安室透の朝は早い。
【5:30】
起床と洗面。そのままランニングへ。
【5:45】
トーストとコーヒーだけの簡素な朝食。テレビのチャンネルを変えながら、新聞を五束ほど流し読み。
【6:15】
パソコンを開き、むずかしい顔でキーボードを叩く。
【7:10】
身支度をはじめる。特に迷うことなく、クローゼットからジャケットとパンツを選ぶ。
【7:25】
外出。戸じまりは窓・ドアともに厳重に。
【7:45】
依頼現場に現れる。
File.3 ゴースト・ハント(Ⅲ)
探偵・安室透は約束の八時よりも十五分も早くやってきた。
約束の時間になるまでは迷惑だと思っているのか、敷地には入らず門扉のところで待機している。手首の電波時計で時刻を確認したトウコは感心しきりでつぶやいた。
「きっちりした人なんだなあ」
ふむ、メモメモ。
朝八時というのは、彼が指定した時間だ。もっと遅くてもいい、と言ったトウコに、彼は幽霊を捕まえるには、この時間でないとダメだと答えたのだ。
どうしようかとその場ですこし考えた彼女だったが、結局決意して畳から跳ねおきた。携帯電話をお気に入りの桜のストラップごとポケットにしまう。
少々予定は狂うが、問題にはならないだろう。それよりも客を外で待たせておくほうが精神衛生上ずっと良くない。
すでに身じたくを整えていた彼女はそのまま階下に降りていった。錆びかけた階段をカンカンやる足音に、門扉の長身が振りむいた。
「おはようございます、安室さん」
「おはようございます、トウコさん」
形のいいまなじりが爽やかにゆるめられる。
会うたびに思うことだが、見れば見るほど嫌になるくらいの男前である。もともとの造作ももちろんなのだが、彼の場合はなんというか、自分の魅せ方をよく心得ている、というのがしっくりくるかもしれない。
いずれにせよ、女の子たちが彼に向かって黄色い悲鳴をあげるのは、天から与えられた至上命令に違いなかった。
なんて、俗っぽいことを考えつつ隣の長身を見上げていたところ、視線に気づいた彼がこれまた女心をくすぐる所作で「どうしました?」と首を傾けた。
「か、確信犯ですか」
「確信犯ね。いえ、今回の幽霊騒動は確信犯の仕業ではありませんよ」
こちらの言葉を良いようにとってくれた彼は、「では、さっそく幽霊退治と参りましょう」とアパートの二階を見上げた。
「た、退治しちゃうんですか?捕獲じゃなくって」
「この場面でその区別、必要ですか……と言いたいところですが、ここまで手の込んだやり口で人を困らせる幽霊にはしっかりと痛い目に遭ってもらわなければ」
「刑法的に?」
「さあ」
疑問に疑問で返し、笑う安室。微笑みの奥に見え隠れする嗜虐的な色に、トウコは、ひええ、と春だというのにうすら寒い腕を撫でた。
トウコが先導した昨日とは反対に、今日は安室が先に二階に上がる。二〇三号室にまっすぐに向かうのかと思いきや、彼のつま先が向いたのは奥にある二〇二号室だった。
何をするのかと見ていると、彼はこちらを振りむいて、突然こんなことを言いだした。
「こちらが貴女の部屋をノックした犯人です」
「山崎さんが?」
「いえ、僕の手元をちゃんと見てください」
彼の指先が示していたのは二〇二号室自体ではなく、その近くに立てかけられた、あの派手な傘だった。
「傘?」
何の変哲もない、と言いきってしまうのはちょっとアレなブツなのだが、まあ傘という道具としては至極一般的な物である。
「正確には、そのひもですよ」
おそらくは飾りだろう、柄からのびるカラフルなひも。やわらかなそれは風に煽られて、トウコの部屋のドアあたりまでゆらゆらと流れていた。
「そっか、今週は風が強いってニュースで見ました。強風で流されたひもが二〇三号室のドアにあたって―― 」
「いいえ、違いますよ」
安室はさらりと否定した。揺れるひもを指先で弄びながら言う。
「こんなにやわらかくて軽い素材で、硬質なノック音がだせると思いますか」
「……いいえ」
「共犯者がいるんです」
