彼は駆けていた。

 追いたてられる狐のように、息を切らせ、細い通路をすり抜けながら。

 廊下の隙間に逃げこんで、肩でゼイゼイとみっともない息をする。余裕ぶって試してみた深呼吸は、だが、すぐに引き攣れた咳に取ってかわられた。

 口を手で覆い、ひどく咳きこむ。
 喉の奥から熱い塊がせり上がってきたかと思うと、ぴしゃりと粘つく水音がした。
 腔内に広がる鉄臭さ。手のひらでぬめる赤黒い何か。

 苦い笑いをこぼしたあと、彼は通路の奥へとふたたび身を翻した。



Chapter.2 浮淵のクリアライン

File.23 ステイ・エンド・バイト(Ⅱ)


 難しくはない任務のはずだった。

 組織がバーボンに命じたのは、敵組織からの情報の奪取。
 ようするに、あの裏切り者の逃亡に手を貸そうとした中国人の運び屋と、その元締めであるチャイニーズ・マフィアに打撃を加える、そのためのネタを手に入れろという話である。

 脱走者を手助けし、その対価として内部情報を得ようとする―― 組織対組織の構図においてはきわめてベーシックなやり口だといえる。

 しかし、それはあくまで横並びの関係であれば、だ。
 バーボン属する組織のテリトリーは、件のマフィアよりも遥かに“深層”にある。存在を知る者はごくひとにぎり、裏社会の者たちの間でも話題になることはめったにない。タブー視されているというよりは、語るべき内容を誰も知らない、というほうが現実に即しているかもしれない。

 組織はただ“組織”とだけ呼ばれる。
 固有の呼び名すら持たないほどにその実態は不明瞭だ。活動内容、ボスや幹部の素性など内部情報はきわめて高いレベルで秘匿され、核心的な内容が外部に漏れることはない。

 死んだ貝のごとく黙して開かぬその殻をこじ開けようと、各機関は数々の犠牲をおして諜報活動を続けてきた。
 それがようやく実を結び、内部が明らかになりはじめたのは最近になってのことである。

 破壊工作・暗殺などを行う実働部隊。特殊な分野の研究者たち。コードネームを持つ中核メンバー。加えて、さまざまな分野の第一人者や著名人、政府関係者などが多数、陰の協力者となっているとの情報もある。

 そしてそれらすべてを従え、組織の頂点に君臨する“あのお方”。

 他の大型犯罪組織と比べればむしろ少数構成とさえいえる組織規模に反して、裾野は広く社会への影響力は計りしれない。

 闇の底に潜む闇と同じ色をした何か。何よりも黒く暗いがゆえに、たしかにそこに存在するのに誰にも見えない。
 衣擦れの音さえたてず世界を蝕み、変容させ、多くの人間を食い物にせんとする深淵の化け物である。

 彼の組織は、数多存在するその他の暴力組織とはそもそも階層が違う。
 たとえるなら、池の水面を揺らす小魚がいたとて気にも留めない。こちらの縄張りを侵さないかぎりは好きなように泳がせておく―― つくづく馬鹿馬鹿しいことだが、裏社会ではそういった上っ面の鷹揚さがステータスとされている。

 バーボン属する組織も例に漏れず、他の同業者に対して“紳士”を気取ってきたわけだが、今回はその暗黙のお目こぼしを逆手に取られたかたちとなった。脱走者を取りこんだマフィアに機密情報を掠めとられる寸前までいって、お偉方もようやく事態の深刻さに気づいたのである。

 愚かな者たちに制裁を。

 その文言を聞いたとき、彼はおもわず鼻で笑ったものだった。
 抗争ではなく、制裁とは。
 加える側も加えられる側も所詮は薄汚い犯罪者集団、沼臭い魚の食い合いに面子もプライドもないだろう。

 御託はいいからさっさと潰しあって消えろ、どっちも。

 おもわず吐きすてたその言葉こそ、一連の事柄に対する彼の心からの感想だった。

 だからまあ、彼としては今回の仕事はそう力の要るものではなかったのである。一般社会に影響が出ないかぎりはどちらがどうなったところで飯のうまい話だったし、敵方の程度もたかがしれていた。

 マフィアにせよシンジケートにせよ、暴力的な組織になればなるほど『疑わしきは罰せよ』『死人に口なし』を地で行くため、諜報や情報工作の能力は低くなりがちである。

 殺しは下策中の下策。
 知られてはならない情報は、存在することすら知られてはならない。

 暴力的な連中はすぐに『知りすぎた人間を消す』と息巻くが、彼にいわせれば、“知りすぎた人間”などという存在がほんの一瞬でも発生してしまった時点で、情報工作は失敗したも同然である。
 それが彼の世界の常識であり、彼が前提とするレベルだった。

 したがって、組織の内部でメンバーの視線に晒されながらあれやこれやと立ちまわる難しさを考えれば、マフィア相手に単身で動く“探り”は、むしろ気楽な仕事といえた。

―― はずなんだけど」

 くっ、と苦笑とも呻きともつかない声をあげ、彼は破いたシャツで左腕を締めあげた。ポタポタと垂れていたのが止まり、かわりに布きれに真っ赤なシミが広がった。

 致命傷は避けたが、浅い傷ではない。
 クソが、と彼は眉間に深い皺を刻んだ。何が一番クソかと言えば、こういう箇所ケガがほかにもまだいくつかあることだった。クソ。

 誰もいないのをいいことに、人前では絶対に使わない悪態をこれでもかと並べたてた。
 名誉のために言っておけば、彼は決して気を抜いていたわけではなかったし、それによって失態を犯したわけでもなかった。

 追いつめられている理由はいたって単純。
 事前に伝えられていた情報よりも敵側のセキュリティレベルがはるかに上がっていた。それだけだ。

 傷の痛みに青筋を立てながらも、彼は無理やり口角を吊りあげた。
 上層部がこのことを知らなかったはずはない。知っていて、あえてバーボンをこの場に出向かせたのだ。

 組織の連中は時おり、思い出したようにこういった選別を行う。
 使えるか使えないか。
 存在価値の証明に使われる指標は非常にシンプルだ。
 生きて帰ればそれで良し。死ねばそこまで。捕まれば見捨てる。いや、むしろ口封じのために刺客すら寄越すかもしれない。
 口では同志だなんだと言いながら、使い勝手が悪くなればあっさりと使いつぶす。
 組織に潜りこんでから、彼はそういう“同志”をもう何度も目にしてきた。

 組織の中に人間はひとりもいない。誰も彼もが人でなしだった。
 そう、もちろん―― 自分も含めて。

 彼は自嘲した。
 必要悪、犠牲、代償。そんなお題目を掲げ、いろいろなものを切り捨ててきた。

 物事には優先順位がある。望むものすべてを選ぶことはできない。より大きく重要なもののために、目の前の小さな何かを犠牲にする。ひとつを捨てることで、多くを守ることができるのならば迷う余地はない。

 だが、切り捨てられた側からすれば、そんな話など知ったことではなかっただろう。彼らにとって、その行為は裏切りであり、過ちであり、悪であったにちがいない。

 わかったうえでそうしてきた。たとえひと皮めくった舞台裏には腐臭がわだかまっているとしても、誰かがやらなければならない。
 死体を踏みしだき怨嗟の声を受けながらも、それを“正義”として掲げる誰かがいなければならないのだ。

 だから今になって自分の番が巡ってきたとしても、それは少しも不思議なことではなかった。

 ぽたり。

 布が吸いきれなくなった血が一滴だけ垂れおちた。
 打ちっぱなしのコンクリートに鮮やかな赤色が弾けて、歪な円をつくる。
 気温はそう低くないのに、奥歯がカチカチ鳴っていた。ひどく寒い。少しずつ失われていく血は、砂時計のように残された時間を示していた。

 本来の仲間に助けを求めるつもりは毛頭なかった。ここには誰も来るべきではない。
 バーボンの正体は決して知られてはならない。
 過去すでに一度、“身内”から裏切り者が出ている。二人目は何があろうと許されない。外部からの侵入者に対して、組織が本格的に警戒を強めれば、彼の後任がここに潜りこむことはできなくなる。

 バーボンはバーボンのまま死ななければならない。
 彼にかわる新たな誰かが、またここで同じ役目を負うために。

 犯罪組織の構成員のひとりとして、ここで消え去る。それだけが今の彼に許された唯一の正しい終わり方だった。

 彼はしばらくして、手足を引きずるようにして立ちあがった。バーボンとして死ぬためには、今ここで死体になることだけは避けなければならなかった。

 死人に口なしというが、実際のところ死体はよく喋る。
 どんなふうに死体を調べられても身元がバレないように、そして彼が組織の手の者であったことがマフィア側に知られないように、痕跡を消しておく必要があった。 

 バーボンは最後まで機密を守り、組織の利益のために尽くそうとした。
 最終的に組織のもとに届けられる報告がそう締めくくられるように。

 溶鉱炉なんかがあればてっとり早いのにな、と彼は顎に手をやって考えた。
 たとえば、あの有名な映画みたいな。未来からきたアンドロイドが、サムズアップを残して沸きたつ火の中にドボン。スパイの視点でみれば、理想的な死に方かもしれない。

 彼はぐるりと周囲を見回した。薄暗く埃っぽい廊下には、溶鉱炉どころか暖房器具ひとつない。いっさいの音と気配を遮蔽しながら、窓のない無骨なコンクリート壁がどこまでも続いている。

「贅沢は言えないな。残念」

 おどけたように肩を竦めながら、冗談を言うだけの余力があったことに安心した。
 少々気を持ちなおした彼は、ふらつく足を叱咤して先の見えない廊下の奥へと歩きだした。


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