それは本当に偶然だった。
でも、そう思っているのは自分だけなのかもしれない。
File.16 その名をおうもの
ゼミの飲み会でいつもよりかなり遅くなって、トウコはひとり、夜ふけの車道をよたよた辿っていた。
ゼミのメンバーはそれぞれ別方面に帰っていき、途中まで一緒だった一年上の先輩ともバーの近くのバス停で別れた。
「うう……」
慣れない飲み方をしたせいで胃が重たい。明るくおしゃれな店の雰囲気に呑まれて、うっかり『バーボンっておいしいんですか』なんて、毛の生えそろわないヒヨコちゃんみたいな発言をしたものだから、娯楽に飢えた大学院生たちに寄ってたかって酒の肴にされてしまったのだ。
はじめてならローゼズの黒かなあ。
いや、同じ黒ならジャックダニエルでしょ。
初心者だからってテンプレばっかり選ぶ必要ないと思うけど。ブッカーズとかどう?
それお前が飲みたいだけだろ。
一同だははは、で以降エンドレスリピートである。
通ぶりたい若者たち―― 失敬、通の卵たちが使う専門用語は、トウコにとっては残念ながら右から左の念仏だった。
ほれほれ、と酔っぱらいの悪ノリでトウコの前にはバーボンばかりがずらりと並ぶことになったわけだが、四十度のグラスをそう何杯も平らげられるわけがなく、結局はひと口ずつチビる程度で終わった。
ぬるくなった安物のバーボンは、思っていた以上にただのアルコールだった。
せっかくだったら、ちゃんとしたところで試せば良かったなあ。
少しばかりの後悔と、いろいろな気持ちを溜めこんで重くだるくなった身体を引きずって夜道を行く。
家からかなり離れた、めったに来ない界隈の夜は、普段よりもはるかに暗く、闇深く思えた。
右手のガードレールの向こうには、一段下がって狭い河川敷があり、さらにその向こうには深い川がのったりと流れている。さっき調べたところによると、このまま川沿いに進めば駅があるらしい。
店の最寄り駅から帰ろうとすると、どうしても乗りかえが多くなる。酔ったトウコにはそれがとても面倒なことに思えたのだ。
夜風に当たればこの熱っぽい憂鬱も少しは冷めてくれるだろう、というあてどころのない期待があったのもまた、否定できないことではあったが。
川のおもてが黒く塗りつぶされている。数夜をかけてやせ細ってきていた三日月は、今夜にいたってとうとう姿をくらませていた。
新月である。
彼との食事から、数日が経っていた。
あれ以降、とくに何かを言われることもなく、トウコは完全に元の日常に戻っていた。
日常に戻ることを許された、という方が的を射ているかもしれないが。
彼が仕掛けたテストの合否はわからない。だがぽつりぽつりと仕事の指示が来るところを見ると、まだトウコを使う気はあるのだろう。
なんとなくもやっとしたトウコは、転がっていた石を蹴っとばした。
まだ使う気がある?
―― 知るかそんなもん。
「それがどうした僕ダスティ・アッテンボロー!」
もうキャパオーバーだ。できることなら、このまま冷やっこいアスファルトに転がって、全部忘れて寝てしまいたかった。
早く帰ろう、と心だけは一生懸命に駅に向かおうとしているのだが、身体のほうはまるでノロノロのカタツムリで、ちっとも前に進まない。
あーもー、と飲みすぎた自業自得を棚に上げ、しびれを切らしたトウコは、河川敷に降りて道路側からは見えないところに座りこんだ。
「もういい、ちょっと休憩」
背の高い夏草に埋もれるようにして、河川敷に背を預けた。川面を渡る風が顔に吹きよせてなかなか気持ちがいい。
蚊がウヨウヨしていそうな場所だったが、あとのことは考えないのが酔っぱらいの美徳である。
さっきまで歩いていた上の車道を、ときおり、ブオン、とヘッドライトが通りすぎていった。
高速の出口から続く一本道だ。どの車もスピードメーターなどまるで気にしていないような様子で、ブオンブオンと走り去っていく。
一台、二台。と来て、三台目。
遊びで数えていたところ、ちょうど七台目になって、かなり毛色の違うのがやってきた。
遠くからでもよく響く、澄んだロータリーサウンド。
構造の違いからくる特徴的なエンジン音は、近づくにつれて次第に穏やかに鎮まり、最後にはタイヤが地面を噛むかすかな音を残して少し離れた駐車場に止まった。
ええ、ここでかまわないわ。
と、女の声が聞こえた。
「すこし休憩したいだけ。今日はなんだか疲れたから」
どこかで聞いたことがあるような深い声に、トウコは草の陰からそっと道路を窺った。しかし一段下がった河川敷からでは、搭乗者どころか車の全容すらまるでわからない。
興味をひかれたトウコは、音を立てないように移動を始めた。
