「さて、役者が揃ったところでタネ明かしをはじめよう」
File.21 デッドロックの終劇
頭から氷水をかけられた気分だった。空気が凍りつく。
さながら、このシーンを見ている誰かがトウコと彼のあいだで一時停止ボタンを押したようだった。
「どうしてそんな顔をするのかわからないな。今となっては、僕がどういう人間か知らないわけじゃないんだろう?あの夜からずいぶんと嗅ぎまわってくれたようだから」
タネ明かし。あの夜。どうして、なんで。
ぜんぶ、バレている。
頭の中が真っ白になる。声が震えそうになるのを抑えて、トウコはできるかぎり冷静に返事をした。
「何のことを言っているのか、私には……」
そんな彼女を見て、彼はなぜか喉の奥で笑いはじめた。クスクスとさも愉快そうなそれも、実際には困惑するトウコを嘲る冷笑でしかない。
「ずいぶんと古典的なしらの切り方をするんだね。そういうの、現実ではむしろ逆効果だと思うけど。僕の機嫌を読みそこねるなんて、保身の上手な君にしては珍しい。刑事ドラマの見過ぎかな?」
言葉を飲みこんだトウコの前で、彼は仰々しく肩を竦めてみせた。
「それとも―― 痛いのも案外嫌いじゃない、とか」
色素の薄い瞳が嬲るように細められる。
そこにはおよそ人の情というものがなかった。
おもわず後退るより先に、彼はトウコの腕を捻りあげ、強引に引きよせた。
自分の喉から、尻尾を摘まれたネズミのような細い悲鳴が漏れたのを、トウコはどこか他人事のように聞いていた。
密着した身体をまさぐる手の感触とともに、ポケットから携帯電話が抜きとられる。
目的を達した彼は、突きはなすようにトウコの腕を解放した。
赤くなった手首を押さえながら、彼女は奪われた携帯電話を見あげて、呆然とその場に立ちつくした。
「あの夜、なんとなく気になってひとりであの場所まで戻ってみたんだ。すると、面白いものを見つけてね」
彼はトウコの携帯から桜のストラップを外し、目の前にぶら下げた。
「落としたとばかり思っていた宝物が、自分の部屋から出てきた―― 君がそんなバカな偶然を信じるタイプだとは思わなかったよ」
今度こそ本当に息が止まった。何かを言おうにも、声がまったく出せない。
ストラップを見つけたときのことが脳裏によみがえる。
落ちていたんじゃない。あれは、“置かれて”いたんだ。
「外で拾ったこれにちょっとした細工をして、君のいない間にこの部屋に戻しておいた。露骨に詰めよるのも芸がないだろう?最近の君の行動には思うところもあったし、テストも兼ねて少し泳がせてみることにしたわけだ。まさかこれほどうまくいくとは思わなかったけど」
彼は自分の携帯を取りだして何ごとか操作した。
プツ、という通信音とともに、『すこし行ったところにバス停があります』と、録音された過去のトウコが、今ここにいるトウコに向かって親切に案内をしてみせた。
ストラップに、盗聴器。
うそだ、と声にならない声が漏れた。
それだけは絶対に、ありえない。
盗聴器を仕込まれる、そんな誰でも考えつくような初歩的な手口に対して、ほかでもないトウコが対策を講じていないわけがなかった。
たとえどこかのタイミングで盗聴器を仕掛けられたとしてもかならず発見できる。彼女にはそういう自信があった。ストラップの件をあえて過剰に疑わなかったのも同じ理由だ。
だって、
「常に盗聴器探知機を作動させていたのに、って?」
トウコは撃たれたように動きを止めて、安室を見上げた。
逃げ道を片端から塞ぎ、追いつめるその口元には、逃げまどう弱者に対する酷薄な笑みが浮かんでいた。
