手早く身じたくを整え、駆け足で向かった先はポアロ―― ではなく、その上階にある毛利探偵事務所である。
階段を上がり、雑居ビルらしいちゃちなアルミドアの前でいったん立ちどまった彼は、ゆっくりと深呼吸をした。
顔を出すのは一週間ぶり、会う相手は毛利小五郎。
自分が完全に“安室透”に切りかわっていることを確認してから、ドアをノックする。
おう、といつもの返事が返ってきたので、彼は静かに扉を開けた。
「おはようございます、毛利先生」
「悪いな、安室くん。朝から呼びだして」
窓際の定位置で足を組んでいた毛利は、読んでいた新聞から視線を上げて、ひらひらと片手を振った。
「とんでもない。お呼びとあらばいつでも馳せ参じますよ。僕は先生の一番弟子ですから」
「一番弟子ねえ」
勧められたソファに腰を下ろしながら答えると、毛利は意外に満更でもないような顔を見せた。
その表情に、少しほっとする。
客の中には勘違いをしている者もいるが、安室はあくまで押しかけ女房ならぬ、押しかけ弟子なのである。毛利がひと言、いらない、と言えば、安室はこの場所を訪ねる理由を失う。安室透に対する毛利の心象は、『彼』にとってとくに留意すべき事柄だった。
事務机から立った毛利が、向かいのソファでふたたび足を組むのを見届けてから、安室は本題を切りだした。
「さっそくですが、内容をお訊ねしても。なんでも、失踪事件だとか」
穏便でない単語に、自然と声がひそやかになる。毛利もまた、眉間に皺を刻んだ険しい面持ちで息を吐いた。
「三歳の女の子でな。昨日から行方がわからなくなっている。一刻も早く見つけてほしいとのことだ」
「子供ですか……!?」
思ったより深刻な内容に、わずかに語気が強まった。咳払いをして、調子を元に戻してから安室は冷静に状況を訊ねた。
「警察への届け出は?」
「もちろん出してるさ。だが、だからといってすぐに捜索が行われるわけじゃない」
行方不明者が発生した場合、警察には行方不明者届、いわゆる捜索願が提出される。それが受理され、事件性の有無についての審議が行われたうえで、必要と判断されればようやく捜索が開始されるのである。
失踪事件における初動捜査の遅れは、常に世間からの指摘を浴びる部分だった。
おもわず唇を噛みたい気持ちになった彼だったが、そんなことはもちろんおくびにも出さず、むしろ呆れたように肩を竦めた。
「なるほど。役に立たない警察のかわりに、毛利先生を頼ってきたというわけですね」
「そんな露骨な言い方すんじゃねえよ。一応、俺の古巣だぞ」
「あはは、そうでしたね。これは失礼しました」
眉を寄せる毛利に、あっさりとした笑いを返して、安室はふたたび真面目な顔になった。
「いずれにせよ、急いだほうがいいでしょう。念のために確認しておきますが、この件については僕に一任してくださるということで?」
「ああ、そういうつもりで呼んだ。俺のほうは前の依頼がちょいと長引いていてな。今日もこれから千葉のほうまで出向かなきゃならねえんだ。詳細は机の右袖に入ってるから勝手に見てくれや」
そうそう、と思い出したように毛利は背広の胸ポケットから一枚の写真を取りだした。
「行方不明になったのは、雪松忠彦氏のひとり娘、雪松華音ちゃん。三歳のラブラドール・レトリバーだそうだ」
ぺらりと差しだされた写真の中では、クリーム色の大型犬が人懐っこそうに舌を出していた。
「……へ?」
File.28 迷い犬のカノン(Ⅰ)
「で、引っこみがつかなくなった結果、私のところに持ってきたと」
両腕を組み、指先を神経質にトントンやりながら、トウコはイスの上から安室を睨みあげた。
「ええっと、一応はそういうことになるね」
「へーえ」
冷たい視線が向けられる。室内にもかかわらず、凍える北風がひゅうんと肌の上を吹きとおっていった気がした。
大前提として、トウコは温厚かつ謙虚な人間である。
人にきつく当たったり、高飛車な態度を取ったりすることはまずないと言っていい。たとえ少々ひどい目に遭わされたとしても、せいぜい眉を下げて口を尖らせる程度であり、本気で怒ったりはしない。根が寛容なのである。
困っている人間がいれば、なんだかんだで放っておけないお人好しでもある。
以上、安室も認めるトウコの美徳である。
だからそんな彼女にしては、きわめて珍しいことに、ご立腹―― いや、大激怒・スーパーお説教モードだった。
「勘違いはしないでほしいんですけどね。私だって安室さんからの要請には可能なかぎり前向きに応えたいと思ってるんですよ。でも、最低限の節度というかルールというか、そういうのってあるじゃないですか」
トウコはじろりと安室を見た。
「ご覧のとおり、私いま、超忙しいんですけど」
凍てつく視線が指し示す先には、教科書や参考書が山のように積まれていた。ちょうど開かれているページには、付箋とマーカー、それからメモ書きがびっしりである。ひと目見ただけで力の入れようが窺える、たいへんすばらしいノートだった。
「それはわかってるんだけどね……ほ、ほら、僕は僕でほかにもやることがあるし」
「だったらなおさら安易に引き受けちゃだめじゃないですか」
正鵠を射た指摘がノータイムで返ってくる。非の打ちどころのない正論の刃に情け容赦なく切り裂かれ、安室は「う」と言葉につまった。
言っていることがもっともすぎて、十八番の屁理屈すら捏ねられない。
ちらりと窺うと、彼女はあいかわらず、気の弱い人間なら尻尾をまいて逃げかえりたくなるような、鬼女の能面もかくや、という顔をしていた。黒髪と白い肌のコントラストが、今ばかりは和製ホラーの登場人物のように見える。
