Chapter.1 春は幽霊の季節

File.8 じゃれあう多面体:決定打


 ランチタイムを過ぎて閑古鳥が鳴くポアロの、さらにその片隅で、トウコと安室はたいした会話もないまま、テーブルをはさんでそれぞれの作業にいそしんでいた。

 午前中のシフトだった梓はすでに帰宅し、しばらくはドアベルが鳴る気配もない。
 お客がないならサボっていいという法はないにしろ、仕事の早い彼のこと、片付け・仕込み等やるべきことはとっくの昔に終えて、夕方までは実質上の休憩時間だった。

 ひい、ふう、みい、と指を折り、時間の流れを数える。早いもので、トウコと彼とのこの不思議な関係もすでにひとつの季節を過ぎた。

 大学に通いながら、彼の仕事の調査面をこっそり請けおう。調査といっても探偵なら皆やっているようなこと、にちょっと毛を生やした程度である。

 一般の助手のように依頼人との面談について行ったり、現場に同行したりはしない。トウコの仕事に必要な内容ではないし、何より彼自身がそれを望んでいないからだ。

 縁の下の力持ち。せっかくだからそういう響きのポジションを自負してみたいところではある。が、トウコにできて彼にできないことはおそらくないので、実態はただの下請けである。

 彼はいつでも忙しい。瑣末な下調べくらいは他人を使いたいのだろう。

 事実、テーブルの向かいに腰かけた彼は、今も熱心に携帯電話の画面に向かっていた。何ごとかを考えているらしく、あいた左手の指が時折トントンと机を叩く。色素の薄い髪がさらりと鼻梁に触れ、頬に落ちた。

 ホォー。

 エプロンをつけて難しい顔で携帯いじりなんて、どうやったって絵になる構図ではない。若ママ雑誌の広告ページが関の山である。『子育てに疲れたときは……』とかいうキャッチコピーがついているヤツ。

 だがなぜだか彼にかぎってはそうならないその現象を、トウコはアムロ・マジックと呼んでいた。彼のまわりでうろちょろするからには、かならず履修を求められる単元である。

「なに」

 見られていることに気づいたらしく、安室は手元から視線を離さないままそう言った。なんだかちょっと不機嫌そうだ。

「あんまり見ないでほしいんだけど」
「べつに見たくて見ているわけじゃないです。目の前に顔があるからそうならざるをえないだけで」
「へりくつ」

 ここでほかの人と話すときには口が裂けても使わないだろう台詞で締めくくって、安室はふたたび携帯に視線を落とした。

「この自意識過剰男めェ……」
「何か言った?」
「言ってません!」

 見たくて見ていると思われても癪なので、トウコトウコでパソコンの画面に意識を戻した。こうみえて、現在進行形で標的を張りこみ中である。

 画面の中では女がひとり、ちょうど男性との待ち合わせに到着したところだった。事前調査ですでに、その男が標的の女性の三人目の彼氏であることは確認済みである。

 手を繋いで歩きだすふたり。なお、今回の依頼人は彼女の二番目の彼氏らしい。最近彼女が冷たいから、もしかしたら浮気をしているかもしれない云々。世知辛いことだ。

「ハムサンド、食べてもいいよ。残りものだけどね」

 安室がふと思い出したように机の上を指した。
 ラップをかぶせられたそれは彼が午前中に作ったハムサンドだった。なんでも彼のつくるハムサンドは、パン職人が直々に弟子入りを申しこんだほどのものだとか。

 せっかくだから、とトウコは手をのばしてひと切れつまんだ。できたてよりは固くなってしまっているに違いないサンドイッチは、だが、ラップを剥がした途端に香ばしいにおいを振りまき、胃袋を刺激した。

