File.30 迷い犬のカノン(Ⅲ)
「二日続けてのご訪問、申し訳ありません。調査を進めるにあたって、どうしても確認しておきたいことがありまして」
「とんでもない。こんなに熱心に調べてくれるなんてこちらとしても願ったり叶ったりだよ。いくらでも見ておくれ」
戸口で頭を下げた安室に、雪松はそれこそ申し訳なさそうに手を振った。
昨日と同じように、家の中を通って裏へと出る。
正方形の裏庭は昨日と同様がらんとしていて、何ら変化は見受けられなかった。
「しばらく見せていただいても構いませんか?」
「もちろんだよ。僕はこれからお茶を淹れてくるから」
お気遣いなく、と言った安室に、雪松は「なんのなんの」と笑って、いったん家の中に戻っていった。
「さて、今日来た目的は、もうひとつの謎についてだ」
昨日あれからの調査で、むだ吠えの謎―― 例の廃品回収車の件については、ある程度調べがついていた。
しかし、そちらの筋を辿るより先に、解決しておかなければならない疑問がひとつ残っているのである。
「切断されたリード、ですね」
「あちらを訪ねる前に、これだけは解明しておかないとね。前提が曖昧だと得られる情報も得られない。内容によっては出方も変えないといけないし」
と、安室は切れたリードの先端をつまみ上げた。
ポリエステル製の軽いより紐だが、大型犬に使うものだけあって女性の指ほどの太さがある。まだ買って間もないようで、傷みは少ない。
「切断面を考慮しなくたって、素手で切断できるものじゃないのは明らかだね」
「ただし、ゴリ―― 安室さんは除く。トウコ調べ」
壁に向かってぼそりと呟いたトウコの顔面を、片手でわし掴む。
「あはは、人間には無理だって言ったつもりだったんだけど。君には難しかったかな」
アアアア!とおよそ人間とは思えない濁音の混じった叫びをあげたトウコに、安室は笑って確認した。
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
素直に反省の姿勢を見せたため、安室は締めあげていた顔面を解放してやった。怯えた目でさっと安室の間合いから逃走したトウコは、壁際にはりついて「突然のアイアンクロー、ダメゼッタイ」と毛を逆立てた。
「だったら無駄口を叩いてないでさっさと仕事に取りかかるように。僕だって握力トレーニングにわざわざ君の頭なんて利用したくはないし。いいかい、昨日の調査結果が正しければ、この庭のどこかにリードを切断した道具があるはずだ」
はい、と頷いたあとにはもう、トウコの顔は真剣なものに切りかわっていた。
それからふたりで手分けして庭中を探しまわった。芝生の間はもちろん、花壇の内側、物置の中、塀の隙間まで。
しかし、それらしいものはどこにも見つけられなかった。
「物置の中に園芸用のハサミがありましたけど、今回の場合はそれじゃダメですもんね」
「ああ、露出している場所でないと矛盾が生じる」
ふとトウコを見おろした安室は、その頬を掴んで自分のほうに向けさせた。
どこでつけてきたのか、黒髪の端にたっぷりと泥が飛んでいる。よほど一生懸命に探しまわったのだろう。
汚れたひと房を取りあげ、親指と人さし指で擦りおとしてやる。
「うーん、リードを切断した道具とはいったい」
当のトウコは自分の髪などそっちのけで、謎の解明に腐心していた。安室にどれだけ髪をいじくられようと、されるがままである。
「外にあって、難しい動作をしなくても簡単にリードを切断できて……」
独り言をつぶやくトウコをしり目に、安室は安室で熱心に指を動かした。うっすらと汗の滲んだ黒い毛先が、くるくると手のなかで踊る。
髪はすぐに綺麗になった。
が、このままだとまた汚れるのが目に見えていたため、安室は少し考えて、トウコの身体をくるりと半回転させた。
黒い後頭部を見下ろすかたちで、背後から手首をつかんだ彼は、そのまま手のひらを上へと滑らせて、そこにつけられていたものを抜きとった。
茶色のシンプルなヘアゴム。
トウコは外出の際、腕時計とともに手首にヘアゴムを引っかけておく癖があるのだ。
後ろ髪をつかみ上げ、すっきりとしたポニーテールにまとめてやる。トウコは相変わらずぶつぶつ言っている。
