「こういったことは、正直あまり自信がないんですけど」

 さがり眉のままつぶやいたトウコだったが、じきに深呼吸をして、気合を入れるように肩を張った。

「やりましょう。探偵の仕事を逸脱しているきらいはありますが、実際、この無茶ぶり依頼に決着をつけるにはほかにない気もします。サポートお願いしますね」

 仕事モードに切りかわったトウコは、イヤホンに耳をかたむけ、ターゲットの動向を注意深くうかがいはじめた。

 ターゲットのふたりは今、奥まったベンチに座っている。
 しばらくして、ルミカのほうが手洗いで席を立った瞬間、彼女は行動を開始した。

「よし、トウコ行きます!」



Chapter.1 春は幽霊の季節

File.12 アドニスと犬(Ⅳ)


 一直線に、ベンチに向かっていったトウコは、きょろきょろと周囲を見るフリをしてから、あの、とセイヤに話しかけた。

「すみません、道を教えていただけないでしょうか?」

 凛とはった鈴のような、細くも美しい声だった。
 今までいちども聞いたことのないそれに、変声器でも使っているんじゃないのか、とさすがの安室も半目になった。普段のあの色気のかけらもない声はいったい何なんだ。

 トウコは困ったようにうつむいて、男からの返事を待っていた。
 だが携帯をいじるセイヤは彼女の地味な髪色をちらっと見ただけで、案の定、ひややかに無視を決め込んだ。

 ホォー。筋金入りか。

 正直、今回の計画を実行するにあたって、安室としても多少思うところはあったのである。たとえばこの依頼によって、かのカップルに何らかの不利益が生じた場合、十勝の境遇を思えばまあルミカは仕方がないとしても、少なくともこのセイヤという男にとっては降ってわいたとばっちりでしかないからだ。

 だが、そんなわずかながらの同情も、今ので一切合切吹きとんでいった。

 やってしまえ。

 安室の心の声を聞きとったように、トウコはふたたび「あのう、すみません」とセイヤに呼びかけた。

 ハア、とようやく面倒くさそうに視線を上げたセイヤだったが、トウコの顔を見た途端ぴたりと動きを止めた。携帯をポケットにしまったかと思うと、そそくさとベンチを立ってトウコのそばに近づく。

「すみません、携帯を触っていたら気づかなくって。どちらまで?」

 さっきまでの態度が嘘のように、男はきわめてにこやかにトウコに話しかけた。

「駅に行きたいんです」
「それだったら、そこの道をまっすぐ行って、左に曲がるのがいちばん早いですよ。このあたりははじめてですか?」

 セイヤはすかさず会話を繋げ、トウコがその場を離れないように仕向ける。

「そうなんです。田舎者だから迷ってしまって。親切に教えてくださってありがとうございます」
「いえいえ、このくらいでお礼なんていりませんよ。むしろ――

 首をかしげるトウコに、セイヤはさっと自分の口元をおさえた。こちらからだとほくそ笑む横顔が丸見えである。

「むしろ?」
「これって運命かな、って。こんなところでこんな美人に出会えるなんて」

 男は、ちらりと、だが舐めるような視線をトウコに送った。

 まあそうなるだろうな、と安室はその様子を冷静に見つめていた。現時点ではだいたい計画どおりである。

 実際のところ、髪を結いあげ、きっちりと丁寧に化粧をしたトウコの姿は、まあ、悪くはないのである。ひとつひとつの造作は至って平凡なのだが、全体としてそこそこ小奇麗な印象を受ける。
 軽佻浮薄な男であれば、なんなく釣り針に引っかけられる程度には。

「お世辞がおじょうずですね」

 彼女は目を細めて、ふふ、と可憐に笑ってみせた。これも安室の指示である。内心では「うげえ」とかなんとか言いながらやっているんだろうが、渋っていたわりには、そこそこさまになっている。

 ここで逃してなるものか、とセイヤはいっそうトウコに言いよった。

「本当のことを言ったまでですよ。あの、もしよければ今度――
「ちょっとぉ!?そこのおふたりぃ!?」

 どこか甘い雰囲気が漂いはじめていたふたりの間を、怒号がひき裂いた。
 待ちに待ったメインゲスト、ルミカの登場である。

 さて、ここからが本番だ。

「セイヤくん、その女だれ?」
「お、おかえりルミカ。さっき道を訊かれてさ」
「道の説明に、なんで『今度』って言葉が出てくるわけ?」
「こ、今度はバスで来たほうがいいんじゃないですか、って言おうとしたんだよ」

 うまくかわされ、ルミカは口を噤んだ。しかし、モヤモヤした心中をそのままにしておくこともできなかったらしく、矛先を変え、もうひとりに詰めよった。

「そういうことならもういいけど。そこのおのぼりA子、もう道は聞いたんでしょ。だったらいつまでも喋ってないで、GO!ハウス!」

 びしりと駅のほうを指さすルミカ。トウコは「むむ」と一瞬考えてから、これ見よがしに眉毛を下げた。

「ごめんなさい、もう行きますね。『あんなこと』を言われたのは久しぶりで、つい嬉しくなっちゃったんです」

 いかにも申し訳なさそうな顔をしているのが逆に嫌味である。ルミカの瞳がぎゅるりとセイヤに向く。

「あんなことぉ……?」
「違う、ルミカ、違うって。お世辞だよ、お世辞」
「通りすがりの女に?」
「そういう意味じゃなくってさ。ルミカがいちばんだって。ほんと、信じて」
―― 真に受けないほうがいいですよ。浮気者の言葉なんてものはね」

 ほどよく煮詰まった修羅場に、鶴のひと声だった。
 きょとんとしているルミカとセイヤの前へ進みでて、安室は余裕たっぷりに笑みを浮かべた。

「残念ですが、ルミカさん。あなたの現在の順位は『四番』です。心あたりはありませんか?」

 え?と言うルミカの隣でセイヤが息をのんだ。安室の視線をさえぎるように彼女の腕をつかみ、歩きだそうとする。

「行こう、ルミカ。こういうおかしな奴とは関わりあいにならないほうがいい」

「今日、三時までしか彼と一緒にいられないのは、彼の家に『一番』が来るからですよ。おかしいとは思いませんでしたか? どうして三時から友人と遊びに行くのに、四時ごろに荷物を届けさせるのか」

 ルミカがはっと立ちどまる。それは彼が繰りかえし運送業者に伝えていた時刻だった。

「あんまりうるさいから、とりあえず適当な時間を伝えたんだよ。荷物なんて何度でも届けさせたらいいんだから」
「でも、セイヤくん」
「他に女がいるって、そんな話マジで信じてるのかよ」

 だがルミカはルミカで、安室を疑わしく思いながらも引っかかる点はあるらしく、その場にとどまってセイヤの袖を引いた。
 ちっ、と煩わしそうにセイヤが舌打ちする。

「なんだよ、お前まで。わかったよ、気になるならいくらでも調べればいい。ほかに女がいるっていうんなら、履歴のひとつくらい残ってるだろ」

 右手をのばし、ジャケットの左ポケットから白い携帯電話を取りだした彼は、それをそのままルミカに投げわたした。
 ルミカは食い入るように画面をのぞきこんでいたが、しばらくして安心したように息を吐いた。

「電話もメッセージも、私のヤツしか入ってない。浮気なんてしてないじゃん!」
「だろ?俺はルミカしか見ないって決めてるんだよ」

 クサい台詞を吐きつつ、ほら見たことか、とばかりにルミカの肩を抱いたセイヤだったが、結論からいうと、それはまったく無意味な行為だった。

「ええ、ルミカさんの履歴しか残っていないでしょう。“その”携帯にはね」

 首をかしげたルミカの横で、セイヤがさっと青くなった。

「ひとつ不思議なことがあるんです。あなたは右利きなのに、どうしてさっきからわざわざ携帯を左ポケットから出し入れしているんですか?」

 今まさに、携帯を左ポケットに片づけようとしていたセイヤは、打たれたように動きを止めた。

「そのジャケットには右ポケットはもちろん、内ポケットだってついているはずです」

「……たまたまだよ。どっちのポケットに携帯を入れるかなんて、そのときの気分だろ」

「それはそうかもしれませんね。ですが、今日のあなたにかぎってそういうことはないのでは?『ベンチに座ると服が汚れる』と口にするほど衣服に注意を払っているあなたが、皺のつきやすい麻生地のジャケットを着ているときに、わざわざ何度も身体をひねるような動作をするでしょうか」

 顎に指先をあてて、わざとらしく考えるフリをする。

「となれば、逆にこう考えるべきでしょう。右ポケットに入れなかったのではない。入れたくても、入れられなかった、と。たとえば、右ポケットにはもうすでに何か別の物が入っているとかね」

