リードを緩めた途端、カノンは弾丸のように飛び出していって主人の懐に飛びこんだ。

 屈んだ雪松の脇に頭を突っこみ、全身ですり寄って甘えている。立ちあがって飛びつかないのは、雪松が腰を悪くしているのを知っているからだろう。

 カノン、カノン、と雪松は声を詰まらせて、かけがえのない愛娘の名前を呼んだ。



Chapter.3 モディ・ドゥは理想郷の夢を見るか?

File.32 迷い犬のカノン(Ⅴ)


「元気なまま帰ってきてくれるなんて夢みたいだよ」

 ことのあらましを説明すると、雪松は服の袖で目じりを擦りながら、感極まったように言った。

「まさか鎌倉にいたとはね。よく探しだしてくださったもんだ。さすが毛利先生のお弟子さんだよ」
「愛犬家のもとで早期に保護を受けられていたのが幸いでした。一匹でさまよい歩いていたら、こううまくはいかなかったでしょう」

 礼は礼として受けとりながらも、とくに手柄を誇ることもなく、安室は純粋に事実だけを述べた。

 豊かな毛に覆われた太い首を撫でながら、雪松が確認するように訊ねた。

「カノンは純粋なラブラドール・レトリバーではなくて、ゴールデン・レトリバーの血を引いたミックス犬ということなんだね?」

「どちらかの親がそうなのかもしれませんし、もっと上の世代で交配された可能性もある、と彼女を保護していた方はおっしゃっていました。被毛以外はほぼ完全にラブラドール・レトリバーの特徴を備えているそうなので」

「ラブラドール・レトリバーとゴールデン・レトリバーは全体的にとてもよく似た犬種なんですが、専門家が見れば被毛以外にも微妙な差異はあるそうなんです」

 横からトウコが補足を加えるも、雪松は込みいってきた説明に「うーん」と困った顔になった。

「なんだかややこしいなあ。何犬だろうと、僕にとってカノンはカノンなんだけど」
「あはは、間違いありませんね」

 笑って答える安室と主人のやりとりを、カノンは穏やかな顔で見つめていた。

「でも、ひとつ気になったことがあるんだけれど。カノンはそもそもどうして廃品回収車を追いかけていったんだい?」

 隣にちらりと視線をやると、トウコは待ちかまえていたように頷いてみせた。丁寧な手つきでカバンからを取り出した彼女は、そのままそっと雪松の手のひらに乗せた。

「カノンちゃんを保護していた方から預かったものです」

 それは、細い金鎖のついたロケット・ペンダントだった。雪松の目が大きく見開かれる。

「これ……」

 震える手が、ペンダントの小さな蓋をそっと開く。途端に、繊細な音色が流れだした。
 ブリキのおもちゃのようにどこかぎこちなく、だが、それがかえって郷愁をともなって耳の奥に染みこんでくる―― 古いオルゴール。

 カノンの耳がぴくりと動く。ペンダントが奏でるその曲名は――

「パッヘルベルの、カノン」

 水面に波紋を作るように、雪松の声がこぼれおちた。手の中のペンダントを見下ろして、絞りだすような声で言う。

「妻が生前くれたものなんだ。もう、ずいぶんと昔になくしてしまったものと」
「保護されたとき、カノンちゃんはこれを片時も離さず咥えていたそうです。取ろうとすると怖い顔で人を遠ざけて」

 そんな顔、生まれて一度もしたことありません、と言わんばかりの温和な顔で、カノンは人間たちを見上げていた。
 安室はその頭に手を置いて、親指で耳の裏を掻いてやった。

「おそらく廃品回収に出した物のどこかに仕舞われていたのだと思います。貴方の大切なものが廃品回収に出されてしまったと知った彼女は、その業者が巡回してくるたびに一生懸命に吠えて知らせようとしていたんです。だから、リードが切れた途端、おもわず我慢できずに追いかけていってしまった。荷台に乗ったまま長い間降りなかったというのは、慣れない車上では荷物の間からうまくペンダントを取りだせなかったからでしょう」

