バーボン。
ケンタッキー州周辺で生産されるアメリカン・ウイスキーの名称である。
独立戦争後、ウイスキーの重課税により内陸部へと逃れた蒸留業者が、ジョージタウンの牧師、エライジャ・クレイグの製法を模倣したところに端を発する。
主原料はトウモロコシ、内側を焼いたホワイトオークの樽で二年以上熟成される。
度数は四十度。男性的、武骨な荒々しさを持つ反面、甘くとろけるような芳香を放つ。
File.15 不可視の淵(Ⅱ)
頬杖をつき、蒸留所のホームページを眺める。
トウコは付き合い以外ではあまり飲まない、いわゆるライト層である。
お味が気にはなるものの、ウイスキーは通や酒に強い人が飲むものというイメージがあって、なかなか気軽に注文できない。
普段から通っている場所なら、少しは敷居が低いかもしれないが。
「たとえば、夜のポアロ……なんてね」
よりにもよってありえない、と自答して、トウコはイスにだらりともたれた。天井のシミを探すように―― 高級分譲マンションなので実際にはシミなんてどこにもないのだが―― じっと上を見上げた。
めずらしく、少し疲れていた。
ガチャリ、とドアノブの下がる微かな音が聞こえた。マウスを操作して素早くブラウザを閉じたのと同時に、リビングのドアが開く。
イスを回転させて後ろに向きなおると、男が立っていた。
一瞬、知らない人間に見えて、ひやりとした。
今日はスーツでもジーンズでもなく、全体的に黒っぽい感じである。シャツとジャケット、ループタイ。イギリスの上流階級が好んで着そうな慇懃な格好が、嫌に似合っている。
いつも通りベッドに座るかと思いきや、そのまますぐ隣まで歩いてきた彼に、トウコはわずかに眉を寄せた。
普段はしない男物の香水が、微かに鼻をついた。
「どうだった?」
テーブルに手をついて、彼は穏やかな声で問うた。トウコはちらりとその顔を見上げてから、「とくに何ごともありませんでした」と尾行の経緯を説明した。隠し撮りをした写真も一緒に手渡す。
黙ってそれらを確認したあと、彼はもう一度念を押すように言った。
「封筒には宛名も差出人も書かれていなかったんだね」
「はい」
トウコはそれだけ答えて黙りこんだ。このまま話が終わらないかと願ったが、やはり見逃してはくれなかった。
「行き場のない封筒。どういう意味だと思う?」
こちらを見つめる瞳は、猫科の生物を思わせて、鋭くもどこか甘っぽい形をしている。胸のあたりを小さな爪で引っかかれているような、落ち着かなさを感じた。
正直、あまり言いたくなかった。
だが返事をしないのも不自然で、迷ったすえに、結局彼の望むままに口を開いた。
「それは多分、秘密裏に荷物の受け渡しを行うためです」
しばらくトウコを見つめたあと、彼は、ふうん、と意図の読めない相槌を打った。
「具体的には?」
「差出人も宛名もない郵便物は集められたあと、所轄の郵便局に保管され、局員によって中身の確認を受けます。もし局員の中に協力者がいたとしたら、その仕組みを利用して誰にも怪しまれずに鍵を抜きとることができるでしょう。その協力者自身が鍵を使ってコインロッカーから荷物を受けとるのか、もしくは彼はただの仲介人で、実際の受け取りには別の者が向かうのか……ただ、少なくともこの方法なら、荷物を渡す者と受けとる者、互いの匿名性は守られます」
「最寄りのポストではなく、ひとつ向こうのポストに投函した理由は?」
「ふたつのポストの間にちょうど、集配地域の境界があったからだと思います。協力者がいる郵便局に集められなければ、本当にただの不明郵便になっちゃいますから」
説明しているあいだ、彼は興味深そうにトウコを眺めていた。眺めていた、というより観察していた、というほうが正確かもしれない。
「なるほど、興味深い考察だ。じゃあ、そこまでして受け渡したかった肝心の荷物というのは、いったい何なんだろうね?」
問いの形をしてはいたが、答えを求めるものでは決してなかった。ただ、トウコの“程度”が知りたいだけの、茶番である。
「現金、です。それも多額の」
トウコはターゲットの様子を思い出しながら答えた。
