あと数分で授業がはじまるというとき、ブブン、とポケットの中で二度携帯が鳴った。

 二コマ連続のプレゼン講義のため薄暗いままの大教室の中、そっと机の下で画面のロックを解除した。通知領域に表示された名前は『店長』である。

 『授業が終わり次第、至急ポアロまで』

 珍しい指示に、トウコはシャーペンの尻を顎にあて「ん?」と頭をひねった。



Chapter.1 春は幽霊の季節

File.10 アドニスと犬(Ⅱ)


 授業後、急ぎ到着したポアロで、トウコを待ちかまえていたのは梓だった。
 カウンターの向こうに立っていた彼女は、トウコを見ると、意味深な表情で「あっち」と口をパクパクさせた。

 梓の指が差した先には、ふたりの男が座っていた。

 まずひとり目は安室である。いちばん奥の席に座り、いつもと同じ顔でコーヒーをすすっている。
 そしてその向かいにもうひとり、別の男の後ろ姿があった。
 見慣れない人だ。

 入り口に突っ立っているトウコに気づき、安室がひょいひょいと手招きした。

「遅くなりました、安室さん。えっと、そちらの方は」

 そう言って、向かいの男をのぞきこんだトウコだったが、ぎょっとして、思わず二歩ほど後ろに下がってしまった。

 そこにいたのは、昨日ポアロで騒ぎをおこしたあの男だった。

 だが、トウコが驚いたのは、おもに彼の顔面の状態を見てのことだった。
 男の顔はなんと、見るも無残に腫れあがっていたのである。たとえばそう、ボクサーか誰かに拳で思いきり殴りつけられたような。

 あまりの惨状に口をおさえたトウコは、己の正義にもとづいて、震えながらも安室に進言した。

「い、いくらなんでもこれはオーバーキルですよ!変質者だからってサンドバッグやコンガのかわりにするなんて」

 またやって来たら、今度は容赦なく捕まえると宣言していたが、さすがにやり過ぎである。過剰防衛でお縄になってしまうのでは、とハラハラするトウコに、安室は肩をすくめた。

「ご期待のところ恐縮ですが、やったのは僕じゃありません。来たときにはすでにこんな感じでした」
「えっ、てっきり安室さんがボコボコにしたのかと」
「しませんよ、さすがにここまでは。僕がそんな人間に見えますか」

 深く頷きたい衝動をおさえて、トウコは曖昧に笑うにとどめた。これはきっと新手のトラップだ。うっかり踏んだらあとでボコボコにされる。

 物言いたげにトウコを見ていた安室だったが、すぐにことのあらましを説明しはじめた。

「午後になって、ランチの食器を片づけていたときでした。いきなりドアが開いて、こちらの方が入ってこられたんです。顔が腫れていて、それだけでもずいぶんと異様な雰囲気だったんですが、よく見れば昨日の方で。僕もかなり警戒しまして、ずっと目を離さないようにしていたんです。そしたらこの方、急にカウンターまで歩いてきて」
「歩いてきて?」
「泣きだしました。号泣です」

 さすがのトウコもリアクションを忘れた。

「泣きだしたって……」
「腫れた顔で泣くものだから、ほかのお客様も怖がってしまわれて。かといって、強引に追いだすのもなんだか気が引けたので、とりあえず座らせてコーヒーをお出ししました。すると」
「すると?」
「テーブルにつっ伏して泣きはじめられたんです。今度はシクシクと悲しげに。今ようやく落ちついてきたところです」

 ものすごい経緯を何でもないことのように締めくくって、安室はもういちどコーヒーをすすった。

「なんだか、ツッコミの追いつかない話ですね」
「でしょう。僕もそう思ったので、トウコさんを待つことに決めました。あ、どうぞどうぞ。こちらにおかけになってください」

 勧められたイスに座ると、トウコはちょうど左右をふたりの男にはさまれる形となった。

「さて、昨日の面子がそろったことですし、話を聞かせてもらいましょうか」

 ずっとうつむいて黙っていた男が、ずび、と鼻を鳴らした。

「そんなこと言われたって、い、いまさら何を話せってんだよ」
「まあまあ。コーヒーのおかわりでもいかがですか?」

 取りしらべ中のカツ丼ではないが、おかわりを淹れようとした安室に、男はなぜかまた声を詰まらせた。

「うっ、うっ、やめてくれよ!優しさは時に刃になるってお母さんに習わなかったのかよ!こんなの勝ち目なんてねぇじゃん!」
「勝ち目?」

 トウコは安室と顔を見あわせた。二人で男の顔をのぞきこむと、彼はまたじわりと目の縁を赤くした。

「俺は、俺はなあ。お前らふたりのせいで――

 男がわっと机に泣き伏した。

「ルミカちゃんにフラれたんだ!」

◇◇◇

「十勝鉄平、二十歳。東都商業大学の二年生。交際して一年になる女性がいたが、つい数日前に別れを告げられた。こんな感じですか?」
「そうだよ、あってるよ」

 十勝と名乗った青年はまた、ずびっ、ずびっ、と鼻をすすった。

「別れ話のときにルミカが言ったんだよ。ずっと狙ってた男が、最近彼女にフラれてフリーになったんだって。もうお前なんかいらないって。うう、ルミカ……」

 安室がちらりとこちらを見た。考えていることはお互い同じのようだ。
 放っておくといっそうミゼラブルなムードになりそうだったので、安室は「たいへん申しあげにくいのですが」と腫れものに触るような感じで切りだした。