眉毛を下げて降参すると、安室はなぜか空を見上げて「今にわかりますよ」と答えた。
彼の見ているものをいっしょに見ようと廊下から外へ頭をつきだしたとき、トウコはつむじにひやりと冷たいものを感じた。
ぴた、ぴた、とくもり空から水滴が降ってくる。
「今日の天気は、雨のち晴れだそうですから。先日お会いした管理人さんもおっしゃっていたでしょう?」
「言われてみればたしかに。でも、いったい何の関係があるんです?」
「今にわかります」
雨脚は強まり、あたりはどんどん薄暗くなっていった。安室は指さした。
「見てください。あれが貴女の部屋をノックした犯人です」
人さし指が示していたのは、二〇二号室と二〇三号室の狭間の壁、つまり傘の真上。
そこには、天井からつたうように雨漏りが発生していた。
「天井から垂れおちた水は、ちょうどその下に置かれた傘へと吸いこまれます。そしてそれは最終的に―― 」
「あのひもに、染みこむ」
安室は頷いた。
「トウコさん。雨降って地固まる、という言葉をご存知でしょうか」
「喧嘩したあとはかえって仲良くなるという、アレですよね」
「ことわざとしての意味はそのとおりですが、今回僕が着目しているのは現象それ自体です」
彼は大学教授のような口ぶりで話しはじめた。
「水にはずばぬけた『表面張力』と他の物体への『付着力』があります。そのふたつが合わさった水はいわば自然の接着剤。土などといった隙間の多い場所へ染みこんでいくとき、水はその物質同士を強力に結びつけます。たとえ水が蒸発したとしても、物質同士の距離は近づいたまま。最終的に『雨降って地固まる』ことになる。この現象を『液膜付着力』といいます」
ここまで説明されて、トウコはようやく手を打った。
「隙間の多い物といえば、たとえばそのひもも?」
よくできました、というふうに安室は頷いた。
「知っていますか? 靴ひもを結んだあと結び目に水を染みこませると、よりほどけにくくなるんです。それと同じです。つまり今回も―― 」
そのときまたもや、びゅう、と強風が吹いた。雨粒のかけらが頬に散った瞬間、コンコン、とあの音が聞こえた。
「水が染みこみ、重くなった結び目が、風になぶられて激しくドアをノックする。あの日聞いたそのままの音でしょう?」
「で、でも安室さん」
「ドアスコープをふさがれたことですね。そちらももう見当はついています。最後の共犯者は、今あそこに立っている」
わずかに濡れた前髪をかきあげ、安室は外を示した。
そこに立っていたのは、いや、そびえていたのは、あの桜の巨木だった。
びゅう、とひときわ強い風が吹き、花びらがいっせいに舞い散った。風に乗っていきおいよく飛んだ数枚の花弁は、部屋の前まできて、ぺしゃりと壁に貼りつくかたちで旅を終えた。
それが最後のパズルピースだった。
「そう。この桜の花びらこそが貴女の部屋のドアスコープをふさいだ犯人です。内側から扉を叩こうがゆすろうが、道理で変化がなかったわけです。風がやむまでは、花びらはドアに押しつけられたままですから」
安室は壁に貼りついた花弁を剥がし、指先に乗せてもう一度空に飛ばした。
「元はと言えば、すべてこの風と花びらが原因なんです。今までは発生しなかった雨漏りも、おそらくは飛ばされた大量の花弁が雨樋を詰まらせたせいでしょう。今年は例年よりも風が強いと聞きますし」
「そうだったんだ」
推理を聞きおえて、トウコは脱力したようにへたりと壁によりかかった。
「幽霊じゃなくてほっとしましたか?」
「はい、それはもう……じゃなくって、べ、別におばけが怖いとかそういうのではなかったんですけれども……!ほ、ほら、原因がわからないのが気になってですね」
大慌てで否定する彼女に、安室はふうん、と頷いた。
「とにかくありがとうございました。これで今晩から枕を高くして眠れます」
「礼には及びません。このくらいは朝飯前ですよ」
「文字どおり、ですね。まだ九時になったばかりですから。それで、えーと、たいしたものはありませんが」
