いかりのにがさまた青さ
  四月の気層のひかりの底を
  唾し はぎしりゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (風景はなみだにゆすれ)

―― 宮沢賢治「春と修羅」



Chapter.1 春は幽霊の季節

File.13 志をはたして、いつの日にか


 ひと文字ひと文字を舌の上で転がすようにして味わう。なれ親しんだ音の流れが、ひどく心を落ちつかせる。

 文字を読んでいるというよりも、言葉を読んでいるのだと思う。

 本を読むことは彼女のいちばん古い趣味だった。
 どんなときでも本はいつもそこにあり、彼女の無聊を癒してくれた。

 宮沢賢治の『春と修羅』。トウコがとくに好んで読む詩集―― 作者自身に言わせれば詩集ではなく『心象スケッチ』だそうだが―― のひとつである。

「ま、春はとっくに終わっちゃってるけどね」

 水滴がまたひとすじ、透明な流星のように窓ガラスの表面の流れていった。

 梅雨をむかえた初夏の午後である。
 身体にまとわりつくような湿った暑さがあるのに、どこか肌寒い。
 目を閉じれば、規則的な水音がとつとつと身体の底のほうに染みていく。

 好き嫌いのわかれる季節だと思う。
 トウコは多分、前者だった。雨に濡れたこの季節のつつましさを彼女はどうにも嫌いになれない。

 ぱたりと本を閉じ、机に置く。
 外は雨、学校は日曜日で休み、頼まれていた仕事もとっくの昔に終えてしまった。

「ヒマなり」

 映画でも観ようかな、とこのあいだ借りてきた劇場版『AI:BO』のパッケージに目をやった。もう二回はレンタルしている。そろそろブルーレイボックスを買ってもいいかもしれない。

 デッキにディスクを入れようとしたとき、玄関で音がした。
 これはなかなかめずらしい、と首をかしげてまもなく、長身の男がリビングのドアから現れた。

 あいさつがないのはいつものことである。わずかに濡れてしまった髪が気になるのか、彼は稲穂色の毛先をつまみあげ、指先でしきりにこすっていた。

「おやすみですか、安室さん」
「めずらしく午後休。エアコンが壊れて急遽修理が必要になったらしくてね。『エアコンもそうですけど、安室さんもたまにはゆっくり休んでくださいね』って梓さんが」

 日曜日の昼間はポアロのかき入れ時であり、だいたいは安室と梓の二人体制である。シフトが外れるのはレアケースだ。

 バイト帰りに似つかわしく、安室はTシャツとジーンズのカジュアルかつシンプルな格好をしていた。髪色が明るいこともあり、大学生(大学院生ではなく!)を自称してもそうそう疑われないだろう。二十九歳なのに。そう、二十九歳なのに!

「何かおもしろそうなことを考えてるね。僕にもおしえて?」
「はい、童顔系アラサーの需要について――

 最後まで言う前に制裁がくだった。げんこつ。

「な、流れるような誘導尋問。お、お見事です」
「無料体験版だよ。今後、プロフェッショナル版を経験する羽目にならないといいね」

 ニッコリ笑顔を背景にした、“プロフェッショナル版”の響きがおそろしすぎて、トウコはおもわず遥かな目になった。

 トウコのそばまでやってきた安室は、机の上の本に目をとめた。

「宮沢賢治?」

 染みのいった古本を手に取り、パラパラとめくりはじめた安室に、トウコは「好きなんです」と端的だが気持ちのこもった返答をした。

「そういえば、前も店で読んでたね」
「もう何度も読みかえしてます。日本語ってこんなに綺麗な言葉だったんだ、って読むたびにすごく素敵な気持ちになれるんですよ」

 缶入りのドロップみたいに、ひとつひとつの言葉が色とりどりに透きとおっている。
 舐めて溶かしてしまうのが、もったいないくらいに。

 ふうん、と納得顔で頷いた安室は、優しい手つきで本を机に戻した。それから彼は、ベッドのほうに戻っていって、いつもどおりにごろりと寝ころんだ。トウコの枕に高慢ちきな長い脚をのせるのも忘れない。

 ぎゅうぎゅう押しつぶされる愛用の枕を見ながら、トウコは悟りきった顔で頭を振った。もういい。気にしたら負けだ。

 ところが、携帯をいじろうとポケットに手をのばした彼は、「ん?」と声をあげた。

「ねえ、これどうしたの?」

 ベッドの足元に置かれた物―― 黒い布製のギターケースを指さして、安室はトウコに仔細を問うた。

「引越準備中の友達から、いったんあずかってって言われて。家が片づいたら取りにくるそうです」
「ふうん、友達いたんだ」

 はい言うと思ったァ、とトウコは天井をあおいだ。かなり定番のイジリ文句である。
 だが、この程度でめげているようでは、この童顔毒舌アラサーとは到底やっていけない。気にしたら負けだ。