「となると、きっと刃物じゃないですよね。一見切れなさそうだけど、条件が揃えばスパッと切れるもの」
トウコが悩ましげに首を傾けたとき、完成していた黒い尻尾からぽろんとひと房、後れ毛がはみ出た。ぴくりと眉間を寄せた安室は、「ん」ともう一度その頭を引きよせた。ヘアゴムを解いてやりなおす。
傷みと癖のなさゆえにするりするりと逃げたがる黒髪を、上手に指先でつかまえて、編みこみへと仕込みなおす。
あっというまに、こめかみから後頭部にかけて、つやりと光る整った編み目ができあがった。
うん、こっちのほうがいい。
満足のいく仕上がりとなり、安室が身を起こしたあたりで、縁側から雪松が現れた。盆には三人分の湯のみが乗っている。
「遅くなってすまないね。ここいらでひとつ休憩はいかがかな」
ふたりを縁側に招きよせ、雪松もまた腰を下ろした。
「それで、確認したいものというのは見つかったのかい」
「すみません、それがまだ。大事なお庭にズカズカ入らせてもらっているのに」
申し訳なさそうに肩を落としたトウコに、雪松は首を振った。
「なんのなんの。調査を依頼したのはこっちなんだから、いくらでも見てまわっておくれよ。それに、庭といっても最近はあまり手入れもできていなくてね。腰も悪いし、もう見る人もいないと思うと」
「奥様も園芸がお好きだったんですか?」
トウコが、ふとそんなことを問うた。繊細な陶細工を両手でそっと持ちあげるような、やわらかく丁寧な口調だった。
「妻の場合はどちらかといえば、花よりも音楽だったかなあ。面白いことに僕らは趣味がまったく違ってね」
雪松は空を見ながら、少しおかしそうに答えた。
「彼女は若いころ、声楽家をしていたんだ。しわくちゃのお婆さんになっても、声はちっとも変わらないままで。天気の良い日にはいつもここで歌ってくれたよ。カノンも尻尾を振って、楽しそうに聴いていたっけ。あ、そうそう、華音という名前も、妻が音楽の用語からつけたんだよ。僕と彼女の好きなものをそれぞれ、漢字に掛けて」
「それならなおさら、元どおりにしないとですね」
トウコは手をのばして雪松の手を取った。老いた手をくるみながら、あたためるように笑った彼女に、雪松は目をしばしばと瞬かせた。
そして、「そうだね」とこみあげてくる何かを一生懸命に抑えるように、皺だらけの目じりに、優しいほほえみをにじませたのだった。
「だったらまずは草刈りからかな。あそこの隅なんて、もう雑草だらけでね」
と、雪松は物置があるあたりの、芝の敷かれていない帯状の空白地帯を指した。
「あれ、あそこって除草剤を撒いている場所じゃないんですか?」
トウコが驚いて言った。彼女の言ったとおり、物置の周辺にはほとんど雑草が生えていないのである。
そんなトウコに、雪松もまた困惑したような顔になった。
「除草剤だなんてとんでもない。カノンがいるのにそんなものは使わないよ。あそこは放っておいても草があまり生えない場所なんだ。僕が言っているのは、今ちょうど物置の下じきになっているところだよ」
老人が指し示したのは、例の横置きのスチール物置だ。言われてみれば、わずかに下から雑草がはみ出している。
安室が雪松の言葉に反応したのとほぼ同時に、トウコもまた慌てて身を乗りだした。
「放っておいても雑草が生えない、というのは?」
「だって、ずっと影になっていて日が差さない場所だったからさ。一昨日カノンをさがして庭に出たとき、うっかり足をひっかけて物置を倒してしまう前まではね」
目を見開いたトウコは、すぐに物置のそばに駆けよった。
「安室さん、この物置、横置き用のものじゃありませんよ!」
「もとどおりに立てなおしてもかまいませんか、雪松さん」
「もちろんだよ。腰がこんなに痛くなきゃ、すぐにでも戻したいくらいだったんだから」
スチールの物置を両手で掴んだ安室は、底面の外辺部分を基点にして、そのまま一気に引っぱり起こした。
ぎしり、という音とともに本来の場所に背の高い物置が立てなおされる。
物置が立っていた場所は、犬小屋から一メートルと離れていない場所だった。
「僕としたことが、こんな初歩的な仕掛けを見落とすとはね」
トウコもまたそれを見抜いたようで、あっ、と口を押さえている。
