どうぞ、と自動販売機から転がりでたばかりのホットティーを手渡す。
 レモンの絵が描かれた薄茶のアルミ缶はじっと持っていられない程度には熱く、四月といえどもまだ肌寒さの残るこの時期の黄昏にはなかなかにぴったりの代物だった。

 ベンチに座って帰りを待っていた依頼人、トウコも同じように思ったのか、ありがとうございます、と両手をのばし大事そうに缶をくるんだ。

 びゅう、と強い風が吹く。公園の隅でみすぼらしく咲いていた細い桜の木から、最後の彩りがもぎ取られていった。そういえば今朝のニュースでも、今年の春は特に風が強いという話題がでていた。

 ベンチを覆うしおれた花弁を払いおとし、依頼人の隣に腰を下ろす。が、座るやいなや、どこからともなくまた一枚すべり落ちてきて、濃色のスラックスの膝に貼りついた。
 帰るころには花まみれだな、とそうそうに諦めた彼は、横を向いて依頼人に話しかけた。

「さて、お待たせしました。静かな場所に移動したことですし、依頼の内容をお訊ねしましょうか」

 接客中に依頼人と話をしていたらさすがに叱られちゃいますから、とつけ加えると、彼女は承知しているというふうに頷いた。
 場所はポアロ近くの公園、人通りが少なく、通行人に話を聞かれる心配もない。ポアロとちがって野次馬の茶々も入らない。バイトが終わるまで待ってもらい、わざわざ場所を移したのはそういうわけだった。

「こんなことを探偵さんに相談するのもどうかと思うんですが」

 缶を開け、ひと口すすったあと、彼女はゆっくりと話しはじめた。

「幽霊が、出るんです」



Chapter.1 春は幽霊の季節

File.2 ゴースト・ハント(Ⅱ)


 ひととおり話しおえたあと、彼女は冷えたレモンティーに口をつけ、喉をうるおした。安室はすでに空っぽになっていたコーヒー缶をもてあそびながら、ふむ、と考えこんだ。

「つまり、夜になると誰もいないはずの廊下から、ノックの音が聞こえると」

「ドアを開けても誰もいないので、はじめはイタズラかと思ったんです。いわゆるピンポンダッシュってやつですね。でもそれからも何度も同じことが続くものだから、とうとうドアスコープから外をのぞいてみたんです」

「すると途端に、誰かが外側から白い布か何でドアスコープをふさいだ。驚いた貴女はチェーンをかけたあと、内側から何度か扉を叩き、外の人物が逃げるよう仕向けてみたが、ドアスコープはふさがれたまま。そこで勇気をだして扉を開けてみたところ――

「誰もいなかったんです。部屋に戻ってもう一度ドアスコープを覗いたら、例の白い布もなくなっていました」

 そのときのことを思いだしてか、トウコの顔は白い布とやらに負けず劣らず白い色になっていた。

「なるほど、状況はわかりました。ですが、ひとつ教えてください。トウコさん、貴女は最初に『幽霊が出る』と言いましたね。この状況からして、普通はまず先に不審者やストーカーを思いうかべるものでは?」

 そう、彼女の遭遇した現象の中に、物理的に『ありえない』ものはない。現場を見ていないため憶測の域は出ないものの、たとえばチェーンを外してからドアを開けるまでの間に犯人がなんらかの方法でドアの前から逃げおおせた可能性は十分に高い。

 そう言うと、彼女はまわりを見まわしてから、半身ほど元の位置からベンチの上をずれ、こちらに顔を寄せた。青ざめた深刻な表情で、ささやくようにして言う。

「事故物件なんです。あそこ」
「事故物件?」
「数年前に、住人がひとり自殺しているそうです」

 急に雲行きの怪しくなった話に、安室はわずかに眉を顰めた。

「その人の遺言には、自分が死んだら大きな桜の木の下に埋めてほしい、とあったそうです。私の住んでいるアパートには、ちょうど中庭に立派な桜の木があって」

「まさかとは思いますが、そこに埋めた、とか」
「ま、ままま、まさか」

 安室がぬっと顔を近づけて言うと、トウコは激しく首を横に振った。

「そんなことありえません!ひ、人の死体を敷地に埋めるなんて」
「死体遺棄罪で刑法的にアウトですしね」

 あっけらかんとした物言いの安室に、女は、「そういう問題じゃないです。そういう問題じゃ。いや、実際はそういう問題なんですけど」と口元をひきつらせた。

「とにかく、幽霊にせよ何にせよ現場を見せていただかないことには判断できない。本来急な予定はいれられない立場なんですが」

 ちらりと女の表情を見る。眉毛が下がっている、それはそれは下がっている。迷子の幼稚園児でもこんな顔はしないであろうというような困り顔である。
 安室はまたしても声にはださず、ふふ、と笑ってしまった。理由はよくわからないのだが、自分はどうやら彼女のこの困り顔がお気に入りらしい。