 カノンを見て、安室は微笑んだ。

「彼女の動機は常にひとつでした。愛する主人の宝物を取りもどしたい、と」
「カノン、お前」

 身体の痛みも忘れて、雪松は崩れおちるように膝をついた。

 秋の稲穂のような毛並みを抱きしめた老人は、庭の日だまりの中で声もなく泣きつづけた。

◇◇◇

「犬は何の理由もなく、飼い主のもとを離れたりはしない、か。あの人の言っていたことは正しかったな」

 大きな屋敷で犬たちと暮らす、あの不思議な女性の言葉を思い出しながら、安室は全身で大きく伸びをした。背中のあたりがぬるく微睡んでいるような、気持ちの良い疲労感があった。

「カノンちゃんは知っていたんですね。雪松さんの気持ちも全部。でも、私にもひとつだけわからないことがあるんです」
「わからないこと?」
「茅ヶ崎で車から降りたカノンちゃんが、どうして鎌倉にある木崎さんのお家にいたんでしょうか。保護されたのも木崎邸のすぐ近所だったんですよね?」
「ああ、それはあそこが彼女の故郷だったからさ」

 あくびをしながら、安室はシンプルに答えを告げた。

「雪松老人が言ってただろ。子犬 カノンと出会ったのは『妻の故郷の鎌倉に旅行にいったとき』だって。茅ヶ崎まで運ばれたあと、彼女は子犬のころの記憶をたどって鎌倉に戻り、そこで保護されたんだ。とはいえ、本当のところ木崎邸にも長く留まる気はなかったんじゃないかな。落ちつく場所で体力を回復させてから主人のところに帰ろうとしていたのかも」

「なるほどォ。そうだとしたら、ほんっとにお利口なワンちゃんですね」

 トウコが心底、感嘆したような声をあげたとき、それに重なるようにして、キイン、コオン、とどこかで学校のチャイムが鳴った。
 時刻はちょうど十七時、オレンジ色に染まった市民公園には、犬を連れた散歩客のシルエットが並んでいた。
 あちらこちらから聞こえてくる犬の鳴き声に、トウコがくすりと笑った。

「あの木崎さんという女性、面白い方でしたね」
「まさか初対面で犬に喩えられるとは思わなかったよ」
「これで私の見立ては大正解だったと証明されました。安室さんはシェパード。でもゴールデン・レトリバーに似ているときもある。以上」

 勘弁してくれ、と安室は肩を竦めた。

「そういえば君、帰りぎわに彼女に何か言われていたね。何の話だったんだい?」

 木崎邸から去る前、木崎はトウコを呼びとめて、何ごとかを話しかけていた。安室は先に部屋を出ていたので、よく聞こえなかったのだ。
 トウコは首をかしげてから「ああ」と手を打った。

「たいしたことじゃありませんよ。私を犬に喩えると何になるかってヤツです」

 わざわざ呼びとめてまで言うことか、と安室はますますげっそりした。やはり相当な変人である。

「で、君は何だって言われたの?」
「私は――
「■■■、戻っておいで!」

 答えようとしたトウコの言葉をかき消すように、犬の名前を呼ぶ声が聞こえた。ばう、と主人に応える吠え声。
 振りかえると、フリスビーを咥えた黒いグレート・デンが、いかにも得意げな足どりで飼い主のもとへと帰っていくところだった。

 トウコもまた、同じように振りかえっていた。黒い瞳をいっぱいに見開いて。

「どうした?」

 声をかけられてはじめて、トウコははっと我に返った。

「あ、いえ。なんでも」

 だが、さすがに素っ気のない返事だと思ったのか、すぐに取りつくろうように言葉を続けた。

「昔飼ってた犬の名前と一緒だったんです。なので、つい」

 彼女は眉毛を下げて「えへへ」と苦笑した。
 その顔をじっと見つめながら、彼は、嘘ではない、と判断した。

 人の虚言は見ればすぐにわかる。
 出会ってからこれまで、トウコが彼の前で嘘をついたことは、

「どんな犬を飼ってたんだ」

 トウコは少し考えてから、言った。

「カノンちゃんとは正反対の、真っ黒で無愛想な犬でした。あまり賢い犬ではなかったので、自分で綱を噛みきって逃げちゃって。それっきりです」

 そう語る女の顔には、西日によってきつい影がかかっていた。
 網膜を刺すような鮮烈なオレンジ色。その逆光の中にあって、表情は判然としない。

 ただひとつわかるのは、彼女はやはり嘘をついていないということだった。

 焼けた鉄のごとく、あかあかと輝いていた太陽が、夕雲の後ろへと姿を消す。透明なハケで塗ったように、あたりはさっと暗くなった。

 目の眩むような橙色の時が終わっても、何か拭えないものが焼けついたように目の底がチカチカとしていた。
 めまいのようなあの一瞬。
 それは、たとえば、見てはいけない何かを見てしまったときのような。