「盗聴器探知機というのは、盗聴器の発する電波を感知してその場所を特定するものだ。逆をいえば、電波を発していない状態の盗聴器はいくら高性能な探知機を使ったとしても発見できない。だから、盗聴器探知機を使うような用心深い相手に対しては『普段は電波を出さずに録音だけを行い、深夜など気づかれにくい時間帯にまとめて送信する』タイプのものを仕掛ける」
そこで、彼は猫のように笑った。
「―― だなんて、その程度のこと、君に対しては釈迦に説法もいいところだね。君は、たとえ寝ている間に電波が飛んだとしても確実に発見できるよう、用心を重ねて、家でも外でも盗聴器探知機の電源を入れっぱなしにしていたはずだ。違うか?」
淀みなく語られる言葉の中に、事実と異なる内容はひとつもなかった。すべて彼の言うとおりだ。
だからこそ、トウコは混乱していた。
探知機の感知網を逃れられるはずはない。深夜から朝にかけての就寝中、電波が混線しカモフラージュしやすい夕方。盗聴器が電波を飛ばす可能性の高い時間帯をすべて網羅するように、彼女は探知機の電源をオンにしていたのだ。
形の残るものを仕掛ける際は、仕掛ける側もリスクを負う。盗聴器の存在が発覚した時点で彼の負け。だから彼もまた用心を重ね、決して見つかることのないような、確実な時間帯を狙っていたはずなのだ。
でも。
トウコは脳裏に浮かんでくる、とある可能性を必死に打ち消そうとした。
そんなことはありえない。そんな不確定要素の多い危険な時間帯に電波を飛ばすなど、見つけてくれと言っているようなもの。普通はそんなこと、誰もやらない。
いや、まさか、だからこそ。
「誰もやらないからこそ、だ。君はきわめて合理的な判断に基づき、探知機のオンオフを行なっていた。その結果、君の感知網にはひとつだけ隙間が生じることになった。君には見えない、君自身の意識の空隙だ」
生徒を嗜める老教師のように、彼女の考えを穏やかな口調で補完したあと、彼は桜のストラップをぷらりと目の前に掲げた。
「平日の十三時。この盗聴器はその時間にのみ、録音内容を外へと転送する設定にしてあった。知ってのとおり、君の大学の三限目が始まる時刻だ」
うそ、と声なき声が漏れた。
「大学の授業時間には、携帯を含むすべての機器類の電源を切る。今の大学生にしてはずいぶんと可愛らしいルールじゃないか」
大学の授業時間には絶対に携帯を見ない。電源も入れない。
授業に集中したいがゆえの習慣だった。もちろん他の人間にそれを伝えたことはない。
絶望に耐えるようにトウコはぎりりと歯を噛みしめた。
私が自分で決めたルール?
「そんな曖昧なものを根拠に、昼の一時なんていう時間を選んだんですか」
盗聴器の送信時刻は深夜に設定されることが多い。
二時から三時、三時から四時。よほど変則的な生活をしていないかぎり、多くの人間にとって、その時間帯のスケジュールはほぼ『睡眠』に確定するからだ。
不確定要素が少ないほどリスクが低くなるのは自明の事柄だ。
深夜。
それが一日の中で、隠れて電波を飛ばすのにもっとも適した時間のはずだ。
高校生や会社員ならまだしも、トウコは時間に縛られにくい大学生だ。
トウコが毎日その時間にかならず大学にいて、授業を受けているなどと、そんなことはトウコ本人にとってすら、そのときになってみなければ断言できない内容なのに。
その考えを読んだように、彼は首を横に振った。
「君が何曜日の何限に授業を取っているかは、これまでの君との会話の中でだいたい把握していたよ。時間割のうちで三限目だけは唯一、どの曜日も空きコマになっていない」