 逃げようとしていたセイヤに近づき、安室は右ポケットからその中身―― 二台目の携帯電話を抜きとった。

 それは、今セイヤの手にあるのと、まったく同じ機種の携帯だった。

「同じ携帯が二台……?」
「右ポケットに入っていたこちらの携帯、どうぞ中身を確認してください」

 開いた通知画面には、見知らぬ女性からの着信がずらりと並んでいた。
 ルミカが呆然と口元をおさえる。

「“遊び”専用の携帯と、そうでない携帯。二つを使いわけるくらいの知恵はあったということです。ルミカさん、気づきませんでしたか。彼の携帯に着信があったとき、かならずいつも着信音が鳴っていたわけではなかったことに」

 彼女は、しばらくしてはっとしたように目を見開いた。

「そういえば今日、バイブの音も聞いた気がする」

「そう。彼は、右ポケットに入れていたこの携帯電話については、マナーモードに設定していたんです。左ポケットに入れていた、あなたとの連絡用の携帯はそうでなかったのに対してね。だって困るでしょう?あなたと遊んでいる最中にほかの交際相手から何度も大きな音で着信があったら」

「ほ、ほかの女から連絡があったら悪いのかよ!そっちの携帯の女たちこそ、ただの女友達だよ。俺はこうやってちゃんとルミカをいちばん大事にしてる」

 ルミカの肩を引き寄せ、セイヤは安室を睨みつけた。が、安室はすこしも動じずに、とまどっているルミカに視線を合わせた。

「ルミカさん。彼のジャケットの内ポケット、膨らんでいるのがわかりますか」
「え……?」
「最後にもうひとつ、いいことを教えて差しあげます。僕はさっき右ポケットが使えなかったから、左ポケットを使ったと言いました。ですが、これでは説明不足です。実際には、右ポケットも内ポケットも使えなかったから、左ポケットを使ったんです。さて、その膨らんだ内ポケットにはいったい何が入っているんでしょう」

 やめろ、と叫んだセイヤの腕を振りはらい、ルミカは内ポケットから中身を引きずりだした。

「……は?」

 ルミカの声があきらかに二トーン下がった。

「忘れたって、言ったじゃん」

 彼女の手にあったのは、今日、セイヤが忘れたはずの財布だった。

「へ、へえ。こんなところに入ってたんだ。いやあ、オレ忘れっぽくて」
「携帯をどっちのポケットに入れたかは覚えてたのに?」

 隙を逃さず切り込むルミカ。「だ、だから、その……」と、行き場をなくしたセイヤは視線を右往左往した挙げ句、最後に目の前の安室に向かって怒りを爆発させた。

「だいたいなァ、急にしゃしゃり出てきやがって……!お前、いったい誰なんだよ!」
「僕が、誰かと?」

 安室はえたりとばかりにサングラスを外し、不敵に笑った。

「とある方から、あなたの素行調査を請け負った者―― プライベート・アイ、探偵です」

 対する反応は三者三様だった。

「探偵……!?」
「イケメン……!?」
「そこでグラサンを……!?」

 三番目の台詞を発した人間には、あとでしっかり一対一の教育的指導をおこなうとして、安室はまずは目の前の男女と相対した。

「この数日間、セイヤさんの身辺を調べさせていただきましたが、結果は完全な黒でした。現在、交際している女性の数だけでも五人。遊びに行くだけならさらにたくさんの『ご友人』がいるようです」
「何を根拠に……!」

 証拠はこちらに、と安室は今度は自分の携帯を見せた。
 そこには、ルミカでない誰か別の女性とデートをするセイヤの写真がうつしだされていた。

「浮気の証拠はほかにもたくさんあります。ご覧になりたければおっしゃってください」

 はったりではなく、安室の携帯には実際に山ほどの証拠写真が入っていた。トウコに探させるまでもなく、片手間にSNSで検索しただけでも次から次へと出てきたのである。

 せめて公開範囲の設定くらいはしておけばよかったのに。
 プレイボーイを気取るには少々以上に詰めの甘い男だった。

「ルミカ!違う、違うんだって、これは」
「前にさ、ルミカのパパの話したよね?若い頃、プロのキックボクサーだったって」

 俯いたままルミカが言う。

「プ、プロのキックボクサー?そ、そんな話したっけ……?」
「した」
「そ、そうだったかな。うん、そうだった!あは、あはは……」
「セイヤくん。言っとくけど、パパはこういうの絶対に許さないから」

 ルミカが言わんとすることを悟って、セイヤがみるみる青ざめた。

「え、ちょ、マジ?」
「マジ」
「ご、ごめん、ほんっとにごめん!た、頼むから、言わないでくれよ!」
「言うって何を?」
「だから、キックボクサーの父親に言いつけて、オ、オレを」
「バカ、そんなことするわけないじゃん。パパはいつだって正々堂々、弱いものいじめは大嫌いなんだから」

