Chapter.3 モディ・ドゥは理想郷の夢を見るか?

File.27 黒犬のプレリュード


 階数表示もボタンもない、黒塗りのエレベーターが滑らかに停止した。

 音もなく開いたドアから一歩踏みだせば、そこは長い廊下である。
 一本道には窓も扉もない。
 ただ最奥にぽつんとひとつ、ポストも表札も、それどころか鍵穴すらない、これまた黒塗りの玄関ドアが無愛想に貼りついているだけである。

 このビルに隣室という概念はない。ワンフロア一室のみの設計はプライバシーとセキュリティを極限まで追求した結果だった。

 完全に人の目がないところまで来てようやく、安室はライオンのように、ふわあ、と大きなあくびをした。

 今月も本当によく働いた。

 スペアのカードキー―― 正確にはこちらがマスターキーなのだが―― をかざすと、ぶあつい防弾ドアの内部でオートロックが解除される音がした。
 ガチャリ、と遠慮なくノブを引いた彼は、広い玄関に靴を脱ぎすて、そのまま廊下をまっすぐに歩いていった。

 マンションの一室にしては長い通路の先に、部屋の明かりが見える。
 リビングのドアまでたどりついた彼は、ノックもせずに入室した。

 深夜にもかかわらず煌々と明るいリビングでは、女がひとり、ちょうどイスの背もたれにそっくり返るかたちで「うーん」と盛大に伸びをしていたところだった。

 首の後ろを背もたれのてっぺんにつけ、後ろ側へだらりと頭を逆さまに垂らしたトウコは、そのままの姿勢で黒い瞳にばちりと安室を捉えた。

「あっ、安室さんだ。こんばんは、二週間ぶりで――

 脱いだスーツの上着をその顔めがけて放りなげる。ブフ、とワカメに張りつかれた海水浴客のような声をあげて、トウコは顔面でそれを華麗に受けとめた。

「掛けといて、それ」

 と、顔の上の上着を指す。悪戦苦闘の後、ようやく布から脱出したトウコは、半目になって安室を見上げた。

「お客さん、うちはセルフですよ。自分の服は自分で掛けるシステムになってます」
「掛けただろ。顔に」

 一瞬、アア?と喧嘩を売られたチンピラみたいな顔になったトウコだったが、ぎりぎりのところで踏みとどまったらしく、結局何も言わずに引き下がった。

 ふむ、なかなか躾が行き届いてきた。

 めくったままの袖を直そうと上着を持ちあげたトウコが、何かにぴくりと反応して、その襟元に鼻先を寄せた。捜査中の警察犬のような神妙な面持ちでにおいを嗅いでいたかと思うと、急に「うっ」と電気が走ったような表情になった。

「く、くさっ!ニオイませんか、これ」
「そうか?自分ではあんまり思わないんだけど。まわりからも言われないし」
「私知ってます。このスーツ、オールシーズンで頻繁に着回してるヤツですよね。私のアンテナにビンビンきてますよ。蓄積された男性ホルモンが織りなす、渋臭さと汗臭さのシンフォニーがね」

 眠りの小五郎のような険しい顔で目を瞑り、トウコは己の眉間をつついた。

「まあ、最近クリーニングに出してないのはたしかだけど」
「最後に出したのは?」
「一年前」

 ネクタイを解きながら答えると、トウコは比喩でなく「ぎええ!」と悲鳴をあげ、ものすごい勢いで上着を顔から遠ざけた。

「そんな化学兵器を女子の顔面に投げつけたんですか!?私もうお風呂入ってるんですよ!」
「そうか。僕はもう数日シャワーすら浴びられてない」
「あっ、そうだったんですね。いつもお疲れさまで―― じゃなくて。余計悪いです、余計」

 尻尾を振って咄嗟に上司を労おうとしたトウコは、はっと我に返って目を剥いた。条件反射的に反応してしまった事実にショックを受けている顔である。

「仕方ないだろ、クリーニングに出すのもなかなか手間なんだから」
「それは、承知してます。が、私は今そういうことが言いたいんじゃないんですよ。生まれもった顔面の清涼感のおかげで実際の衛生問題をぶっ飛ばして生きてきたあなたに警鐘を鳴らしているんです。イケメンだったらトイレに行ったあと、手を洗わなくていいんでしょうか。爽やかだったら雑菌の繁殖が抑えられるんでしょうか。ああこれだから仕事だけがお友達の独身アラサー男は」

 なかば泣き言のような苦情を、右から左の流しそうめんで聞き流しながら、安室は隣の部屋に行き、新しいシャツとジャージに着替えた。

 じつはこの物件、3LDKである。
 当然のことながらひとり暮らしには広すぎるため、トウコはリビングともう一部屋しか使っていない。空き部屋も同然な残りの部屋を、安室は近ごろ更衣室兼クローゼットとして利用している。