「いただきます」

 ちらり、と安室が視線だけでこちらを見る。その視線を知りながら、トウコは黙ってひと口かぶりついた。

「おいしい」
「そう。それはよかった」

 笑うでもなく、彼は短くそう答えた。
 そこからまたふたりはそれぞれの作業に戻った。

 サンドイッチをかじる音。
 指先が机を叩く音。
 水を飲む音。
 キーボードを打つ音。

 ずいぶん時間がたったあとになって、トウコはふと気になったことをたずねてみた。

「安室さんって彼女いるんですか」
「それ、君の仕事に関係ある?」

 にべもない返事である。携帯から顔を上げすらしない。

「女子大生の恋バナに付き合ってくれる気はゼーロー?」
「ゼロ」
「くもりなきまなこで自白しましたね。そういうのはきらいじゃないです」

 君の好みなど知ったことか、とばかりに安室は沈黙をもって是とした。

「ここからは独り言です」

そう前置きして、頭の中をめぐるとりとめのないことをつらつらと言葉にする。

「いや、ささいな疑問なんです。浮気する人の頭の中ってどうなってるんだろうなって―― いだだだ。黙って机の下で足踏まないでください。姑ですか。安室さんが浮気しそうだとかそういうことを言いたかったわけじゃないんですって。そりゃいかにもおモテになりそうなうえ、同時並行でソツなくやっていけそうな人ランキング殿堂入りみたいなイメージはもちろ―― ちょっ、待っ、いだだだ。小指はダメ、小指は!」

 テーブルの下で手酷い虐待を加えながらも、涼しい顔を崩さない目の前の男を、トウコは精一杯の怖い顔で睨んだ。もちろん効果はゼロである。

「ま、いいです。独り言なんでめげません」

 画面の中で楽しそうにデートをするターゲットの女を眺めながら、先をつづけた。

「この人はね、毎日、違うお面を付けかえて暮らしているんですよ」

 無視するばかりだった安室が、はじめてのろりと反応した。何を考えているのかわからないその目が、トウコを見つめる。

「もちろん、どんな人にだってある程度はたてまえがあるでしょう。でもそれは、自分を守るため、もしくは目の前の他人を傷つけないようするためのものです。仮面をかぶるのは、本来は息苦しい行為のはずですから。でも、彼女は水を得た魚とでもいうんでしょうか。それこそ息をするように、当たり前にそんな生活しています。むしろ、望んで演じているようにさえ。もしかしたら彼女は、自分を守るために仕方なく仮面をつけているんじゃなくて……」

「自分がないから、仮面をつける?」

 トウコは頷き、彼の胸元に視線を落とした。

「たとえば透明で、誰からも見えない幽霊がいたとして。幽霊のままじゃできないことをするために『仮面』を欲しがる。そんなことってないんでしょうか」

 そう。だって、幽霊は現実をすり抜けてしまう。大事なものもそうでないものも、何もつかんではおけない。

 透明な手からは零れおちていくばかりだ。

 ふたりの視線が重なる。重苦しいような、でもどこか得がたいような、そんな沈黙のあと、視線を外したのは彼の方だった。外の光を反射して、キラキラ輝く透明のガラスウインドウを見ながら、ぽつりと言う。

「どんな人間であれ、本当の自分なんてものはない」

 トウコに語っているのか、誰に語っているのか、それこそトウコを素通りしてどこか遠くにいる、別の誰かに話しかけているようだった。

「君が言うところの『仮面』は、誰もが持ちうるものだ。たとえ、それが特別な人間でなくても」

 優等生が非行に走る。
 尊敬される政治家が汚職を行う。
 良い親だった者が、子供を殺す。

 そういう時、人は言う。まさか、そんな人だったなんて。驚きに満ちた目で見たあと、ささやきあい、失望する。

 また、別の可能性もある。優等生、尊敬される政治家、やさしい親。それらは真実だった。ただ魔がさしてしまっただけなのだと。

「だが、僕に言わせれば、内だの外だの真偽だの、そんなことは昨日の天気よりもどうでもいい。無数の側面が重なりあってできているのが人間だ。性格や気質といったものは、そのときどの面がいちばん外側に露出しているかの差でしかない。今、自分が誰でいるかはわかっても、本当は誰であるかは、誰にもわからない」

