暗い部屋の中、デバイスの画面が目を刺すような光を放っている。エンターキーを押し、最後の情報が送信されるのを見送った。

「任務完了、と」

 デバイスの電源を落としたあと、内部のSIMを抜きとって指先でぱきりと割りつぶした。
 奪取を命じられていた情報はすべて転送を終えた。あとはベルモットあたりがうまくやるだろう。

 データの転送と並行して、バーボンと組織との関連を匂わせる情報の削除も何とか間に合わせた。これでマフィアが彼の死体を調べても、組織の構成員であったという事実は発覚しない。

 バーボンは指令を完遂したうえで、最後まで組織の利益を守るために尽くした―― そういう評価を得たまま、彼は役割バーボンを終えることができる。スパイとして怪しまれるどころか、むしろとんだ忠義者だったとお褒めの言葉さえいただけるかもしれない。

 ジンあたりがそんなことを口にしているところを想像して、あまりの滑稽さに小さく噴きだした。
 腹を抱えて笑いたくなるくらい、くだらない想像だった。



Chapter.2 浮淵のクリアライン

File.24 ステイ・エンド・バイト(Ⅲ)


 さて、次はどうしよう。
 バーボンが組織の人間であるという痕跡は消した。今日ここに忍びこんだ彼が、例の組織の一員であったと知られる可能性は十分に低くなった。

 では、バーボンが組織の人間でない“他の誰か”であると露呈する可能性は?

 そう自問して、そんなものは懸念する必要すらない、と自答した。

 バーボンの痕跡は消したと言いつつも、所詮は土壇場の工作だ。マフィアたちにバーボンが組織の人間であるとバレる可能性はまったくのゼロではない。執拗に嗅ぎまわられた場合には、運悪く知られてしまうこともあるだろう。

 しかし、バーボンが実は組織の人間でない“別の誰か”だったという痕跡が見つかることだけは絶対にありえない。
 なぜなら、そんなものははじめから存在すらしないからだ。
 組織に潜入して以来、バーボンは彼の本当の素性に繋がる情報を身のまわりに残したことは一度もない。

 バーボンが降谷零と結びつくことだけは絶対にない。たとえいつどこで死んだとしても。

 だから、やはりそんなことは考える必要もないのだった。

 ぽたり。
 近くで水の滴る音がした。自分の身体から垂れおちたものでないことは感覚でわかっている。きつく締めあげたおかげか、出血はすでに溢れでるほどの勢いではなくなっていた。

 あれからどれくらい時間が経ったのだろう、といつもの癖で腕時計に視線をやって、彼は肩を竦めた。

 流れ弾が掠めたのか、文字盤はガラスともども修復不能な状態にまで壊れている。
 つい数ヶ月前にそれなりの額で買ったばかりのそれは、数ある時計の中でも上から二番目くらいのお気に入りだった。修理保証には入っているものの、さすがにこの壊れ方では受けつけてもらえないだろう。

 はあ、とため息をついて、髪に片手をつっこんだ。
 ぼろぼろなのは時計だけではなかった。喉はカラカラ、血は固まってバリバリで、痛いというより何もかもが重い。血のこびりついた髪を指先でほぐしながら、その凝固具合で正確な時間の経過を測ってみた。

 負傷してからだいたい二時間三十分。
 当初予想していたタイムリミットを大きく過ぎても、彼はまだなんとか生きていた。思っていたよりも身体はずっとタフだったらしい。常日頃から鍛えておくものである。

 うまくいけば逃走の目もあるか。
 そんな思いがよぎったとき、エレベーターの稼働音が聞こえた。続けて、チン、と薄情な開扉音。

「まあ、そう上手くはいかないか」

 軽い口調とは裏腹に、背中に冷たい汗がにじんた。息を殺して、荒々しい靴音に耳を澄ませる。
 おそらくは四人。詰まった重い足音には殺気がみなぎっていた。敵は本気だ。遭遇したが最後、かならず戦闘になる。