「それに、したって」
トウコは手を握りしめた。
何らかの事情でトウコが昼休みを延長して、すこし遅れて授業に出席していたら。
今週の授業をぜんぶ欠席していたら。
そもそも自分のルールを守っていなかったら。
「どれもこれも、私の気まぐれひとつで簡単に崩れてしまったものじゃないですか……!」
「僕の知る君なら、きっとそうするだろうと思っただけさ。そして君は、実際にそうした。僕の知るとおりに」
彼はしずかな声を使い、当たり前のようにそう答えた。
「君が大学で学ぶ時間を何よりも大切にしていることは、ずいぶん前から気づいていたよ。授業への出席はもちろん、少々のことでは一分の遅刻だってしない。授業の邪魔になるようなものを、授業中にためらいなく使うこともまたありえない。盗聴器探知機を使っているがゆえの油断もあっただろうが、君の行動を規定したのは、何よりも君自身の価値基準だ。そうでなければ、ストラップをあのタイミングでこの部屋に戻すこと自体できなかったわけだから」
指し示される桜のストラップ。
彼がこの部屋に侵入し、それを置いていったのはトウコが通学で部屋を空けている間だった。
彼はさっきに比べれば、まだいくぶんか人間味のある呆れ顔で笑った。
「あんな会話を聞いた翌日だっていうのに、よく普通に大学に行く気になったもんだと感心したよ。そこまでして授業を受けたいだなんて、どんな理由があるのか逆に気になったくらいにね。まあ、今となってはもうそんなことはどうでもいいけど」
トウコは泣きそうな顔で彼を見上げた。彼はそんな彼女を見下ろし、優しささえ感じさせる言い方で先を続けた。
「授業が休講にならないかどうか。冗談みたいな話だけど、僕の懸念、僕にとっての不確定事項は唯一それだけだった。君が僕を知るように、僕も君を知っている。思考の傾向、精神の構造、価値基準、趣味嗜好。君が僕を知るがゆえの方法で出しぬこうとしたのなら、僕だって同じことを考える。相手を知ろうとしていたのは君だけじゃない。良くも、悪くもね」
トウコはいつしか地面に崩れおちていた。尻もちをついた床がひどく冷たい。
はじめから全部、彼の手の上だったのだ。
部屋を出る前には気づけなかったのに、あとからよく見ればちゃんとそこに落ちていた。物をなくした、探したら出てきた、見つかってよかった。
他でもないこの男が相手なら、そんなありふれた出来事すら、異状であると疑うべきだったのに。
彼という人間を相手にするのがどれだけのことであるかを、彼女は結局本当の意味では理解できていなかったのだ。
何より、彼はトウコに無関心ではなかった。
どんなに見ていないようでも、深い関心とともに彼女の姿を常に視界に入れていた。どんなに聞いていないようでも、彼女の言葉ひとつひとつに意味を見出し、忘れず心に留めていた。
そこに潜んだ動機がどんなものであれ、彼はトウコのことをトウコ自身よりもよく理解しようと努めていた。
トウコを完膚なきまでに打ちのめし、こうして地べたに這いずらせた要因があるとすれば、その真実に気づけなかった、ただその一点に尽きるだろう。
何もかもがいまさらであることを理解しながら、トウコは震える喉を叱咤して、口を開いた。
「誰にも、何も話していません。そのつもりもありませんでした」
そう、と彼は興味なさげに応じた。
「でもそれじゃ話が続かないから、今は君の言葉に乗ってあげよう。誰かに漏らすつもりがなかったのなら、どうしてこんな真似をした?」
どうして?
