File.26 そしてクリアラインは潜航する
ゲートから出た途端、狙いすましたように携帯が鳴った。
立ちどまり、しばらくその場でメッセージを眺めたが、結局何もせずにまたポケットに突っこんだ。
深夜の空港に人はまばらである。
ベンチに腰かけてうつらうつらと夜明けを待つ客たちの前を通りぬけた彼は、小さなスーツケースを伴ってひとりロビーを歩いていった。
外に出ると、生温い夜風が頬を撫でた。
腕にかけたジャケットの裾をひらひらと遊ばせながら、すでに業務の終了したバスロータリーを見渡す。
そのいちばん隅にひっそりと、ついさっき連絡にあったとおりの車が停まっていた。
青のBNR34・GT-R。
近くまで行くと、待ちわびたようにトランクのロックが外れた。スーツケースを放りいれてツードアクーペの助手席に乗りこんだ彼は、開口一番こう言った。
「まさかとは思うけど、君の?」
「それこそまさかですよ。友達に借りたんです」
「これVスペックだろ?ちょっと信じられないくらい心の広い友達だな」
「そうなんです。良い人なんです」
余計なことは言わせないぞ、とばかりにじろりと目で牽制されて、彼はあとに続くおなじみのセリフを飲みこんだ。
へえ、友達いたんだ。
シートベルトを締めて座りなおすと、磨きあげられたフロントガラスが鏡のように顔を映した。スレ傷ひとつないダッシュボードから視線を横に流し、インパネを確認する。
走行距離は一万キロそこそこ。さっき外から見た車体の印象もあいまって、彼は内心「へえ」と舌を巻いた。
R34型GT-Rは十年以上も前に生産の終了している車種である。現在の入手は中古市場のみとなるが、いまだ非常に人気が高く価格はかなり高騰している。これだけ状態の良いものならおそらく一千万はくだらない。
とんだ友人もいたもんだ、とため息をついた。彼女の通う明應義塾大学は国内トップクラスの名門私立である。一千万の車をぽんと人に貸すような生粋のボンボンやお嬢がいたとしてもまったく不思議はないけれども。
インパネから視線を戻すと、高級感のある本革巻のシフトノブが視界に入った。つるりと硬質なその天辺には見なれた配置で数字が刻まれている。この年代のスポーツカーならマニュアルは当然の設定だろう。
「ちなみに―― 」
「MT免許はちゃんと持ってますよ。もちろんペーパーじゃないやつ」
先まわりしてそういう一言を付けくわえてくるあたり、彼女もなかなかわかってきたようである。
助手席の準備ができたのを確認して、トウコは慣れた様子でエンジンをかけた。
ローに入れて、流れるようにクラッチを繋ぐ。本人の申告どおり、きわめてスムーズな発進だった。
こなれたステアリングと、淀みのないシフトアップ。運転の様子を横目でしばらく眺めた後、彼はシートに深く背を預けた。
最後に助手席に乗ったのはいつだったろう。
どんなに疲れている時でも自分で運転したほうが楽だった。いつからだろう、彼はそういう人間になり、またそういう生き方をするようになっていた。
高速道路入口の案内標識が現れたところで、トウコはアクセルを踏みこんだ。気持ちのよい高音とともにスピードメーターが勢いよく回る。
チューニングによっては五百馬力をゆうに超えるエンジン・RB26。直線の伸びは申し分ない。
高速に乗ってしばらく、タコメーターの針が安定してきたあたりで、彼女はようやく喋りはじめた。
隣人と世間話をするよりも、もっと軽くてのんきな口調だった。
「あなたの愛車を拝借することも考えたんですけどね。ほら、マンションの駐車場に停めっぱなしだったでしょう。イモビの解除くらい、私にとっては朝飯前―― いや、これ以上はやめとこ」
「利口だな。僕のマツダを持ちだしてたら、さすがにゴリラになってた」
セーフ、とトウコが頬を引きつらせた。 例の施設でのアレコレを思いだしたらしい。
「そういえば、怪我はもういいんですか」
「傷自体はそう酷いもんじゃなかったからね。一週間ほど寝て過ごしたけど、退屈で仕方なかったよ」
「そうですか」
「ああ」
お互いになにか言おうとして結局、会話はそこで途切れた。
エンジンが唸り、景色が飛ぶように流れていく。夜の首都高は静かだった。
