Chapter.3 モディ・ドゥは理想郷の夢を見るか?

File.34 嘘と秘密とハンバーグ(Ⅱ)


 いただきます。
 と、声を揃えて手を合わせる。

 熱で弾けるお手製のソース。焼きあがったばかりのハンバーグが、目の前でじゅうじゅうと沸きたっている。香ばしい匂いに満ちたリビングは、まるで老舗の洋食屋だった。

 定食の内容は、レタスと大根のサラダ、焼いたポテト、きのこのお味噌汁、それから炊きたての白ごはん。純和食ではないけれども、それがかえって家庭的で、空きっ腹を刺激する。

 いったいこの世のどこに、これ以上の贅沢があるだろう。

 愛用の赤い箸でおそるおそるハンバーグを切りわけると、湯気とともに肉汁がどっと溢れだした。
 つけあわせのポテトを浸すほどのそれに、トウコはおもわず喉を鳴らした。発掘調査中の考古学者のごとく慎重な手つきで、ひと口パクリ。

 パーフェクト。

 トウコはしびれ、イスの上で脱力した。こんなに美味なるものが存在していいのだろうか。だめだ、これは人をダメにする魔性のハンバーグだ。

 肉にからむ肉汁とほのかに香るナツメグのハーモニーが、とかなんとか、美食に慣れた人ならうまいレビューをつけるのだろうが、彼女ごときの語彙力ではとても表現できない一品だった。どなたか山岡士郎を連れてきて。

 会場のトウコからは以下、ひと言である。

「おいちい」
「幼児退行してるぞ」

 向かい側で同じく箸を取りあげていた彼が、ツッコミ、もとい冷静に状況説明を入れてくれた。真面目である。

 自分の作ったハンバーグを食べながら、安室もまた、まんざらでもない顔をしていた。彼としても満足のいく出来だったようで、「ナツメグの量、ちょうど良かったな」などとひとり納得したように頷いている。

 彼とこんなふうに食事をするのははじめてかもしれない、とトウコは湯気の立つ食卓を見ながら考えた。
 例の高級イタリアン事件はもちろんカウントに入れていない。あれを食事とみなすような情緒のない人間にはなりたくないのである。

 一方、彼は背筋を伸ばし、粛々と食事を続けていた。
 イタリアンのときのような華美な所作は鳴りを潜めているものの、動作の端々に品がある。マナー・アドバイザーばりに几帳面な箸の持ち方を見ても、これはそのまま彼のなのだろう。

 今度は反対側の手に視線をやった。筋ばった大きな左手が椀を揺らさずに持ちあげる。すでにこれまで何度も確認してきているとおり、その指には特徴的なタコも、何らの装飾品も見あたらなかった。

「不躾だね。何か収穫はあったかい」

 ひえっ、と顔を上げると、色素の薄い読めない瞳がこちらを見ていた。

 鋭い視線。空気がまたたく間に張りつめていく―― かと思えばそんなことはなく、彼は「はあ」と呆れたため息をついた。
 箸を置き、見せつけるように左手を振る。

「食事中にかぎらず、人の手はじろじろ見るな。警戒される」

 その口調に、以前あった試すような冷たさはない。むしろ、どちらかといえば熱心な指導教官モードである。

「そんなに凝視してました?」
「ひかえめにいって、指の股から節から、執拗に舐めまわされてるような気分だった」
「す、すみません」
「マナー違反もほどほどにしろ」

 トウコは頭と眉を同時に下げた。マナーというのはもちろん、食事中のそれではない。
 指の形、手の厚み、爪の長さ。マメ、タコ、装飾品。手くせ、指くせ。
 手というものはときに、口ほどにものを言う。職業はもちろん、趣味、性格。場合によってはそのときの思考さえ、持ち主の意思に反してことごとく。

「観察していたわけじゃなくって……素直に感動していたんです」
「何に?」
「女子力および、お嫁さん力に」

 虚をつかれたような安室の前で、指折り数える。

「マナーは完璧、料理はプロ並、細かいことにも気がついて、手先が器用。ゴリラなのがたまにキズだけど、それくらいはまあ目を瞑って――

 ぷしゅう、と頭から湯気が出た。

「いったあ……」
「何がいたの?虫?」

 そういうところだぞ。そういうところ。
 人の頭をはたきまわしておいて、安室は何ごともなかったように話を続けた。

「いいお嫁さんになれそうだとか、そういうことは女性に言うんだね。褒められてる気がしない」
「たとえば梓さんとか?」
「そう。一般的な家庭を築くなら彼女は理想的な人だと思うよ。面倒見が良くて、芯が強い。子供たちからも慕われているし、何よりとてもまっすