「ないね」
「はい、ちっともまったく全然、面白いくらいにありません」

 頬づえをついたトウコは、ちっともまったく全然、面白くなさそうな顔でそう応じた。

 情報がない。まったくない。



Chapter.3 モディ・ドゥは理想郷の夢を見るか?

File.29 迷い犬のカノン(Ⅱ)


「保護施設のウェブサイトから、一般の掲示板まで片っ端から目を通してみましたが、有力な手がかりにはいき当たりませんでした。ラブラドール・レトリバーは脱走・失踪犬の母数自体が膨大で、それらしい情報ももちろんたくさんあったんですけど、今わかっている条件を加味すると、ぜんぶ候補から外れてしまって」

「こちらも似たようなもんだよ。手あたり次第に地元の警察を訪ねてみたけど、拾得物として保護されているラブラドール・レトリバーはいなかった。保健所のほうも同じ。このあたりの公的機関で保護されている可能性はかぎりなく低いね」

 テーブルの上で額を突きあわせ、ふうむ、と唸る。
 悩ましげに腕を組んでいたトウコだったが、しばらくしておもむろに安室を見上げた。
 蛍光灯を反射して、黒髪と黒い瞳がつやりと光る。

「安室さん、提案があるんですけど」
「奇遇だね。僕も今ちょうど同じことを言おうとしてた」

 うかがうような目で、トウコはこちらを見つめていた。
 そういえばははじめてだな、と安室はしばらく考えてから、彼女に訊ねた。

「一緒に行くかい?」

 トウコは目をぱちぱちさせてから、「はい!」と嬉しそうに頷いた。

「探偵は足が命、ですもんね」
「そのとおり。用意ができたらすぐに出発するよ」

◇◇◇

 いらっしゃい、と玄関でふたりを出迎えたのは、丸い顔の好々爺だった。
 依頼人・雪見忠彦だ。

「急な訪問に応じていただき、ありがとうございます。毛利先生の一番弟子、安室透と申します」
「おや、毛利先生じゃないんだね」
「申し訳ありません。先生は今、どうしても手放せない事件を抱えていまして……」
「そりゃあ仕方ないね。あの毛利先生だもの。いいよいいよ、お弟子さんなら安心だ。そっちのお嬢さんは?」
「こちらは見習いの者です。毛利先生の指示で同行させているのですが、よろしいでしょうか」
「研修ってことだね。いいよいいよ、そういうのは大事だからね」

 よろしくお願いします、とトウコが頭を下げる。
 柔和な笑顔で応じた雪松老人だったが、ふと彼女の顔を覗きこんで首をかしげた。

「あれ。お嬢さん、僕とどこかで会ったことないかい」

 トウコもまたきょとんと首をかしげた。じいっと雪松の顔を見つめたあと、申し訳なさそうに首を振る。

「すみません。人違いじゃないかと……」
「そうか、ごめんごめん。歳のせいか最近こういうことが多くてね。他人の空似だね、きっと。さあさあ、狭いところだけどあがっとくれ」

 雪松はたいして拘泥せず、ふたりを家に招きいれた。
 こじんまりとした玄関口から中へと案内される。
 老人の小さな背中に導かれ、奥ゆきのある家屋を通りぬけると、裏手には思ったより広い庭が設えられていた。

 青芝が敷きつめられた正方形の敷地である。
 片隅にレンガ造りの花壇があり、コスモスやスイートピーなど秋の花が慎ましげに揺れている。
 もう片隅には、そこだけ除草剤でも撒かれているのか、草の生えない帯状の空間があって、ぽつんと犬小屋が置かれていた。

 中身はもちろん空っぽだった。

「カノンちゃんのおうちはここですか?」
「ああ、いつもここに繋いであったんだよ」

 雪松は悲しそうな顔で、リードの先を見せた。ポリエステルのよりひもは何か強力な器具で圧断されたように、ぶつりと途切れている。

「この程度のひも、大型犬なら噛みちぎることは難しくありませんが……見るかぎり、そういうわけではなさそうですね」

 切断面を見つめる安室に、雪松は首を横に振った。

「おとなしい子だったんだ。リードを噛みちぎって逃げるだなんてありえないよ」
「リードの全長はどれくらいだったんですか」
「一メートル半くらいだよ。犬小屋の近くで大人しくしていることが多かったからね」

 庭はすっきりと片づいていて、リードを傷つけるようなものは見あたらない。近くにあるものといえば、せいぜい横長のスチール物置くらいだったが、どちらにせよリードの届く距離ではなかった。

 安室は庭から視線を上げ、周囲を見回した。庭を取りかこむコンクリート塀は、小学生の背丈ほどしかない。

 事前資料によれば、最後に飼い犬の所在を確認したのは昼過ぎで、失踪に気づいたのは夕方だったらしい。ここが住宅街の一角であることを考えれば、行方をくらましたその時間帯、人通りはそう多くなかったはずだ。外部からの侵入は容易だっただろう。
 隣のトウコと目を合わせると、彼女もまた小さく頷きかえしてきた。

「やっぱり誰かに連れていかれてしまったのかなあ」

 この状況を見て、誰もが最終的に行きつくであろう可能性に、雪松もまた弱々しい声で言及した。

「暴れた痕跡などは?」
「それが全然なかったんだよ。でも、カノンは人懐っこいから知らない人間に連れていかれても騒いだりはしなかったかもしれない」
「失踪の前後の時間帯に、何かほかに普段と違う出来事があったりは?」
「うーん、とくには。ああでも、昨日は朝から妙に吠えてたね。むだ吠えしない子なのに」