 薄紺の夕闇が降りてくるにしたがって、彼の視界は元どおりになった。ぴょこぴょことすこし先を歩くつむじ。
 こちらを振りかえった彼女の顔は、普段と同じのんきでとぼけたそれだった。

「ねえ、安室さん。ひとつお願いをきいてくれるって言いましたよね。その権利、さっそく使ってもいいですか?」

◇◇◇

 数日後、予定を調整したふたりは、ここ一週間ですっかり見知った家の前で落ちあった。

「準備はいいですか、安室さん。手ぬかりは許されませんよ」
「僕を誰だと思ってる。突入するぞ」

 いかにもな装束を身にまとった安室とトウコは、サングラスをぴかりと光らせ、現場に乗りこんだ。

「こんにちは、雪松さんっ。お伝えしていたとおり、お庭のお手伝いに来ました!」

 トウコが元気よく挨拶すると、奥から雪松が顔を出した。

「わざわざすまないねえ。どうぞどうぞ入っておくれ。カノンも待っているよ」
「お邪魔します」

 カノンちゃあん!と脇目も振らず裏庭へと駆けていくトウコは、長ズボンと長袖Tシャツ、さらには麦わら帽子と軍手まで着用したパーフェクトな野良作業ルックである。気合の入り方が尋常ではない。
 そんなトウコの後ろ姿に、雪松は頬を緩ませた。

「まあ、ずいぶんと張りきってくれて。トウコちゃんも安室さんも」
「あはは……」

 自分の格好を顧みて、安室は苦笑した。彼もまたトウコと大差ない出で立ちなのである。

「正直どうしようかと悩んでいたところだったんだ。忙しいのに、本当にありがとうねえ」
「このくらいお安い御用ですよ。それに『針千本』はごめんですから」
「針千本?」

 首をかしげた雪松ににこりと微笑んで、安室はトウコの背を追った。

   

「安室さんっ、要回避です!」
「おい、ちょっと待て、まだ――
「もう限界!ふんぬー!」

 トウコが木の上から、腕いっぱいに抱えていた剪定済みの枝葉を投げおとした。ちょうど真下で草刈り作業中だった安室は、回避がぎりぎり間に合わず、頭から洗礼を受けることになった。

 たちまち死んだ目になった安室の周りを、カノンが尻尾を振って走りまわる。
 肩の上をとてとて歩いていた青虫を、指でつまんで花壇に戻したあと、安室は樹上の女に向かって、にっこりといい笑顔を浮かべた。

「木から降りたあとでいいから、君にちょっと話があるんだ」
「き、切り残した枝がまだあんなに……」

 トウコは「木の上って快適だなあ、今日はずっとここにいたいなあ」と青い顔で答えた。

 ふたりがかりで一生懸命に作業しているうち、東にあった太陽はあっという間に反対側へと移動した。

 庭には一本の雑草もない。芝生はきっちりと几帳面に刈りそろえられ、ペンキの剥げていた犬小屋まで新品同様である。
 凝りだすととことん凝ってしまうのは、彼と彼女共通の、如何ともしがたい性質だった。

 一日かけてすべての仕事を終えた彼らは、菓子折りと心からの感謝を手土産に帰路についた。

   

 からすが鳴いたら帰りましょ。
 爽やかな秋の夕暮れに、カアカアと郷愁を誘う鳴き声が行きかう。

「ミッションコンプリート!ふぁー、働きましたねえ」

 トウコは肩を大きく回しながら、肺の空気がすっかり入れかえるような、充実しきった息を吐いた。依頼外のタダ働きだったにもかかわらず、何かとてもラッキーなことがあったかのようにニコニコとしている。
 彼女はほころんだ顔のまま、安室を見上げた。