 トウコはどこか呆然とした気持ちになって安室を見つめた。しばらくして、ぽつりとこう問うた。

「ひとつだけ、訊いてもいいですか」

 安室のまぶたが小さく動いた。彼はやはりどこか遠いところを見ているようだった。

「『仮面』の集合体が人間だとして。『仮面』は自分の意思である程度は増やしたり変更したりできるものです。ということは、消すことだってできるはずです。だったら……もしそれをぜんぶ取りはらってしまったとしたら。そしたら人間はどうなるんでしょうか」

 魚の鱗を剥がすように。ひとつひとつ。玉ねぎの皮を剥くように、一枚一枚。人を人として形づくるものを、ひとつ残らず剥ぎとってしまったならば。

「教えてください。最後には何も残らないんでしょうか。何も、ないんでしょうか」

 喉がきつく絞られた、悲鳴のような声が出た。浮気をする女性も。安室も。トウコも。誰も彼も。一枚皮を剥がしたその正体は、透きとおって空っぽな幽霊ゼロでしかないのだろうか。

「いや」

 宙をさまよっていた安室の視線が戻ってきた。痛いくらいのそれが、トウコの目に、心臓に、中身に、容赦なく入りこんでくる。

「最後に残るのは、信念だ」

 稲妻のようにほとばしる、青い光を彼の中に見た。

◇◇◇

 うっすらとオレンジがかった太陽が、ビルの隙間に沈んでいく。街灯がつき、次第に活気を取りもどしつつあるポアロをあとにし、トウコはひとり帰路についていた。

 結局、夕方まで居座ってしまった。特に話すこともなかったのに。

 今住んでいるマンションはここからだとすこし遠く、帰るには電車に乗らなければならない。安室はいつもそうして家まで来てくれていたのだな、と思い、トウコはふと、ここをひとりで歩く安室の姿を想像した。

 背筋を伸ばしまっすぐに前を見て、大股で。もしくは陰に隠れるように足音なく、だが瞳は強く光を帯びて。

 どちらもありそうで、どちらでもないような気もした。

 角を曲がってすぐ、トウコの足は駅とは違うほうへ歩きはじめた。
 見慣れた景色を両側に、時折行きかう自転車の音を聞きながら、まっすぐに目的地へと向かっていく。
 徒歩五分。それは安室がかつて指摘したまったくそのとおりの場所にある。

 古びた門扉に、人気のない玄関ホール。並んだ銀色のポストが、夕方の光を鈍く反射している。

 そこはあのボロアパートだった。

 誰もいないのを確認して、しずかに中へと入る。これも不法侵入なのかな、とトウコは安室の顔を思い浮かべて、ちょっとおかしくなった。

 玄関を通りすぎ、中庭に出ると、西日を背にした大木がトウコを出迎えた。
 春にはあれだけ散り舞っていた桜の花びらは当然もうひとかけらもなく、今は枝いっぱいに重いくらいの青葉をしげらせている。

 その下に行って、太い幹に手を触れた。歳月を経た老木の樹皮は、固くざらざらとした感触をもって、彼女を受けとめた。

 トウコはふと顔を上げ、斜めうしろを見た。二階の廊下には、ペンキが剥げて錆びかけた古いドアたちが黙々と整列している。

 そして、一番端には、二〇四号室がある。

『最後に残るのは、信念だ』

 安室の声がふとよみがった。珍しく引きずっているな、と考えて、「珍しい」だなんてと苦笑した。そんなことを考えてしまうあたり、ここはやはり特別な場所に違いなかった。

 しばらくぼんやりと桜の下に立っていたトウコだったが、風が吹きはじめたころ、入ったときと同じように、音もなくその場をあとにした。


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