大事なことは朝のうちに済ませてしまって、八時になる前にはもう、さわやか笑顔のウェイターに完璧に早変わりしている。箒とちりとりを持って、店の外を掃いている彼の背には次から次へと道ゆく人が声をかける。

 たとえばとある女子高生のグループ。

「わーっ、安室さんじゃん!」
「おっはよー!安室さん」
「今日のシフト何時まで?夕方いる?」

 すると、彼はまず丁寧に朝のあいさつをしたあと、いかにも申し訳なさそうに笑って、

「すみません、今日は昼までなんです」

 と、答える。ええー、といかにもがっかりした様子の彼女たちに対しても、アフターケアは万全である。

「でも明後日の夕方なら。おまちしています」

 にっこり笑って片目をつぶってみせる。あとは一転、きゃあきゃあと黄色い歓声の嵐である。

「さあさあ。早く行かないと遅刻してしまいますよ」

 手を振って女の子たちを見送ったあと、安室はふたたび掃除に戻る。が、ろくに掃きもしないうちに、今度は別の声がかかる。

「あら、安室さん。今日も朝からごくろうさま」
「おはようございます、石野さん。これからお買いものですか」

 おとなしめの風貌の、若い子連れの奥さんに、安室はこれまたにっこりとほほえんだ。ぽう、と奥様の頬が赤らむ。仕事中の夫に申し訳ないと思いつつも、女の本能は止められないらしい。

 そして最重要ポイントはここで腰をかがめて、隣にいる小さな子どもにもちゃんと声をかけることだ。

「ミカちゃんもお母さんのお手伝い?」

 常連の奥様はまだいいとして、めったに来ない子供の名前までばっちりである。うん、と頷いた女の子の頭を「えらいね。きっといいお嫁さんになるよ」と撫でる。ああ、ダメだ。もう目がハート。ミカちゃん目がハートよ。

 早くも女に目覚めた女児の頭に手を置いたまま、安室は窺うように母親を見上げた。

「限定のメロンケーキは明日までですよ。たしかミカちゃん、メロン好きだったと思うんですけど」
「えっ、ええ。そうよね、ミカ」

 じゃあ明日また来ます、と若奥様は少女のようにドギマギと胸を押さえつつ去っていった。その背中を見送ったあと、彼はまたひとり掃除に戻るのだった。



Chapter.1 春は幽霊の季節

File.5 じゃれあう多面体:ジャブ


「悪質きわまりないな」

 結論から言って、とトウコはチュルチュルとアイスティーをすすりながら、一連の事柄に対する講評を述べた。

 顔をあわせて二言三言交わしただけで、幼女からおばあちゃんまで、女という女をみいんな女に変えてしまう。知ってか知らずか、いや一から十まで全部わかったうえで、ちぎっては投げちぎっては投げ、それでも誰にも恨まれないんだから、とんだアムロ・マジックである。

 だがたとえそうであったとしても、女の子からちやほやされたいだとか、好感度をあげたいだとか、そんな俗っぽい動機だったらまだよかった。彼の場合はあきらかに、ハニートラップとかそっちの方面である。

「まったくとんでもない美人局野郎でい」
「その美人局野郎に命綱を握られてるってどんな気分?」

 視界に一瞬、キラキラ輝く笑顔的な何かがうつり込んだかと思うと、案の定、脳天に衝撃が炸裂した。お星様が網膜に乱舞する。

「ワァー!あいさつがわりに暴力をふるうのはやめてください!」
「いやあ、君の頭を修理するにはいちばんてっとり早い方法かと思って」

 凶器ゲンコツをさっとしまって、さわやかにのたまう二十九歳独身である。

「ブ、ブラウン管のテレビじゃないんですから」
「たしかに。口答えしないし陰口も叩かないし、テレビのほうが有能だね」

 ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。物理の殴りあいはもちろん、口での殴りあいでも今のところ勝てたことなしだ。