「ありがとうございます。今日は本当に助かりました。重いものもたくさんあったし、私ひとりじゃ何日かかっていたやら。犬小屋のパーフェクトな塗りなおしといい、相変わらずぞっとしてしまうくらいマルチですね、安室さんは。探偵どころか、スパイとかもっと特殊な仕事もできそうです。イーサン・ハントもびっくりなのでは?」

「なかなか光栄なたとえだね。でも、せっかくなら明石元二郎と言ってくれ」

「渋いところきましたねえ。もはやそれ、フィクションじゃないですし」

 あははとふたりで笑いあう。ふたりそろって、上から下までくまなく、ドロドロの汗まみれだった。
 トウコは眉毛をふにゃりと下げながら、本当に嬉しそうに言った。

「雪松さんの喜ぶ顔、見られて嬉しかったです。ありがとうございます。お願い、きいてくれて」

 汗と泥にぬれた、化粧っ気のない顔だった。日に焼けて赤くなった鼻の先と、汚れてがさついた頰。無造作にまとめられただけの髪は、馬の尻尾のようにあっちこっちに跳ねている。

 いかにも日本人らしい小づくりな目鼻は、装わなければなんということはなく、百人いれば百人とも何ら気に留めず通りすぎていく程度のものだ。

 男として今の彼女に評価できる点があるとすれば、せいぜい素朴な慎ましさくらいだった。どこをとっても、彼の知る美しい女たちのそれとは比べものにもならない。

 たとえば、高くのびた鼻梁、潤んだ瞳、柔らかく艶かしい唇。
 彼はそういったものを、見て、触れて、知っている。

 だが、だからこそ、彼の知るそういう女たちとはまるで比べものにならないほど、彼女のほほえみは、すうっと透きとおって眩しいのだった。

 安室は納得のいかない気持ちで目を擦ったあと、ぶっきらぼうに言った。

「ちょっと顔貸して。物理的に」
「物理的って――

 どういうこっちゃ、とでも言いたげな顔面をそのままわしづかんだ安室は、引きだしていた自分のシャツの袖をその頬に押しつけた。背を丸めてそのままゴシゴシと泥汚れを拭きとってやる。
 タオルが鼻や口を通過するたびに、トウコは「はぶ」とか「ぶへ」とかバカまるだしの声をあげた。

 満足がいくまで徹底的に磨きあげてから、安室は放るように告げた。

「いいよ、今回のはノーカン」
「へ?」
「庭掃除ごときで『お願い』だなんて、その程度の人間だと言われているみたいでなんだか気に入らないからね」

 目をまん丸くしていたトウコだったが、それを聞いた途端、「ぶっ」と盛大に噴きだした。

「あははっ、相変わらず自己評価がチョモランマですね」
「その言葉のチョイスも、前々からちょっと気に入らないんだけど」
「仕事に対するストイックぶりを褒めてるんですよ。ねえ、安室さん。人は何のために働くんだと思います?」

 唐突な質問に、彼は首をかしげた。

「さあね。理由は人それぞれじゃないか」
「さては考える気ゼロですね?正解は、ご飯を美味しく食べるためですよ。美味しいご飯を食べるためじゃなくてね」

 ここまできて、ようやく彼にも質問の意図が読めてきた。
 黒い瞳がきらりと光る。

「つまり、美味しいご飯を美味しく食べれば最強だってことです。『お願い』使っても?」

 どうぞ、と肩をすくめる。
 トウコは、ダカダカダカダカ、ダーン!とスネアドラムを鳴らして『お願い』を発表した。

「安室さんの手作りハンバーグ定食を所望します!」

 時間のあるときでかまいませんから、と熱心に両手で『お願い』のポーズをつくる彼女に、安室も小さく噴きだした。

「わかったわかった。針千本はごめんだからね」

 夕焼けの道、並んで歩く影がふたつ。明かりの灯りはじめた路地には、どこからともなく夕食のにおいが漂ってくる。

 あたたかく、なつかしく胸の奥をくすぐるそれは、ふわりと彼らを取りまいて、秋の空に昇っていった。


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