 それは何時ごろでしたか、とすかさずトウコが踏みこんで訊ねた。

「時間ははっきり覚えていないんだけれど、朝に二回と、昼過ぎに一回。ああ、昼はたしかいつもの将棋の番組が始まってすぐだったから、一時半くらいだったと思う。あんまり吠えるから、そのたびに様子を見にいってね。でも、カノンにも庭にも、とくに変わったことはなかったよ。小屋の前に立ったカノンは、こうやって塀の向こうを見ながら『ばうばう』って―― あいたた!」

 犬小屋に近づこうとした雪松が、足をもつれさせてよろめいた。すぐそばにいたトウコがいち早く支えに入ったおかげでかろうじて転倒は免れたものの、雪松は腰を押さえてしゃがみこんでしまった。

「雪松さん!だ、大丈夫ですか?」
「いたた、年だねえ。最近は足腰がてんでダメなんだ。庭いじりも限界かなあ」

 痛がる腰をさすってやりながら、トウコは彼を縁側まで連れていき、ゆっくりと座らせた。いつもはピコピコと元気な眉毛が心配そうに下がっている。
 老人を見つめたあと、彼女は庭に視線を移して、ふとこんなことを言った。

「とてもきれいなお庭ですね」
「僕の趣味でねえ。犬は穴を掘るって聞いていたから、あんまり飼いたいとは思わなかったんだけど……たまたま妻の故郷の神奈川に旅行へ行ったときに、可愛い子犬を見かけてね。彼女がどうしても、と言ったんだ。僕たちには子どもができなかったから、一度くらい何かを大事にする経験をしてみたかったのかもしれないねえ」

 雪松は思い出すように犬小屋を見た。

「僕も妻も犬なんて飼ったことがなかったから、最初はそれはそれは大変だったよ。小型犬かと思っていたら、日に日に身体が大きくなるし、大人になったらなったでしょっちゅうトリミングに連れていかなきゃならないし。でも、そうしてふたりで一生懸命世話をしているうちに、だんだん本当の孫みたいに思えてきてねえ。彼女も目に入れても痛くないほど可愛がってたよ」

 玄関に入ったとき、揃えて置かれていた靴は一足だけだった。

「ここも、広くなっちゃったなあ」

 老人はしばしばと目を瞬かせながら、空っぽの庭をいつまでも見つめていた。

◇◇◇

 マンションに戻ったトウコと安室は、再度テーブルをはさんで向きあった。

「切断されたリードと、原因不明のむだ吠え。今のところ手がかりになりそうなのはそれだけだね。とりあえず犬が吠えた時間帯の前後に、あの周辺で何か変わったことがなかったか調べてくれ。僕はもう少し範囲を広げて保護施設をあたってみるよ」
「はい、すぐに調べます」

 トウコは頷き、パソコンに向かった。彼女お得意の、防犯カメラを利用した情報収集である。雪松宅の近くには既設のカメラがなかったため、今回は離れた場所のカメラを間接的に利用するようだ。

 安室も床に座りこみ、まだ当たっていない保健所や保護施設に片っ端から電話をかけはじめた。
 そうしてしばらく経ったころである。

「待て、今のところで止めろ」

 とあるものが意識に引っかかり、安室は即座に指示を飛ばした。トウコは弾かれたように停止ボタンを押し、安室のほうに振りかえった。

「ここですか?」

 マウスがカチカチと動き、防犯カメラの映像が数秒分、巻きもどされて表示される。
 十三時二十八分、との時刻が出力されたそれは、雪松の家から百メートルほど離れたコンビニの店舗を屋外から捉えた映像だった。

「私には、とく変わったことはないように見えるんですけど」
「大切な情報が、かならずしも視界に入るとはかぎらないだろ」
「と、言いますと?」
「“これ”だよ」

 人さし指で、自分の耳をとんとんと示す。トウコは「あっ」と声をあげて、録画映像の音量を最大にした。

 車が行きかう騒音のなかに、微かな―― だが、独特の音声が混ざっていた。彼女は息をつめてスピーカーに耳を近づけた。

「ご不要になったテレビ、パソコンなどの家電製品や、タンス、テレビなどの大きな物―― って、ん。これ廃品回収車ですよね?」

 カメラの視界にこそ映っていないが、注意深く聞いていれば、たしかに『毎度おなじみの』というそれこそ毎度お馴染みの口上が聞こえてくる。

「時刻は十三時二十八分、依頼人宅からは約百メートル。無関係だと思うかい?」
「つーまーりー?」

 トウコが利発に瞳をきらめかせる。

「午前中の動画を片っ端から調べるべし!ってことですね」
「話が早くて助かるよ」

 へへっ、と笑ったあと、トウコはイスの背もたれに顔を乗せ、こちらを興味深そうに見下ろしてきた。

「あいかわらずとんでもない人ですねえ、安室さんは。こんな小さな音、気づきもしませんでしたよ。ちょっと耳良すぎません?」

「耳も目鼻も利かなきゃ探偵なんてやってられないよ」
「優秀なのは脳みそだけじゃないと。ツートンカラーなところとか、細身に見えて意外とがっしり系なところとか、やっぱりシェパードかな。安室さんは。ドーベルマンも捨てがたいけど。わんわん」
「彼らはそうな頭の悪そうな吠え方しないからね。あと、ツートンカラーって言うんじゃないよ」

 手をのばしてきゅっと鼻先をつまむ。
 ずびばぜん、とすぐに反省した女の顔をそのまま鼻ごと引っぱりよせて、安室はけしかけるように言った。

「さあ、君のほうこそ自慢の鼻の使いどきだ。むだ吠えは止めて、しっかり嗅ぎあてておいで」


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