「男ははじめのうち、ずっと左手でバッグを提げていました。ハンカチを使ったあとにも、わざわざまた左手に持ちなおしていたところを見ると、きっと左利きなんでしょうね。でも、雑居ビルから出てきたあとは、なぜか右肩にかけて移動するようになりました。持ち手を掴んで運ぶには重いもの、もっといえば、いつ何があってもいいように利き手を自由にしておきたいくらいの大事なものをあのビルのどこかで入手したということです。あのビルには銀行の支店がありました。ビルから出てくるまでは約十五分。窓口で現金を引きだして出てくるには、必要十分な時間でしょう」
私の考えは以上です、とトウコは話を切って、ふたたびイスに身体を預けた。
全身が重い。鉛の詰まったような胸を、少しでも寛げられまいかと深い息を吐いてみたが、何の効果もなかった。
『池袋北口のコインロッカーに預けたところを見ると、外国人の運び屋を使って直接国外まで持ち逃げする気でしょう。資金洗浄をするのに時間が足りない理由があるのかもしれません。たとえば―― 誰かに追われているとか』
最後まで言わずに留めた言葉が、消化不良になって身体の内側にへばりついているようだった。
「ふうん。まあ、いいだろう。この件についてはこれで終わりだ」
トウコの言ったことを肯定するでも否定するでもなく、彼はそう言った。プログラムされたような、機械的な言い方だった。
言うだけ言っていつもどおりさっさと帰るのかと思いきや、安室は顎に手をやって考える素振りを見せた。しばらくして何か思いついたように、トウコに視線を合わせる。打って変わって、人間らしい仕草だった。
ポアロにいるときのような丸っこい目で笑って、安室は人さし指を立てた。
「そうだな。明日、気分転換に食事でも行こうか。君ちょっと疲れてるみたいだし」
「……へ?」
なんだか今、とんでもないことを聞いた気がするぞ。
どうしてこんなことになったのか。
翌日になって、店で待ちあわせて、席に座って料理が目の前に並んだ今になっても、謎は謎のままだった。
暗すぎも明るすぎもしない上品な照明が、個室のテーブルをしずかに照らしている。純白のテーブルクロスはシミどころかほつれひとつなく、上品な感触でトウコの膝をくすぐっていた。
当然のことながら周囲の雑音は届かず、鼓膜が拾うものといったら、どこか遠くで奏でられているクラシックのかすかな旋律だけだった。個室というよりもはやホテルの一室のようである。
空間的にも、心理的にも完全に切り離された空間だった。
トウコは磨きあげられた大きな窓に視線をやり、噴水がきらめく中庭の向こうを見た。
ビルの明かりを星と見紛う、豪奢な東京の夜が一面に広がっている。
ほう、と感嘆の声をあげようとしたが、口からこぼれ落ちたのは結局、疲れと緊張が入りまじった嘆息だった。
ドレスコードこそないものの、貧乏学生程度が気軽に来ていい場所ではない。場に見合う連れ合いがいなければ、門前払いされていたにちがいない。
落ち着かない気分のままテーブルに視線を戻すと、正面に座っているまさにその“連れ合い”が目を合わせてきた。
「食べないの?」
ポアロにいるときとも普段トウコに見せているとも違う、蕩かすような笑みだった。フォーマルな装いをした彼は、夜の光をまとって普段よりもいっそう洗練されて見えた。
「い、いただきます」
似つかわしくない音をたてて両手を合わせたトウコに、彼はくすり、と瀟洒な笑いを漏らした。
フォークとナイフを取りあげ、震える手でそっと前菜を口に運んだが、案の定ろくに味がしなかった。この期におよんで、料理を楽しむ余裕なんてない。
正直なところ、トウコは混乱していた。
なんだって急に食事になんて誘われたのか。よくよく考えれば、高級イタリアンで外食どころか、一緒に食事をするのすら、はじめてのことなんじゃないだろうか。思い出せることといえば、せいぜいポアロで残りもののサンドイッチをわけてもらったくらいである。
晴天の霹靂、不測の事態、突発事故。
そこらへんの言葉を十個くらいミキサーにかけて濃縮したくらいのとんでもなさだった。
そして、何より落ち着かないのは、彼の態度である。
「そっちの、おいしかったよ。店でも真似してつくってみようかな」
「そんなことできるんですか?」
「まあね。そういうのは得意だから」
言葉の端々までやさしげである。猫なで声とまでは言わないが、とにかくおそろしいほど物腰が柔らかい。トウコはちょっとぞっとしてしまい、そんな自分に対してやるせない思いになった。
トウコ以外の人間には、常にこんなふうに見えている―― いや、見せているんだろうか。
そりゃ親衛隊も過激派も生まれるな、といまさらながらに納得してしまった。
