『これからもあなたを手伝いたいんです。たとえそれが、私のためにならないことだとしても』
その瞬間、彼の中に湧きあがったものは、途方もない怒りだった。お前は何を言っているんだ、と両肩を掴んで揺さぶって、どれだけ問いただしてやろうと思ったかわからなかった。
だがそんな熱病のような憤りも、口から出る時にすっかり冷えきったものになっていて、そのよく研がれたメスのような言葉は、おそらく冷静に彼女の心を裂いたのだ。
『たとえば僕が、人殺しだったとしても?』
幸か不幸か、彼女は否定も肯定もしなかった。
チッ、と人前ではめったにしない舌打ちをこぼして、彼はコーヒーを飲みほした。どこにもぶつけられない苦々しさの塊を、その手にぐしゃりと握りつぶして。
あの夜、女の小さな背中が闇の向こうに消えていくのを、彼はマンションの上階からずっと眺めていたのだ。
File.22 ステイ・エンド・バイト(Ⅰ)
低い空気の唸りとともに、旅客機が滑空してくる。
鳥がやるのと同じように、地面に向かって細い足を差しだしたそれは、彼の目の前を通りすぎて、遠く離れた場所へとそのまま静かに着陸した。
手首の時計を確認する。
現在時刻、二十三時四十五分。
搭乗時間まではまだ少し猶予があった。
彼はベンチに腰かけたまま、ガラスの向こうに視線を戻した。
滑走路の脇で生真面目に並ぶ二列のランプと、呼吸するように点滅する管制塔の赤色灯。闇の底にぼんやりと揺蕩うその景色を見るたび、彼はまるで夜の海のようだと思うのだった。
見ている前でまた一機、鉄の鳥が赤い光を伴って空港に舞いおりた。
ガラス一枚を隔てて、無機質に光るコンコースの端で、彼は言葉を交わす者もなく、もう長くひとりで座っていた。
仕事柄、待つことには慣れている。
ターゲットを張りこむとき、仲間からの連絡を待つとき、何時間でも何日でも、もう待ちびとは現れないのではないかと思いながらも、ひたすら待ちつづける。
そういうとき、彼の無聊を慰めるのは、通りすぎた過去がもたらす尽きることのない思索だった。それを後悔などと呼ぶのはもう何年も前にやめた。そんなありきたりな箱の中に片づけてしまえるほど、穏やかなものではなかったから。
身のうちから噴きだす炎はあまりに強く、ときに己の身すら焦がしてしまいそうだった。思いを遂げる前に己が焼ききれてしまうことを恐れた彼は、あるときからそれを胸のうちの真空に閉じこめておくことに決めたのだ。
ともすれば燃えあがりそうになる熾火から、積み木のゲームのように少しずつ薪を抜きとっていく。せっかく上手に装った『仮面』から憤怒の炎が漏れでてしまわないように。これはそういう作業だった。
すべては、奴らの喉笛を喰い破るそのときまで。
もう何千回も繰り返してきた思考をそう締めくくろうとして、胸のうちにひとつしまい損ねたものがあることに気づいた。
鋭い針金で喉のあたりを掠めるような、いいようのない苛立ちである。
あの夜から、もうだいぶ経つ。
嗅ぎまわられた不快さがあとを引いているのかもしれないし、今になってもそんなことを思い出している自分が馬鹿馬鹿しいのかもしれないし、もっといえば何に苛立っているのかわからないのが余計に腹立たしいのかもしれなかった。
苛立ち、と口の中で噛みつぶしたその味に、彼はすこし違和感をおぼえた。
苛立ちというよりも実際はもっと単純なものなのではないか、とそんな思いが心に浮かぶ。
忙しさにかまけて放ったらかしにしてきた感情の精査。苛立ちという固くて甘い層の下にある生のままの感情を、暇に飽かせて飴玉のように舐めて転がしてみる。
彼にとり己を客観視するのは容易いこと、深層に辿りつくまでそう時間はかからなかった。
そうか、と彼はガラスに映る自分に視線をやった。
あの夜、少しだけ、本当にほんの少しだけ失望したのだ。彼にしてはとても珍しいことに。
ふう、と腹に溜まっていたものを息とともに吐きだした。そろそろ潮時だと思っていたのはたしかだった。
