「ただいま帰りまし―― 」
た、という語尾が口の中で大きな飴玉のように詰まった。『それ』が視界に入った瞬間に、安室は顔の表面でポアロ用の笑顔が石化したのを感じた。
は?
File.7 じゃれあう多面体:カウンター
一瞬後、誰にも気づかれないうちに無事リカバリできたのは、日頃の訓練の賜物だろう。梓がパタパタと近づいてくる。
「安室さん、買い出しおつかれさまです。あれ、どうかしました?」
「何でもありません……けど、梓さん、あの。そちらは?」
梓はきょとんとして、首をかしげる。
「何言ってるんですか、安室さん。お知り合いでしょ?」
「いや、それはそうなんですけど、どうして」
「どうして、ってそれはもちろんお客さまですよ」
ね、と梓が隣の女の肩を叩く。
うそだろ。やめてくれ、見たくない見たくない。
が、心中のつぶやきも虚しく、さっき安室を石化させた“それ”―― 呪われし黒いつむじが振りむいた。
「わっ、安室さんじゃないですか」
黒いつむじの主ことトウコは、パア、と輝く百点満点の笑顔で安室に笑いかけた。
ああ、なんでお前がここにいる。
心の中で盛大に引いてしまった安室だったが、梓の手前、リアクションを取りあぐね、結果、一呼吸出おくれることとなった。もちろんその隙を見逃がすトウコではない。
「お久しぶりです。先日は迅速に解決してくださって、本当にありがとうございました」
と、追いうちのように笑い、ついでに深々と頭も下げてくる。
お久しぶりも何も、つい最近も会ったばかりである。冗談もここまでくると薄ら寒い。ふたりきりなら問答無用でつるしあげているところだ。
が、そこはさすがにトリプルフェイスの男、すぐに己を取りもどし、にっこり笑いかえした。
「これはこれはとんだご無礼を。まさかいらっしゃるとは思わなかったものですから……こちらこそ先日はありがとうございました。以後、いかがです?」
「おかげさまで家のことで悩むことはなくなりました。ぜんぶ安室さんのおかげです」
「そうでしたか、それはよかった」
きゃっきゃうふふと再会を喜ぶふたりは、アルプスの少女とその友ペーターのごとく、両手を繋いで輪になって踊りだしそうな雰囲気である。傍目には。
「そういえば、トウコさん。最近めっきりお見かけしませんでしたが、学校がお忙しいので?」
会話に紛れて、な・に・し・て・る、という口パクを送った安室に、しれっと『読唇術は専門外です』とのメッセージを返したトウコは、器用に二重会話をつづけた。
「新しくアルバイトを始めたんです。でも、そこの店長がそれはまた横暴な人で。毎日シフトを入れられるうえ、時間外にも呼びだされてこき使われているんですよ。仕事熱心で優秀な方なんですけどね。性格にはちょっと問題があるというか」
「……へえ」
「まあでも、最近やっとそれにも慣れてきまして。休憩がてらおいしいお茶をいただきに寄せてもらいました。美人を見て目の保養もしたかったし。ね、梓さん」
ティーカップを両手で包み、「えへへ」と梓を見上げたトウコ。梓は梓で「もう、トウコちゃん上手なんだから」と肩をぴしぴしはたいている。
「あはは、いつの間に仲良くなったんですか。おふたりとも」
「やだ、安室さん嫉妬ですか?」
ニタア。梓に見えないところで、トウコは化けの皮を剥がして見せた。人を愚弄することのみにすべてを捧げた、見るに堪えないドヤ顔である。
この女、人を挑発することにかけては右にでる者がない。カチンときた安室は、少々大げさにやり返した。
「嫉妬ですか……しているかもしれませんね。女性おふたりだけの、内緒ばなしに」
ふたりを見ながら唇に指をあてると、きゃー!とすかさず梓が反応した。つづく言葉が「まずい、炎上する!」だったのはさすがとしか言いようがない。
慌てる梓の陰でトウコは感心したように言った。
「さすが安室さん。そんな台詞、普通の人はどうやったってワンブレスで言えませんよ。いやあ、色(付き)男の面目躍如ですね」
『色』と『男』の間にぼそりと一瞬何かがはさまって、きわめて不愉快な単語に変化したような気がしたが、安室も安室でその程度、ひるみもせずにやり返した。
「トウコさんもなかなかお口がお上手です。そんな風にささやかれたら、僕だって(主に拳が)うっかり何をしでかすか」
「あら、安室さんって手が早い人なんですか?」
「場合によっては」
至近距離でほほえみあう、否、メンチを切りあうトウコと安室。「ダメ、ふたりともやめてえ!そんなに顔を近づけたらSNSが!」と叫ぶ梓。
三つ巴の戦いのゴングが今鳴りひびく―― かと、思いきや、かわりに鳴ったのはエントランスのドアベルだった。
「ああ、僕が行きます」
さっと出ていこうとした安室を、梓が引きとめた。
「待って、安室さん。トウコちゃん、大学のレポートで悩んでるんですって。安室さんってもちろんそういうのも得意ですよね。もしよかったら、ちょっとだけみてあげたらどうかなって。ほら、今はほかの女の子もいないですし」
梓は忍者のように鋭い視線であたりを見まわし、こそこそと安室にささやいた。
「でもお客さまが」
「いいんですいいんです。これくらい私にまかせてください。ね?」
