郎が即時解決してしんぜよう!」
がっはっは、と高笑いをする毛利の後ろで、安室は顔には出さずにため息をついた。おだてに弱いのはこの人の長所でもあり短所でもある。
突然のことに困惑している当の依頼人はさておいても、上機嫌の毛利と、それから期待のこもった視線を送ってくる小学生たちの手前、彼に許された返事はひとつしかなかったといえる。
「およばずながら。不肖の弟子、探偵・安室透が貴女の力になりましょう」