料理は、仕事というより趣味に近い。

「塩とコショウはさすがにあるか……」

 あとはナツメグ、と陳列されたスパイスの瓶を見比べて、安室はそのうちのひとつを迷いなくカゴに放りこんだ。
 クミンやホワイトペッパーなど、候補はほかにもいろいろあるが、たくさん入れれば良いというものでもない。
 今回はシンプルな構成にすると決めていた安室はその場でぐずぐずすることなく、次の棚へと移動した。



Chapter.3 モディ・ドゥは理想郷の夢を見るか?

File.33 嘘と秘密とハンバーグ(Ⅰ)


「あっ、いたいた。安室さーん!」

 細い通路から出るとすぐ、明るい声が飛んできた。パン売り場で手を振っているのは、安室の同僚・梓である。
 声や動作がいつになく堂々としているのは、他に客がいないからだろう。
 彼女は、安室と外出するときはたいてい、忍者のような隙のない動きになる。とくに他の女性の目があるところでは。

 急いでそばまで近づいて、安室は頭を下げた。

「すみません。結局ひとりで買い回らせてしまいましたね。帰りの荷物は持ちますから」
「もーう、安室さんったら相変わらず紳士なんだから。でも、お気遣いなく。これくらいいつもひとりでやってますし、そもそも今日は私の当番ですから。ありがとうございます、安室さん」

 食パン満載のカートもまったく気にせず、梓はからりと笑って答えた。翌日のモーニングに出す食パンがない、と言った梓に同行の提案をしたのは安室である。

 ―― 僕も個人的に買いたいものがあるんです。せっかくだから一緒に行きませんか。

 そんなふうに気軽に声をかけられるのは、ふたりで買いものに出かけることが決して珍しくはない間柄だからだ。

 誘ったからには、荷物持ちくらいはやるつもりでいたのだが。

「あはは、さすが梓さん。頼もしいですね」
「こう見えてけっこう力持ちですから。安室さんのほうも終わりましたか?」
「はい。おかげさまで」

 すると梓は身を乗りだして、安室のカートを覗きこんできた。
 ひき肉、卵、玉ねぎ、パン粉。
 ある程度、料理をする者ならばひと目で見抜けるメニューである。

「なるほど。晩ごはんはハンバーグ、と。安室さんはマメですねえ」
「ポアロでやるほど細かい仕込みはしませんよ。さっと作って終わりです」
「ふうん。まあ二人前くらい、安室さんならあっという間に作れちゃいますもんね」
「ええ、二人前くらいならすぐに――

 二人前?

 目を丸くした安室を見上げ、梓が意味深に口角を上げた。

「だってこれ、トウコちゃんに作ってあげるんですよね?」

 トウコちゃん、トウコちゃん、トウコちゃん――
 梓の声がエコーする。笑顔のまま停止した安室に向かって、梓は「うふふ、いいですねえ」と追いうちをかけた。

「いや僕はそんなこと、ひと言も」
「隠さなくたっていいんですよ。私、知ってますから」

 え、と表面上はにこやかな笑顔のまま安室は梓を見下ろした。

「知ってるって、いったい何を」
「決まってるじゃないですか。安室さんとトウコちゃんの秘密の関係を、ですよ」

 梓はこともなげに言いはなった。爆弾発言である。

「い、いやだなあ。秘密の関係だなんて。トウコさんはただのポアロの常連さまで――
「ですが、それだけじゃありません。私の目を誤魔化せるとでも思ってるんですか」
「そ、そういうつもりでは」

 犯人を追いつめる探偵のように、梓はじっと安室の目を覗きこんだ。

トウコちゃんは、安室さんの――

 真剣な眼差しに、さすがの彼もごくりと唾を飲みこんでしまう。
 梓は確信的に瞳をきらめかせた。

「舎弟です」

 ふたりのあいだに、なんともいえない沈黙が下りた。

「……舎弟?」
「はい。ずばり舎弟です」

 梓は自信満々に胸を張った。自分の答えの正しさを信じて憚らない顔だ。

「今日のハンバーグは、舎弟のトウコちゃんへのまかないなんですよね!『盃交わした子分の面倒は見るもんだ』ってどこぞの親分も言ってました」
「梓さん、それは極道ドラマの見すぎです」