「その話、いったい僕たちにどう関係あるんでしょう?」
「とぼけんじゃねぇ!ルミカが乗りかえた男はなあ」

 十勝は涙をふき、決意したようにイスから立ちあがった。そして、探偵が真犯人にやるように、覚悟を決めた瞳でビシっと指を突きつけた。

「あんただよ、安室さん!」

 安室はその場で、飲んでいたコーヒーをブッ、と噴きだした。
 「ちょ、げほっ」と咳きこむその背をさすってやりながら、トウコは十勝に問うた。

「あ、安室さんが?」

「そうだよ!そいつ以外に誰がいるってんだ!こんなヤツどうやったって、俺じゃどうにもならねえじゃんかよ!勝ち目ゼロだよゼロ!このゼロゼロ野郎!」

「なんだかいたたまれない気持ちになるので、そんなにゼロゼロ言わないであげてください……どちらにせよ、私は安室さんの女性関係についてはよく知らないし、ここはおふたりでじっくり話をして――

「知らねえだと!?ふざけたこと言ってんじゃないよ!」

 トウコをさえぎって、男は怪鳥のような叫び声をあげた。

「じょ、情緒不安定な方ですね」
「げほ、落ちついてください、十勝さん。きちんと説明していただかなくては、こちらもわかりかねます。げほ」

 咳きこみながらも、ゼロゼロ野郎が会話に復帰した。

「説明だと!?いくらでもしてやらあ!ルミカはこう言ってたんだ。『ずっと狙ってた男がフラれて、今回めでたくフリーになったから』って。フリーになったのはそこの安室さんだ。ということは、安室さんをフッた元カノこそが、今回の真犯人――

 本日二回目、ビシっと指を突きつける。

「あんただよ、トウコさん!」

 ブッ、と今度はふたり同時に噴きだした。とくに流れ弾もいいところだったトウコは、盛大に咳きこんで涙目になった。
 安室と?トウコが?

「いやいやいやいや。それはないです。それだけは」

 ふたりの声が完璧にシンクロした。だが、まるで聞く耳をもたない十勝は、親の仇を見るような目で、安室とトウコをふたりまとめて睨みつけた。

「はっ、何がフラれただ。茶番もいいとこじゃねーか。いちゃこきやがってよお」
「いちゃこいてません。人の話を聞いてください」
「じゃあ、なんでさっきから声そろえて同じ台詞ばっかり喋んだよ!以心伝心、息ピッタリじゃねえか!夫婦かっての!」

 プチ、と何かの切れる音が二箇所で聞こえた。トウコと安室はバン、と全く同時に机を叩いて、ニッコリ笑った。

「名誉毀損で訴えますよ」

◇◇◇

 気を取りなおして、もういちど。

「十勝鉄平、二十歳。東都商業大学の二年生。交際して一年になる女性がいたが、つい数日前に別れを告げられた。あってますね?」
「……はい」
「で、その理由が『ずっと狙ってた男が彼女にフラれてフリーになったから』。つまり、ルミカさんは十勝さんを捨てて、新しい男性に乗りかえようとしている。で、その『狙っていた男』が安室さんで、その『安室さんを捨てた元・彼女』が、ここにいる私であると」
「はい、そのとおりです」

 十勝はしおれたニラのようにすっかり大人しくなっていた。自業自得である。
 トウコはペンでメモ帳をつつきながら、話をすすめた。

「ではまず最初に、安室さんが、十勝さんの元交際相手であるルミカさんの『狙っていた男』であるかどうかから検証しましょう。どうですか、安室さん」

「ルミカさんという方の僕に対する個人的な感情は、僕の立場からは否定も肯定もできません。ですが、最近になって僕が女性に捨てられたという前提については完全に否定します」

 『完全に』という部分をとくに力強く発音しながら、安室は一片のくもりもない笑顔で言った。

「だそうです」
「でもよ、ルミカはこう言ったんだ。『彼は日に焼けてて、髪の色を抜いてて、背が高くて、俳優みたいなイケメンで、誠実だけどどこか影を背負った、Sっ気のありそうな|男 > ひと)なの』って」
「なるほど、その属性の無駄な盛りぐあいはたしかに安室さんかもしれませんね」
「あっさり手のひらをかえすのはやめましょうね、トウコさん」

