File.31 迷い犬のカノン(Ⅳ)
多忙をおして、なんとか時間を捻出した安室はトウコを伴って茅ヶ崎へと向かった。
しばらく地元の施設などを回ってみたが、トウコが事前に調べていたとおり、ここ数日間、茅ヶ崎周辺で保護された迷い犬にラブラドール・レトリバーはいないようだった。
「カノンちゃんがその場に留まらず自宅に向かって移動した可能性も考慮して、茅ヶ崎周辺だけでなく、浅川町から茅ヶ崎までの全ルートと、そこから派生する経路すべてを検索範囲に含めました。掲示板の目撃情報はもちろん、個人で運営しているような預かり所のブログなども全部調べてはみたんですが……」
それ以上は口にせず、トウコはどんよりと嘆息した。生気の抜けた顔には『我無能。罵りたまえ』と書かれている。フォントはたぶん古印体だ。
手がかりを掴めなかった不甲斐なさと、その結果、安室に時間を割かせてしまったことへの申し訳なさで、身投げ寸前の心境らしい。
こと仕事において、トウコは非常にストイックな人間だった。内容の如何を問わず、常にプロ顔負けの高い意識で取りくむその姿勢は、彼が現状トウコという女にある程度の評価を与えている理由のひとつでもある。
そんな彼女が、鼻から脳みそが流れでるくらい真剣にやった結果がこれだというなら、さすがの彼も安易に叱責できなかった。
「まあ、なんというか。君でそれなら誰がやっても同じ結果だったろうさ」
「そう言っていただけると救われます……いろいろやってはみたんですけどね。バレ太郎とか」
「バレ太郎?」
「それについては、また後日ご説明します。とっととバレるとまずいので。あっ、安室さん。あそこのお家ですよ」
フォローが効いたのか、短時間でずいぶんと持ちなおしたトウコは、ゆく手にある大きな屋敷を指さした。
「大型犬の捨て犬ばかりを引き取っているお宅だと掲示板で噂になっていました。地元では有名な資産家だそうですが、あくまで保護ではなく個人での飼育なので、ネット上には情報が公開されていなかったんです。そこに私たちの探しているカノンちゃんがいるというのはさすがに楽観的にすぎますが……」
「何らかの手がかりは掴めるかもと。愛犬家は独自のネットワークを持っているからね。ネット上にはない情報が得られる可能性はある」
「そうであることを願ってます」
トウコは眉毛を下げて、「それにしても」と、へこたれた声を出した。
「ここまで来ると茅ヶ崎というよりもう鎌倉ですね」
「いざ鎌倉、っていうのもあながち冗談じゃなかったわけだ。こんなことになるんだったら、素直に車を出せばよかったな」
安室は軽く汗の滲んだ前髪を掻きあげた。電車を使って来たせいで、バスのない場所は歩きどおしだ。
「そういえば君。さっきからまったく地図を見てないけど、このあたりは詳しいのかい」
「前に来たことがあるんです。妹がこの近くの大学に通ってて」
「ふうん。じゃあ、ふたりそろって実家を出てるわけか。仲は良いの?」
トウコはちょっと考えてから言った。
「悪くはないと思います。でももうずいぶん長い間、話はしてないんですよね。住んでるところが遠いっていうのもそうですが、性格と趣味が正反対なんです。同じ親から生まれているのに不思議でなりません。顔はあんなにそっくりなのに」
「へえ」
他愛ないをしているうちに坂道を登り終え、頂上に立つ屋敷に辿りついた。門前には『木崎』と大きく分厚い表札があがっている。
大門のチャイムを鳴らすと、さっそく中から犬の吠え声が聞こえてきた。その数、一頭や二頭ではない。
トウコが人目を憚るように言った。
「豪邸だからこそできる飼い方ですね。同じことを住宅街の一角でやったら、大変なご近所問題が勃発しそうです」
「多頭飼いは難しいからね。僕だってそう何頭も飼う気はないよ。犬にしてはかなり大型だし、無駄吠えするし」
「そうですよね、いくらペット可の高級マンションだといっても―― 」