 下がった眉毛を持ちあげるように、人さし指をついと立てる。おそるおそる視線を寄こした彼女に向けて、片目を瞑ってみせた。

「お困りのようですし、できるだけ早くカタをつけてしまいましょう。明日なんてどうです?」

 ぎゅうん、と驚異的なスピードで眉毛の位置を回復させたトウコは「ぜひよろしくお願いします!」といきおいよく頭を下げたのだった。

◇◇◇

 一夜明けて、翌日。
 ポアロでの午前中のシフトを終えたその足で、指示された住所まで歩いていくと、門扉の前にはすでに依頼人の姿があった。安室さん、と駆けよってくる。

「お忙しいところ、わざわざすみません」
「すぐ近所ですからね。散歩にしてももの足りないくらいです」

 実際、ポアロからの距離は徒歩にして五分かそこら。これならスーパーへ買い出しにいくほうが遠いくらいだ、と安室は笑って答えた。

「あら、トウコちゃん。お客さま?」

 急に声が聞こえて視線を向ければ、年かさの女性がちょうど門から出てくるところだった。

「ええと、大学の先輩で。こ、今度提出するレポートをチェックしていただこうかと」

 『調査に来た探偵です』と正直に紹介するのもどうかと思ったのか、慌ただしい言い訳をするトウコに、女性は「あら、それは素敵ね」とどこか意味深にほほえんだ。

「そうそう。明日は一日晴れだけど、あさっての朝から雨が降るそうだから。傘を忘れてはダメよ」
「ありがとうございます」

 ではごゆっくり、と会釈して、女性はアパートの敷地を出ていった。

「あのご婦人は?」

「ここの管理人です。ここの桜だってぜんぶあの方がお世話してくださっているんですよ。会うとかならず天気を教えてくれるので、住人のあいだでは『お天気おばあさん』と呼ばれています」

「花の世話のために天気を把握しているんでしょうね。なるほど、あの方が大家というわけですか」

 色あせた『入居者募集中』の看板をこえ、敷地に入った安室だったが、眼前に広がった光景に、おもわず声を漏らした。

 幹も枝も、いや庭や屋根すら覆いつくさんばかりの薄紅色。
 ハイツの中庭では、桜の巨木が今まさに満開の時を迎えていた。

「これは、たしかに」
「西行法師の気持ちがわかるってものでしょう?」

 ねがはくは花のもとにて春死なむ。
 かの有名な歌を思いだし、だが、安室は結局かぶりを振った。

「動機はわかりますが、気持ちは理解できませんね」
「む、それってどう違うんですか?」
「安室透はどこまでいっても探偵だってことですよ」

 トウコはじっと安室を見つめていたが、追求しても無駄だと悟ったらしく、それ以上は何も言ってこなかった。

 桜を視界の端に追いだし、今入ってきた入口のほうに視線を向ける。門扉を入ってすぐのスペースには四角いアルミポストが南北にぜんぶで八つ並んでいた。

 上に四つ、下に四つ。
 それはそのまま部屋の並びと同じらしく、北側から順に下の段は一〇一から一〇四、上の段は二〇一から二〇四までの数字がふられ、それぞれの中央には住人の名字のシールが貼られている。

「あ、ちょっと待ってください」

 トウコはそうことわって二〇三のポストを開いた。日光を遮る物がないせいでシールの退色が激しい。
 彼女はもともとは自分の名字が掲げられていただろうポストを覗きこみ、中身の有無を確認した。

 安室はふと気になったことを訊ねてみた。

「お隣の青田さんという方は、長期の出張にでも?」

 指さしたのは二〇三の右隣、二〇四のポストである。トウコのポストとは違い、名前のシールにはまだうっすらと『青田』の文字が読みとれる。
 だが、安室が気になったのはそこではなく、ポスト自体の状態だった。

 中身があふれているのである。

「ええ、今回は二、三ヶ月ほど南米に行くと言っていました」

「なるほど。それでこんなに郵便物が山盛りに……こんなことを申し上げては失礼かもしれませんが、まるで空き部屋みたいですね」

「例の自殺があった部屋が、この二〇四号室らしいです」

 喉元に冷たい手をあてられたような錯覚をおぼえた。
 だが安室の意識がそれをそれと認識する前に、トウコはからりと苦笑した。

「ま、うわさですけど。きっと当の住人の青田さんはそんなこと知らないと思います」

 かちゃん、と彼女は自分のポストを閉めた。郵便物は届いていなかったらしく、両手は空のままだった。

「おまたせしました、安室さん。ではいよいよ現場に踏みこみましょう!ついてきてください」

 階段をずんずんと上がっていく彼女の後ろに、安室も続く。

 二階の廊下には、古ぼけたドアが四つだけ、窮屈そうに肩を突きあわせていた。昔ながらのアパートである。前面は壁ではなくひらけていて、件の桜がいっそう近くに見えた。

 トウコはまっすぐに歩いていって、手前からふたつ目の部屋である二〇三号室のドアに鍵をさしこみカリカリと回した。オートロックが普及してきているこの時代にあって、女性のひとり暮らしには珍しいディスクシリンダー錠である。

