またやられた。これで三回目だ。
とあるビジネスホテルの一室で、食い入るようにパソコンの画面を見つめていたトウコは、イスにそっくり返って髪をかき混ぜた。
「あー!」
さっきまで、たしかに捉えていたはずの男は、一瞬目を離した隙にすでに防犯カメラの視界内から消えていた。近くのカメラに割りこんでみても、影も形も見当たらない。
トウコのことがバレているはずはないから、おそらく普段から防犯カメラの死角をつくように歩いているのだろう。
まさかここまで潔癖に対策しているとは、もはや変態の領域である。
「カメラで追うのはやっぱり無理かな」
カメラリレーによる遠隔尾行。
コンピュータと脳みそフル稼働で、場合によっては鼻血すら出かねない、疲れる調査・五本槍の一槍である。トウコ調べ。
虎の子のそれも、敵が彼なら仕方なしと強行してみたが、結局徒労に終わりそうだった。どんなに的確に情報を処理しようが、そもそもカメラに映らないのではどうしようもない。
「だったら盗聴器か発信器で……」
と、候補にあげてはみたものの、「いや、ないな」とすぐに自分で選択肢をうち消した。
そんな怪しげな装置なんて絶対につけさせてもらえない。ただでさえ彼にはトウコからの接触を警戒している節があるのだ。リスクが高すぎる。
ネットを介し、安室個人の携帯に侵入して情報を抜きとる、というのもできなくはないが、彼がトウコとの連絡に使っているのは、おそらくトウコ専用の捨て携帯だ。バレずにアクセスできたとしても、見るべき情報がなければ意味がない。
あれもダメ、これもダメ。
八方塞がりの一歩手前くらいである。
一番最初の幽霊事件で、たしかにトウコは一度まんまと安室を嵌めた。しかし、あれは完全な奇襲攻撃だったから何とかなっただけである。
すでにこちらの手のうちが大方知られている今、安易な行動をとれば、あっという間に尻尾を掴まれてしまう。彼という人物は本来、それくらい用心深い人間なのだ。
八方塞がりの一歩手前、かろうじて残っている最終手段に、だがトウコは全力で頭を抱えた。
「うう、やりたくない。無理」
相手が顔見知りということだけでも大概なのに、よりにもよってあの男である。おそろしすぎる。ストレスでハゲそうだ。
「でも、もうほかに方法なんてないし」
ようするに『トウコがいかにもやりそうな』ことをやるとバレるのだ。トウコをよく知る相手の死角をつきたいなら、逆に『トウコが絶対やらなさそうな』方法を選べばいい。
危険な橋は避けて通るが信条のトウコにとって悪手も悪手なプラン―― たとえばリスクが爆高なわりに、成功の見込みが絶望的に低い方法、とか。
トウコは意を決して立ちあがった。神は言っている。初心に帰れと。
人の行動を追う基本は、張りこみ・尾行だ。
File.17 ハウンド・ゲーム(Ⅰ)
ターゲットがアルバイトを終え、店を出てきたのを遠目に確認して、トウコは腕時計に視線を移した。
現在時刻、十八時二十一分。
張りこみを終了し、これより尾行を開始する。
携帯をすばやくサイレントマナーに切りかえたら、さあ出発である。
ささめくような雨の中、青色の傘を低めにさして、たっぷり五十メートルは後方から彼の黒い傘を追いかける。これは雨天時に尾行が可能なギリギリの距離だ。
一般的に、雨の日は尾行が困難だとされている。
ターゲットの身体的な特徴が傘で隠れてしまうため、かわりに傘を目印にしなければならなくなるからだ。似たような傘を持った人間がほかに現れた場合、失尾する可能性が高くなる。
まあ、今回は天気以前の問題なんだけど、とトウコは傘の内側でため息をついた。
そもそも顔見知りを尾行すること自体がきわめてナンセンスなやり方なのである。
振りかえって顔を見られたら即アウト、「こ、声をかけようと思ったけれども、なんだか忙しそうだったから、遠くから様子を見てた」とかなんとか、アタフタと言い訳にもならない言い訳をする羽目になり、さらに怪しまれるのがオチである。
加えて、相手が探偵を自称するようなとんでも同業者だった日には成功率は絶望的に低いと言いきっていい。直接尾行を避けてわざわざやりたくもないカメラリレーをやっていた背景には、ちゃんとこういう事情があったのである。
が、しかし。