しばらくして口火を切ったのは彼のほうだった。
「発信器はいつ仕掛けたんだ?」
「最初からですよ」
そう答えた女の顔をつい覗き見てしまった。
まっすぐに前を見て運転するその横顔には、彼を出しぬいた優越感も出しぬいたが故の罪悪感も浮かんではいなかった。
「心拍数や血圧が極端に上下したとき。簡単にいうと、持ち主が死にかけるとオンになる仕様だったんです。それ以外のときは起動しません。いくら安室さんでも事前に気づくのは難しかったはずです」
「つまり、やったことをやり返されたわけだ」
彼はため息まじりの呟きを零した。電波を発していない盗聴器は見つけられない。それは自分が彼女を嵌めたそのままのやり方だった。
しかしトウコは意外にも否定するように頭を振った。
「そのストラップの仕掛け、もともとは自分の護身用に作ったものなんです。だから『やられたからやり返した』というよりも、もとから発信器だったものに安室さんがあとから自分の盗聴器をくっつけちゃったっていうのが実際のところで」
「でも、それを僕のもとに置いていったのは君の意思だろう」
「だとしても、それを持っていったのはあなたの意思ですよ」
ある意味、刃物のような冷静さで切りかえしたトウコだったが、続く言葉は打って変わって独り言のような小声だった。
「私がストラップの発信器を通して知っているのは、あなたが負傷して以降の出来事だけです。誓ってそれ以外は盗み聞いていません。いまさら信じてもらえるかはわかりませんが」
「……信じるよ」
トウコが静かに息を飲んだのがわかった。前を向いたまま、彼らはまた黙りこんだ。
深夜の高速は静かだった。
空の高いところで星がビーズのようにいじらしく瞬いている。
ちらりと隣の女を見ると、こちらでもまた黒々としたまつげが光を受けて、小さな星のように瞬いていた。白い頬の上をオレンジ色のナトリウム照明がちらちらと通りすぎていく。
造作を問わず、静謐さが美しい横顔だった。
思えば、今の今までそんなことすら知らなかったのだ。
彼らの間にはずっと透明な境界線があった。はじめにそれを引いたのは彼だったが、大事に守って育ててきたのは彼女も同じだった。
お互い知らないことだらけだった。
なのに、どうして、心ばかりがこんなに透けてしまうのだろう。
しばらくして、トウコが口を開いた。
「ごめんなさい」
「何が?」
意地悪な言い方だったと、口にしてしまってから気づいた。だが彼女はそんなことは大して気にしなかったようで、ただ自分の中と何かとだけ戦うように、ゆっくりと続けた。
「私、安室さんの言いつけを二つ破りました。疑問を持たないこと。それから、詮索しないこと」
「正しくは三つだ。逆らわないこと」
そうですね、とトウコはまつげを揺らした。ここから先は避けては通れない話だった。彼が彼であるかぎり、どうしても言わねばならないことだった。
「わかっているなら、どうしてまた僕の前に現れた。言ったはずだ」
二度と顔を見せるな。
繰りかえされた言葉は、聞きようによってはひどく冷たいものだっただろう。
彼女は一瞬、抗うように唇を噛んだが、じきに力を抜いた。水平線でも眺めるような偏りのない視線で、目の前にある見えない何かを見つめて言った。
「言いそびれたことがあったんです。言葉が足りなかったというべきかもしれませんが」
だから戻ってきました、とトウコは言った。
その口元に、黙って視線を定める。
「私はあなたが誰であったとしても仕事を手伝いたい、と言いました。でも、その理由を伝えていなかったって、あとから気づいたんです」
言葉にしづらい言葉を振りしぼるようにして述べたあと、トウコはいったん間を取った。
あのとき彼の拒絶の裏にあったものを、きっと彼女は知っていたのだ。
だったら彼にはその話を聞く義務がある。
「まず最初にいちばん大事なことを言わせてください。出会ってから私は安室さんといろいろな話をしました。いえ、話だけじゃないですね。一緒に調査をしたり、人の相談に乗ったり。何もかも知りあったうえでのことではなくとも、それは決して薄っぺらな時間ではありませんでした。少なくとも私にとっては」
