角を曲がる。
 と、角を曲がる。

 階段を登る。
 と、階段を登ってくる。

 立ち止まる。
 と、やはり立ちどまる。

 トウコは後ろから見えないようにため息をついた。

 尾行されている。盛大に。



Chapter.1 春は幽霊の季節

File.9  アドニスと犬(Ⅰ)


 ガタガタうるさい足音に、後頭部にビンビンつき刺さる視線。それでも人混みに紛れる程度の浅知恵はまわるらしく、ミラーやショーウインドーの反射でうしろをうかがっても姿は見えない。

 交番に駆けこんで警察に捕まえてもらおうか、とか、わざと防犯カメラの前を通って面を割ってやろうか、とか、盗撮ゾーンに誘導して一連のストーカー行為をネット配信してやろうか、とか、尾行者をぎゃふんと言わせる手段をビギナー用から玄人用までいろいろと頭の中に並べてみたトウコだったが、結局そういうのはやめにした。

 くるりと方向転換をして、脇道に入る。尾行者が慌ただしく着いてくるのを確認して、歩調を速めた。
 つかず離れずの鬼ごっこ、だが追われるほうの彼女にはある思惑があった。

 通りから一本入ると、途端に学生の数が増えた。とある高校の通学路である。学生たちに混じって、校門から敷地内へと一緒に入っていく。

 近頃の高校生はみんなおとなびているうえ、私服の高校ということもあり、『私もここの学生です』と言わんばかりに堂々としていれば案外怪しまれずにすむ。

 校舎と中庭を通りぬけ、裏門から外に出るあいだも、やはり気配は途切れずに着いてきていた。

 トウコはすこし考えて、また歩きだ出した。

 大通りに沿うように歩き、今度は別の学生の群れに合流した。同じように通学路を行き、また別の学校の敷地に紛れこむ。だがさっきの学校とは違い、周囲にいるのは女子ばかり。

 そう、今回は女子大である。女子大生たちと一緒にしばらく歩くうち、例の気配はいつしか消えた。

 ふうん、と彼女はひとり納得した。
 一度目は着いてこられて、二度目は着いてこられなかった、となると。

「若い男性、かな」

 尾行者の姿にある程度予測がついたので、トウコはカバンから上着と帽子を取りだして身につけた。こうしておけば、目の前を通ったとしても尾行者はトウコをすぐには判別できない。

 人の目がいきやすい場所は頭・目・上半身。
 よって変装の基本アイテムは帽子・メガネ・上着の三つである。これらをつけ外ししたり、組み合わせを変えたりするだけでまるで別人のような印象を与えることができるのだ。