今回はさらに、もうひとひねり加わった特殊なパターンなので、うまくやればさまざまなネックも多少はプラスに働く、と踏んでいた。
ひとひねり加わった特殊なパターン―― それは安室が、ただの顔見知りを超えて、トウコのことを熟知している人物だという点である。
トウコに腹を探られる可能性は想定していたとしても、その際に彼女がこういうリスクの高い手段を選んでくるとはまず予想していないはずだ。
知るがゆえの意識の空隙。
幽霊はそこに潜む。
なので、今回にかぎっては、雨というのもなかなか悪くはないのだった。
水たまりを避けつつ、トウコはぴちゃぴちゃと雨道を辿った。
安室の歩き方をよく知っているトウコなら、傘の集団の中でも失尾してしまうことはないし、逆に傘によってこちらは顔と身体を隠すことができる。さらには雨音がベールとなってこちらの足音まで消してくれ、一石二鳥、三鳥。
それでもまあ、分の悪い勝負にはちがいないため、トウコはすぐ前を歩く部活帰りの学生たちの最後尾につき、用心を重ねた。
本日の彼女の格好は白いブラウスに、長めの紺のスカート、ベリーショートのカツラをつけて、背中にはスポーツバッグをひっかけている。制服を着ていなくても、遠目には学生のような印象を与えることができるだろう。
わらわらと歩道に広がる高校生の隙間から、慎重に様子を窺った。
彼は、ゆったりとした自然な歩幅を取りながらも必要以上に身体を揺らさないきわめて効率的な歩き方をする。ひとりで歩いているときのスピードは、見た目以上に速い。
トウコは距離を空けつつも、しっかりとその背に喰らいついていった。
ターゲットを失尾するタイミングの約七割は、尾行を開始して十分以内だとされている。見つめてはいけないけれども、常に視界内には入れておく必要がある。
歩道を歩ききった安室はつきあたりを左に曲がった。駅とは反対の方向にある、住宅街へと向かっていく。
「こういうときは……」
トウコは立ちどまりカーブミラーを見上げた。
ターゲットが何度も道を折れる場合の尾行戦略はこうである。
まずは相手が先に右左折するのを待つ。そして相手がひとつ先の路地に姿を消したあとに、こちら側からカーブミラーを見てターゲットが次にどう曲がるかを確認する。相手がふたつ先の路地に消えたのと同じタイミングで、今度は自分がひとつ目の角を曲がるのだ。そしてまたカーブミラーを見て、次の曲がり角を確認し、同じタイミングで曲がる。
ようするに、常にひとつ角をおいて尾行すればいいということだ。振りかえられても直接視界に入らないため、気付かれる可能性がぐっと下がる。
いくら勘の良い人間でも、遠く離れたミラーごしに他人の視線を感じとるのは困難だ。
ただ、今回は万全を期するために、もうひと手間加えておくつもりだった。傘の中で遠隔監視デバイスを取りだし、スイッチを入れる。
これは以前、浮気調査で使ったのと同じもので、街中の無線防犯カメラの電波をそのまま傍受するというシンプルな装置である。電波を拾える距離まで近づかなければならないのが玉に疵だが、こういう場合はなかなか使える。
距離と方向を計算し、今まさに彼が歩いているであろう場所にアタリをつけて、電波を拾う。
すぐにデバイスの画面にカメラの映像が表示された。
案の定、安室はここでもカメラに映るのを避けているらしく、映像には現れない。
カーブミラーではたしかに確認できたのに、防犯カメラには映っていないなんて、まるで怪奇現象である。
だが映っていないということは、視界外のどこかにいるという意味でもある。トウコはカメラの死角から相手の現在地をリアルタイムで推測しながら、慎重に進んでいった。
安室はその次の角も右に曲がった。
駅からは遠ざかる一方だし、この先には駐車場もない。自宅に帰っている途中である、とひとまずは当てこんでも良さそうだった。ポアロでの仕事の頻度を考えると、徒歩圏内にひとつくらい寝泊まりのための拠点があってもおかしくない。
空振りせずに済みそうだ、とトウコは緊張の中ではあるものの、少し胸を撫でおろした。
何を隠そう、これは彼の“家”を知るための尾行なのだ。
どんなに気をつけていても、住処にはかならず何らかの痕跡が残る。それは生きた人間である以上、仕方のないことだ。たとえわずかな情報の断片にすぎないとしても、見るものが見れば有力な手がかりになる。