 ルミカは意外にも穏やかな顔でほほえんだ。

「パパね」

 わけもわからず、とりあえずほっとした顔になっていたセイヤが、ふたたび固まった。

「地獄の減量中、食べたくても食べられない私を放って後輩とふたりでパフェバイキングに行ったケイスケも、全国大会決勝の後、『勝ったよ♡』っていうメールに返事もせずに女の子と遊んでたカイトも。パパいつだってルミカに正しい答えを教えてくれた。、ずっと」

 そうして彼女は腰を落とし重心を低くした。のどかな公園が血しぶき飛び散るリングに早変わりする。
 目をぎらつかせた冷酷な格闘家ファイター・ルミカは、目の前の男に向かって死刑宣告をした。

「ルミカパパ一の奥義。『浮気男は自分で処刑』!しつこい、触んなこの痴漢!」

 聞くに堪えない蹴撃音とともに、セイヤが吹っ飛んだ。
 強烈なハイキック。
 プロ顔負けのそれに、安室とトウコはふたりそろって半目になった。十勝、殴られただけで済んだのはかなり運が良かったぞ。

 気絶は必至かと思われたセイヤだったが、見かけによらずタフガイだったらしい。しばらくしてふらふら立ちあがった彼は、半泣きになりながらも、安室に指を突きつけた。

「覚えてろよ、俺のダチには、このあたりで有名な族の頭がいるんだからな!」
「僕を恨むのは筋違いですよ。それよりも今は自分の身を心配するべきでは?今もどこかで誰かが、あなたの素行調査を依頼しているかもしれませんから。僕のような探偵にね」

 女性の恨みは恐ろしいですよ、と言った安室に、とうとう自分を保てなくなったらしいセイヤは、わけのわからないことを叫びながら、その場から逃げ去っていった。

「ひとまずはこれで一件落着でしょうか」

 安室はようやくひと息ついた。ルミカの興味があの男から離れれば、十勝にもまたチャンスはめぐってくる。もちろんここからは本人の努力次第だが。

 僕は探偵であって、別れさせ屋じゃないんだけどな、と安室は珍しくごちた。

「さて、僕はこのへんで――
「依頼は解決しました。ですが、事件はまだ終わっていません」

 いつかどこかで聞いた台詞を、トウコがぼそりつぶやいた。「え?」と珍しくきょとんとした安室に、トウコは視線を使って見るべき場所を示した。

 彼女の視線をたどった先には、目をキラキラさせたルミカが立っていた。

「日に焼けてて、髪の色を抜いてて、背が高くて、俳優みたいなイケメンで、誠実そうだけどどこか影を背負った、Sっ気のあるひと……み、見つけた!私の王子様!」

 天使の矢がずぎゅんとハートを射抜くという古典的な図が、脳裏で不可避的に再生された。両手を胸の前で組みあわせ、期待のこもった目で見つめてくるルミカ。

 その後ろに、健闘を祈る、とばかりにいい笑顔で親指を立てている女が見えた。
 すでに足と身体は出口の方を向いている。面倒なことをぜんぶ安室に押しつけて、自分は逃げる気マンマンである。

 どいつもこいつも。
 なんだか急に腹が立ってきた安室は、がっと髪をかき乱して、冷ややかにふたりの女を見下ろした。反応は二者二様だった。

「お、怒った顔も素敵……!」
「わたしは空気わたしは空気わたしは空気」

 必死に透明化を試みる女を、大股で歩いていってふんづかまえる。目を剥いて逃げだそうとするのを片手でとらえて、彼はもうひとりの女に向きなおった。

 あの男だけじゃない。彼女は彼女で反省が必要だ。

「申し訳ありませんが、僕はあいにくと、信じるものをころころと変えるような浮気者には興味がないんです」

 腕の中に捕まえた女の頬に手をよせる。何かの予感に、ぴくりと女の背が伸びた。
 顎をつかみ、上を向かせると、いっぱいに見ひらかれた黒い瞳が縋るようにこちらを見上げた。