 準備を整えたトウコは、予定どおりあっさりと尾行者を振りきって自分の大学へと向かった。

◇◇◇

 尾行者を撒いてまで一生懸命登校したにもかかわらず、午後のコマがあっさり休講になってしまったトウコは、暇を持てあました結果、結局ぶらぶらポアロに行った。

 ランチタイムが終わったばかり、三時のティータイムにもまだ早いこの時間、店内の客はまばらである。

「お待たせしました」

 立ちのぼるアールグレイの香り。丁寧に淹れられたことがわかる、繊細な香りだった。
 では、と行って立ち去っていく後ろ姿を見送って、カップを持ちあげた。

 とくに会話は交わさない。必要であれば向こうから声をかけてくるだろうし、かけてこないのであれば、不要だと判断してのことである。

 トウコもべつに彼と話がしたくて来たわけではなかったので、紅茶に口をつけながら、読みかけの本のつづきを開いた。

 一時間ほどたったころだろうか、トウコは手洗いのために席を立った。ところが、用を済ませてトイレから出てきた途端、何者かがトウコの前に立ちふさがった。

「ど、どどどど、どうしてなんだよ!?」

 見知らぬ男が、噛みつかんばかりのいきおいで詰めよってくる。晴天の霹靂、突然の事態にとっさに反応できず、彼女は目を丸くして立ちつくした。

「全部お前のせいなんだよ!お前さえ――
「お客様」

 長身の背中が、目の前に割りこんだ。トウコを男の視線から隠すように背にかばった安室は、あくまで口調は丁寧に、だが厳しい声音で告げた。

「店内ではおしずかに願います」
「うるせえ!とめるんじゃ――

 見下ろすような店員の視線に、男は言葉を飲みこんだ。
 安室は追いつめるように、男に指を突きつけた。

「これ以上つづけるというのなら、業務妨害で警察に通報しますよ」
「うう、うわああ!」

 我慢しきれなくなったのか、男は一目散に走って逃げだした。カランカランとドアベルが客の退店を知らせて鳴る。
 台風一過、店内はまたしずけさを取りもどした。 

 トウコの視線に気づいて、安室が振りむいた。

「どうして逃したのか、という顔をしていますね。もちろんその気になれば捕まえることだって簡単にできましたけど」

 親切な店員を装いながら、安室はトウコにしか見えない角度で、「そうしてほしかった?」と彼女にしか見せないあのすこし意地悪な笑い方をした。

「い、いえ、べつにそういうわけじゃないんですけど」

「あの男はトウコさんに暴言を吐きはしたものの、直接的な危害を加えたわけではありません。都合上『業務妨害で通報』などとは言いましたが、実際あの程度で警察の仕事を増やすのはどうかと思いまして。今回は追いかえすのが妥当だと判断しました。もしまた戻ってきて同じことを繰りかえしたり、手を出したりする素振りがあれば、今度こそ、その前に捕まえますよ」

 ご心配なく、と手を振ってカウンターに戻った安室だったが、しばらくするとまたテーブルまで戻ってきた。なにかご用ですか、との意味を込め視線を上げたトウコの前に、淹れたての紅茶を一杯置く。

「サービスです。さきほどの騒動でご迷惑をおかけしましたので」

 ニコッと営業用の笑顔を浮かべてそれだけ言うと、安室はさっさと元の場所へ戻っていった。

 ほかのお客にならわかるが、自分に対してこんなことをする意味は?

 彼女は少し考えて、そっとカップを持ちあげた。案の定、ソーサーの真ん中には小さな紙切れが貼りついていた。まわりの視線がないのを確認し、そっとメモを開く。

『七時に終わる。それまでここにいるように』

◇◇◇

 階段の前で待っていると「ではお先にあがります」という声とともに安室が出てきた。

「待たせたね」
「いいえ。読みたかった本が最後まで読めました」

 そうか、と言って安室はすぐに歩きだした。背の高い彼を追うように、トウコもとことこ足を動かす。

「徒歩ですか?」
「どうして君を僕の車に乗せなきゃならない」
「あはは、やっぱりダメですか。ちょっと期待してたんだけど」

 以前、一度だけ安室の車を見たことがある。マンションのベランダから下をのぞいたら、ちょうど白い車から彼が降りてきたのだ。FD3S型RX-7、有名な国産のスポーツカーである。

「言っとくが、あのマツダは僕の聖域だからな」
「冗談ですよ。安室さん、スピード狂っぽいし、助手席の死亡率高そう」
「そう言われると、それはそれでなんだかヤなんだけど」

 すこし不満そうな言い方に、「まあまあ」と笑いかえしておく。場があたたまったところで、トウコはいちばん訊きたかったことを切りだした。

「それで、どうして急に?」
「帰り道で何かあったら、あのとき逃がした僕の責任になるからね。それに君、僕に何か言いたいことがありそうだし」

 じとり、と安室はトウコを見下ろした。心のうちを見透かしたような様子に観念して、トウコは素直に今朝のストーカーの件を白状した。

「ふうん。若い男の尾行者ね」
「姿を見たわけではないので断言はできませんが、さっきの男性、今朝のストーカーに似ている気がします。歩き方とか」
「だったら問題だな。あの男、『僕ら』に何か個人的な因縁があるようだった」