 安室はがっくりと脱力した。どきりとさせておいて、肝心なところで微妙に外してくるこの感じ、さすがというかやっぱりというか。
 苦笑混じりに弁解した。

「以前トウコさんからの依頼を受けたことがある、というのはご存知ですよね。それ以来、たまに探偵業のお手伝いをしてくださるようになったんです。ほら、依頼人が若い女性だった場合、僕みたいなむさ苦しい男は敬遠されがちなんですよ。とくに部屋にお邪魔する必要がある場合とか……そういうときにちょっとだけ代打をお願いしているんです。毛利先生の発案でね。今日はそのほんのお礼」

 レジに向かう途中、期限切れのセールワゴンを覗きこみながら、安室は核心部分は伏せたまま、だが決して嘘ではない内容を告げた。

 以前の仮面カップル作戦しかり、近頃はなんだかんだとセットでこき使われることが多いふたりである。客の中にもそのことを知っている人間がちらほら出てきた以上、『毛利公認』の事実を逆に利用させてもらうつもりだった。
 堂々としているほうがかえってバレにくい、というトウコの言葉はけっして虚言ではないのだ。

「なるほど、そういうことだったんですね。私ったら勘違いしちゃってました。あっでもでも、ご心配はなさらずに。この推理はほかの人には伝えていませんから」

 間違えたことには拘泥せず、梓はぺろりと舌を出してみせた。

「誤解が解けて何よりです」
「ま、あてずっぽうというわけでもないんですけどね」
「というと?」
「ふふ、企業秘密です」

 人差し指を唇に当て、今度こそまさに意味ありげな微笑みを見せた梓に、安室はこっそり肩を竦めた。勘が良いんだか悪いんだか。

「とはいえ、安室さんとトウコちゃん、良いコンビなのは間違いないと思いますけど。息ぴったりっていうか。どこか似た者同士っていうか」
「あはは、僕みたいなくたびれた社会人と一緒にしちゃ可哀想ですよ。トウコさんは夢と希望に満ちた花の大学生ですから」
「……そうなのかな」

 ぽつり、と独り言も同然の呟きだった。その横顔は、普段の彼女からは考えられない、どこか物憂げなもので。

「え?」

 おもわず聞きかえした安室に、梓は我に返ったように手を振った。

「えっ、ああ、気にしないでください。それより安室さん、そろそろ帰らないとまずくないですか?もう十八時半ですけど」

 と、サービスカウンターの柱時計を指さす梓。
 はっと時間を思い出した安室は慌ててレジに向かったのだった。

◇◇◇

 マンションに着くと、トウコはすでに万全の準備で待機していた。
 ナプキンを首にかけ、フォークとナイフを両手に持ったディナースタイルである。

「おかえりなさい、安室さん!」

 安室の姿を見た途端、彼女は、ハンバーグっ、ハンバーグっ、と食べざかりのヒヨコのように鳴いた。

「はいはい、ちょっと待って」
「今日は昼過ぎからずっとこんな感じで待機してます。お腹が空きました」

 ピヨピヨうるさいヒヨコから、フォークとナイフを回収し、首のナプキンも外してやる。
 きょとんとするトウコに、かわりにエプロンを押しつけて言う。

「ほら、さっさとこれつけて」
「え?」
「僕が作る約束だけど、手伝わなくていいとは言ってない。働かざる者食うべからず、だ」
「あいかわらず、へりくつのような正論のような、際どいラインを攻めてきますね」

 と、言いつつも素直にエプロンを身体に巻きつけるトウコである。
 一方、安室はその間にひき肉を冷蔵庫に入れ、調理準備を整えた。

 高級マンションのシステムキッチンは、一戸建てのそれに負けず劣らず、広く大きく機能的である。ボウルや食器類も、ひとり暮らしにしてはきちんと一式揃えられていて、料理をする環境としてはまあ十全だ。
 十五帖近くあるリビング・ダイニングの一角で、彼らはさっそく夕食作りに取りかかった。