安室の、バーボンの正体にたどり着くための。
それからしばらくは順調だったのだが、十分ほど経ったところで問題が発生した。
カーブミラーのない曲がり角に行きあったのである。運の悪いことに、付近には既設の防犯カメラもない。
いわば完全な空白地帯、トウコに曲がり角の向こう側を知る術はなかった。
万が一、安室がすでに彼女の尾行に気付いていて、あえて彼女を泳がせてきたのだとしたら、仕掛けてくるのは間違いなくここである。
たとえば、だ。曲がり角を曲がった途端、すぐ目の前にあの長身がそびえていて「やあ、こんなところで奇遇だね」だなんて冷えきった笑いを向けてくる。
「ひええ」
少し考えただけでも胃のあたりがキリキリする。彼のブチギレ顔を細部までリアルに想像できるあたり、教育的指導という名の調教は順調に進んでいるようである。
―― なあんて。本当は笑いごとじゃないのだが。
あえて冗談めかしていた心中を、トウコはそっと静めた。
ごめんですんだら警察はいらない。彼は前にそう言った。
そのとおりだ。警察なんていらない。もしも彼に、バーボンに気付かれたなら。
尻尾をつかんで水の中に、ドボン。
きっと、それでおしまいである。
今度こそ本当の悪寒が足から這いのぼってきた。
―― こわい。
ちらりと後ろを振りかえった。ぴちょんぴちょんと雨の滴る歩道には、下校途中の学生がまだたくさんいる。今日のテストが、とか、坂下くんの彼女が、とかそんな平和な会話が耳に入るたび、トウコの足はさらに頑なに根をはった。
今ならまだ引きかえせる。
曲がり角に向こうに彼が立っているかどうかは、一歩踏みだすまではわからない。
これはそう、いうならばシュレーディンガーの猫だ。
この曲がり角を曲がり、トウコが安室を見上げるまで、また安室がトウコを見下ろすまで、ふたつの可能性が同存する。彼はおそろしい男だが、同時に良い主人でもある。一度は逃げだした飼い犬でも、みずからこっそり庭に戻ってきたならば、何も言わずにもう一度くらいは鎖に繋いでやるだろう。
彼女は急に全部投げすてて元の居場所に戻りたくなった。何も見なかったことにして、くんくん鳴きながら彼の元にすり寄っていけたら、どれだけ心休まるだろう。
でも―― と彼女は桜のストラップを握りしめた。
トウコには、やっぱりそんなことなんてできないのだ。
深呼吸をして唾を飲みこんでから、角を曲がった。
こちらを見ている人影は、なかった。
まずは胸をなで下ろし、それから慌てて道の先を見た。つきあたりは左右に分かれているようだ。早く、どちらに曲がったかを突きとめないと見失ってしまう。
傘を片手に走りだそうとして、トウコはぴたりと足を止めた。かなり奥、誰もいないと思っていた電信柱の陰に、黒い傘が見えた。
彼は歩くのを止め、道の端に佇んでいた。傘の裾からちらりと横顔が見える。
トウコはゆっくりと傘を引きさげて顔を隠した。外の様子が見えるように、傘にはほんの小さな穴をあけてある。
彼はこちらを見てはいない。
だが、ここで彼女まで足を止めるのは不自然だ。
トウコはそのまま歩きつづけた。ふたりの距離が近くなるのに比例して、どく、どく、と鼓動の速度が上がった。いくら抑えようとしても、緊張は高まりつづけ、そのうち心臓が口から飛び出してきてしまうんじゃないかとさえ思う。
靴はもちろん、歩き方もいつもとは変えているし、長めのスカートだって履いている。バレない、はずだ。
彼我の距離がさらに狭まる。祈るような気持ちで、トウコは安室の背後に接近し―― そのまま通りすぎた。
拍子抜けするほど、何ごともなかった。
十メートルほど過ぎてから、傘の穴からちらりと背後を見やった。安室はまだそこにいて、何やら手元を覗きこんでいた。どうやら携帯電話を見ていたらしい。
連絡が終わったのか携帯をポケットに放りこんだ彼は、こちらには目もくれず、そのまま目の前のアパートへと入っていった。
しばらくして、上階からドアの閉まる音がした。
そのまま突きあたりまで歩いていったトウコだったが、角を曲がった時点で、その場にへたりこみそうになった。
「ダメかと思った」
服が濡れるのもかまわず、ブロック塀に寄りかかる。危ない真似はもう金輪際ごめんだ。
だがとにかく、彼の“家”はわかった。
作戦そのいちは、これにてミッション・コンプリート。