先程までの逡巡が嘘のように、一度話しはじめると、トウコはすらすらと言葉を紡いだ。
「そのうちいつしか、私の中にはある感情が湧くようになりました。安室さんと会うたび、安室さんと話すたび、だんだん抑えきれなくなった」
言葉に熱がこもる。噛みつくような激しさと蕩けるような恍惚があい交わったような声だった。
「私、ずっとあなたのこと」
唇が思いを紡ごうと小さく動く。
す、から始まるその言葉。
見ようと思って見ているわけではないのに、引きよせられたように視線が離れない。
唇が動き、吐息とともに言葉が吐きだされた。
「スマキにして海に投げこんでやりたいと思ってました。ごめんなさい、いや全然ごめんじゃないな。全面的にあなたの自業自得です」
「……は?」
たぶん彼が大人になってからの五指に数えていいくらい、心の底からの「は?」だった。車内に満ちていたそれっぽい空気が一瞬で霧散する。
「ちょっと脳が追いついてきてないんだけど。なにって?」
「だから、スマキにして海に投げこんでやりたかったって言ってるんです。安室さんにしてはちょっと理解が遅いですね……あっ、もしかしてあっちで頭でも打ったんじゃ」
はっ、と口を押さえ、哀れみのこもった目で見つめてくるトウコ。頭を打ってるのはそっちだろう、と彼は本気で隣の女の正気を疑った。
だいたい『ごめんなさい』ってなんだ。この流れ、はじめから謝る気なかっただろ。
「一応理由をきいておこうか」
隣でクワッと目を見開いたのがわかった。本革巻のハンドルをぎゅうと握りしめ、トウコは「だって!」と叫んだ。
「ボコボコ殴るし蹴るし踏むし、プライバシーは侵害するし!自己評価とプライドがチョモランマなせいで人の意見は右から左の流しそうめん、気に入らなければパワハラ・セクハラ・モラハラのトリプルコンボ!顔が良くて、背が高くて、良い車に乗ってたらなんでも許されると思ってるんですよね、安室さんは。ご存知かどうか知りませんけどね、イケメンで済んだら警察はいらないんですよ。あとは、えっとなんでしたっけ、名前。ボンバー?ザーボン?ドドリア?まあなんでもいいです。そういう怪しげな名前を名乗って、いろいろと怪しげなことを企んだあげく、昼はひねもす夜は夜もすがら一生懸命尽くしている子分のことを害獣呼ばわり!」
ノンブレスでそこまで言いきったトウコは、きっ、と前を睨んで荒々しく車線変更をした。ネズミの件、そうとう根に持っているらしい。
高速の出口を出るといよいよ街の明かりが見えてきた。
彼女はエンジンをふかしながら、フロントウインドウに向かって噛みつくように畳みかけた。
「わかってますよ!安室さんはちゃんと事前に警告してくれていたし!そのうえで聞いちゃったのは自分のせいだし!余計なことに首を突っこんで自爆した大馬鹿野郎のトウコですよ!でも、でも……それでも……」
張っていた声が、急にしゅんと尻すぼみになった。
「ショックだったんです。ちょっとだけ」
よろけるように語尾が震える。これまでに一度も聞いたことのない弱い声だった。
さっきまでのスムーズさが嘘のように、シフトレバーをみっともなくガチャガチャやって減速した彼女は、赤信号の前で停止線はみだし気味に車を停めた。
唇を噛みしめているようなその横顔に、気付けば手をのばしていた。
顎のあたりを軽く掴んで自分のほうに向けさせる。抵抗する気配があったが、構わず引きよせた。
こちらを向いたトウコは、目尻をわずかに染めた、今にも泣きそうな顔をしていた。
はじめて見るその顔に、彼は閃光のような何かを頭から撃ちこまれたような、ひどいショックを受けた。
どこか呆然とした気持ちになって、ますますその顔を凝視した。
「み、見ないでくださいよ!」
トウコは彼の手を振りはらうように、顔を背けた。
いまだぽかんとしたままだった彼は、彼にしては珍しく、心に浮かんだ言葉をそのまま口からこぼした。
「なんで?」
「な、なんで!?」
彼女はぎょっと目を見開いた。
「こ、こんな顔を人に見られたら、誰だって普通に嫌じゃないですか!そ、それくらい察してくださいよう。小学生の男の子じゃないんですから」
目に見えて動揺するトウコに、安室は困って首をかしげた。
「そんなこと言われても」