タチサレ。
冷えきった瞳に脅しつけらけて、安室は目を右往左往させた。
普段のちゃらけた態度とは裏腹に、トウコは実際のところ非常に真面目かつ勤勉なタイプだ。守銭奴ではあるが、金集めはあくまで趣味だ。
彼女という人間のなかでヒエラルキーの頂点を占めているのは『学業』―― 講義への出席、課題および試験対策などを含む、学生の日常活動一般なのである。
とはいえ、他人がどれだけ授業をサボろうが遊んでようが、それに対してとやかく言うことはない。そういう過ごし方もありだよね、と軽いスタンスを貫いている。人は人、自分は自分。
踏んではならないトウコの地雷はただひとつ、彼女自身に対する学業妨害行為だ。
テスト期間中に呼びだされたり、無理やり授業をサボらされたり、ようするに、やむをえない理由以外で学業の権利を奪われるとブチ切れる。
怒る理由が正当すぎて、さすがの安室も「だよね……」と弱々しく笑うしかなかった。
品行方正な学生をつかまえて『学校にいくな、勉強するな』だなんて、職業柄、口が裂けても言えない。むしろこういった点においては彼自身がきわめて似通ったタイプである。
「せ、先入観って良くないよね。あはは」
冗談めかして笑ってみるも、ぎろりと睨まれて終わりだった。ブリザードを吹きちらす氷の女王は、イスの上で足を組みかえたかと思うと、ふん、と鼻を鳴らして勉強に戻った。
まずい。
先週に引きつづき、今週も本業がかなり忙しい。いかにマルチプレイヤーな彼とはいえ、この状況で犬探しまでやるのは到底不可能である。ハゲる。ハゲてしまう。
当然のことながら、“安室透”が引き受けた仕事をあちらの部下に任せるわけにもいかない。
しばらく頭を抱えた結果、安室は最後の作戦に出ることにした。
「わかった、今回は特別に謝礼を出すよ」
ものすごいスピードでぐるりとイスが回転して、トウコがこちらを向いた。
「謝礼?」
「そう、謝礼。ただし現金以外で」
ちっ、と舌打ちの音が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにする。ここで機嫌を損ねるのは悪手である。
「具体的には?」
「何でもひとつ、いうことをきいてあげる。常識の範囲内でね」
訝しげな表情で安室の顔を見つめていたトウコだったが、しばらくしておもむろに口を開いた。
「“常識の範囲内”なんていう逃げ口上にうってつけな条件がついているのは気に入りませんが……わかりました。いいでしょう」
少し表情をやわらげたトウコに、ふう、と安室は胸を撫でおろした。
その様子を眺めていたトウコは、指で銃の形をつくったかと思うと、安室の喉元に狙いを定めて言った。
「でも、約束を破ったら針千本ですからね」
「じゃあ、私のほうはまずネットを探してみます」
翌日の試験後、マンションに直帰したトウコは、机の上から明日の分の教科書類をひとつ残らず片づけて、調査の体制を整えた。
あまりに潔い切りあげっぷりに、頼んだほうの安室もいささか心配になり、「単位は大丈夫なのか」と問うてみたのだが、
『合格点に必要な試験勉強だったら、ずっと前に終わってますよ。テスト直前の期間は満点を狙うために使うものじゃないんですか?』
と、きょとんとした顔で言われてしまった。
後光が差すような優等生っぷりに目がくらむ。学生時代、自分の周囲にいた友人たちの気持ちが、今になって理解できた彼だった。
「そっちは任せた。資料はここにあるから。僕のほうは地元の警察署や民間の保護窓口なんかを当たってみることにする」
ペットが行方不明になった場合には、『遺失物』という形で警察に届け出ることになる。しかし、遺失物届を出したからといって、警察がそれをみずから捜索することはまずない。
一方、飼い主のわからない脱走犬や迷い猫は『拾得物』として最寄りの交番や警察署に一時預かりされるのが一般的だ。
ややこしいのは、すでに『遺失物』として届け出がなされているにもかかわらず、別の署で『拾得物』として届けられたときだ。この場合、『遺失物』と『拾得物』が別の物として扱われてしまう。
よって、ペット探しの際にはもうひとつ踏んでおく手続きがある。
「安室さん、逸走届はもう?」
「いや」
「じゃあ、脱走範囲を推定して、こちらで出しておきますね」
今まさに伝えようとしていた内容をあっさりと持っていかれ、口の中にあった指示の言葉とちょっとした感心の言葉が融合した結果、「ホェォー」となんともいえない声が漏れた。
『逸走届』―― 遺失物届とは違い、複数の警察署に同時に提出できるうえ、遺失物届などとも両立する届出書である。
直接出向かなくても電話だけで受けつけてくれる警察署が多いため、広範囲でのペットさがしによく利用されている。
「しつこくきいてすみませんが、犬種はラブラドール・レトリバーであってるんですね?」
「ああ。資料にもそう書かれていたし、写真を見てもこのとおり。特徴は首のあたりに茶色っぽい斑点があることだそうだ」
毛利から渡された写真をトウコの前に置く。短いクリーム色の毛をした、垂れ耳の大型犬である。たしかによく見れば、首のあたりに茶色の斑点がある。
華音と名づけられたその犬は、盲導犬などによくあるタイプの、温厚で優しそうな顔つきをしていた。
トウコの口角がちょっと上がる。
「よし、やる気が出てきました。早く見つけて飼い主さんのところに返してあげましょう。えいえいおー!」
かくして、ここに迷い犬カノン失踪事件捜査本部が立ち上がったのである。