 口止め料をわたしてハイさようなら、なんてそれこそ絶対にありえない。
 いつかの己の行動を思いだして、彼は笑いだしそうになった。

「ほんっとに、アレは自分でもどうか思うくらい寛大な処置だったな」

 ベルトに挟んだままだったオートマチックを抜きとった。残弾は少ないが、訓練でも実戦でも、射撃の腕で人に遅れをとったことはない。あの眠りの小五郎の前ではさすがに披露する気にならないとしても。

 机を盾にしながら、入口に向かって銃を構えた。こうなったら行けるところまで行く。
 瞬きを忘れて、敵の出現までカウントダウンを行う。

 三、二、一。 
 ゼロ。

 先頭の敵が視界に入った瞬間、その片腿に狙いを定めてトリガーを引いた。
 暗闇の中、一射目が命中したのを気配で感じとった彼は、射線を保ってそのまま連射した。

 あられのない悲鳴とともに敵の身体が床に転がる。まずは一人目。
 敵の放った見当違いの弾丸が、数ミリの差で髪先を掠めていく。

 身体を捻って残りの弾を避けながら、敵の懐に入りこみ銃を弾きとばす。そのままその肩に銃口を押しつけ、二人目。撃ちぬいた肩ごと踵で地面に蹴り転がしておく。

 背後の気配に振りむきざまトリガーを引いた。
 が、返ってきたのは発砲音ではなく、カチンというお粗末な感触だった。見れば、ホールドオープンしている。弾切れだ。

 乱戦の最中とはいえ気付かなかった自分に呆れる。舌打ちした彼は、無用の長物となった銃を何の迷いもなく敵の顔面に投げつけた。驚いてさがったところに、容赦のないフックを決める。三人目。

 これで残るは一人。

 劣勢になったことに気づき、逃走の姿勢を見せた最後の一人は、空手よろしく高い回し蹴りで柱に叩きつけた。
 うずくまる暇さえ与えず、ボディーブローでとどめを刺す。

 四人分の身体が地面に転がったのを見届けて、ふう、と額を拭った。しかし、もうひと息つく間もなく、また複数の足音が聞こえてきた。
 さっきとは比べものにならない人数である。

 拭ったばかりのこめかみに今度は冷たい汗がにじんだ。侵入者の存在が知れわたり、いよいよフロアに人が集まってきている。

「……まずいな」

 切迫した状況に追いうちをかけるように、くらりと一瞬、目の前がぼやけた。
 貧血の吐き気と強烈なめまいに歯を食いしばる。血を大量に失った状態であれだけ激しく動いたのだ。むしろまだ昏倒していないのが不思議なくらいだった。

 倒れた敵の手から銃器を取りあげてみたが、弾はほぼ撃ちつくされていた。あの人数を相手にできるほどの力はもうない。

 奇襲で最初の数人を倒して、その身体を盾にして数秒しのぐ。
 それから、そのあとは。

 思考がそこまで至った瞬間、いつかの春の日、桜の下で彼女がつむいだ歌がふと思いだされた。

 ねがはくは――

 続く言葉がまるで身体の一部のようにすんなりと思いうかんだ。あのとき安室透には理解しえなかったその思いが、『彼』にはよく理解できた。

 バーボンとして死んでも、安室透として死んでも、誰として死んでも変わりはない。重要なのはそこじゃない。

 そんなことくらい、わかっているのに。

「花の、下にて」

 誇り高く輝く旭日の章。桜花と見紛う美しいそれに、彼はたったひとつの魂を捧げた。
 だから、だからこそ、春になれば薄紅に染まる、はるか遠いふるさとの地が、泣きたくなるほど恋しかった。

 祈るように、請うように目を瞑る。しかしそれは文字どおり、瞬きと見紛うほどの間だけだった。

 彼は汗でぐちゃぐちゃに濡れた顔を、強くぬぐった。顎をひき、まっすぐに前を見すえる。拳を握り、胸の高さに構える。
 彼はバーボンとしてここで消える。組織の忠実な犬として、降伏を選ぶことなく最後まで抵抗する。

 たとえ何を捨てることになったとしても、この道を歩きつづけると決めたのだ。

 ふう、と深呼吸をして敵を待つ。足音を測り、カウントダウンを始める。

 三、二、一。
 ゼロ。

 その瞬間、ブツン、とすべての電気が落ち、あたりは完全な暗闇に包まれた。
 ゼロカウントとともに飛びだそうとしていた彼は、思わずその場でたたらを踏んだ。
 こんな時に停電?