「き、今日ばかりは可愛らしく小首をかしげたってだめです……!こっ、これ以上、デリカシーのない発言をするなら、急ハンドルで窓から車外放出しますからね!こうみえてやればできる子なんですよ、私は」
ぐいっと顔を拭ったトウコは、鼻水をすすりながらサイドブレーキをつかんで威嚇した。
言ってることもやってることももうめちゃくちゃである。
友達の車で無茶するな。そう言ってやろうとして開いた口から出てきたのは、しかし、自分でも意外な一言だった。
「ごめん」
信号が変わって、今まさに発進しようとしていた車が、ガックンと急停車した。慌ててうしろを確認したが、幸いにも後続車はなかった。
危険ブレーキをかけた張本人は、黒い目をいっぱいに見開き、ぱちぱちと瞬きを繰りかえしていた。
「えっ、と」
「だから、ごめんって。いろいろと」
トウコは酸素の足りない金魚のようにしきりに口をパクパクさせていた。目の前にいる男は本当に自分の知る人物なのか、と言わんばかりに、目から鼻から舐めるように凝視してくる。
さすがにそこまで驚かれるとは思っておらず、彼は拗ねた声を出した。
「俺が謝るの、そんなに意外なわけ?」
「い、いや。そういうわけじゃ」
「だって、こうでもしないとバランスが取れないだろ」
バランスって何だよ、と自分にツッコみたくなった。
金色の髪の毛にみずから片手を突っこんで荒っぽくかきまぜる。
「あーもー!とにかくこのままじゃ座りが悪いってこと。それだけ!」
シートにそっくり返った彼は、運転席のトウコを横目でちらりと見てから、呟くように訊ねた。
「話の続き、聞いても?」
トウコは少し驚いたように彼を見て、それから小さく頷いた。
車はすでに走りだしていて、窓を開けると湿っぽい夜気が入りこんできた。運転席の方でもそれに習うようにウインドウが下ろされる。
車の中にぬるい夜風がゆるゆると吹きとおった。
黒髪を風に揺らしながら、トウコは独白のような話をはじめた。
「安室さんと別れてから、ひとりで考えたんです。私は結局なにが知りたくて、あんなことをしたんだろうって。何度も何度も考えました。それでやっとわかったんです」
そこで一旦言葉を切り、白い喉は次の言葉を紡ぐ準備をした。
「私が『線』を越えても知りたかったのはね。あなたそのものじゃなく、あなたの見ているものだったんです」
トウコはそれこそ何か別のものを見ているように、フロントウインドウの向こうに視線をやった。
深夜の市街地にはネコ一匹いない。
動きのあるものといったら、夜空で瞬く星くらいのものだったが、そんなに遠いものを見ているようには思えなかった。
彼女の瞳が捉えているのはきっと、すぐ目の前にあるものだ。
「あなたはいつでも何かを一生懸命に見つめていました。だから私もそれに興味が湧いたんです」
「僕の見ているものが、良いものだとは限らないだろう」
彼は、かすれた声でかろうじてそう答えた。
ウインドウの向こうに広がる東京の闇は、眩いネオンのもとにあってもいまだ暗く、深い。
「そうでないものを見ているときもあるんでしょう、きっと。今回の件では特にそういうふうに思いました。でも思いだしたんです。あの時のあなたのこと。あなたが本当に見つめていたいもののこと」
あのとき、がいつを指すのかはわからなかった。トウコがふと、口元をゆるめた。
「怒らないでくださいね。その何かを見ているとき、あなたはまるで、恋する男の子みたいなんです。青い光がぱちぱち光る、透きとおった綺麗な目。そんな瞳で追いかけているものは、さぞかし美しくて、価値のあるものなんでしょう」
彼女は静かにブレーキをかけて、路肩に車を停めた。ハンドルから手を離し、トウコは今度こそ正面から彼に向きなおった。
「あなたが一途に恋する相手に、私も興味が湧きました。そんな綺麗なものに夢中になって生きられたならどれだけ素敵だろうって。こんな私がおこがましくも。だから、あなたが誰かということは関係ありません。だって、大切な部分はそこじゃないから」
内だの外だの真偽だの、そんなことは昨日の天気よりもどうでもいい。無数の側面が重なりあってできているのが人間で。
すべてを取りさったあと、いちばん最後に残るのは?