自分で言っておいて、トウコは「アアン?」という顔になった。チンピラのように眉間に皺を寄せて睨みあげてくる。
「うるさいよ、顔が」
しつけはデコピン一発である。
悶絶するトウコをしり目に、門のほうへ向きなおった安室は、犬を引きつれて現れた家人らしき女性にとびっきりの笑顔を見せた。
「はじめまして、探偵の安室透と申します」
「お話をまとめると、安室さんはあの毛利名探偵の一番弟子で、今はいなくなったワンちゃん探しの真っ最中ということですのね。ああ、遠慮なくお召しあがりになって」
屋敷の主、木崎は上品な手つきで安室とトウコに紅茶を勧めた。出会いがしらの笑顔が効いたかどうかは不明だが、あっさりと招きいれてもらえたうえに、なぜかティータイムの歓待まで受けている始末である。
木崎はさきほどからちらちらと安室に視線をやっては、興味深そうな微笑を浮かべる、というのを繰り返していた。
異性から意味ありげな視線を送られるのは、安室にとって決して珍しいことではないのだが、この木崎という人物のそれは他の女性とはどうも意味合いが違う。
「ふふ、安室さんの髪色、本当に素敵ね。ゴールデン・レトリバー、いや、でもそんなにおっとりした性格じゃないかしら。ブラック&タンの毛並み、職務に忠実で、勇猛果敢、精悍な顔つきのジャーマン・シェパードとか」
ぶ、とトウコが隣で噴きだした。ほらね、とでも言いたげな顔でこちらをニヤニヤと見上げてくる。
「あはは……僕ってそんなふうに見えます?」
「気分を害されたのならごめんなさいね。私、こうやってずっと犬と一緒にいるから、人間もそういうふうに見てしまうんです。こう見えて、けっこう当たるんですのよ」
ソファの周囲に犬を侍らせながら、木崎はおっとりと美しく微笑んだ。なかなか癖の強い女性だ。
「おさがしなのはラブラドール・レトリバーとのことですが、残念ながらここ数年、その犬種を引きとった記憶はありませんわ」
「つい最近、愛犬家のコミュニティでそういう話を聞かれたりは?」
彼女は首を横に振った。
「ラブラドール・レトリバーは人気の犬種ですから、捨て犬や迷い犬の情報が絶えることはありません。ですが最近そういったやりとりは、保護施設のホームページや掲示板を通じておこなわれることがほとんどなのです。そこで見つけられなかったとおっしゃるのであれば……」
彼女は言葉をきって、すぐそばに控えた犬の頭を撫でた。
温厚な瞳でこちらを窺うその犬は、金色の毛並みも見事なゴールデン・レトリバーだった。
「犬たちは利口ですから、何の理由もなく飼い主のもとを離れたりはしません。その子にも何か事情があったのでは?」
事情、という単語に、安室は先日の廃品回収業者の言葉を思い出した。
「そういえば『何かを咥えていた』と」
「ならきっと、それがカギでしょうね。重要なのはその子の気持ちですから」
真面目な顔で言った木崎に、安室は苦笑した。
「僕にも犬の言葉がわかればいいんですがね。言葉が通じなければ、動機も訊ねられません」
冗談めかした口調を使ったものの、案外、半分は本音だった。
「あら、そう難しく考えることはありませんわ。彼らはシンプルです。たとえば―― 」
木崎は立っていって、ポロンとピアノの鍵盤を弾いた。
足元で伏せていたゴールデン・レトリバーがむくりと起きあがり、耳を前後に動かした。
「彼女はとてもピアノが好きなんです。口を開いて『ピアノが好きだ』なんて言うことはないけれど、見ていればちゃんとわかります」
そう言って、木崎はピアノを弾きはじめた。美しい旋律のクラシックは安室もよく知る曲である。
なるほど、木崎の言ったとおり、ゴールデン・レトリバーは、ゆったりと尻尾を揺らしながらじっと曲に聴きいっていた。
ひとつのパートを弾き終えて、ソファに戻ってきた木崎は、また犬の頭を撫でた。
「この子はほんの最近引きとったばかりの子なんです。でも、よく見ていれば感じとれるものでしょう?好きなもの、嫌いなもの―― それ以上のことだって。今の曲はこの子のいちばんのお気に入り」