 遠くで、ガン、と何かが閉まる大きな音がした。続けて、似たような音があちこちから聞こえはじめる。
 さしもの彼も動きを止め、金属で地を打つような重たい響きに耳を澄ませた。

「防火扉か?」

 ガン、とすぐ近くでひと際大きな音が響いたのを境に、あれだけうるさかった足音がぴたりと聞こえなくなった。何が起こっているのか把握する術を持たないまま、彼はそれでももう一度態勢を整えた。

 入口に向けてふたたび警戒を強めたとき、プツ、とどこからか通信音が聞こえた。言葉にできない予感に駆られて、彼は慌てて音の出どころ、自分の胸元に手を突っこんだ。

  胸ポケットから出てきたのは、あの桜のストラップだった。

 音など出ないはずのそれは、今やプツ、プツ、と途切れがちなノイズを発していた。
 しばらくして彼の目の前で、プチ、と大きめの音を立てて通信を確立したストラップは、のんきな声でこう告げた。

『あー、あー、こちらブルーチーズ・ワン。応答願う、どうぞ』

 どこかで聞いた覚えのある、いや、聞いた覚えしかない声に、彼は思わずストラップを取りおとしそうになった。

『聞こえてますかー?あなたの可愛い床下ネズミが一生懸命に応答を願ってるんですけど。へーい、チーズプリーズ!』

 あろうことか、反応しづらいネタを冒頭からぶっこんでくる。開いた口が塞がらないとはこのことである。
 ぽかんとしたまま桜のストラップを凝視していると、とうとう相手方が哀れっぽい声で鳴きはじめた。

『無視しないでくださいよう、って実は通じてなかったりとか。ん、えっ、まさか本当に私、すごく独り言の激しい人間になってる?テ、テステス!聞こえてますか、どうぞ』

 緊張感のない声がわわわと緊張感のない慌て方をする。敵地の中心だというのに、彼はしばらく間抜けな顔でストラップを眺めていた。

 何でここでお前が出てくる。

 そう思った途端、「フッ」だか、「プッ」だがなんだかよくわからない息が意図せず口の端から漏れた。そこでようやく彼は自分の喉から小さな笑いがこぼれていることに気づいた。

「ふっ……はっ、あはは」

 笑う場面ではないことくらいわかっていたが、一度笑い出すともう止まらなかった。持ちあげるのさえひと苦労の手で顔を覆い、クタクタでボロボロの身体をよじる。

「ぶっ、ははっ、あはははっ」
『そ、そんなに笑う場面じゃないですよ!ていうか、聞こえてるなら返事してください』
「だっておかしいだろ、なんだこれ」

 ストーカー女ふたたび、なんて文言を自分で思いうかべて、また馬鹿みたいに噴きだしてしまう。全然面白くない。全然面白くないのに。

 彼はその場でひとしきり笑ったあと、乱れた髪を掻きあげた。言いたい言葉は山程あったが、言うべきセリフは決まっている。
 彼はいたずらっぽい笑みのまま、ストラップに口元を寄せた。

「こちらチェダーチーズ・ツー。ターゲットについては―― 始末するどころか、逆に始末されかかってるよ」

 ブッ、と今度は無線の向こう側で噴きだす音が聞こえた。
 そして、聞きなれた、懐かしい女の声が、同じくどこまでも懐かしい故郷の言葉で笑い混じりにこう返した。

『はいはい先生、何でも仰ってくださいね。十五分で片付けますから』


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