 依頼人が鍵をあけている間、安室はさりげなく周囲を観察した。短い廊下には、目につくようなものは何もない。しいていえば、ひとつ左の二〇二号室(表札を見ると『山崎』とある)のドアのそばに傘が一本たてかけられているくらいである。

 水色の地にピンクと金色のハートマークが散る、たいそうファンシーで派手な傘だった。極めつけには、柄の部分に同じ色の組みあわせをした長い飾りひもがついている。先端にハート型に結び目がついたそれを見て、安室はおもわず唸った。

「最近の女性はなかなか……いえ、人の趣味はいろいろですね」

 隣人の山崎女史の嗜好に口を挟むのはやめにして、安室はおとなしくトウコのあとに続き、狭い玄関に靴を脱いだ。ちょうど備えつけの傘かけがあったので、邪魔にならないようその下にそろえて置いておく。

 ところが顔を上げて一望したワンルームに、安室は一瞬、ぐっと瞳孔が裂けるような、そんな感覚をおぼえた。女性がひとりで暮らす部屋にあがりこみ、緊張なり興奮なりしたわけではもちろんない。

 おそろしいまでに簡素な部屋だった。

 それこそ年頃の女性のひとり部屋とは思えないほどの。ベッド以外はほぼ何もないといっていい。
 彼はおもわず、隣に立つ女の姿を上から下まで眺めまわした。
 きわだって粗末な服を着ているわけでもないし、ボーイッシュな装いを好んでいそうな感じでもない。

 何もかもが平均的な、どこにでもいる大学生。

 目の前にいる女とこの部屋のあまりのギャップに、彼はほんの一瞬、白昼夢を見たような、ぼんやりとしびれたイメージに襲われた。

◇◇◇

 ひととおりの聞きとりと調査を終えて、いとまごいをした安室を、トウコは門扉の外まで送ってきた。

「今日はありがとうございました」

 どちらともなく礼を言う。

「では、次はいつに――

 と、トウコが言いかけたとき、男がひとり門から入ってきた。
 アパートの住人なのか、ビニール傘を腕にひっかけた中年男性は、ちらりとこちらを見てからまっすぐに階段をのぼっていった。
 すぐに二階の真ん中あたりで戸の閉まる音がする。

 それを聞きとどけてから、安室はトウコに向きなおり、さっき彼女が言いかけた言葉を継いだ。

「次回はあさってにしましょう。そのときにこのアパートの幽霊を捕まえてさしあげます」

「あさってで、ぜんぶわかるんですか」
「ええ。僕におまかせください」

 安室は自信ありげな笑みを浮かべ、「では」とトウコに背を向けた。が、ひとつ気になっていたことを思いだして、振りむいた。

「そういえば、どうしてあの子たちがパフェを食べに来たとわかったんです?」

 トウコはすぐには安室が何の話をしているのか思い至らなかったらしく、首を傾げていたものの、しばらくして手を打った。

「昨日のお昼のことですね。歩美ちゃんたちの」

 彼女はいたずらっぽく人指し指を立てた。

「阿笠博士の鞄からいつもよりだいぶ大きなハンカチが見えていたでしょう。あれって、みんながパフェをこぼしても大丈夫なように、ですよね。こぼしやすいといえば、スパゲッティやカレーだってそうですけど、あのときは昼食を食べるような時間じゃなかったですし」
「……なるほど」

 口元に手をやって頷きながら、安室はひっそりと喉の奥で笑った。その目に宿った鋭利な光は、夕日の朱に隠されて、誰の目にもとまらないままかき消えた。

 また一迅、強風が吹いた。トウコの髪が舞いあがる。

「今日は一段と風が強いですね」
春疾風はるはやて、というそうですよ」

 ぶわりと広がって吹き散っていく桜の様子を眺めながら、彼女がぽつりと言った。
 昨日の昼間、子どもたちと話していたときとはかけ離れた空虚さに、安室はさっき部屋に入ったときと同じ、軋むような違和感を感じた。

 冬から春へと季節が交代するときに吹く、強い春風。春の嵐を繰りかえしながら、季節は次第にうつろっていく。

 冬が終わり、春が来る。

 激しく吹き散る桜に、安室はなぜかすこし感傷的な気持ちになって、飛んでいく花弁が見えなくなるまでじっと空を見あげ続けた。


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