それから数日かけて、機会を待った。

 決行の日、朝食のトーストをかじりながら、トウコはポアロ近くのカメラ映像をパソコンに映した。

 目立つ金髪の長身がウインドーの向こうでせっせと開店準備を整えている。ちょうど出勤したところらしい。

 今日のシフトが夕方までなのは確認済みだ。安室がいなかった昨日、ポアロでしばらく粘って、冷蔵庫の中身も把握してある。もちろん直接冷蔵庫を覗いたわけではなく、注文内容から中身の減り具合を推測したのである。

 結論からいうと、高確率で本日中の買い出しはない。
 パン、ハムその他、在庫は十分。昼間のうちに底をつくことはないだろう。

 つまり、少なくとも今日の夕方まで、安室がポアロから外に出ることはない、ということだ。

 歯磨きを終えたあと、姿見の前に立ったトウコは輸入物の、濃い目のファンデーションを顔と手足に塗りこめた。さらにもう二、三色使って自然に見えるように濃淡をつける。

 どちらかと言えば生白かったトウコの肌が、まるで健康的に日焼けしているような具合になった。顔については、普段のような化粧はしないでおく。

 肌の調整が終わったら、今度は服である。
 専用の補正下着で胸を潰し、大きめのシャツとズボンを履いて体型を隠す。最後に髪の毛をすっかり帽子にしまえば、はい、できあがり。

 鏡の中にいるのは一見、十代なかばの少年だった。

 まじまじと顔を覗きまれないかぎり、大人の女だと気付かれることはないだろう。だぼっと大きいTシャツの袖から見えるのは肘から先だけで、女特有の二の腕は上手に隠れている。身長にも違和感なし。

 ボン・キュッ・ボンなフェロモン系お姉様だったらさすがにこういうわけにはいかなかっただろうから、今日ばかりは、わが肢体の平均的なサイズ感に感謝である。

 素人から見ても、変装というにはおこがましい子ども騙しのそれだったが、今回の目的をには十分である。
 人とすれ違ったとき、女ではなく少年だったという印象を与えられるのならば、それでいいのだ。

 イメージは事実をねじ曲げる。
 たとえば、目の前にいるのが少年だと思いこんだなら、その人物の持っている細長いバッグの中身は勝手に釣り竿やバットにおき変わる。たとえその中身が本当はもっと別のものでも。

 イメージにあわせて、記憶は自動で補正される。その結果、目撃者の脳内においてトウコという人間の本質はかき消され、かわりにおぼろげな別人が生じることになるのだ。

 目撃者による安室への悪意なき『伝言ゲーム』が起こった場合の、念には念を入れた対策だった。

 変装の技術が上がれば、作戦の幅も広がる。世の中にはとんでもない変装術を駆使して、あれやこれやと自由自在に事を運んでいる人間もいるんだろう。トウコが知らないだけで。

 釣り竿用のバッグに必要な道具を詰めこんで、トウコは第二次遠征に出発した。



Chapter.2 浮淵のクリアライン

File.18 ハウンド・ゲーム(Ⅱ)


 三十分後、トウコは数日前につきとめたばかりのアパートの前に立っていた。

 盗聴器発見機で、あらかじめ周囲に何か仕掛けられていないかを確認しておく。彼のことだ、玄関ホールに監視の目を置いていないとはかぎらない。

 とりあえず異状はなさそうだったので、あたりに人影がないのを確かめてから、トウコは門扉に手をかけた。

「ちょっと」

 後ろから突然声をかけられて、トウコは飛びあがった。やかましく跳ねる鼓動をなんとか押さえつけながら、おそるおそる振りかえる。

 背後には老婆がひとり立っていた。
 腰の曲がった彼女は、杖をついたままトウコを見上げ、申し訳なさそうにこう言った。

「ボク、ここの人かい?久しぶりにこのあたりに来たら迷ってしまってねえ。駅の場所をおしえてもらえないかと思って」

 トウコは胸をなで下ろした。管理人か住人かに怪しまれたのか、と思ったのである。
 駅ならそこの角を―― といつものように返事をしようとして、トウコは慌てて口を噤んだ。