それは誰でもない彼自身が、いつか彼女に与えた答えだった。
運転席を見れば、トウコは落ちつかなさそうに黒いまつげを瞬かせていた。だがその奥にある瞳は、これ以上ないほどまっすぐに彼を見つめてくる。
彼は深く息を吐き、すこし眉毛を下げた。それは偶然にも、彼女がいつもやっている仕草だった。
「だったら、僕が言うべきことはひとつだ」
彼もまた身体ごと隣に向きなおり、まっすぐに相手を見つめた。
運転席と助手席。
遮る物も目を逸らす猶予もない距離感に晒され、細く白い喉がこくりと緊張を嚥下した。
「僕の負け。つまり、君の勝ち」
黒い瞳が見開かれ、水面を打つように一瞬、潤んで揺れた。
それは彼でなければ見逃していたに違いない、本当にささやかな変化だった。
敗者は勝者にささやいた。
「どうして欲しい?」
ここまで彼を追いこんだのは彼女自身というのに、いざこうなるとトウコはなかなか返事を口にしようとしなかった。叶うまではあれこれと必死に考えていたのに、本当に叶ってしまえばどうしていいかわからない。まるで幼い子どものように、彼女は途方に暮れていた。
力の抜き方を知らないまま、膝の上で握りしめられた手。それが小さく震えているのに気づいたときにはもう、勝手に腕が伸びていた。
だが、指先がその手の甲に触れるか触れないかというところまで来て、彼は動きを止めた。
夏の夜だというのに凍えて縮こまった手は、色をなくし、うっすらと汗ばんでいる。たっぷりひとまわりは華奢な手の甲の、ひやりと吸いつくような冷たい皮膚の感触が、彼には容易に想像できた。
彼には、できるのだ。
その事実に気づいたとき、彼はようやく本当の意味で、自分がこれまで彼女にしてきたことを悟ったのだった。
ああ、こうじゃない。
いったん手を引っこめた彼は、すこし考えてから、もう一度ゆっくりと手を差しだした。今度は手のひらを上に向けたまま。
他人を気取るには近く、触れるには遠い。そんな距離感を保って伸ばされた手に、かたくなに結ばれていたトウコの拳が、つられるようにわずかに緩んだ。
せっついてしまいたい気持ちを抑え、彼はそのままの体勢でじっと待った。待つことが必要ならば、必要なだけ待とうと思った。
それから、花がほころぶようにすこしずつ、白い指は開かれていった。凝りかたまり、絡みあい、不自由になってしまったものを元に戻そうとするかのように、閉じたり開いたりを繰りかえす。
そうしてたっぷりと準備運動を終えたあと、トウコの片手はとうとう綿毛が浮きあがるようにワンピースの膝を離れたのだった。
長い時間をかけて、手は胸のあたりまで持ちあげられた。
だが、空気が邪魔でこれ以上は進めない、とでも言うかのようにそこから先にはなかなか動こうとしない。
彼は思いきって、人指し指を小さく動かしてみた。子犬を誘うような、むずむずとくすぐったい手まねき。
辛抱強く、なんどもなんども呼びかける。
しばらくして折れたのは、トウコのほうだった。
宙で迷っていた手が、ゆっくりと高度を下げはじめる。
そしてそれは最終的におそるおそる着陸した。
待ちうけていた、彼の手のひらの上に。
とん、と手と手が合わさる。
想像どおりの、ひやりと冷たい手のひらは、だが、想像よりもずっと人らしい人の重みがした。
いまだ遠慮がちに乗せられただけのそれを見て、彼は人差し指で下からとんとんと手首をつついて催促した。
ぴくりとワンピースの肩が震える。いいのか、とでも言いたげにおずおずと見つめてくる黒い瞳に、彼は言った。
「言ったろ、君の勝ちだって。それにもう今更だろ」
「……そっか」
合わさった手に、彼女は今度こそ力を込めた。
うかがうように一度そっと握ってから、次は確かめるように、強く。
長い、本当に長い時間をかけて彼をつかんだトウコは、そうしてやっと顔を上げたのだった。
「ありがとう、安室さん」
笑っているような泣いているような、はたまた途方に暮れているような、眉毛の下がったいつものあの顔だった。