 安室さん。

 捕食される獲物のように、ごくり、とトウコの喉が上下した。ひどく加虐心を煽られる姿に、そんな気など毛頭ないのに、喉が鳴る。

 が、しかし。
 そんな中でもとある一部分だけがやはりどうにもいただけないのである。彼は内心で苦笑して、今日のところはかんべんしておいてやることにした。

「それに、僕にはもう心に決めた相手がいますから」

 そう言って、白くて細い首をやわくつかみ、見せつけるように、キスを落とした。
 ただし、困ったような眉毛に免じて、その目じりに。

 呆然と立ちすくむふたりの女に向けて、彼は心の底からのほほえみを見せた。

「もうずいぶんと昔から、ね」

◇◇◇

 長い一日が終わって家に帰りついた途端、トウコはベッドにつっ伏した。

「つ、疲れた」
「ちゃんと解いてから寝ないとからまるよ」

 結いあげた髪を指して言う安室にも、生返事でうなるばかりのトウコである。

「もうちょっとあとでします……安室さんは疲れてないんですか?」
「まあね」

 タイに手をかけながらそう答えると、「まじか」とわりかし本気度の高いドン引き声が返ってきた。

「ハニトラ系はやっぱり柄じゃないです。安室さんみたいにはできません」
「僕もべつに得意じゃないけど」
「うそつけい。息するように人を手玉に取れるくせに。あと地味に足も疲れました」

 普段、あまり疲れた様子を見せないトウコがヘトヘトだった。珍しい。
 さすがに走らせすぎたかな、とほんのすこし反省した安室は、ベッドまで歩いていって、うつ伏せた彼女のそばに腰を下ろした。

 解けかかった髪に手をのばし、ヘアピンとゴムをひとつひとつ器用に外していく。
 ずっと結んでいたにもかかわらず、たいして癖のつかない黒髪がするりと手から滑りおちた。空気に溶けるように、清潔なシャンプーの香りが広がる。
 ベッドにうつ伏せたまま、トウコはモゴモゴと安室に問うた。

「あの男の人のこと、どのあたりから気づいていたんですか?」
「最初にぴんときたのは、一回目に着信があったときだよ」
「一回目はたしか、マナーモードじゃないほうの携帯でしたね」

 枕に埋めた顔をすこしずらして、トウコは正確に記憶をたどった。

「彼にはポケットに手を入れる癖があっただろ。もしマナーモードになっていない携帯が右ポケットに入っていたなら、僕らはとてもじゃないがうるさくて聞いていられなかったと思うよ。なにせ、彼の右袖には君の作った『傑作』が取りつけてあったんだから。あのやかましい着信音がすこし離れて聞こえた時点で、なんとなく怪しい感じがしたのさ」

 さすがだなあ、とトウコは感嘆の息を吐いた。頭を動かした拍子に、白い首筋がちらりとのぞく。
 昼間のことが一瞬、脳裏によぎった。

 つかんだ細い首の感触が今も手に残っているようだった。
 うっすらと汗ばんだ吸いつくような肌と、中をはしる血潮のうなり。生きているのだ、とそんな当たり前の思いが、あの時、彼の頭をしびれさせたのだ。

 埋まらない何かを埋めたくて、気づけば手がのびていた。
 だが結局、彼の右手はすぐに失速し、もしゃもしゃと女の髪をかき混ぜるに留まった。黒いつむじが気持ちよさそうにうなる。

「君は犬か」
「犬でも何でもいいです。もっとなでてください。わんわん。トウコはがんばりましたよ」
「わかったわかった」
「そういえば、ルミカさん、諦めてくれてよかったですね」

 安室はちらりとトウコに視線をやった。

「身体を張った甲斐がありました。 、柄じゃないんですから、あんまりイジメないでくださいよ。ルミカさんに対しても、なんだかすごく申し訳なかったし」

 彼女はひとかけらのわだかまりもなく、あっけらかんと昼間のことに言及した。気になるのは自分のことよりもルミカのことらしい。
 安室は苦笑したあと、「彼女なら心配いらないさ」と答えた。

「キックボクシングの全国大会で優勝できるくらいの実力者なら、メンタルだってヤワじゃない」
「ルミカさんに処刑される安室さんは、ちょっと見てみたかった気もしますが」
「さすがの僕もあんな蹴りは受けたくないよ。人は見かけによらないって、まさにあのことだね」

 そう言った安室の前で、トウコはうつ伏せになったまま「うーん」と気持ちのよい伸びをした。最後に大きなあくびも付けくわえる。本当に犬のようだった。

「それを言うなら、今日は、もうひとつ素敵な発見がありましたよ」
「へえ」

 トウコは不思議な色の目でちらりと安室を見上げた。何を考えているかわからない、無邪気な子供のようで、だが、はっとするほど大人びた瞳だった。

「あなたって、見かけによらず一途なんですね」


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