「ま、ブラウン度では到底テレビにも安室さんにも勝てる気しませんけど」
「何か言った?」
「言ってません!」

 笑顔で拳を握った安室に、トウコはあっさり投降した。ここまでがもうおなじみになった一連の流れである。

「で、見た感じ休憩中というわけではないみたいですが。もういいんですか、お掃除は」

 ポアロの斜め向かいに立つビルのテラスから身を乗りだし、彼女は路地の安室と視線を合わせた。

「終わった。今は買いだし中だよ。君のほうこそどうなんだ?」

 サボってるんじゃないだろうな、と疑いの目を向けられ、トウコは手元の端末を彼の前にかざした。四角い画面には男がひとり映りこんでいる。

「まさか。一分の隙も油断もなく浮気調査続行中ですよ」
「動きは?」
「夕方になると決まって足立区に出入りしていますが、それ以外はとくに目立った点はなしです」
「そうか。引きつづき動向を追うように」

 端的に告げた安室に、トウコは、はい、と素直に頷いた。安室はしばらくその顔を見つめていたが、ふいに眉を寄せた。

「それにしても、そんなものがあるなら、わざわざここまで出てくる必要はなかったんじゃないのか。君にはちゃんと作業場を与えてある」

 そんなもの、と言いながら、安室はトウコの持つ遠隔監視デバイスを指さした。美人局野郎の件をまだ根にもっているのか、少々険のある言い方である。

「べつに安室さんの出歯亀をするために出てきたわけじゃありませんよ。外に出ないと調べられないこともたくさんある、っていうのは探偵の安室さんだったらよくご存知でしょう。それに、大学と作業場を行き来するだけの生活じゃ、豚まっしぐらです」

 『作業場』というのは、あくまで彼の言い方で、実質的にはトウコが住まう家を指す。今となってはあの桜の木のあるアパートではなく、安室が新しく貸し与えた部屋のことをいうのだが。

 安室は黙ってこちらを見ている。今彼が考えているだろうことを否定するために、トウコは頭を左右に振った。

「あの部屋はとっても気に入ってますよ。あそこまでセキュリティ堅牢な物件はそうそうお目にかかれません。お仕事にも安心して取り組めるってものです」

 でもまあ?あの素敵なボロアパートでの悠々自適生活もなかなか捨てがたかったというか。安室さんが私の財産しゃしんを取りあげたりしなければ家賃だって払えていて追いだされることもなかったのになあ、と過去に思いをはせてしまうというか。

 心の中身が伝わるはずもないのに、安室はなんだか残念なものを見る目でため息をついた。

「正当な理由があるなら別にいい。わかっているとは思うけど、くれぐれも気付かれないように」
「はい。気をつけます」
「僕はもう行く」

 手も振らずにさっさと行ってしまった後ろ姿を見送ったあと、トウコは残ったアイスティーをぐいっと飲みほして、張りこみ作業に戻ったのだった。

◇◇◇

 日が暮れて、あたりが薄紺から夜の色に変わりつつある狭間のとき、安室はひとり誰もいない倉庫街に立っていた。

 車の行きかう騒音も、街の雑踏もはるか遠く、ただどこかで淋しげな汽笛の音が聞こえるだけである。己の影を踏むように、しずかに、だがたしかな足取りで先をめざす。

 やがて行きついた行きどまりには、もう何年も使われていないような、錆びた扉があった。キシリ、と軋んだ音とともにノブを回す。

 あっさり開いたその内側は、放棄されたオフィスだった。室内の暗闇に溶けこみながら、迷いなくすすむ。乱雑に置かれた段ボール箱を踏みこえても、足音ひとつしなかった。

 奥まで行くと、机の上にひとつだけ、生きている電話があった。膨大な番号が複雑に組みあわされた極秘回線のローテーションを、ほんの一瞬頭に思い浮かべて、安室は受話器を取った。