 彼女はトウコを少年だと思っている。声を出すのはまずい。

 どこに住人の目が光っているかわからないのだ。他でもない安室のアパートの前で、ややこしい事態になるのは絶対に避けたかった。

 どうしよう。

 今なら無関心な住人のフリをして敷地内に逃げこむことも可能だ。トウコは門扉とお年寄りの顔とを何度も交互に見比べた。

 老婆は困ったようにトウコを見上げていた。
 杖を握る手はしわくちゃで、足は枯れ木のように細い。ふわふわの白髪を後ろでひとつにまとめた彼女は、杖とは反対の手で中身の詰まった買いもの袋をさげていた。

 トウコは眉毛を下げ、苦笑した。
 こんなの、どうしようもないじゃないか。

「少し行ったところにバス停があります。そこから五四系統のバスに乗ればそのまま最寄りの駅につくんですけど……ちょっとややこしいですから、一緒に行きましょう?荷物持ちくらいにはなれますよ」

 背を屈めて笑いかける。誰が聞いても女のそれとわかる声に、老婆は案の定、驚いたようにトウコの顔を凝視していた。
 ああ、私の馬鹿、とトウコはちょっと泣きそうになった。

 だが、腰の曲がった彼女はしばらくしてほわりと笑ったのだった。

「すまないねえ、。お願いしてもいいかい?」

◇◇◇

 そうして、老婆を駅まで案内したあとで、トウコはふたたびアパートの前まで戻ってきた。二度目ということもあり、かなり緊張する。

 そっと門扉に手をかけて、トウコは今度こそ無事に敷地内に侵入した。住人のフリをして、ホールに並んだ郵便ポストをさっと見る。

 上階を中心に探していくと、ある程度のところでそれらしき名前に行きあたった。
 数日前ドアの閉まる音がした場所と、だいたい一致している。

 よし、部屋の位置はわかった。

 今度は、周囲の郵便受けにくまなく視線をやる。ほとんどはからっぽのようだったが、ひとつだけ昨日の広告がそのまま突っこんであるポストがあった。ちょうど彼のポストの隣だ。

 雑に折られた大型で薄っぺらなカラーチラシが、投函口からだらしなくはみ出している。昨日この近辺に家電量販店のセールチラシが一斉投函されたことは調査済みである。

 件の家電量販店は月末になると決まって数量限定の大売りだしをおこなう。このあたりの人間であれば、だいたいが知っている話だった。

 お隣さんは留守、とトウコは口の中で呟いた。

 今日は日曜日だ。セールに興味のある住人なら昨日の段階でチラシを取りだしているだろうし、たとえ興味がなかったとしても、これだけ邪魔になっているチラシを何日も放っておきはしないはず。
 そのチラシが入りっぱなしということは、安室の隣人は今現在、家をあけている可能性が高い。このあたりのマンションの住人には大学生が多いから、実家に帰省でもしているのかもしれない。

 運が向いてきた、とトウコはほくそ笑んだ。留守にしているのはたいへん好都合だ。

 隣人というのはドアの開閉音などで知らず知らずのうちに周囲の住人の生活リズムを把握しているものだ。普段とは違う時間にドアの音がしたら怪しまれる可能性が高い。

 さて、ここまできたらそろそろ予想はつくかもしれないが。

 本日のテーマは、空き巣である。

◇◇◇

 サムターン回し。

 何年か前に盛んに取り沙汰されたから、どこかで耳にしたことがあるかもしれない。
 その名のとおり、ドアの隙間などから内側に取りつけられたサムターンを直接的にまわし、鍵を開ける手口である。

 サムターンというのは、家に帰ったあと、安全のためガチャッと内側からまわす銀色のつまみ、アレのことだ。

 侵入窃盗といえばピッキングのイメージが強いが、実際に空き巣の手口で多いのは窓ガラスを割って内部の錠を手で直接開ける『ガラス破り』である。

 なお、それを超える堂々の一位はまさかの『無締まり』―― つまり家のカギをかけておかなかったことによる侵入である。最近は治安の低下がどうだこうだと言われているが、日本はやはりとびきり平和な国なのだ。