 僕ら、という言葉にトウコは眉を寄せた。

「私に、ではなくて?」
「入ってきたときに、あの男はまず君ではなく、僕の顔を見た。犯行をおこなうにあたって店員の邪魔が入らないかどうかを確認した、という可能性もあるが、あの無計画っぷりを見るかぎり、それはまずないだろうな」
「なるほど……」

 と答えて、しばらく悩んだあと、トウコはおそるおそる安室を見上げた。

「あの、怒ってますか」
「そう思う心あたりがあるのなら、怒る」

 やっぱりそうなるよなあ、とトウコはますますしょんぼりした。
 自分でも眉毛が下がっているのがわかる。いつものあの情けない顔だ。もっとぱりっとしていたいのに、この眉毛だけはどうしてもいうことをきいてくれない。

「心あたりはないんです、けど」

 この場合、いちばんの問題はトウコが狙われていることでも、安室が狙われていることでもない。トウコと安室がふたりそろってターゲットになっていることだ。

 ポアロにおけるトウコと安室の関係はあくまで店員と常連客。トウコより古参で安室と親しい常連客などいくらでもいるし、そもそも店内では用がないかぎりふたりきりで話はしない。ふたりで帰るなんていうのも例外中の例外、というか今日がはじめてだ。

 傍目には親しく見えるはずのない安室とトウコを結びつけて考えているということ自体が、彼らの特殊な関係に気づいているということの証左だった。

「万が一ですよ、万が一、私がどこかでヘマをしていて、そのせいでこんなことになっているんだとしたら……もう、なんというか、ああ……言葉にならない」

 我慢できなくなり、トウコは両手で顔面を覆った。たとえ安室が許しても、自分で自分を許せそうにない。ありえない。無理。

「情報をあつかう者としては、漏洩とかもう、これは完全にハラキリ案件ですよ。卒倒しそう」
「君、意外とプロ意識あったんだな」
「あったりまえですよう!ほんのちょっとの調べものに、海外のサーバーいくつ経由してると思ってるんですか!」
「Norか?」

どこか嫌悪のにじんだ声に、トウコは首を左右に振った。

「便利なのは確かですけど、使いたいとは思いませんし、使ったこともありません。Norはもともと自分でプロキシサーバーを経由するだけの知識のない一般層が匿名かつ安全にネットにアクセスできるように、との目的で開発された通信システムなんです。一部のユーザーが悪用するせいで、まるで犯罪者御用達みたいなあつかいを受けてますけど。ある程度わかっている人間ならNorなんかに頼らなくても自分で簡単にできちゃいますからね」

 トウコはビシッと人さし指を立てた。

「所詮は赤の他人が作ったサービス、全面的に信頼する気にはなれません。そもそもNorはもう対策されちゃってますし。秘密裏に動くときは人に頼らず、完全秘匿、完全隠蔽、完全抹消。逆探知、ダメ、ゼッタイ。情報イコール命!命イコール情報!」

 だんだん発狂しそうな感じになってきた彼女に、さすがの安室も若干引き気味にフォローを入れた。

「そこまで気をつけてるんだったら、君のヘマではないんじゃないか。心あたりはないんだろ」

「はい。情報の取り扱いには細心の注意を払ってますし、安室さんとの関係を勘づかれるような行動も避けてます。はっきり言って、今回の件は私としてもかなり不可解です」

 安室は、ふむ、と顎に手をやった。

「この件は様子見だな。とりあえず夜は外出せず、昼間も極力人目につく場所を移動するように。まあ、君のことだから、そのあたりはうまくやるだろうけど」

 そこでいったん、会話は途切れた。遠くで車の行きかう音が聞こえる。まだ遅くはない時間だが、大通りから一本外れた裏道は、真夜中のように暗かった。

 間隔の違うふたつの靴音が路地にひびく。安室の方が大きな身体をしているのに、足音はずっと小さい。
 そういえば、とどちらともなく会話をはじめようとして、結局は安室がつづきを取った。