それを見たとたん、国を離れてから今に至るまでずっと張りつめっぱなしだった全神経が、くたりとヘタれた。吹っきれたように肩が軽くなる。
なので彼もまた心のおもむくまま、彼女の手を握りかえした。
正確には、握りつぶした。
「いッ、痛ァー!」
色気もなにもない叫び声とともに、シリアス眉毛が面白いくらいに崩壊した。
「ちょっ、あっ、あだだだだ!いだっ、ちょっ!何故っ!?」
「握手」
「は?えっ、これが?どっ、どこの国のスタイルですか、って、あっこれ無理、いだだだだ!」
久しぶりの感触に多少は手加減しつつ、それでも思う存分ぎゅうぎゅうと締めつぶしながら、これも実際なかなか悪くないんだよな、としみじみ思う彼である。
ひととおりすっきりしたところで力を抜くと、トウコはぐったりとシートにもたれかかった。
「こんなことってある……?」
「君がいつまでも難しい顔をしてたもんだから。アイスブレイクだよ」
「安室さんは多分、アイスブレイクの意味知らないんだろうなあ。物理的にブレイクしてどうす―― いだだだだ!」
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
素直に謝りつつ、トウコは『私なんで謝ってるんだろう』というような顔をしていた。
「僕もさ、いろいろ考えたんだよね。見てのとおり、僕はけっこう忙しい。かといって、下手に人に頼むと指示だの説明だので余計に手間がかかる。何が言いたいかわかる?」
彼女はすこし考えるフリをしてから、答えた。
「つまり、あなたの言いたいことを一から十までオートで察し、三百六十五日・二十四時間営業の短納期、犬のごとき服従心を持ちあわせ、ストレスが溜まった時にはコンガやグリッパーのかわりになれるうえ、オプションでマフィアとのドンパチにも対応できる、そんな人材をお探しってことですね」
つらつらと述べたてたあと、トウコは大げさに肩を竦めてみせた。
「はー、そんな素敵にコンビニエンスな人なんているのかなあ。もし万が一実在したとしても、突然の理由なき暴力に耐えかねて『やっぱやめとこ』ってなってるような気がするなあ」
「だからってもう後には退けないけどね。契約成立の握手も済んだことだし」
トウコはぎょっとしたように助手席を見た。
「さ、さっきのって、まさかそういう」
「熱い気持ちで握りしめたら身体をよじって全身で喜びを表現してくれたよ。合意のうえで、っていうのは大事だね。よかったよかった」
「あー、そこにある私の携帯とってもらえません?ちょっと消費者庁にクーリングオフの相談を」
「とってあげてもいいけど、相談窓口は平日の十時から十七時までだからね」
安室は手の上でぽんとトウコの携帯を転がした。かざりっ気のないそれを見て、彼はああそうだ、とポケットに入れっぱなしだった物を思いだした。取りだして、もとあったように結びつけてやる。
古くて傷だらけのストラップ。桜色のそれを携帯ごとぷらりと目の前にぶらさげながら、彼は考えた。
たとえば『彼』にはすでに優秀な部下が大勢いる。組織のバーボンにも雑用をやらせる下っ端ぐらいはいる。
だったら、と彼は口角を上げた。
「古今東西、名探偵には器用貧乏な助手がつきものだからね」
「……ほんっと、困った先生だなあ」
とどめをさすように言った安室に、トウコは眉を下げて苦笑した。
「では、家まで安全運転で。よろしく頼んだよ、ワトスン君」
言うだけ言って、彼はシートに深く腰かけた。ゆったりと足を組んだのを見届けて、車がふたたび走りだす。
彼らの住処に向けて静かにハンドルを切りながら、トウコは「そういえば」と思いだしたように言った。
「もうひとつ、言い忘れていたことがありました」
運転しながらも、一瞬だけ彼のほうを見て、トウコは穏やかに目を細めた。
「おかえりなさい、あなたの国へ」
「……ただいま」
何年かぶりに、彼は走る車のうえでまぶたを下ろした。
隣から、どこか遠くから、歌う声が聞こえる。
忘れがたき、ふるさとの歌だ。
子守唄のようなそれを聞きながら、彼は深く穏やかなまどろみの淵に身をゆだねた。