トウコは腕時計をちらりと見たあと、安室の表情を窺うように視線を合わせてきた。
「お茶でもいかがです?毛利探偵はあんなふうにおっしゃってましたけど、すこしくらいのお礼はさせてください」
「僕は味にはうるさいですよ、なんてね。せっかくですし、ご好意に甘えましょうか。ちょうど喉が乾いてきたところだったんです」
すぐにご用意します、とトウコはポケットから鍵の束を取りだして、鍵穴に差しこんだ。
「ふうん。やっぱり開けるんですね」
「え?」
ドアを開きながら、トウコは安室を見上げて首をかしげた。「なんでもありません」と彼はその背を押して、玄関へと進ませた。
「それよりもトウコさん。このあと、少しだけお時間をいただいても?」
「もちろんです。ゆっくりしていってください。まだ春休みで、何の予定もありませんから」
「それはよかった。ここからもうすこし、お付き合いいただかなければなりませんので―― 今度は僕の用件にね」
言うやいなや、安室は後手でがちゃりと鍵を落とし、かえす手で流れるようにチェーンをかけた。
鎖のこすれる冷たい金属音を耳にしてようやく、トウコの意識は目の前で起こった異変に追いついた。
電灯のない薄暗い玄関に、ぼうっと長身がそびえている。黒く塗りつぶされた影の中で唯一、瞳だけが怪しげな光をおびている。
からみつくように見つめる先はトウコ、ただひとり。
黒い影が言葉を発した。
「依頼は解決しました。だが、事件はまだ終わっていない」
はじめて聞く低い声にトウコの身体がはねた。どくどくと早まる心臓を、安室は問いの形をした鋭い凶器でためらいなく刺しつらぬいた。
「不自然だとは思いませんでしたか、あの傘」
「傘って、あの二〇二号室の山崎さんの?」
「山崎さん?とんでもない」
話の流れを掴めずに困惑するトウコを、安室が嗤った。
「一人暮らしの中年男性、があんな傘をもつと、本当にそう思っているんだとしたら貴女もそうとう趣味が悪いですね。昨日エントランスですれちがった男性、彼が山崎さんでしょう?足音を聞いていれば彼が二〇二号室へ入っていったのは簡単にわかりましたよ」
「山崎さんは単身赴任のお父さんで、遊びに来た娘さんが忘れていったとかじゃ」
「だとしても、部屋の中に備えつけの傘かけがあるアパートなのに、わざわざ外に置いておく意味はないでしょう」
壁と一体化しているアルミの傘かけを、安室の指がはじく。答えられないトウコに安室は芝居がかった様子で手を広げてみせた。
「いやだなあ、トウコさん。依頼に関わることはぜんぶ丁寧に説明してくれたのに、こんなに大事なことは教えてくれないなんて。だいたい彼は昨日ちゃんと自分の傘を持っていたんですよ。ありきたりな、ビニール傘をね」
トウコの足がよろけるように一歩下がった。
「山崎さんの私物でない可能性は、あります。でも同時に山崎さんの私物でない証拠もないんじゃないですか」
安室は顎を上げて、視線だけでトウコを見おろした。
「まあ、そうですね。人の趣味はいろいろですから?」
おどけた口調とは裏腹に、底冷えのするような声だった。酷薄な光を宿す瞳はいっそ愉しげにすら見える。
「何が言いたいんですか」
「幽霊はまだここにいる」
安室はトウコを視界にすえ、強い声で断言した。
「でも、もう犯人は見つかったって」
「ノックをした犯人。ドアスコープをふさいだ犯人。僕はただそれらを見つけただけです。『幽霊』の正体を暴いたなんて、いつ言いました?」
トウコの肩が小さく揺れた。
「今、この部屋に『住人』は存在しない」
安室は死神のように最後の判決をくだした。
「二〇二号室の前に傘を置き、事件のすべてを仕組んだ張本人。存在しているようで、どこにも存在しない桜の亡霊」
安室は腕を持ち上げ、指差した。
すべての探偵がそうするように。
「犯人は、貴女です」
そして、立ち尽くすトウコの肩をとらえ、その耳元に誘うような、嬲るようなささやきを落とした。
「だって、貴女はここにいるはずのない人なんですから。ねえ、二〇四号室の住人さん?」