そう、物置はもともとこの縦長の状態でこの場所に設置されていたのだ。
この周辺に草の繁茂しない部分ができたのは、この背の高い物置とコンクリート塀が日がな一日、太陽光を遮っていたからだろう。
だが一昨日、雪松はそれをうっかり倒してしまった。手入れのできていないスペースに物置が横倒しになった結果、下から雑草がはみ出すという今の状態になったわけである。
トウコと安室は揃って腰を折り、さっきまで地面と接していた物置側面の外辺部を観察した。
よく見ればやはり、何かが擦れたような痕が一箇所だけあった。
「あれ取って」
顎で使うまでもなく、待ちかまえていたトウコはすぐにリードの先端を安室にわたした。
「ビンゴだね」
リードの切断部と物置の擦痕は完全に一致していた。
トウコは雪松に振りむいて、こう断言した。
「雪松さん、カノンちゃんは誘拐されたわけじゃありません。何か理由があって、自分で出ていったんです」
「で、でもこのリードの千切れ方は、歯で噛みきったものじゃないって」
「ええ。そのとおりです」
動揺する雪松に、安室は頷いた。
「リードを切断したのは、彼女自身でも外部の人間でもない。『摩擦力』です」
「ま、摩擦力?」
と、雪松が目をぱちぱちさせた。
「はい。ポリエステル製のロープの場合、摩擦で切断するというのは、アウトドアなんかだとわりと一般的な方法なんです。二本のロープを交差させて熱が発生するように擦りあわせれば、少々太いロープも簡単に切ることができます。が、今回この庭にあったロープ、もといリードは一本きり」
そこで、と安室は指を立てた。
「二本目のロープのかわりとなって摩擦熱を発生させたもの。それは、この物置の『角』です。ロープ同士を擦りあわせるよりも条件は厳しくなりますが、決して不可能ではありません。こうしてリードが物置の角に引っかかった状態で、大型犬の力で何度も引っぱったとしたら、磨耗は避けられなかったでしょう。失踪した日、むだ吠えがあったのは合計三回。そのたびにリードを引っぱって騒いでいたとするならば、辻褄は合います。一度や二度では切れず、三度目になってブツリ」
リードが切れるジェスチャーをしたあと、彼は断面を雪松に見せた。
「よく見れば、溶けた痕が残っています。道具で圧断しても同様の切断痕が見られる場合があるため、これだけで切断方法を判別するのは困難でしたが」
何かに引っかかって切れた、という可能性は切断痕を見た段階で頭にはあった。だが、リードの届く範囲内に、その肝心の『引っかかるもの』が何もなかったため、候補から外れていたのだ。
正しくは、リードの届く範囲内から、その肝心の『引っかかるもの』が移動してしまっていたため、だが。
ちょうどサイコロがころりと一面転がるようなかたちで横倒しになった物置は、元の底面の大きさ分、本来あった場所よりも犬小屋から離れてしまっていたのだ。
「でも、あのカノンがリードが切れるほど激しく動きまわったなんて、いったい何に反応して―― 」
「廃品回収車ですよ」
安室の脇あたりから黒いつむじがぴょこりと出てきた。
「朝に二回、昼に一回。最後の一回が十三時半だったという情報から調べた結果、ちょうど一昨日、この近所に廃品回収車がやって来た時刻、および回数と完全に一致しました。三回とも同じ業者です。カノンちゃんが吠えていた相手は廃品回収車で間違いないと思います。カノンちゃんがいなくなったとされる時間帯、例の廃品回収車はすぐ隣の町内を巡回していました。弱っていたリードがちょうどそのときに切れたとしたら、塀を飛びこえて、車を追っていった可能性は低くありません。雪松さん。あの日、何か廃品回収に出しませんでしたか?」
「ええっと、古いカゴや物入れをいくつか出した記憶はあるけれど……それをカノンが追いかけていくような理由なんて何も思いつかないよ。いったいどうして」
「それをこれから解明しに行くんです」
困惑する雪松老人に、トウコはニッと笑って見せた。安室のほうでも補足しておく。
「例の廃品回収業者の所在はすでに突きとめてあります。ですが、脱走なのか誘拐なのかがはっきりしなかったもので、先に裏を取らせてもらうことにしたんです。万が一、誘拐ということであれば僕たちのほうでも事前にそれなりの対策を講じる必要がありましたので」