「パッヘルベルのカノン、ですね」
安室が広く知られる曲名を口にしたとき、ゴールデン・レトリバーが、わん、とひと声鳴いた。部屋に入ってからここまで、鼻声すら漏らさなかった犬である。
トウコがはっとしたように、犬の近くに膝をついた。
「パッヘルベルの、カノン」
わん、とまた犬が鳴く。
「もしかして、カノン―― 華音ちゃん?」
ゴールデン・レトリバーは身を起こし、トウコに向かって尻尾を振った。安室は慌ててゴールデン・レトリバーの首元の毛を掻きわけた。
そこには、写真で見たのと同じ、茶色の斑点があった。毛に埋もれて見えづらいが、たしかに同じ形のものである。
ふたりはおもわず顔を見合わせた。
「で、でも、カノンちゃんは間違いなくラブラドール・レトリバーでしたよね?」
「ああ。資料にもそう書いてあったし、写真を見ても明らかにそうだった」
写真の中にいたあの淡いクリーム色の犬と、目の前にいるたっぷりとした黄金の毛並みの犬がまさか同じ犬だとは、安室にもにわかに信じられなかった。
「見つかってよかった、と言いたいところですけど、カノンちゃんのこのメタモルフォーゼっぷりはいったい」
運よく探し犬が見つかった喜びと、どうしてこうなっているのかわからない困惑とで、トウコは妙な感じに眉毛を下げた。
そのとき、さっきからじっと犬を眺めていた木崎が、ぽつりとこんなことを言った。
「ねえその子、本当に純粋なラブラドールなのかしら」
「純粋な?」
「たとえば、ゴールデン・レトリバー」
呟いて、木崎はカノンの身体を指さした。
「ラブラドール・レトリバーとゴールデン・レトリバー、これら二犬種の最大の相違点は、見てのとおり被毛です。ゴールデン・レトリバーが名前のとおり、ツヤのある金色の長毛種であるのに対し、ラブラドールは淡いクリーム色の短毛種。この違いゆえに、顔や体格で見分けがつかなかったとしても、ラブラドール・レトリバーとゴールデン・レトリバーがとり違えられることは基本的にありません」
彼女はしゃがみこみ、ふたりに見せるようにして、カノンの背中の毛を触った。
「でも、じゃあその被毛が、両方の犬種の特徴を備えていたとしたら?」
同一個体に、二つの犬種が組み合わされる。それはすなわち。
「カノンちゃんは、ミックス犬ということですか……?」
声を上げたトウコに、木崎は頷いた。
「ミックス犬の中には、そのときの毛の長さによって、毛質や色の見え方がまったく異なってくる個体がいます。この子は、毛が伸びるにつれツヤが出て色が濃くなるタイプなんでしょう。うちに来たときにはもうこういう姿をしていたから、さすがに私にもわかりませんでしたわ」
「探し犬はラブラドール・レトリバー。その前提からして違っていたわけですか。道理でいくら探しても出てこないはずだ」
はあ、と息をついた安室だったが、そこでふと雪松老人の言葉を思い出した。
『しょっちゅうトリミングに連れていかなきゃならないし』
そうか、とようやく腑に落ちた。
「飼い主の雪松さんは、それまで犬に興味がなく、飼うのは今回がはじめてだとおっしゃっていました。だからラブラドール・レトリバーが本来トリミングの必要ない犬種であることを知らなかったんですね」
依頼の資料として毛利が受けとった写真は、たまたまトリミング直後の毛の短い時期に撮影したものだったのだろう。
「もしかすると雪松さんは、ラブラドール・レトリバーという犬種がそもそもどういうものなのかすら、よく把握していなかったのかもしれないな」
肩をすくめた安室は、足元のカノンを見下ろした。
ひとつの心に、まったく異なるふたつの姿。
彼はちょっと笑って、その首を撫でた。
「ま、自分が何者かなんてこと、君にとってはどうでもいいよね」
フサフサとした金の毛並みに話しかけると、彼女は「あおん」とひと声鳴いて、不思議そうに首をかしげた。