 駅近なのはもちろんのこと、汚れ物を管理する人間が常駐している環境は、思った以上に便利だった。喫茶店員がスーツを着て下宿に戻る不自然さを回避するため、これまでは何かと手間をかけていたのだが、この“更衣室”のおかげでその必要もなくなった。

 着替え終わってリビングに戻ると、トウコがこちらを振りかえった。

「安室さん、シャツは襟と袖だけ先洗いをするので、いったん脱衣所のカゴに……」

 その顔めがけて、脱ぎ終わったスーツのズボンを投げわたす。ブフ、とトウコは今度も華麗にスラックスをキャッチした。顔面で。

「そっちもクリーニングに出しといて。返ってきたら、余計な“イタズラ”がないかのチェックも。あいにく独身男は不精でね」
「……あい」

 とうとう諦めたらしいトウコは頭にズボンを乗せたまま、遠い目で頷いた。

◇◇◇

 冷蔵庫から炭酸水を取りだし、テレビ前のソファに腰を下ろした。視界の端には、床に座りこんで丁寧にスーツの皺を伸ばす女の背中がある。クリーニング屋のバイト程度にはこなれた手つきである。

 何をやらせてもそこそこ器用にこなすため、近ごろは何かと重宝している。ハゲそうなほど忙しいときでも、さすがに身のまわりのあれこれまで“あちら”の部下にやらせるわけにはいかない。そもそも、そういうときはだいたい彼らも忙しいものだ。

「結構いいスーツなのに丸一年もクリーニングに出さないとか。それだったら『洋服のAOKAWA』で二着三万のウォッシャブルとかでいいんじゃ」

 スチームを当てながらブツブツと呟くトウコを尻目に、安室はテレビのチャンネルを変えた。
 ニュースにしろCMにしろ、一度も見たことのないものがポツポツと混じっている。そういえば、こうして座ってテレビを見るのもかなり久しぶりだ。
 あきらかに時事に疎くなっている自分に、安室は「はあ」とため息をついた。明日にでも溜まっている新聞を読んでしまわないと。

 ソファに背に体重を預け、ぷしゅ、とペットボトルの蓋をねじ切った。
 冷たく痺れる炭酸が、からからに乾いていた喉をうるおし、あっという間に腹へと収まっていく。
 最後のひとしずくまで飲みきって、空になった容器を握りつぶすと、待ちかまえていたようにトウコが新しいボトルを差しだしてきた。

「気がきくね」
「そのかわり、私にも一本恵んでくださいね。あ、それと隣いいですか?」

 ひしゃげた空ボトルを分別ゴミ箱に回収しながらも、その反対側の手にはちゃっかりともう一本、新しいボトルが握られている。

「あいかわらず油断も隙もないな」

 安室は「ご自由に」とひとつの言葉でふたつの許可をだして、ソファの隅をあけた。するりと動物のようにその隙間に入りこんだトウコは、ひとりぶんくらいの間をあけて、彼の隣に腰を下ろした。
 同じように、プシュ、と景気のいい音を立ててキャップを外し、味わうようにひと口飲む。

「深夜の炭酸ってなんでこんなにおいしいんでしょうね」

 ごくごく、と続けて白い喉が動く。その様子を見ながら、安室はふうん、と肘かけの上で頬杖をついた。

「てっきり、紅茶以外は飲まないのかと思ってたよ」

 彼女が炭酸水のボトルを開けたときに感じた違和感を、そういうかたちで表現すると、トウコはきょとんとした顔を見せた。

「そういうイメージあります?」
「君にコーヒーを淹れた記憶がない」

 記憶を辿って肩を竦めた喫茶店員に、トウコは納得したように笑った。

「こだわり、っていうほどたいしたものじゃありませんが、紅茶があるときは紅茶を選ぶようにしてるんです。ポアロに通いはじめたのだって、知りあいからポアロの紅茶が絶品だって勧められたのがきっかけなんですから。『ポアロのアールグレイは世界の半分』って」

「ふうん、なかなか面白い言い方をするね。その知りあいって常連の人?」

「そうだったと聞いています。でも通っていたのは昔のことで、安室さんとの面識はないんじゃないかな。安室さんがポアロでアルバイトを始めたのはここ最近のことなんですよね?」

「そうだね。僕は新入りだから」

 言いながら、テレビのチャンネルを変える。ニュースキャスターと液晶ごしに対面したところで、安室はふたたびリモコンを置いた。
 テレビ画面を眺めながら、トウコがぽつりと問うた。