風に揺れる草の音に紛れて、忍者のように近づいていく。天井あたりの白いフレームが少しずつ見えはじめ、窓がわずかに開いているのがわかった。
「おや。貴女にしては珍しい」
撃たれた鳥のようにトウコは動きを止めた。
「私だってそういうときくらいあるわよ。まさかこんなに振りまわされるなんて思ってなかったんだもの」
「それも今日までですよ。大元は無事に断てました」
聞き間違いだ。
と、自分に言い聞かせる。だが、打ちはじめた心臓の早鐘は早まる一方だった。次の声を聞いてしまう前に立ち去るべきだ、と彼女の中の冷静な部分が警告していた。
見なければ、聞かなければ、ないのと同じ。だから早く。
しかし、トウコがやったことといえば、片手で携帯を取りだし、油断なく電源を落としたことくらいだった。
息を殺して草陰に身を潜め、耳をそばだてる。
「そういえば、騒動の裏でこそこそ逃げだしていた男がいたわね。たしか貴方の担当じゃなかったかしら?」
「ええ。そちらもすでに手の上ですよ」
返事のかわりに、キン、とデュポンの繊細な高音がした。着火音のあとに煙の吐息が聞こえる。しばらくして女が問うた。
「具体的におしえてくれる?」
「大胆にも組織の口座から直接、現金を引きだしたようです。研究費用という名目になってはいましたが」
「実際には、国外への逃走資金ってわけね。持ちだしの手段は?」
「池袋のコインロッカーに預けたところをみると、中国系の運び屋を使うつもりかと。自分で資金を洗うには、時間不足でしょうから」
「この期におよんでチャイニーズだなんて。足がつくリスクを負ってでも金と一緒に逃げたいのね……愚かな男」
ふう、と女が蔑むように煙を吐いた。
「散々うまい汁を吸っておきながら、いまさら何の挨拶もなしに足抜けだなんて大した夢想家ですよ」
「夢想家ねえ。そうでなくっちゃ科学者なんて務まらないのかも」
男と女は喉の奥で笑いあった。
「じゃあ、あとは任せるわ……と、言いたいところだけど、ひとつだけ確認しておこうかしら。貴方、今回は自分で動かなかったのね」
それまで一度も言葉につまらなかった男が、一瞬口を噤んだ。
「……はい。僕自身はすでに面が割れていますので」
「変装くらいできるでしょ」
「奴は組織からの追手を非常に警戒していました。腐っても内部の人間です。一度会った相手であれば、見た目が変わっていても感づくかもしれません」
「そうじゃなくって」
女の声が焦れたようにほんのわずかに高くなった。
「大丈夫なのか、って訊いてるのよ。今回使ったその子ネズミ、素人なんでしょ?」
鼓動がひときわ激しく打って、トウコは今度こそ本当に手で口を押さえた。そうでもしていないと、今にも声が漏れてしまいそうだった。
そんなトウコのことなど知るはずもなく、男は淡々と言葉を紡いだ。
「だからこそですよ。こちら側に長くひたった人間は悪意や敵意にきわめて敏感です。しかしその感覚の正確さゆえに、そうでないと直感したものに対しては、驚くほど無防備になる」
意識の空隙。悪意も好意も関心もなく、ただそこに居あわせただけの人間は空気と同じ。
ふうん、と女が気のない返事をした。
「わからないとは言わないけれど。チーズのかけらと引きかえに、人が入れない床の下を歩きまわらせる。かわいいものね。でも、どんなにとるに足りない生きものでも、懐くと情が湧くって言うじゃない?」
喜劇の一コマのような、軽快なからかい文句だったが、その裏側にはびっしりと氷の棘がならんでいた。
しかし、男は恐れるどころか、むしろその危険を楽しむように、艶を含んだ声で女を宥めた。
「どんなに愛らしく振るまおうとネズミは所詮ネズミです。ご心配なく、こうみえて動物の世話は得意でしてね。そのあたりはわきまえていますよ。それに、万が一にも悪知恵がついて、余計なものまで嗅ぎあてようとしたときには―― 」
「尻尾をつかんで水の中にドボン、かしら。好きよ、そういう男は」
クスクスと少女のように笑いながらも、その声音はひどく艶めかしい。
「ひと晩くらいだったら考えてあげてもいいくらい、ね」
女が男にしなだれかかる、衣擦れの音がした。
もういい、もう十分だ。
それこそ怯えたネズミのように、トウコはその場で耳を押さえて硬直した。できることなら、透明人間になって、今すぐにでもこの場から消えてしまいたかった。
男は、女の誘いを払いのけはしなかった。
しかし、それを受け入れることもまた、なかった。
「お褒めにあずかり光栄です」
劣情どころか、人の温みすら感じられない声に、女がひやりと笑う。
「つれないわね。それとも、貴方にとっては私も『かわいいネズミ』にすぎないのかしら?」
「面白いことをおっしゃる。僕に喰われる気などさらさらないくせに」