 そしてその瞬間にはもう、安室は安室ではなくなっていた。

 指が勝手に正しい数字をなぞっていく。今日のこの時間、この電話からだけ繋がる番号である。ワンコールもしないうちにコール音は途切れ、相手はたったひと言こう答えた。

「はい、中にいます」

 彼は彼で名乗りもせずに「外はしずかだ」と告げる。それは彼らが互いに互いを見分けるための符牒だった。

「お疲れ様です」
「そうでもない。上々だ。あの男の消息はとらえている。拠点は足立区で間違いない」
「そうですか。ではすぐに手配します」

 世間話もなく、ただ用件だけを述べあう。互いの名はおろか、対象となる者の名すら口にはしない。資料やデータを送りあうこともない。

 彼らは形のあるものを嫌う。だから、降谷零とその部下とのやりとりはたいていこういう簡素で無色な一本糸だった。間を取り持つ飾りがなくとも、一本あればこと足りる。

 だが今日にかぎって、降谷は無色のそれに色をひとつ余分にのせた。さらに低く、声をひそめる。

「例の件はどうだった」
「結論からいえば、何の問題もありませんでした。疑うに値しないかと」
「そうか。それならいい」
「協力要請を?」
「いや。今後もこちらの身分を明かすつもりはない。何も知らないまま、役に立ってもらう」
「無自覚な協力者、というわけですか」
「目立たない容姿と経歴、身分。あの年頃の人間としては、至って平均的な精神構造。『におい』のしない人間でなければ、できないこともある」

 同じ穴の狢は往々にして同族を嗅ぎわける。どんなに完全につくりこみ装おうが、いや、むしろ完全であればあるほどに、その完全さが鼻につくのだ。

 無色無辜の大衆になりきろうと、身体を無垢に透かしてみせればみせるほど、かえって奥底に隠した心の不透明さが露わになる。無であろうする作為を内包した時点で、それはもう無ではない。

 演じる者の誰もが逃れえないジレンマだった。

「ままごと遊びも、使いようだ。しばらく様子をみてきたが、ああみえてそこそこ使える。こちらが動けないときには、いい“目”になるだろう」

 黙りこむ電話の向こうに、独り言のように言う。

「もちろん、踏みこえさせる気はない。表面的な調査にかぎった話だ」
「ですが、それでも」
「万が一のことがあれば、その前に切る」

 いつもならここで終わるはずの会話だった。だが、電話の向こうの男もまた珍しく蛇足を描いた。

「帳尻が合うならそれで構わない、と。貴方はいつも変わらない」
「人をそう、化物のように言ってくれるな。貸しの分だけ働いてもらうだけだ」

 彼はしのび笑った。

「それに僕とは違って、『彼』は何から何まで全部ひとりで忙しい。助手のひとりくらい見繕ったって罰はあたらんさ」

 そうして電話を切ったあと、彼はまた夕暮れの薄闇に消えていった。

◇◇◇

 激しく明滅するバックライト。美しい女性。流れるブロンド。
 盛りあがっていくBGMがピークにいたり、画面が暗転した。

「『貴女はこの夏、真実を知る』ねえ」

 でかでかと表示される真っ赤な太ゴシックのキャッチコピー。今回、全米は泣かなかったらしい。

 予告の時点でありきたりなにおいがぷんぷんするCMに、せっかく良いキャストをそろえているのにもったいない、とトウコはため息をついた。主演女優なんて、廃車寸前の原チャにハイオクを入れるくらいの無駄づかいである。

 テレビの中で妖艶にほほえむ外国人女優に、ちらりと視線をやったあと、トウコはあくびをした。

「ま、こっちは様子見かな。あんまりおもしろくなさそうだし」

 パソコンに視線を戻したトウコだったが、すぐに何かを感じてぴっと背筋をのばした。案の定、少し経って部屋のドアが開いた。

「まがりなりにも、女子大生の深夜のひとり部屋ですよ。せめてノックくらいしてください。おきがえ中だったらどうするんですか、安室さん」

 トウコの苦情を丸無視して、すでにわがもの顔でクローゼットを開けていた安室は、彼女の衣服を雑巾か何かのように端に追いやって、いちばんいい場所にスーツをかけた。そうしておいて、いかにも不思議そうに肩をすくめるのだ。