味のしない料理をつつきながら、トウコはしばらく彼と“場に見合った”会話をしていたが、だんだん我慢できなくなり、フォークとナイフを置いた。
えへん、とポーズだけの咳払いをしてから、率直に問いかけた。
「あの、どうして急にこんなところへ?」
「どうしてって。たまには君をいたわろうと思っただけだよ」
彼はまるで当然のことだとでも言いたげに、そんな答えを返した。
そうなるとトウコとしてはもうどうしようもなかった。下がりそうになる眉毛を一生懸命、元の位置に維持しながら「ありがとうございます」と礼を言うのが関の山だったのである。
出された料理が少なくなったころ、ウェイターが次のプレートを運んできた。
「ずわい蟹とアボカドのセルクル仕立て、セヴルーガ・キャビア添えでございます」
ウェイターの唱える呪文を外国のラジオのように聞き流しながら、トウコは少し顔を背けて、右手の窓に視線をやった。
中庭の向こうは下り坂になっていて、そこにもまたレストランが並んでいる。
こちらの一帯に比べれば多少グレードは落ちるが、そのぶん賑わっているようで、明るく照らされたバルコニーにはたくさんの人の姿が見えた。
そして、見つけてしまった。
その中に、昨日追いかけたばかりのあの男がいるのを。
さっと心臓が冷えていく。
白髪混じりで、中肉中背。どこにでもいるような容姿だが、さすがに追跡した相手を見誤りはしない。どう見ても、やはりあのターゲット本人だった。
あの、と言いかけたとき、頬のあたりに強い視線を感じ、トウコは全身の動きを止めた。顔を正面に向けられない。
たとえば、そう。
中身をえぐり出し、腑分けして、ひとつひとつ瓶に入れて観察している。そんなイメージさえおぼえる視線だった。
息の仕方がわからず、冷たい汗が全身から流れだした。噛みあわない歯の根を隠しながら、ゆっくりと視線を正面に戻した。
彼は、ほほえんでいた。
聖母のようなそれに、トウコはようやく今日ここに連れてこられた意味をさとった。
これは、テストだ。
ねえ、あそこにいるのってきっと昨日のターゲットですよ。いったい何をやってるんでしょうね。もう一度追いかけてみませんか。
たとえば、そんなことをひと言でも口に出したとしたら。
彼は『見るな』と言っているのだ。彼が見えないと言ったものはトウコにも見えない。この件はすでにトウコの手を離れている。何を知ろうが嗅ぎつけようが、透明なものは透明のままに。
疑問なく了承し、逆らわず、詮索しない。
それができるかどうかを、試されている。
唾を飲みこんだ。一度だけぎゅっと目をつぶり、顔を上げた。観察者の視線がトウコの瞳を貫いたが、彼女は目を逸らさずに笑った。
「おいしいですね、この料理。ポアロのメニューになったら教えてください。絶対食べにいきますから」
「そう言われると励みになるね。そのときは紅茶の一杯くらいはおごるよ」
安室透に戻った男は白いカップを持ちあげ、軽やかに笑った。
気づけば食事は終わっていて、安室は帰る準備を始めていた。途中で脱いだ黒いジャケットは、トウコの近くに掛けられている。
「上着、取りましょうか?」
「いや、いい」
ちらり、とトウコは足元を見た。そこには目に見えない透明な線が、くっきりと刻まれている。
自分から触れてくることはあっても、逆は決して許さない。
いや、いっそ何も身につけていなければ、いいのかもしれない。彼は人というものを根本的に厭っているわけではないようだから。
トウコの両手にもポケットにも何もないことが明らかで、彼の身体のどこにも何かを仕掛けられる余分なものがないのなら―― たとえば、お互いに何も覆わない裸のままだったら、と彼女は考えた。
トウコは道具や武器がなければ何もできないが、彼のほうは己の身ひとつあれば彼女をたやすく制圧できる。
変な話だなあ、とトウコは心の中でちょっと笑った。
彼のあとに続いて部屋から出ると、また嗅ぎなれない香りが鼻をかすめた。普段はつけない男物のオード・パルファム。
それはたとえば、他の人間からの移り香を隠すためだったりする。
何を。誰を。なぜ。何のために。
そんなことは知る必要がない。真相を嗅ぎあてる賢しさはいらない。求められているのは、“線”に触れない利口さだけだ。
その程度のことは、わかっている。
わかっているつもりだった。
深淵からの呼び声は、ときに人を惑わせる。