一条の『線』がある。

 それはとても細く薄く、透明に近い色をしている。目を凝らしても見えないのなら、ないのと同じだ。だから誰も気づかない。

 いや、気づかないままでいようと、努めている。

 安楽な社会に長く浸され、自己保存の本能を置きざりにしてしまった人間たちも、まれに意識にならない奥底の部分で感じとってしまうことがあるのだ。

 そこに越えてはならない何かがあることを。

 何気ない好奇心でそれに近づいた愚か者がいたとする。彼や彼女は、身を乗りだしてその“線”を近くで見ようとするだろう。
 そのときになってようやく気づく。それが“線”ではなく、ぽっかりと口をあけた深淵であったということに。

 触れることさえ許されない不可侵の水面は、ゆらゆらと妖しげに人を誘う。
 そして、夜に青く浮かぶ殺虫器の光のように、手をのばせば最後、パチリと形も残さず焼きつくされるのだ。

 そんな透明な一線の向こうに、彼は今日も立っている。



Chapter.2 浮淵のクリアライン

File.14 不可視の淵(Ⅰ)


 白線がどこまでもまっすぐに続いている。

 ぺったりと厚みをもって盛りあがるペンキは、最近塗りなおされたばかりの鮮明な白さで、アスファルトの路肩を縁どっていた。

 まるで谷間にかかる一本橋を渡るように、もしくは切りたった尾根を行くように、トウコは慎重に白線の上を辿っていった。
 両側に広がるアスファルトの黒を底なしの淵だと思いこめば、背中の下のほうが冷たくなるような、手軽なスリルを味わえる。子供の頃、誰もがやった遊びだろう。

 低い轟音とともに、すぐそばを大型のトラックが走りぬけた。少し遅れて押しよせてくる、埃っぽく生温かい風。負けないように足を踏みしめて耐える。

 だって、落ちたら死んでしまう。

 で、なぜトウコが今更そんなことを考えているかというと、だ。いい年して突然童心にかえったわけではもちろん、ない。
 どうでもいいことを考えることで、意識と視線がひとつのところに集中しないようにしているのである。

 そう、たとえば、ターゲットの背中とか。

 トウコのはるか前方、三十メートルくらい先に男がひとり歩いていた。中肉中背、白髪の混じりはじめたどこか冴えない様子の中年男性は、絶賛追跡中のターゲットである。

 当然のことながら、尾行相手の背中に熱い視線を送りつけるのはマナー違反だ。追跡にはコツがある。
 相手に興味を持ちすぎないこと。
 こちらが関心を持てば、相手もこちらに関心を持つ。

 人間関係でもよく言うだろう。こちらが相手のことを好きだったら、相手だって大体こちらのことが好きなんだ、というアレだ。

 人間というのは不思議なもので、ろくに言葉を交わさなくとも互いの距離を直感し、間合いを測れるようにできている。並外れた社会性を進化の礎に据えた人間という生き物の、ある種オカルト的な能力かもしれなかった。

 透明になること。意図を持たないこと。意思を持たないこと。無であること。零であること。

 トウコは男のことを何も知らない。そうしろ、と指示があったから言われたとおりにしているだけだ。そこには敵意も好意も関心もない。だから都合がいい。

 嘘の内容を一番真に迫って伝えられるのはそれが嘘だと知らない人間で、秘密を一番上手に守りとおせるのは、その秘密の中身を知らない人間だ。

 白く塗りつぶされた壁は中身を隠すにはうってつけだが、時が経てば経つほど悪目立ちする。
 ガラスの壁は一度覗いてしまえば空気と同じだ。その中に何もないことがわかっていれば、人は意識から完全にその存在を外してしまう。

 脳というコンピュータが生みだす盲点こそが、幽霊の棲み処なのだ。

◇◇◇

 のんびりと散歩気分のトウコに比べ、男は早足だった。
 左手に真っ黒いバッグをさげ、どこか緊張感を滲ませた足取りで先を急いでいる。背広が暑いのか、カバンからハンカチを取りだして首とこめかみを拭いたかと思うと、また左にカバンを持ちかえて歩きだした。