「僕が君の着替えに興味をもつかって?」
「……いや、今となってはなんかもうどうでもいいです」

 無残にも暴かれ、占領されたクローゼットを見ながら、トウコは諦めの境地に至りし菩薩の顔で答えた。

 どうせさっきの女優みたいなスレンダーかつグラマラスな美女以外は女にカウントしてないんだろう。アダルトでムーディなお酒を片手に、ホテルのスイートで『君の瞳は星のようだね』とか言ってればいい。

 心中の罵倒が聞こえたはずもないのに、安室はちょうどネクタイを解こうとしていた手を離し、不満げな様子でトウコに向きなおった。

「ここはもともと僕の持ちものだ。自業自得を棚にあげて『もう公園で野宿するしかない』とか『橋の下に住民票を移そうか』とかさんざん脅しをかけた君に、ただで住み処を貸しだしてやっただけでも、自分でもちょっとどうかと思うくらいには慈悲深い采配だと思うね」

 法廷に立つ弁護士のようにすらすらと淀みなく正論を述べながら、窮屈な仕事着を解きおえた彼は、どさりとベッドに腰を下ろした。

「報告よろしく」
「良い知らせがふたつと悪い知らせがひとつあります」

 彼の目がちらりとこちらを見る。

「悪い知らせから聞こうか」
「今回の調査対象、じきに長期で海外に行くみたいです。そうなれば、残念ながら私ではこれ以上追えません」
「良い知らせは?」
「盗聴記録とアクセスログから渡航日とフライトナンバーを割りだしました。前日に宿泊するホテルも把握済みです。行けば簡単に接触できますよ」

 ふうん、と安室はトウコの顔を見た。何も言わないが、安室の口角は満足げに上がっていた。

「わかった。この件は以上だ。以後は何もしなくていい」
「おっけいです」
「ちなみに、もう一方の良い知らせは?」

 トウコはばっ、と振りむいて、ノートパソコンの画面を広げた。

「じゃじゃーん、『AI:BO』劇場版の放映決定です!今回の左京さんのAI:BOは何とまさかの自律思考型アンドロイドですよ」

 はあ、と安室はため息をついた。

「わかったわかった、観たけりゃ観なよ。やることさえやってくれれば君の趣味嗜好には口を出さない。前にも言ったと思うけど、仕事に関すること以外で君の行動を監督する気はないよ。この場所だって、君がしでかしたことの対価をすべて支払いおえるまで、利害の一致から一時的に貸しだしているだけさ」

 彼の視線がある種の厳しさをもって、トウコに注がれた。

「君には君の人生と未来があって、僕はそれに責任を持てない」
「それなら心配ご無用です」

 トウコはあっさりと笑って答えた。

「なんたって私、花の大学生ですよ。ワーク・ライフ・バランス!稼いだお金はその日のうちに使うのが正しいモラトリアムです。頼まれたってワーカホリックにはかかりませんし、残業もしません」

「ま、君はそういうところ、ちゃっかりしてるからね」

 安室は立ちあがってトウコの側まで歩いてくると、かばんから取りだした新しい資料をデスクに置いた。

「なら遠慮はいらないな。新しい仕事だ。どれくらいかかる?」

 トウコはぺらぺらと書類をめくりながら言った。

「二、三日あれば余裕です」
「本当は?」
「い、一日あれば」

 指がのびてきたかと思うと、強烈なデコピンが眉間につき刺さった。

「つうッ!今自由に生きろ的な話をしたところだったじゃないですか。むしろ空気を読みましたよ、私は!」

「仕事に関すること以外では、だ。サボるんだったら、容赦なく橋の下に捨てるからな。わかり次第、いつものアドレスに連絡を入れるように」

「へいい、了解です」

 その他必要最低限の情報交換を終え、その場で書類をマイクロ・シュレッダーにかけると、安室はふたたび上着を羽織り、部屋から去って行った。

「働き者だなあ、安室さんも」

 ふたたび流れはじめたCM―― クリス・ヴィンヤードのそれに視線をやったあと、トウコはそっとテレビの電源を落とした。


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