彼女はほんのつかの間、自分の置かれている立場を忘れた。
そういえば、どうして私はこんなことをしようと思ったんだろう。いつだって自分の身ばかりが大事だった私が、危険を犯して、何のために。
一度は掴んだ気がしていたのに、今となってはよくわからなかった。
「ごめんなさい。わかりません」
トウコは眉毛を下げて、ありのままを口にした。それ以外にどう答えていいかわからなかった。
ただあのとき―― “トウコ”であるなら、こうするべきだと思ったのだ。
これには、さすがの彼も面食らったようだった。眉間ににわかに皺が刻まれる。
沈黙が場を支配している間、彼女には彼が何を考えているかが手にとるようにわかっていた。
だからきっと、彼もまた同じように感じているはずだった。
人間とは不思議な生き物だ。好意も興味も嫌悪も無関心も、すべては鏡写しにはね返る。
知らないことのほうがずっと多くて、そのせいでこんなことになっているのに、どうしてこんなに心ばかりが透けてしまうんだろう。
しばらくして、彼は深く息を吐いた。
「君の利口さには少なからず期待していたんだが……残念だよ。あの夜、あの場所に居あわせてしまった君の不運に心から同情する」
彼はおもむろに上着の内ポケットに右手を差しいれた。
今から何が起こるのかを察したとたん、いつか聞いた言葉が脳裏をよぎった。
尻尾を掴んで水の中にドボン。
おもわず手を握りしめる。目を瞑ってなるものか、と顔を上げたが、身体はガチガチにこわばって歯の根も合わなかった。
そんな彼女の目の前にすっと何かが突きつけられた。
しかし、それは覚悟していたものではなく―― 分厚い封筒だった。がさりと紙束の動く音がする。
「手切れ金だ」
その顔の表は相変わらず無表情の仮面で覆われていた。
困惑して、封筒と彼の顔を交互に見つめるトウコを、彼は鼻で笑った。
「今ここで殺されるとでも? 君ごときでも死ねばそれなりの手間がかかるんだ。僕には、その後始末に割く時間すら惜しい」
死なないで、済む。
そう理解した瞬間、あらゆる思いが堰を切った濁流のように溢れだした。
金を受けとれ。そしてもう二度と縁を持つな。そうすればまた元の日常に戻れる。
彼は悪人だ。彼との関係に未来はない。トウコはそんなものに手を染めるべきではない。
この場から逃げだして、すべて忘れろ。
本能や良識、その他さまざまなものが必死に声をあげていた。彼らは今まで彼女の身を守り、導いてきた、何よりも信頼できる保護者たちだった。
なのに。
あとから遅れてやってきたものが、そういうまともな声たちを図々しく押しのけた。
いつかの日、安室が見せた横顔。
それから、あのはじけるような青い光。
「僕の気が変わらないうちに、早く」
急くような言葉を吐きながらも、彼はいつまでも辛抱強く彼女の返事を待っていた。
彼女は一度瞳を伏せた後、顔をあげてまっすぐに彼を見た。
封筒には、手を触れなかった。
「要りません」
「……なんだって?」
彼は信じられないものを見たように目を見ひらいて、それから苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「もう一度だけチャンスをやる。言いなおせ」
だが、トウコは首を横に振った。
「これ以上はないくらい、寛大な処置だとわかっています。でも私、これからもあなたを手伝いたいんです。たとえそれが、私のためにならないことだとしても」
「君は、犯罪者だと思う人間の手助けをしたいと言っているのか?」
はじめて聞く、低く唸るような声だった。冷えきった言葉の奥に、身を焼くような熱さがあった。
安室透でもバーボンでもない誰かが、たしかにそこにいた。
「犯罪者に加担し、その人物に利をもたらすことはそのまま犯罪と同義だ。君はそれをみずから進んで行うと?疑問なく了承し、逆らわず、詮索せずに」
トウコは答えられずに黙りこんだが、彼はもうその曖昧さを決して許しはしなかった。
「答えろ。たとえば僕が、人殺しだったとしても?」
それこそトウコを刺し殺す言葉だった。
彼女は、やはり答えられなかった。
その沈黙をもって、彼はトウコという人間に完全に興味を失ったらしかった。金の入った袋をぞんざいにデスクに投げやって、「最後の仕事を伝える」と宣告した。
「今すぐここから立ち去って、二度とその顔を見せるな」
視界から色が消える。
最後に聞いたその声の響きが、いつまでも耳の奥に残っていた。