 彼女に与えられた任務は、彼の動向を見張ることである。
 何時にどこへ行って、誰と会って、どこへ帰るのか。行きつけの店は、病院は。

 トウコといえばハイテク技術でちょちょいのちょい、というイメージがあるかもしれないが、こうして直接ターゲットを尾行することは、彼女にとっても珍しいやり方ではなかった。

 相手の動向を知るために最もお手軽で強力な方法は、やはり実際に追いかけてみることだからである。映画などでよく、悪人がパソコンなどを使ってターゲットの姿を遠隔で覗き見ている、という図があるが、あれは相手が移動中でないからこそ可能な話だ。

 実際のところ、街路や店舗の防犯カメラを覗くこと自体は、そう難しいことではない。とくに無線カメラであれば、電波の傍受だけでもだいたいの内容はわかる。

 電波というのは透明人間のようなもので、目に見えず、捉えどころがないように思えるが、たしかにそこに存在する。そして、どこにあるのかさえわかれば、誰でもあっさり中身に触れるのである。

 サーバーに侵入するとなると敷居も高いが、電波の傍受程度なら一般の探偵でも道具を揃えれば、技術的には実行可能だったりする。法的にどうかはさておいて。

 ところが、屋外を移動する人間を既設の防犯カメラだけでリアルタイムに追跡する、となるとまったく別次元の話だった。
 街中のカメラへのアクセス経路をあらかじめ把握した状態で、相手の動きに合わせて瞬時にカメラを切りかえていく作業が必要になるため、膨大な事前準備と高度な情報処理技術が求められる。

 トウコクラスの技術者になれば、コンピュータと脳みそをフル回転して、鼻血を出すくらいの勢いでやればできないこともないのだが、ただのおじさんに仕掛けるには大がかりすぎて割に合わない。絶対ナシだ。手厚い報酬があるならやるかもしれないけど。

 結論、『家からまったり遠隔尾行』は夢物語である。以上。

 カメラをそうそうに諦めて外に出たのはどちらにせよ正解だったかな、とトウコは視界の隅にターゲットを捉えたまま考えた。

 小股で素早く歩く男は、冴えない見た目に反して、ひどく勘が良いようだった。選ぶのは防犯カメラのないルートばかりだったし、周囲の視線の流れもよく考えて歩く場所を決めている。

 若い女は尾行者として認識されづらく、こういう場合はかなりプラスなのだが、これ以上近づけば、さすがに怪しまれるだろう。

 トウコと彼の間にもまた、一本の線がある。
 踏みこえてはいけないギリギリのそれは、彼が引いたものであり、逆に言えば、ここを踏みこえないかぎりはこの関係を続けていける、そんな境界線である。

 しばらく尾けていくと、男は通りから逸れて細長い建物に入っていった。
 コンビニ、エステサロン、歯医者、コンビニ、銀行などがすし詰めになった、よくあるタイプの雑居ビルである。
 一緒に建物に入るのはリスクが高いので、向かい側のコンビニへと退避する。

 十五分ほどして、男が出てきた。よいしょ、というふうに右肩にバッグを掛けて、またあの早足で歩いていく。
 離れたところからその様子を眺めて、トウコはふうん、と顎に手を当てた。

 男はそのまま通りをずんずん歩いていく。方向的に次の目的地は駅かもしれない。

 人混みに紛れながらも歩くスピードを落とさずに、はたして彼は最寄りの駅に入っていった。改札でモタモタしないように、トウコもICカードを手元に準備した。

 しかし、予想は外れ、男は改札には入らなかった。それどころかそのまま駅を通りすぎて商店街に入っていく。
 どこに行くんだ、と首をかしげたとき、男が急に立ちどまった。

 足を止めたのは、商店街を入ってすぐのコインロッカーの前だった。

 まずい、とトウコは慌てて近くにあった店舗のショーウインドーに張りついた。案の定、男はぐるりと首を巡らせ、注意深く周囲を観察しはじめた。
 ガラスに映る男と目が合わないように、トウコは必死に古いショーウインドーの中を覗きこんだ。