背中を押して安室をイスに座らせると、梓はウインクを残してその場を立ち去った。ホォー、とトウコがうっとりした息を吐く。
「梓さんって美人なのに、それを全然鼻にかけないところがまたいちだんと素敵なんですよね。さりげない気遣いができる大人っぽさと、お茶目なかわいさが融合したミラクルオールラウンダー。私の思う理想の女性にかぎりなく近いです」
「彼女目当ての常連さまも多いですから」
と、取りつくろった店員対応をしたのを最後に、安室は顔面からばっさりといっさいの表情を抹殺した。
「一応、どういうつもりか訊いておこうかな」
「どういうつもりもなぜも何も、お客様ですが」
ケーキをつつきながら、何をいまさら、トウコは肩をすくめた。
「あれ以来まったく寄りつく素振りもなかったくせに。僕を盗撮するために通ってただけじゃないのか?」
まさか!とトウコは悲鳴をあげた。
「本気で言ってるんですか、それ。そのためだけに通うだなんてお店に失礼すぎますよ」
トウコは『そんなことを疑うなんて人としてどうかと思う』という感じに、じとっと横目で睨んだ。人のプライバシーを金に変えようとしていた女が何を言う。
「家の件で安室さんにちょっかいを出したのはついでです、ついで。私ははじめから常連になるつもりで来てたんです。このあたりじゃここの紅茶に敵うお店はありませんから」
カップに口をつけて、トウコは心底幸せそうに「ほー」と息を吐いた。
「さっきの態度を見るかぎり、そんな無垢な動機だけとは到底思えないけど?」
「ふうん、さすが安室さん。今日にかぎってはそれもまた正解です。安室さんって普段から人の頭をポカポカドカドカ、コンガ奏者のようにはたき回してくれるじゃないですか。私としてもたまには脳みその静養が必要かと思いまして。どこかいい場所はないかと考えてたどりついた先がここだったんです。ほほほ。かまいませんよ。お気に召さなければ、今ここで好きなだけポカドカお殴りになってくださいまし。オーディエンスもよりどりみどりですし?」
安室がここでコツコツ積みあげてきたキャラクターを人質にとって、『できるもんならな』と言わんばかりの、きわまりきったゲス顔である。
『それじゃ遠慮なく』と一曲見舞ってやりたい衝動にかられた彼だったが、表面的にはこめかみをヒクつかせる程度で済ませた。
「思ったよりいい性格してるね、君」
「えへへ、それほどでも。安室さんの吠え面が見られてよかったです。って、冗談ですよ。そんなに怖い顔しないでください、安室さん。さっき言ったでしょう。今日来た理由はそれだけじゃありません。私だってこう見えてちゃあんと考えてるんですって」
トウコは人さし指を立てた。
「『仕事』でどうしても会わなきゃならないとき、今まではなんだかんだで、安室さんのほうが作業場まで出向いてくれてたでしょう。でも、こうやって周知の間柄になっておけば、わざわざ来てもらわなくても安室さんの勤務中にそれとなく連絡がとれます。それに万が一、今後誰かにふたりでいるところを見られてしまった場合にも、簡単に言い訳がたちますし」
予防策ですよ、と切りかわったように真面目な顔でささやくトウコ。それることなく、まっすぐ見つめてくる瞳に、またすこしペースを崩された。
「まあ、それはそうだけど」
「堂々としているほうがかえって怪しまれにくいものです。大丈夫、ご迷惑は絶対におかけしません。うまくやりますから。こうみえて、対人関係は昔からソツのないほうなんです」
そう締めくくり、トウコは「ごちそうさまでしたー!」と席を立った。使いおわったカップとケーキ皿はいつの間にかトレイにまとめられていて、安室が手を出す間もなくカウンターへと運ばれていった。
安室は、ふう、とため息ともつかない、曖昧な気持ちの塊を吐きだした。馬鹿なことを言っているかと思えば、突然あんな顔をする。
レジでは、梓がトウコに話しかけていた。
「もう終わったの?」
「はい。わからないところがあったら教えてあげるから、またおいで、って言ってくれました。依頼のときも思いましたけど、安室さんって万能なうえに本当に親切ですね」
「でしょー?うちの自慢の看板息子なの」
「ま、梓さんだって噂の看板娘ですけどね」
「トウコちゃんったら。おだてたって何も出ないんだから」
会計をしようとする梓に、トウコがあっ、と口に手をあてた。言いよどむような、そんな素振りを見せたあと、小さな声でこう言う。
「『前回の依頼で勉強になったから、今日は僕のおごりです』って安室さんが」
テーブルを拭こうと立ちあがっていた安室は、ぶほ、と咳きこんだ。
あの女。いかにも申し訳なさそうな顔をして、こちらをちらちら気にするフリまでしているのがまた余計にいまいましい。
一方、さすが安室さん、という顔でこちらを見ている梓の手前、選択の余地はなかったといっていい。
あはは、と中身はともかく、外面はいつもと同じ顔で笑い、安室はこう答えたのだった。
「……はい、僕のおごりで」
ごちそうさまでした、とひらひら上機嫌に手を振って去っていく後ろ姿を見ながら、安室は今度こそ正真正銘のため息をついた。
未来で吠え面かいてろ。