 というわけで、パリンと割ってちょいとカギを下ろすだけのやり方に比べれば、ピッキングやサムターンまわしは多少の技術が要求され、件数的にはぐっと少なくなる。

 だが、安室の家のガラスをパリンとやるなんてことをした暁には、現場に残った証拠から、一両日中に今度はトウコの頭がパリンとなることが予想される。却下却下。

 通路や階段もくまなく探知機で確認しながら進み、一分後、トウコはついに安室の部屋の前に立った。
 現在時刻、十四時二十七分。

 はー、とため息をついた。知人の家、それもかなりグレーな御方の家とはいえ、空き巣は空き巣。犯罪は犯罪である。これでも一応はセキュリティを破る側ではなく守る側の、錠前屋の娘である。できることならこういう形で役立てたくはなかった。

 でも、ここまで来たらやるしかない。

 用意してきたお手製の道具を取りだし、トウコはドアの前でかちゃかちゃと作業をはじめた。形状等の詳細は省くが、じつはこの道具、ホームセンターに売っている物だけで簡単に作れてしまうのである。

 ピッキングにくらべれば知名度の低いサムターン回しだが、特殊な技術や道具がいらないぶん、非常に悪質な手口だともいえる。

 隙間の多いドアの場合は、防犯のためにぜひともサムターンカバーをつけて欲しい。錠前屋からのお願いである。

 イマイチ乗り気にはなれないトウコだったが、それでも持ち前の器用さと集中力でほいほいっと解錠作業を終えて、室内へと侵入した。

 安室の部屋は、生活感のない畳のワンルームだった。

 最低限の家具以外はほとんど物がない。シンプルに暮らしている人、というよりまるで世捨て人のようで、トウコはおもわず鳥肌を立てた。

 アーティストのポスターも、家族の写真も、彼女のマグカップも。彼は何も持ってはおらず、また必要ともしていなかった。

 ただひとつ、古びたギターを除いては。

 ベッドの隅に、隠すように置かれたそれに、おもわず手を伸ばしかけたトウコだったが、結局、その指先はすぐに失速して下に落ちた。
 きっとトウコが触れていいものではない。

 背を向けて、今度は小さなデスクに向かった。
 引きだしが一段、二段。
 引っかきまわすのは泥棒のやり方である。スマートに家探しするなら、最後に原状復帰することを念頭においておかなければならない。

 トウコは考古学者が化石を掘りだすときのように、白い手袋を差した手でそっと丁寧に中身を見ていった。

 ふたつの引きだしを合わせても、出てきたものはごくわずかだった。
 携帯型の金庫と、ハードカバーの推理小説が何冊か。
 金庫はサイズこそ小さいが、カギが三つもついている。ダイアル錠とテンキー錠、それから蓋をしばるようなかたちで南京錠が文字どおりとどめを刺している。

 じっと観察して、十五分、と結論づけた。痕跡を残さずに開けるには、少なくともそれくらいはかかる。
 トウコはちらりと時計を見た。

 やってできないことはない。
 しかし、トウコは結局、何もしないまま金庫をデスクに置いた。

 かわりに手に取ったのは、もう一方のハードカバーの書籍である。
 ページをめくってみたものの、やはり中身は普通の推理小説だった。そこそこ手垢がついているところをみると、暇つぶし程度には読んでいるのだろう。

 彼ほどの人間が、本をくり抜いて中に情報を隠す、となどという古典的な手法をとるとは思えない。

 だが、『やるとは思えない』からこそ、それが盲点になる。

 トウコはそっと本の表紙に手のひらをあて、上に。頑丈なハードカバーの、さらにその表面。本来動くはずのないその場所が、おどろくほど薄く軽くスライドした。

 そう、くり抜かれていたのは本文ではなく、カバーのほうだ。

 ハードカバーの厚みを利用して作られたほんのわずかな隙間には、それに見あった薄っぺらな何かがしまわれていた。

 一枚の写真だった。


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