 アンティークショップ。
 うっすらと濁ったガラスの向こうに古めかしい小物が並んでいる。

 その最上段に、ぽつんとひとつティーカップが飾られていた。

 木蔦と野いちごをモチーフに、繊細な金細工があしらわれた非常に美しい品だった。持ち手の下の部分には、羽をたたんだ鳥―― カラスだろうか―― が刻まれている。メーカーの意匠なのだろうが、なんだかとても不思議な雰囲気である。

 トウコは自分の状況も忘れて、おもわず「おお」と声を出してしまいそうになった。紅茶好きは往々にしてティーセットやそういった小物も好む傾向にある。

 カモフラージュどころか、本当に気になってしまった彼女はますますショーウインドーににじり寄った。が、そこで、ショーウインドーの向こうにいた店の主人と目が合ってしまった。

 眉間にしわを寄せた、絵に描いたように偏屈そうな老人である。鼻眼鏡の向こうから鷹のような目で睨みつけられ、今にもガラスにべたりと両手をつきかけていたトウコは、慌てて一歩さがった。同時に現状を思い出す。

 いかん、しごとしごと。

 ショーウインドーの反射で後ろを窺うと、男はカバンをコインロッカーの最下段に放りこみ、鍵をかけたところだった。

 ごそごそとポケットを漁って折りたたんだ茶封筒を取りだしたかと思うと、彼はそこにロッカーの鍵を入れた。スティックのりで厳重に封をし、ふたたび小さく折ってポケットに戻す。
 封筒に切手が貼られているのが見えた。

 そうしておいて彼はまた歩きだした。商店街の中には郵便局がある。そこで投函するつもりかもしれない。

 早足で郵便局に向かっていった男だったが、なぜか彼は郵便局には目もくれず素通りした。ちんぷんかんぷんな行動に頭を捻りながらも、トウコは男を追いかけた。

 彼はそのまま歩きつづけて、商店街を抜けた。そこでようやくトウコは彼の視線の向かう先が何であるかに気づいた。

 男が見ていたのは、商店街の外れにある小さなポストだった。迷いなくそこまで歩いていって、すれ違いざま、彼はそこにぽとん、と封筒を落とした。
 その瞬間、トウコはたしかに見た。

 封筒の表には、何も書かれていない。
 差出人も、宛名も。

 どういうことなのかしばらく考えたすえ、彼女はここで尾行を切りあげることに決めた。おそらく、彼はもう何もせずに家に帰るだけだ。

 家の場所はすでにつきとめてあるらしく、これ以上の尾行は指示されていない。終わったらすぐに連絡するように、と言われていたので、トウコは『終わりました』とメッセージを送った。

 返事はじきに返ってきた。

『わかった。すぐに戻るように』

 去っていく男に背を向けて、トウコもまた立ち去ろうとしたとき、ピリリ、と背後で短い着信音がした。男が慌てて電話に出る。

「ああ、俺だ」

 そのときトウコは、今すぐここを離れたほうがいい、という気持ちに襲われた。腹の底がむずむずとして落ち着かない、嫌な感じである。何より、彼が戻れと言っている。

 疑問なく了承し、逆らわず、詮索しない。
 それはトウコにとって絶対の掟だった。このままでいたいなら、透明な線には触れてはいけないのだ。

 だがなぜか結局、彼女の足はその場に留まることを選び、彼女の耳は男の会話を聞くことを選んだのだった。なぜそんなことをしようとしているのか自分でも理解できず、トウコは困惑した。

 そこで、タイムリミット。
 男が電話口に向かって、話しはじめた。ひそやかだが、ひどく焦った声だった。

「今ちょうど終えたところだ。頼むぞ、こっちは急いでる。二、三日だと?そんなに待てるわけないだろう!明日にでも何とかしてくれ」

 電話の相手の対応に苛立ったのか、彼は靴の踵を踏みならした。

「勘づかれたんだよ……!追手の名前?」

 心臓が早鐘を打つ。喉が異様に乾いていた。
 それは多分、警鐘だったのだ。

「バーボン」

 男の口が密やかにその名をつむぐ。

 商店街の寂れたアーケードの上で、カラスがひと声、不吉に鳴いた。


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