「どうしてポアロを選んだんですか」

 安室はおもわずその瞳を覗きこんだ。
 黒い瞳はいつもどおり、くるりと利発に透きとおっている。その底には作為も意図もない。
 本当の意味で目が合う前に、安室は視線を外した。

 彼女にかぎらず、しばしば訊かれる質問だった。自然な流れで問われたそれに、安室もまた自然な答えを返した。

「家から近いからとか、料理をするのが好きだからとか、いろいろあるけど……昔からやってみたいと思ってたんだ、喫茶店員」

 トウコが何かを言おうとしたとき、ぽん、とテレビ画面の端に速報の帯がポップアップした。『行方不明の五歳女児、無事発見』とのテロップが流れる。
 ここ数日ニュースになっていた事件である。これについては、さすがに安室も知っていた。
 トウコがばっと立ちあがった。

「み、見つかったんだ!」

 叫んだかと思うと、トウコは感極まったように、そばにあった安室の手を両手で強く握りしめた。ぎょっとする彼にもかまわず、ぶんぶんと喜びの握手をする。

「このニュース、ここ最近ずっと追ってたんですよ!わーい、よかった!」

 放っておくと、このまま表に駆けだして、道ゆく人に片っ端からハグを求めにいきそうな雰囲気である。見知らぬ子供の無事を全身で喜ぶ姿に、苦笑しつつも目じりがゆるんだ。

「そうだね、よかった。本当に」
「お母さんやお父さんと離れ離れになって、まだ五歳なのに、ひとりで暗い道を歩いて。きっと『おうちにかえりたい』って何度も泣いたんでしょうね。あまり言葉にしたくないことですけど……そのまま誰にも見つけてもらえないことだってあるじゃないですか」

 未解決の児童失踪事件は数千件にのぼる。直近のレポートでは、ここ数年その数が増加しているとの内容すらあった。
 見つかって本当によかった、と心底ほっとした様子のトウコとは反対に、彼はしばし瞳を伏せた。

「それにしてもさっすが警察ですね!やっぱり左京さんみたいなイケてる刑事さんが解決したんでしょうか」
「本当に好きだな、それ。フィクションはあくまでフィクションだよ。現実はそんなにドラマチックじゃないと思うけど」
「素直じゃないんだから。安室さんだって子どものころはパトカーのミニカーを買ってもらって、ぶーんとやってたクチでしょう?」

 どうだとばかりにひとさし指を立てたトウコに、彼は心のなかで苦笑した。ミニカーどころか、今となっては本物をぶーんとやってるクチである。

 喫茶店員をやってみたかったのは本当だった。
 だが、子供のころ、何よりも焦がれた夢はそれとは別にちゃんとあったのだ。

 子供時代の記憶がふとよみがえり、恥ずかしいようなむずったいような、なんともいえない懐かしい気持ちになった彼は、空になったボトルをぽんとゴミ箱に放った。
 透明のボトルは、部屋の反対側にあるそれにお手本のような放物線を描いて飛んでいき、縁にも当たらず収まった。
 ナイッシュ、とトウコが小さな拍手をする。

「相変わらず運動神経抜群ですね、安室さん。その気になれば本当に警察官にもなれたんじゃないですか。それこそ刑事さんとか。あなたの場合、頭だって抜群にいいわけだし」

 この言葉には、さすがの彼もぴくりとした。
 だがやはり、こちらを見上げる女の瞳は、ひとかけらの不透明さも含まないまま、つやりと透きとおるばかりだった。疑おうとしているこちらの不純さが、かえって透けてしまいそうなほどに。

 さっきとは違う意味でどきりとした彼だったが、やはりどこまでいっても彼は彼であって、そんな内心の動揺は毛ほども見せずにやり過ごした。

「そんなに簡単なものじゃないさ。頭脳と身体能力だけでどうにかなる世界じゃない、って知りあいの警官も言ってたよ。少なくとも僕には無理だね」

 嘘と真実を混ぜあわせ、いけしゃあしゃあと口にする。

 そう、安室透が警察官になることは絶対にない。
 そうであってはならないと、生まれたときから決まっているのだ。

 そんなことは知るよしもないトウコは、納得したようにひとり頷いていた。

「まあでも、そっちのほうがいいです。手錠と警棒を引っさげたあなたが笑顔で迫ってくるなんて、現場はスプラッタ、犯人失禁の阿鼻叫喚地獄に――

 げんこつ。たんこぶ。

「ならない。断じてならない」
「私の頭頂部はもれなくスプラッタ阿鼻叫喚地獄ですけどね」

 トウコは頭を抱えて亡者のように呻いた。

「そういえば、君はどうなんだ。子供のときになりたかったものとか。君の場合は今もまだ続いている夢かもしれないけど」

 世間話の一環、本当になにげない質問だった。
 しかしトウコは、不意をうたれたように動きを止めた。
 きょとんと目を見ひらき、瞬きもせずに安室を見上げている。そんなことを訊かれるなんて、それこそ夢にも思っていなかった、というふうに。