「君の実家、前に錠前屋だって言ってたけど」

 どんな感じかと言外にうながされて、トウコは首をひねった。

「うーん。いたって普通の家ですよ」
「君みたいなのが生まれてるのに?」

 どういう意味ですか、とトウコは口を尖らせた。

「まあ?私みたいなハイパーなお嬢さんが生まれてしまった時点で、いい意味で普通ではないかもですが?」

 語尾を上げて、盛大に肩をすくめてみせたあと、「でもまあ」とトウコはつづけた。

「きっと普通の家庭ですよ。おじいちゃんは今年で七十五歳。ご隠居と呼ばれながらもまだまだ現役で鍵職人をやりたい年頃です。お父さんは現店主として『これからは鍵だけじゃいかん』と一生懸命新たな製品の導入に励んでいるようです。もうあんまりいろいろなこと覚えられる歳じゃないのに。むしろIT関連はお母さんの方が得意で、今日もパソコンに向かってキーボードをバチバチやってるんじゃないでしょうか。私はきっとお母さんの血が濃いんです。あとは妹と弟と。犬と金魚とカメと。ほら、日本中どこにでもありそうな普通の家でしょう」

 安室が、ふふ、と笑いを漏らした。いつもは強い光を秘めているその瞳が、今はとても穏やかな色をしていた。

「そうだな。普通の家だ」
「私も、質問していいですか。安室さん」

 彼はじっとトウコを見下ろしたあと、「答えられることなら」と小さな声で言った。

「安室さんはどうして探偵になろうと思ったんですか?」

 そうたずねた途端、彼はほんの一瞬、もしかすると彼自身でさえも認識できなかったかもしれないくらいのわずかな時間、とても困ったような目をした。何と答えたらいいんだろうなあ、と頭を掻くようなそんな感じの。

 空の星がふたたび瞬く頃には、彼はいつもの顔に戻っていた。指を立てて、利発な笑顔を見せる。

「しいていえば、毛利先生に感銘を受けたからかな」
「もっ、毛利先生!?」
「君は重度の毛利小五郎フリークだったな……まあ、君とは方向性が違うけど、僕もある意味ではそうかもしれない。彼を見ていると、探偵とは何か、すこしはわかるような気がするから」
「ええ、そうに違いありませんとも!毛利先生は素晴らしい方ですからねっ!」

 満足のいく答えにトウコは深く頷いた。そして、はっと思いだして携帯を取りだした。

「見てください。この前、毛利先生とツーショットを撮ったんですよ!すごくないですか」

 『お宝』と名のついたフォルダを開けて、そのうちの一枚を安室の前に表示してみせる。

「あ、ああ」
「CASEBOOKに流そうかとギリギリまで悩んだんですが、結局やめました。毛利先生を独占したかどで炎上するかもしれないし」
「その点については、ほら、あんまり心配いらないと思うけど」
「いやあ、さすが名探偵・毛利小五郎。携帯を持ってウロウロする私の心の動きを即座に推理して『俺と写真が撮りたいか、がははは!』と許可してくださったんですよ。ああ、また焼き増ししておかないと」

 そんなトウコを安室は何かしょっぱいものでも食べたような顔で眺めていた。

 大事な写真をもう一度大事にロックして、携帯をしまおうとしたとき、安室の指が「それ見せて」とトウコの手元を指した。

「これですか」

 携帯を持ちあげ、そこについている物を見せた。ぷらん、とぶらさがるそれは、桜の形のストラップである。安室は携帯ごと手に取って、まじまじと見た。

「ずいぶん古いものに見えるけど」
「昔、知り合いからもらったものなんです。お気に入りでずっとつけてて、おかげでもうボロボロですけど。何か気になることでも?」
「形が、ね。僕の知っているものにすこし似ていたから」

 太陽のように広がり咲く桜のレプリカ。
 しばらく見つめたあと、安室は「ありがとう」と手を離した。

「さて、そろそろ駅だしこのあたりで別れよう。君が表通りに出るまでここで見てるよ」
「今日はわざわざありがとうございました。安室さんもお気をつけて」

 大通りに出てからトウコは最後にもういちどだけ振りむいた。

 白いシャツの背中が、闇にのまれるように暗い路地に消えたところだった。


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