「大丈夫ですよ、雪松さん。カノンちゃんは私たちがかならず見つけますから」
雪松の目をのぞきこみ、力強く約束したトウコは、背後に立っていた安室を自信ありげにとんと叩いた。
「なにせ、この方はあの毛利先生の一番弟子。こう見えて、いや、見てのとおりとんでもなく有能な人ですから」
いたずらっぽい笑みが見あげてくる。
「ね、安室先生!」
周回時刻と回数から、トウコが特定した業者はひとつ離れた市に本拠をおいていた。
なんとかエコリサイクル、と前半部分の消えかかった看板を見ながら、ふたりは敷地内に入った。
回収用の軽トラが並ぶ向こうに倉庫が一棟立っており、回収された廃品類が山になっているのが見えた。
入口近くのプレハブ事務所をのぞくと、作業着を着た中年男性がひとり手持ち無沙汰にタバコを吸っていた。
「あの、すみません」
安室が声をかけると、従業員は怪訝そうな顔で火を揉み消してこちらに歩いてきた。
「社長はいないけど。何か?」
「つい先日、お隣の浅川町で廃品回収をされたと思うんですど、その際にご担当だった方はいらっしゃいますか」
ますます怪訝な様子になった男だったが、にっこりと微笑む安室の様子に毒気を抜かれたのか、少し考えたあと、「行ったのは俺だけど」とぶっきらぼうに答えた。
「そのときに、犬を見かけませんでしたか」
「犬ゥ?」
カウンターの上で指をトツトツとやりながらしばらく考えていた彼は「ああ」と思い出したように声をあげた。
「いたな。いたいた。あの凶暴な犬だろ」
思いがけない言葉に、安室とトウコは顔を見合わせた。
「凶暴?」
「そりゃもう。もうちょっとで噛みつかれるところだったんだから。遠くから急にダダーッと走ってきたと思ったら、そのまま荷台に飛び乗ってきてよ。慌てて降ろそうとしたら、牙を剥いて唸ったんだよ。ここんところに、グーッとシワを寄せてよ。身体もでかいし、そりゃあ怖かったのなんのって」
眉間を指しながら、従業員の男は自分でも怖い顔をしてみせた。
「そのあとはどうなったんですか」
「ひとりじゃどうしようもなかったし、日が暮れるまでに急いでいかなきゃならないところがあったから、そのまま出発したよ。信号で停まっている間に降りてくんないかなと思ってたんだけど」
「結局、降りなかったと?」
「目的地までな。軽トラを停めて五分ほどしたらようやく降りてきたよ。そんで、俺を思いきり睨んだあと、そのままどっかへ消えてった」
トウコが深刻そうな顔で口を挟んだ。
「ちなみに、その場所というのはどのあたりだったんでしょう」
「茅ヶ崎だけど」
茅ヶ崎ぃ!?とふたりの声が重なった。
「と、都外じゃないですか」
「うちの会社は持ち倉庫が小さくってな、回収した廃品はすぐに売りに出すことになってんだ。茅ヶ崎のもそういう取引先のひとつなわけ。夕方までに持ってかないと引き取ってくれないんで、俺もかなり急いでたわけだ」
うわああ、とトウコは両手を頬にあて、ムンクの叫びそっくりにサイレントな悲鳴をあげた。ヒントを得るどころか、捜索範囲が一気に拡大してしまった。
謝礼に菓子折りを渡してそそくさと撤退しようとしたところ、意外そうな顔で菓子箱を眺めていた男が、「そういえば」とふたたび口を開いた。
「あの犬、逃げるときに何か咥えてたな」
そして、翌朝。
安室がマンションを訪れると、よれよれになったトウコがパソコンの前でボロ雑巾のように伸びていた。
「うう、安室さん」
トウコは安室に気がつくと、びたん、とスライムのような有様でイスから床へと垂れおちた。
「脳みそが鼻から流れでるんじゃないかってくらい調べてみましたが、何の成果も得られませんでした……」
任務を果たせず死んでいく兵士のような悲壮さで、「不甲斐ないです、すみません」とトウコは安室の靴下に縋りついた。昨日は徹夜で相当頑張ったらしい。
いつもより何割かツヤの足りないつむじに手を置き、ぐりぐりと撫でてやると、トウコはようやく安室のズボンの裾から手を離し、顔を上げた。
「安室さん、このままじゃ見つかりません」
「そうだね。どうしたい?」
トウコは身を起こし、一大決心をするように言った。
「いざ鎌倉、です」