 いつもならそこで終わる話だったが、安室はどうやらギターに強い興味を持ったようで、「弾けるの?」とめずらしく会話をつづけてきた。

「恥ずかしながら、楽器のほうはさっぱりなんです。タンバリンをシャカシャカやるくらいなら、なんとか」
「あはは、幼稚園児並みだね」

 すこしでも油断したら、すれ違いざまにどぎついボディブローをたたきこんでくる。
 あはは、じゃない、あははじゃ。ここは「練習しなきゃ誰だってそんなもんだよ」とか「得手不得手ってあるよね」とかテンプレなフォローする場面だろう。

「そんなこといって、安室さんはどうなんですか」
「君よりは確実にうまいと思うけど」
「ホォー」

 立ちあがったトウコはずいと安室に歩みより、金色のつむじを見おろした。

「だったらぜひとも聴かせてもらいたいですね。ご存知のとおり、このマンションは全室完全防音ですし」

 もっといえば、全室防弾仕様でもある。万が一、敵対勢力がマシンガンを乱射しながら突撃してきても安心だ。

 ところが彼は眉を寄せて、至極もっともな返答をした。

「友達のなんだろ。勝手に触ったらまずいんじゃないのか」
「その点に関しては問題ありません。『置かせてもらうんだし、ちゃんとした人が弾くんならいいよ』とのことです」
「信じられないくらい心の広い友達だな。実在の人物?」
「このお話はノンフィクションです!あらかじめご了承ください!」

 このまま話をぐだぐだに引きのばして、最後には『やっぱり面倒くさい』とか言いだすんじゃないだろうな、と疑いの目を向けていたトウコだったが、意外にも安室はあっさりギターケースを受けとった。
 チャックを開き、ギターを取りだす迷いない様子に、トウコは「おっ」と声をあげたくなった。

 やわらかな曲線を描くアコースティック・ギターを、彼はまるで女性を抱くような手つきでそっと膝にかかえた。髪を耳にかけたかと思うと、真剣な顔で、ピイン、と音合わせのために弦をはじく。
 トウコはその顔とギターのあいだで視線をいったりきたりさせた。

 トウコは楽器がよくわからない。
 物心ついたころから手先が器用で、器具・道具の扱いにはついぞ苦労したことがないのだが、楽器だけは別なのだった。

 他人の楽器だからなのか、それとも単に楽器を弾くときは常にこうなのか、安室は一本糸を張ったように集中していた。

 しばらくしてこちらを一瞥したかと思うと、安室はおもむろに曲を弾きはじめた。

 トウコもよく知る有名な洋楽だった。ほどよく力の抜けた手が、六弦をかき鳴らす。トウコはおもわずうなってしまった。

 結論からいうと、ひたすらうまい。

 普段からギターをそばに置いて練習していなければ、こうはなれないんじゃないか。わからないなりにも、トウコはそんなふうに感嘆した。

 一曲弾きおわると、安室はつづけて別の曲を弾きはじめた。次はバラードである。こちらも、やはりうまい。

 ベッドに腰かけた安室の足元で、トウコは目をつむって耳をかたむけた。
 澄んだ弦の音と規則的な雨音。
 今ここだけに存在する、穏やかな幸福の時間。

 曲を終えたあと、じっとギターを見つめていた彼は、ふと顔を上げてトウコを見た。

 しばし視線が重なる。

 だまってギターに視線を戻した彼は、ふたたび曲を弾きはじめた。

 今度はトウコの知らない曲だった。
 明るく軽快なそれは、だが、聴いているうちにどこかもの足りないような―― 何かが欠けているような感じが強くなり、トウコはすこし困惑してしまった。

 すると、安室は演奏をやめ、ベッドの上からトウコを見下ろした。

「もともと、ひとりでやる曲じゃないからね」

 弁解するようにそれだけ言って、彼はふたたび演奏に戻った。

 たとえるなら、魚が死に絶えたのに、いまだ美しく整えられ、水音を立てつづけるアクアリウムのようだった。
 欠けた部分があるとわかっていながら、別の何かで埋め合せる気などさらさらなく、そのままの状態で永久に時を止めてしまったような。

 明るくはずむようなその曲からは、なぜかとても悲しいにおいがした。

 トウコは明るいメロディに合わせて、明るい顔で演奏を聴きつづけた。その澱を口に出すのはなぜだか、はばかられてならなかったので。

 曲は短く、すぐに終わった。

 トウコとは反対に、溜まっていたものをすべて吐きだしたように、安室は全身から力を抜いた。
 耳にかけていた髪を戻しながら、どう?と気取った顔で感想をきいてくる。トウコはささっとその場で正座をして額を床につけた。