「じゃあまず、玉ねぎをみじん切りにしてくれるかい。僕は米を炊く準備をするから」

 トウコが「イエス、シェフ」と敬礼した。髪をひとつまとめ、両手も念入りに洗って、準備万端の様子である。

 トウコはペリペリと玉ねぎの皮を剥き、まな板の上で片っ端から細かなみじん切りに変えていった。手際は決して悪くない。

「普段、自炊してるんだっけ」
「一応はそうですね。外食ばかりだと食費がかさんでかさんで……でもパパッと作って食べるだけですから、ハンバーグみたいな時間のかかるものを作るのははじめてです」
「もともと、家の手伝いはしていたほう?」

 トントン、と規則的に動いていた包丁の音が止まる。「じつはですねえ」とトウコは恥ずかしそうに首を縮こめた。

「そういう記憶、まったくないんですよ。料理を始めたのは大学生になってからですね。『家の手伝いもろくにしないまま居なくなりやがって!この親不孝者め!』って実家のお父さんが大激怒していた可能性はあります。私の知らないところで」

 困ったような顔で笑って、トウコは玉ねぎを刻む作業に戻った。一定の速度で手を動かしながら、彼女はふと問うた。

「安室さんは?」
「僕?」

 まさかこの年になってそんなことを訊かれるとは思っておらず、安室は一瞬、調理の手を止めた。

「まあ、もともとこういうのは嫌いじゃないかな。時間があるときにはよく振る舞ってやったよ」

 言ってしまってから、少し焦った。
 だが彼女は「お料理上手なのは昔からなんですね」と納得したように頷いただけで、それ以上追求してくることはなかった。

 刻み終えた玉ねぎをボールに移して、トウコは彼を見上げた。

「終わりました、安室さん。これはこのままタネに入れるんですよね?」
「いや、先に炒めるよ。そっちのほうが味が落ち着くんだ」

 洗米を終え、炊飯のセットを終えた安室は、トウコに指示してフライパンを用意させた。弱火にかけたあと、バターをひとかけら削りとり、その中心にぽとりと落とす。
 溶けるバターの、いかんともしがたい濃厚な香りが漂って、トウコはそれこそとろけたような顔になった。

「い、いいにおい。お腹すいた」
「この程度でよだれを垂らしてたら身がもたないよ。玉ねぎのボールとって」

 フライパンにボールの中身をひっくり返し、ヘラで丁寧に炒めていく。

「こうやって、飴色になるまでじっくり炒めます」
「ふむふむ」

 安室の脇からフランパンを覗きこんだトウコは、真面目な顔でメモをとった。

「炒めおわったら、いったん冷ます。そのあいだにサラダとお味噌汁の準備をしようか」

 トウコはサラダ、安室は味噌汁。
 それぞれ分担してサブメニューを用意する。コンロの前に立つついでに、安室のほうはハンバーグにかけるソースもつくっておくことにした。

 ある程度、準備ができたところで、冷ましておいた玉ねぎをふたたびボールに戻し、他の材料と混ぜあわせた。
 玉ねぎと卵、牛乳、パン粉。それから調味料とスパイス。肉はまだ入れない。
 材料のペーストができたところで、冷やしていたひき肉を取りだす。

「安室さん、これも使うんですか?」

 冷蔵庫から取りだしたものを見て、トウコが生徒のように質問した。指さしているのは牛脂である。スーパーの肉売り場にタダで置いてあるのを、買い物の際にひとつもらってきたのだ。
 袋をあけて真っ白い固形の脂をとりだし、トウコの前に置いた。

「タネに入れるだけでずいぶんと変わるんだよ。混ざりやすいように刻んでくれるかい」
「あえて高級な材料を使わないところが玄人、って感じですねえ。めもめも」

 トウコはいたく感心しながら、メモ帳にふたたびコリコリと料理の秘訣を書きこんだ。

 ペーストの入ったボールに、刻んだ牛脂と冷えたひき肉を入れ、最後に冷凍庫から氷をひとつ放りこむ。
 興味津々でボールを覗きこむトウコに解説してやる。

「手の温度で牛肉の脂が溶けるといけないからね。本当はもっと冷やしておくのがいいんだけど、時間が足りないから今回は氷も使おうと思って。氷が溶けてしまうまでのあいだ、牛脂を潰すような感じでしっかりと捏ねるのがポイントだよ」