投げたボールを追いかけては、尻尾を振って駆けもどってくるその様子が決して憎らしくはなかった。従順に命令をこなしてくるたびに、よくやったと頭を撫でてやったのも、思えば義務だけではなかっただろう。
何も知らず、ただ飼い主に褒められたいだけの無邪気な生き物。頭も鼻も利く癖にその使い道をよく知らない、愚かしくも可愛い子犬。
そう思っていたのだ。それこそ愚かなことに。
彼女は彼が思っていたよりもはるかに、いや、底抜けに利口な人間だった。
荷物をまとめ、うつむいて去っていく後ろ姿が思い出された。
彼女は言いつけどおり、あの夜以降、二度と姿を現さなかった。目に見える形だけではない。その話題が人の口にのぼり、彼の耳に入ってしまうことがないようにと目に見えないものの後片付けまでいっさいの手抜かりなく。
おそらくは今も彼女はあの街に住み、同じ大学に通っているだろう。だが、彼がそれを事実として知ることはない。
彼女の愚かさは、利口に過ぎたが故の終着点だった。
言われたままに見て見ぬふりを決めこむには、彼女は人の心に敏すぎたのだ。
表面的な満足感に目を眩まされることなく、常にその奥にある人の心を見つめていた。知るべきではないと知っていながら、それでも彼の抱えるものに目を凝らしつづけた。
彼はガラスの向こうに視線をやった。
深海のごとく広がる夜はどこまでも暗く、深い。
只人が闇を覗くその行為を、愚かだと断ずる者もいるだろう。彼もまた、その愚かしさをよく知る者のひとりだった。
だが、だからといって、どうしてそれを笑うことができるだろう。
見るな触れるなと言われても目の前の闇を見逃すことができなかった、そんな愚直な者たちこそが常に闇を暴いてきたのだから。
そうして積み重ねられた歴史の上に、彼もまた加わろうとしている。彼女の愚かさを嘲ることなどできるはずもなかった。
だからつまり、すべては彼の責任だった。
『怪物と戦う者は、自ら怪物にならぬよう用心したほうがいい。深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いている』
有名な一節が与える警告は、安易な脅しなどではない。
彼女は確かにまっすぐで純粋で愚かだった。だからこそ、道を違えるような人間ではなかった。
巻きこむべきではなかったのだ。
彼女に深淵を覗かせ、善悪の判断を失わせたのは自分だ。
電子音とともに搭乗開始を伝えるアナウンスが流れた。ループ・タイを締めなおし、ジャケットを羽織る。
例の脱走者の一件で、組織は本格的に邪魔者の排除に腰を上げた。先駆けて招集されたバーボンには、すでにいくつかの指令が下っている。しばらくは国外で活動することになるだろう。
こうして彼もまた一歩ずつ暗く深い場所へと足を踏みいれていくのだ。
目には見えない怪物どもが蠢く、この世界の深淵へ。
それがどうした、と彼は嗤った。
人間に怪物は殺せない。怪物を殺すのはいつだって人の形をした怪物だ。
いつか、誰かがやらねばならないのなら。
それこそが、彼という名もなき多面体の中心にあるたったひとつの核だった。
荷物を持ちあげようと腰をかがめた拍子に、胸ポケットから滑りおちたものがあった。
彼女から取りあげたまま返すのを忘れてしまったそれ―― ところどころ塗りが剥げた古い桜のストラップは、今となっては彼女がいた唯一の証だった。
宝物だと言っていたのに、彼女は結局取り返しには来なかった。いや、もう見たくもないと捨てていっただけかもしれない。そうだとしても、何の不思議もなかった。
しばらく迷って、彼の右手は結局それを拾いあげた。すでに盗聴器の取りはずされたストラップは、あらためて見るとただの安っぽい玩具にすぎない。
手のひらに乗せると、古く傷だらけの桜はそれでも凛と美しく胸を張ってみせた。
感傷はない。
ただ、ずっと昔においてきたはずの何かがほんの少し痛かった。