「ひ、ひかえめにいっても、私の一億万倍くらいはおじょうずだと思います」
「よろしい。ま、はじめからわかってたことだけどね」

 トウコのつむじを見おろして、尊大に手を振った安室だったが、気分は悪くなかったらしい。ふふん、と上機嫌に鼻歌を歌っている。

「ねえ、安室さん。一曲リクエストしていいですか?」
「リクエスト?僕の知ってる曲ならいいけど」
「大丈夫、ご存知だと思います」

 床にひざ立ちになったトウコはベッドの縁に肘をついて、ぴょこりと安室を見上げた。

「ふるさと、弾いてください」

 やはり意外な選曲だったらしく、安室は首をかしげてトウコを見た。

「ふるさと、ってあの?」
「はい、好きなんです。とても」

 ふうん、と返事をした彼は、曲の輪郭を思いおこすようにしばらく考えてから、「わかった、いいよ」と言った。骨ばった大きな手が、ふたたび弦に向かう。

 ゆっくりとしたメロディが流れはじめた。即興らしい素朴な構成のイントロに、自然と鼻歌を合わせてしまう。アコースティック・ギターの澄んだ弦音が、青い里山の風景をつむいでいく。
 それは、古く美しいこの国ふるさとの歌だった。

   

 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
 如何に在ます父母 恙なしや友がき
 雨に風につけても 思い出ずる故郷
 志をはたして いつの日にか帰らん
 山は青き故郷 水は清き故郷

   

 最後のフレーズに合わせて、彼女はふーるーさーとー、と歌いおえた。鼻歌はいつしか、ささやくような歌声に変わっていた。

 ほんの短い曲だったのに、いまだ余韻が残っているようだった。部屋に浮かぶ音の残滓を追うように宙に視線をただよわせていた彼は、ぽつりとたずねた。

「この曲の、どこが?」
「しいていうなら、忘れがたき、というところが」

 彼はギターから顔を上げて、読めない目でトウコを見た。彼女は眉毛を下げて、苦笑するようにつづけた。

「だって本当は、大事なものほど思い出せなくなっていくじゃないですか」

 大事に大事に棚にならべておいたアルバム。その中身が消えていることに、ある日突然気づくのだ。美しい背表紙を眺めて満足しているうちに、肝心の中身はぽっかりとどこかに失われてしまっている。

 忘れたくないものほど、記憶から薄らぎ、風化していく。
 まぶたの裏に残るのは、そこにかつて記憶があったことをおしえてくれる、ぬけがらの表紙だけだ。

 大切なものほど残る、のではない。大切だからこそ、消えていく。無意識に消してしまおうとする。

 失ったものを数えつづけて暮らせるほど、人は強くはできていない。

「もしかするとこの歌だって、記憶の景色を歌ったものじゃないのかもしれません。『こうあれかし』と願って描いた、本当はとっくの昔に忘れてしまった“ふるさと”なのかも」

 安室の視線に耐えられなくなって、トウコは肩をすくめた。

「なーんて。先週の授業がそういうテーマだったのでした。安室さんは、哲学には興味のない人ですか?」

 空気をぱつんと断ちきって、質問を放りなげる。安室は不意を打たれたように眉を上げた。

「哲学? さあ、時と場合によるよ」
「なるほど。どちらかといえば、考えるよりも先に身体が動くタイプですもんね」

 図星を指されてプライドが傷ついたのか、それとも知ったふうな口をきかれたのが嫌だったのか、彼は子供のようにむっと口を尖らせた。

「それだとまるで、僕が思慮の足りない人間みたいに聞こえるんだけど」
「思慮が足りない?ノンノン。むしろ『横暴』『短気』『暴力的』あたりが適切な表現――

 げんこつ。

「まさにそういうところですよ。安室さん」
「君もね」

 二つ目のたんこぶをなでながら涙目でつぶやいたトウコに、安室はいかにも『すっきりしました』という顔で答えた。

「冗談ですよ。ほかの人みたいにいちいち理詰めでやらなくたって、身体が勝手に正解を選択するって意味です。どんなことでもやればできちゃう才能。心の底からハンズアップです」

 と、実際にハンズアップしたトウコに、安室はしかし、いつものようには答えなかった。

「才能、ね。本当にそう見える?」

 え?とトウコは彼の顔を見た。彼はトウコを見つめながらも、あのどこか遠くを見るような目で、小さくつぶやいた。

「もしも本当に才能なんてものがあったなら、今頃こうじゃなかったろうさ」

 彼はしずかにギターをケースにしまい、まくっていた袖を元に戻した。

「さて、時間もつぶせたし、僕はもう帰るよ」

 お気をつけて、とかろうじてそれだけ告げたトウコに、ひらりと片手を振って、彼はドアの向こうに消えた。部屋に残されたトウコは、ひとり本のページをめくった。

   

    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする

   

「おれは、ひとりの修羅なのだ」

 部屋の外ではしとしとと雨が降りつづけている。

   
   
   


(出典)
・宮沢賢治『春と修羅』(1922, 青空文庫より)
・高野辰之作詞『故郷』(1924, Wikipediaより)


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