 顔の表面だけで笑いながら、安室が釘を刺してきた。

「でも、ほぼすべてあてはまってますからね。余計なお世話かもしれませんが、ルミカさんの趣味が心配―― うぐ」

 テーブルの下で小指を踏まれ、秘密裏に口を噤むことを強要された。
 ルミカに警告しておきたい。『Sっ気のありそうな男』ではなく『真性のドS』であると。

 ようやくトウコの小指からかかとを離した安室は、十勝に新たな質問をした。

「そもそもどうして貴方たちは僕と彼女が交際しているなんて勘違いを?」

 トウコも思わずうんうんと頷いた。そうだ、これがいちばん重要な話だ。

「あんたらが一緒にいるのを見たことがあるんだよ。今年の春あたりかな。俺たちあのときたまたま近くにいてよ」

 ほら、と十勝が差しだした携帯電話には、覚えのある光景がうつっていた。
 あのボロアパートでトウコが部屋のドアを開け、安室を招きいれているシーンである。

「二重、盗撮……わお」

 まっさきに安室が撃沈した。

「見ろよこの顔。楽しそうに笑ってよ。いかにも僕たち愛しあってます、ってツラだろ」
「あ、愛しあって、あはは」

 トウコはぴくぴくと目元を引きつらせた。
 この青年は知らない。この写真が撮影されたまさにその瞬間、面の皮一枚剥いだその下では、血で血を洗う策謀の応酬がなされていたことを。

 互いに微笑んでいるのは、どうやって相手の腹をかっさばいて、腸を引きずりだしてやろうか、というどす黒い愉悦ゆえである。

 気づかないうちにまた盗撮されていたことが発覚して、死んだ目になっている安室は放っておいて、トウコは眉を寄せた。

「たったこれだけで私たちが恋人だと?」
「男女が同じ部屋に入っていったら、やることはひとつに決まってるだろ」
「……そのあたりの価値観の相違と壮大な勘違いの内容についてはあとからじっくり説明させていただくとして。とりあえずはわかりました。じゃあ次に、最近私たちが疎遠になった、とルミカさんが勘違いを重ねた理由ですね」

 十勝は腕を組んだ。

「それについては俺もよくわからなくってなあ。何日か前にルミカが『二人は最近あんまり喋ってない。いい傾向☆』ってSNSでつぶやいてて。で、なんだその、様子を見てたら実際そんな感じだったし」

 ちらり、と十勝が後ろめたそうな様子でトウコの顔を見る。この前のストーカー、やっぱりコイツだったか。

「どうやって私たちの様子を見ていたのかはあえて訊かないでおきますね。でもまあ、謎はだいたい解けてきましたよ。ルミカさんはあのアパートでの光景を見て私たちが恋人であると思いこみ、逆に普段の状態を見て別れたんだと勘違いしたんですね」

 トウコは内心、ほっと胸をなで下ろした。よかった。私のヘマじゃなくて。

 トウコは十勝に、トウコがかつて安室の依頼人だったこと、また依頼が解決してからはとくに親しく話すような機会がなかったことなどを説明した。

 はじめは疑り深い顔をしていた十勝も、安室とふたりで辛抱強く説得をつづけるうち、最後にはようやく自分の勘違いを認めた。

「つまり、安室さんはもともとトウコさんと恋人でもなんでもないうえに、ルミカが言ってる相手ともまったくの別人だってことか?」

「そうでしょうね。きっと安室さんとよく似た風貌の方なんでしょう」

「僕のほうも、ルミカさんという名前にはまったく心あたりがないですし。他人の空似というのが実際のところかと」

 長い議論のすえ、たどりついた結論に十勝はしょんぼりと肩を落とした。

「じゃあ俺の悩みは、もう解決しないってことだよな……?あんたらがヨリを戻せばこっちだって元どおりになるって思ってたのに」

 悲壮な様子で机につっぷした十勝に、トウコと安室は悩ましい息をついた。
 戻すヨリがない以上、どうにもならない。関係ないことがはっきりした今となってはますます、そんなこと言われても、という気持ちである。

「やっぱりここは十勝さん自身の魅力で引きもどすしかないんじゃないでしょうか」
「そうしようと思って、この顔になったんだって!『しつこい、痴漢!』って。グーで」

 顔の殴打痕に秘められたあまりにも悲しいエピソードに、さすがの安室も「それは」と若干引いた顔になった。

「おいおい。ケチなこと言ってねぇで、なんとかしてやれよ」
「そうしたいのは山々なんですけど、解決方法がまったく思いつかなくて」

 と、どこかで聞いたような声に条件反射で振りむいて、トウコはイスから飛びあがった。後ろに立っていたのは、なんと毛利小五郎だった。

「も、も、毛利先生!いつの間に!」
「影のように現れ、風のように去る。それが一流の探偵ってもんよ」
「さ、さすが!」

 前髪に手をやって、毛利はここぞとばかりにキザに決めた。
 一方、登場の前から気づいていたらしい安室は、そんなトウコたちを横目で見つつ、現実的な意見を述べた。

「ですが、毛利先生。なんとかしろと言われてましても、僕らにはどうしようもないですよ」
「どうしようもないことを、どうにかするのが探偵ってもんだ」

 にやり、と毛利が笑う。その瞬間、何かを予知した安室が、先んじて頬を引きつらせたのをトウコはたしかに見た。

「名づけて!安室くんとトウコくん、仮面カップル大作戦!」

 かんべんしてくれ頼むから。
 と、このとき彼らは寸分の齟齬もなく目と目で通じあったのだった。それこそ愛しあうカップルのように。


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