 左手でボールの縁をおさえ、もう片方の手で肉と牛脂を馴染ませるように混ぜる。冷えたひき肉が爪のつけ根をひやひやと痛ませたが、彼はとくに気にもせず作業をつづけた。

「で、捏ねおわったら形を整える」

 なめらかなタネを複数にわけ、そのうちのひとつを手にとった。ぱちん、ぺちん、と両手の間でタネを投げあい、空気を抜く。薄めの小判型に成形して、中心を凹ませたらできあがりである。

「おーっ!」

 トウコが身を乗りだして歓声をあげた。目を輝かせて、できあがったハンバーグに夢中である。
 その横顔を見て、安室は取りわけてあったうちの、ひとかたまりをトウコの前に置いた。

「君もどうぞ。もう一度ちゃんと手を洗ってからね」

 トウコの黒い瞳がくるんと動いて彼を見上げる。

「はい!」

 準備を整えた彼女は、おそるおそる手を伸ばし、目の前のタネを取りあげた。彼がやったのをなぞるように、両手の間で生地を投げあう。
 だが、ちゃんと力が入っていないのか、ぽてん、ぽてん、と気の抜けたような音しかしない。

「もう少しだけ強くやってごらん」
「こうですか?」
「ん」

 トウコの背後に移動した安室は、後ろから腕を伸ばし、細い手首に手のひらを添わせた。

 脂まみれの手と手が交わる。
 蛇の腹のようにてらてらと白くひかる冷たい手指。ぬるりと逃げては、また絡みあう。

 わざと少し時間をかけてトウコの手を掴んだ彼は、たっぷりひとまわりは小さいそれ越しに、さっき自分ひとりでやったようにぺちん、とタネを投げてみせた。

「こんな感じ」
「もういっかい、もういっかい!」

 安室の胸あたりで、黒いつむじが興奮したようにぴょこぴょこ跳ねる。
 まだ一度も染めたことがないという黒髪は、無機質な蛍光灯の下でも健康的にツヤめいていた。さらりとした髪が動くたび、清潔なシャンプーの香りが胸元をくすぐった。
 トウコは香水をつけない。

 そのまま状態で、もう一度だけやってみせる。ぺちり。

「はい、実演タイム終了。今度は自分でやってごらん。脂が溶けるといけないから、時間はかけすぎないように」

  ぬめつく脂を滑らせるようにして、彼はトウコの手首を離した。

 習うより慣れろで、新しいタネを渡す。たどたどしく触っていたのははじめのうちだけで、練習を許された途端、彼女はすぐにコツをつかんでぺちんぺちん、と良い音をたてるようになった。

 手首まで脂だらけにして楽しそうに笑うトウコ。そのさまは、料理をする女というよりも砂場で遊ぶ子どものようだった。

 ふとに目が留まったのは、そんなときである。

 白い二の腕に痣のようなものがあった。
 若くハリのある肌のなかで、そこだけが檜皮のように痛々しい。シャツの半袖からちらりと覗くその部分は、普段は服に隠れて見えない場所だった。

 痣というより、火傷跡のように見えた。

「それ、どうしたの?」

 覗きこんで指させば、トウコはきょとんとしたあと、「ああ」と納得したように指先で軽くそれをなぞった。

「昔、火傷したことがあるんです。遠出した先で偶然ボヤがあって、そのときに」

 トウコははっとしたように顔を上げた。

「だ、断じて料理でとちったわけじゃありませんよ!念のため言っておきますけど!」

「そんな妙な場所を火傷するなんて、どんなアクロバティックな調理法を試したのかと思ったよ」

「私は何をするにもいたって慎重ですよ。石橋叩きマンです。石橋を叩きすぎて壊したあげく、さらにそれを自分が満足できるまで修理してから渡るタイプです」

「自分で言ってりゃ世話ないね。さて、全部できたところでオーブンに入れようか。焼きあがったらいよいよ晩ごはんの時間だよ」


error: