「人間は『仮面』をかぶる生き物です。立場や状況、時に応じてさまざまな人間を演出する、皆さんにも経験があることでしょう。家庭では子供、学校では生徒、仕事では部下。ユングはこの表面的なパーソナリティを『ペルソナ』と名づけました。語源は古代ローマの古典劇の『仮面』であり――

 スクリーンの上を赤いポインターがめぐる。マイクで拡声された教授の声が「今週のレポートはこのへんから出しますよ」と告げた途端、ペンを動かす音やらシャッター音やらが記者会見のように講堂に響いた。

 もちろん教授は苦笑いである。単位がほしいだけの俗物どもめ!と本音を叫ばないのは、やはり彼にも『仮面』があるからだ。

 多重人格ではなく、ペルソナ。多重人格を自分でない人格が並行的に存在する精神疾患ととらえるならば、ペルソナはあくまで自分という人格から派生する外装である。

 ユングによると、ペルソナの存在意義は社会適合にあるという。言うまでもないことだが、思ったことをすべてそのまま言動に表せば、人と容易に衝突する。笑われたり、恨まれたり、普通は誰だっていやなもの。

 だからみんな『仮面』をかぶる。

 『仮面』というとなんだか聞こえが悪いだけで、本来は、その奥にある『本当の自分』を守るための、ありがたい必須アイテムなのだ。世の中とうまく折りあっていくためのクッション、と考えるとわかりやすいかもしれない。

 が、しかし。

「中には『仮面』を外せなくなってしまう人もいます。求められる役割を果たすうち、ペルソナばかりが厚くなり、本当の自分を表に出す方法がわからなくなっていくのです」

 教授の声を聞きながら、トウコは「もっともな話だなあ」と考えた。

 『本当の自分』とやらを認めてくれる相手がいつもそばにいるとはかぎらない。家に帰れば子供、学校に行けば生徒、仕事場では部下。結局、二十四時間三百六十五日、気の休まらない人だっているかもしれない。

 ことん、とペンを置いた。

 『本当の自分』から派生したものが『仮面』である。
 たとえば、今ここで授業を聞いている私、仕事をしている私、それから、家でぼんやりテレビを見ている私。エトセトラエトセトラ。

 だから、トウコはこうも思う。

 じゃあ結局、どこからどこまでが『仮面』で、どれが『本当の自分』なんだろう?

 

Chapter.1 春は幽霊の季節

File.6 じゃれあう多面体:右ストレート


 その日最後の授業を終えて、教室から出ようとした時、かばんの中で携帯が小刻みに二度ふるえた。

 頭を掻いて、携帯を取りだす。ぷらんぷらんと下がる桜のストラップをちぎれないように守りつつ、人混みの中で画面を確認すると、案の定『店長』からだった。

 その呼称が指すのはもちろん現・雇用主である例のあのひとである。

 公共の場で名前を呼んではいけない決まりはないのだが、ポアロ店員の彼女曰く、『親衛隊シンパはどこにでも潜んでいる……ほら今もあなたの後ろにィ!』とのことなので、万が一の炎上を防ぐ意味でも実名登録は避けている。携帯を触っていたところ、逆上したファンクラブ会員に背後からブスッ!というのでは、あまりにも締まらない。

 さて『店長』からのメッセージの中身だが、たったひと言である。

 『直帰』

 これだけ。
 文ですらない。電報のほうがまだあたたかみがあるのではないだろうか。ハハキトク、スグカエレ。絵文字顔文字までは要求しないから、せめて読点くらいはつけてほしい。

 コミュニケーションを粗末にするない!と心の中で叫びながらも、トウコの右手は穏便に『わかりました』と入力していた。下手に逆らうと倍返しでは済まない。

 あの男、他人への外面はめっぽう良いくせに、なぜかトウコにかぎっては徹底的に塩対応なのである。もちろん、ここでは『塩(を傷口に塗り込む)対応』の意である。

 ポアロで振りまいている笑顔の百分の一でも寄こしてくれれば、トウコにも『きゃー!安室さぁん(ハートマーク)』みたいな展開があったかもしれないのに。

「いや、それはないな。ないない」

 花の女子大学生トウコ、男は中身ハートで選ぶタイプである。

 送信ボタンをタップすると、ぽうん、とポップな音がして、フキダシが画面に跳ねた。

「これでよし」

 そうして、遅刻による虐待を回避するため、トウコはいそいそと駅に向かったのだった。

◇◇◇

 トウコが安室から借りうけているマンションは、アクセスの良いビジネス街の一角にある。

 元は安室の自宅だったそこは、実際にはほとんど使ったことのない物置同然の場所だったらしく、かわりに管理をする、という条件でタダで住まわせてもらえることになったのだ。

 なお、安室自身はどうやらほかにもいくつか自宅を兼ねた拠点を持っており、普段の寝泊まりにはそのうちのどれかを使っているようだ。

 外からは一見、普通の高級マンションのように見える。が、カードを通し、“最初”のオートロックを解除したあたりから途端にきなくさくなってくる。

 しずまり返ったエントランスの床は黒く磨きあげられ、靴跡などはいっさい残っていない。こまめなお掃除で気持ちよく、というよりもおそらくゲソコン採取対策である。

 そのあとも虹彩認証やらパスワード認証やらで厳しく身元をチェックされてやっとこさ、エレベーターホールにたどり着ける。

 カードをかざすと、おまちしておりましたとばかりにエレベーターの扉が開いた。内部にボタンはなく、あとは勝手に部屋の前まで一直線である。

 今までエレベーターやエントランスで人とすれ違ったことが一度もないことから、おそらくはそのあたりも意図的に制御されていると思われる。

 ちらり、と巧妙に隠された監視カメラにさりげなく視線をやった。エレベーターに乗るまでにもひい、ふう、みい、よ。数としては決して多くないが、死角がいっさいないように設置されている。

 以前、ネットを介してバレない程度にちょっかいを出してみたことがあるが、サーバーはもちろんカメラ自体のセキュリティも超がつくほど強力だった。生半可なやり方では偽映像の差しこみどころか閲覧すらもできやしない。真面目に突破しようと思ったらかなりの労力が必要だろう。

 トウコはこのカメラを見るたびにいつも感心してしまう。何がいいって、いかにも『厳重です』という顔をしていないところが特にいい。
 カメラだけでなく建物全体についても言えることだが、セキュリティの強固さがまったく前面に出ていないのだ。

 一見普通のこのビルに、顔出しNGな業界人がわんさと詰まっているとは誰も思わないだろう。さすが彼の選んだ物件である。

 しばらくすると、音もなく扉が開いた。降りた先の廊下を行けばすぐ目の前に家のドアがある。ノブに手をかけようとして、一瞬考える。

 思いきってひねると鍵はやっぱり開いていた。仮にも女性のひとり部屋だというのに、彼の辞書に遠慮の文字はないのだろうか。

「帰りました」

 ん、と気のない返事が返ってくる。侵入者は案の定、人のベッドの上に堂々と寝ころんで携帯をいじっていた。

 ここ数ヶ月ですでに見慣れた光景である。
 が、せめて枕の上に足を載せるのだけはかんべんしてほしい。トウコは一応口を尖らせたが、結局あきらめてかばんを下ろした。

 彼がこの部屋をどう使おうと、トウコはもう何も言わずに受けいれることにしている。言ったところで「ここ、誰が貸してるんだっけ?」とかいう例の台詞が返ってくるだけだ。

 だらしのない格好で寝そべりながらも、妙に様になるやり方で彼は足を組みかえた。愛用の枕が長い足の下でぼうんぼうんと哀れに跳ねる。

 我慢していたトウコだったが、さすがに軽くプチッときた。

「安室中佐殿。トウコ一等兵、友達との約束を放棄してまで馳せ参じました!労ってください!ついでに枕から今すぐ足を降ろすように!ピピッ、これ以上のパワハラ的狼藉は強制執行案件ですよ」

 すると安室はようやく顔を上げ、ふわあとあくびをした。

「ああ、帰ってたんだ」
「五分ほど前には。これでも急いで帰ってきたんですよ、友達との約束をキャンセルしてまで」

 大事なことなので念押し気味に伝えておく。安室はいまいちピンと来ていないような顔をしていたが、しばらくたって首をかしげた。

「君、友達いたんだ?」
「いますよ失礼な!」

 こてっ、とあどけない感じに首をかたむける安室透二十九歳。やめろ、そんな顔したってダメだ。

「言っときますけど、こうみえて毎日ひっぱりだこなんですからね。仕事だけが友達のさみしい独身男と一緒にしないでください」

「世の中には、その『仕事だけが友達のさみしい独身男』の甲斐性と施しで野宿を免れてるかわいそうな子もいるみたいだけどね」
「ぬぐう……」
「大学の授業が終わるまでは待ってやったんだから、むしろ感謝するように。それに仲のいい友人ならなおさら、これくらいで関係がどうにかなったりしないだろ」
「まあ、それはそうですけど」

 携帯をポケットにしまって立ちあがり、彼はばっさと書類を投げた。

「新しい仕事だ」
「やっぱりなー!」
「当然だ。君への用事がほかにあるか」

 トウコは両腕を組んで、眉をへの字に上げた。

「安室さん、最近私に対してちょっとブイブイいわしすぎじゃないですか。いくら従順でお利口で仕事とプライベートを上手にわけられるトウコさんでも、近い将来ぶちぎれますよ」

 精一杯怖い顔で睨みあげたが、安室は「ホォー」とまるっきりバカにした様子である。

 本当の本当の本当に後悔しても知らないからな。

「へんだ、未来で吠え面かいてろ―― ぶ」

 右手がのびてきたかと思うと、顔面を思いきりつかまれた。ぎりぎりと握力が込められる。彼氏が彼女のほっぺを親指と人さし指でぶちゅっとはさんで『こいつめ』『もう、やめてよお』みたいなヤツと絵面だけは似ている。絵面だけは。

 容赦のないアイアンクローがトウコを襲う!

「あだだだ、ボクシングから脱線してますよう!グローブつけてグローブ!」
「雇い主への言葉づかいがなってないね。もう一回どうぞ?」
「み、みらいで吠え面をおかきあそばせ……いだだだだ、はじける、割れる!」

 このままいくと、すぐ近い将来、顔面がはじけて吠え面もかけなくなることを直感したトウコは「すみませんでした」と大人しく謝った。

「で、今回の仕事はいつまでに?」

 顔が変形していないか、両手で綿密にチェックしながらトウコは話を戻した。

「明日の明け方までに」
「わかりました」

 安室の声音に何か含むものを感じた彼女は、何も言わずにおとなしく頷いた。調査に必要な情報の説明と指示を、必要十分なだけ伝えおえたあとも、彼はじっと彼女の顔を見つめていた。

「どうしました?」
「いや、なんでも」
「時間がないので今から取りかかりますが、安室さんはどうしますか。ここに残るなら、今日の夕飯はコンビニ飯になりますけど」

 食費の節約のため、普段トウコは自炊している。安室がそれを食べたことはいまだかつてないにしろ、一応は確認しておく。

「いや、いい。僕にもやることがある」
「わかりました」

 トウコトウコであっさりと頷いて、パソコンの画面に視線を戻した。

「またご連絡しますね。深夜になると思いますが」
「かまわない。終わり次第、すぐに頼む」

 安室が帰る準備をはじめたのを見てとって、トウコはクローゼットにかけていたスーツの上着を取ろうとしたが、安室は手を振って断った。

「いい、自分で取る」

 宙ぶらりんになった手でそのまま頭を掻いて、トウコは再びイスに戻った。

「そういえば安室さん。今日、授業でユングを勉強しました」
「へえ。君、心理学専攻だったんだ?」
「いいえ、教養科目の一環です。わりと人気の授業で」
「大学生にはウケるからね。自分さがし、ってやつ」
「安室さんも、そういう経験ありますか」

 自分さがし。

 袖を通しおえて、ちょうど姿見をのぞきこんでいた彼は、ちら、とこちらを振りかえった。鏡にうつった男の影が、口の端をつりあげて笑う。

「まるでないよ」


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