ここにいたって、男が皮肉げに嗤った。
「取って喰われるのはむしろこちらでしょう?僕のような実のない痩せ男では、貴方の肥えた“お口”は満足させられそうにありませんが」
「あははっ、露骨ねえ。お上品な顔に似合わず」
女は身を起こし、笑い声をたてた。今度こそ心底愉快そうな笑い方だった。
「いいわ、今日のところは許してあげる。さっさと帰って、そのかわいいペットとやらにチーズでもあげていなさい」
「言われずともそうさせていただきますよ。貴女を送ったあとでね、ベルモット」
グルン、とエンジンがふたたび咆哮する。ウインドウが閉まる直前、とぎれとぎれに最後の会話が聞こえた。
「そういえば、あとの始末はどのように?」
「まかせるわ。いつもどおり何も残さず。お願いね、バーボン」
夜をつんざき走り去る白い車の背中を見ながら、トウコはかなり長い間その場に立ちつくしていた。
横断歩道を渡っていたら信号無視の車が突っこんできて、間一髪で避けたと思ったら、ビルの上から鉄骨が落ちてきて下敷きにされたような、どうしようもなく理不尽で不幸な気持ちだった。
自分のせいじゃない、と言いたかった。だが、自業自得だということも理解していた。
バーボン。
それは聞いてはいけない、追ってはならない名前だったのだ。
疑わずに了承し、逆らわず、詮索しない。
飼い主の戒めは、飼い主の利のためだけに存在しているのではない。トウコは自分を守るために、彼のいうことをきくべきだった。
ちゃり、と何かが落ちる音がしたが、呆けた彼女の耳には届かなかった。
深夜になってようやくマンションまで帰りついたトウコは、そのままベッドに倒れこんで泥のように眠った。
翌日、トウコは時間割のとおりに大学へ行き、授業を受けた。
何があっても授業は抜けたくないという気持ちと、少しでも日常に触れていたいという気持ちのふたつが合致したがゆえの行動だった。どちらの割合がより多かったかは、彼女自身にもわからない。
授業が終わると、誰とも話さずにそのまま家に帰った。彼がいたらどうしよう、という恐怖はあったが、それは結局杞憂に終わった。
部屋の中は学校に行く前と何ひとつ変わってはいなかった。
カバンを置いてイスに座った途端、ブウン、と携帯のバイブが鳴った。
ひっくり返りそうになる心臓をなだめながら、おそるおそる確認すると、届いていたのはセレクトショップからのセールのお知らせだった。
深い安堵の息がこぼれた。だが、そこでふと、手に持った携帯の様子が普段と違うことに気づいた。
いつも付けているあの桜のストラップがない。
さっと血の気が引くのを感じた。
大学で落とした?いや、わからない。授業中はいつも電源を切っているから、携帯を見ることはほとんどないのだ。学校に行く前の状態はどうだっただろう。
もしも、昨日の場所で落としていたら。
行きついた想像にぞっと総毛立った。とるものもとりあえず今にも部屋から飛びだして行こうとしたとき、足元で光る物があった。
飛びつくように屈みこんで拾いあげる。それはあの桜のストラップだった。
「良かったあ……」
ストラップが戻ってきたことにふたつの意味で安堵して、トウコはその場にへたりこんだ。
大事なそれをトウコは、今度こそしっかりと携帯電話に結びつけた。
陽光にかざすと、桜のレプリカはまさに太陽そのもののように誇り高く輝いた。
その光を見ているうちに、どくん、と身のうちに今までとはまったく違う鼓動が宿った。それは、トウコの背を押すように強く深く、全身にあたたかな血を巡らせた。
(何もすべきではない)
そう決めていた冷たい血に、反対のそれが混じりはじめた。
(やらなければならない)
何を、と自問することすらどうでもよく思えるほどの、強い衝動だった。
ここから先は一線の向こう側の領域だった。超えれば、今あるものまで失ってしまうかもしれない。
彼女はただの大学生だ。特別な使命も身分も持ってはいない。そうしなければならない義務もない。彼女は、“利口に”生きる方法を知っている。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
ふたつの心が交差する。
お前は誰だ、と内なる彼女が彼女に訊いた。
お前は誰だ、と桜がトウコに問いかけた。
しばらくして彼女は立ちあがった。パソコンの電源を入れ、画面を表示する。映されたのはとある防犯カメラの映像だ。ポアロのウインドーの向こうに、見知った金髪が見えた。
「でも私は、トウコだから」
彼女に力を与えるのは、他でもないひとつの名前だ。
調査を開始する。
ターゲットは、探偵・安室透―― いや、犯罪者・バーボン。