 しばらく考えて、彼女はぽつりとこぼした。

「うーん、忘れちゃったなあ」
「忘れた?」
「『お花屋さん』とか『ケーキ屋さん』とかだったような。いや、『保育士さん』だったかもしれない」

 記憶を辿るように、彼女はトウコは腕を組んで、ううむ、と唸った。

「じゃあ、大学を出てからどうするつもりなんだ」

 そうたずねると、彼女はちょっと眉毛を下げ、窺うように安室を見上げた。「じつは」と言葉を選びながら、言いづらそうにうち明けはじめる。

「これからどうするかはまだ考え中なんです。入りたかった大学で、したかった勉強ができているだけで、夢が叶ったような気持ちになってるのが本当のところで。もういい大人なのに、先のこともろくに決められてないなんて、お恥ずかしい話ですけど」

 彼女は珍しくしょぼくれたように肩を落とした。空っぽになったボトルが、その手元でパリ、と薄情な音をたてる。
 しばらく黙ってその様子を眺めていた安室は、手をのばしてボトルを取りあげた。

「前にも言ったと思うけど、君には君の人生と未来がある」

 驚いたような顔をするトウコの前で、遠くにあるゴミ箱めがけて手の中の物を放りなげる。
 ボトルはまっすぐに飛んでいき、やはり縁にも当たらずゴミ箱に収まった。

「大人も子どもも同じさ。遅すぎることも早すぎることもない。大人だろうが子どもだろうが、見たい夢を見ればいい。道はいつだって目の前にあるし、自分の選択を信じて歩きつづけるかぎり、それは決して途切れない」

 トウコは吸いよせられるように安室を見つめ、一生懸命にその言葉に耳をかたむけていた。まるでとても大事な何かの破片を、ひとかけらたりとも零すまいとしているかのように。

 しばらくして、彼女は肩の力を抜いた。

「はーあ。安室さんは迷いがないなあ」
「こう見えて君よりは長く生きてるからね。人生の先輩の言うことはありがたく聞いておくもんだよ」
「さすが独身アラサー男。言葉に重みが―― いでで!」

 テレビのリモコンを頬にグリグリとめり込ませる。もちろん辺ではなく、角の部分である。

「もういちど言うよ。人生の先輩の言うことは?」
「はひ!ありがたく聞いておきます」

 肩を竦めながらも、トウコはすっかり元気になった声で返事をした。

「じゃあ僕はそろそろ帰るから」
「そうだ私、明日からテスト期間に入るんです。すみませんが、しばらく仕事のお手伝いは」
「わかってるよ、君の本業はそっちだからね。集中するといい」

 立ち去ろうとした彼だったが、珍しく立ちどまり、振りかえった。
 何か考えがあってのことではなく、ただなんとなくそうしてみようと思っただけの、本当に他意のない行動だった。

「ま、なんだ。夜更かししすぎて風邪ひくなよ」

 その言葉は自分でも驚くほど自然に口から転がりでてきた。だからこのとき彼には自分が今どんな顔をしているのかということについての意識が欠落していた。

 一方のトウコは、ガン、と頭の上に何かが落ちてきたような顔になっていた。
 驚いたというよりも、状況がのみこめずに困惑しているような感じである。

 しばらくしてトウコはもういちど黒いまつげを念入りに瞬かせたあと、もそもそと小さな声で応じたのだった。

「あ、ありがとうございます。よく……いや、ものすごく気をつけます。安室さんもお仕事頑張ってください」
「そうするよ」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」

 安室にもトウコにも、気の利いたひと言を言おうという発想はなかった。
 ありふれた夜の挨拶は、ふたりの耳朶をひと撫でしたあと、しずかに空気に溶けていった。

◇◇◇

 まぶたの向こうにうっすらと朝の光が見えはじめたころ、ピリリ、と携帯が鳴った。ひさびさの布団で泥のように眠っていた安室だったが、一瞬で意識を浮上させ、手さぐりで携帯を取りあげた。
 見れば、メッセージが一件届いている。

「毛利先生?」

 珍しい相手にあくびも忘れて、中身を確認する。
 だがそれを目にした途端、彼はにわかに表情を険しくした。

『失踪事件だ。協力してほしい』


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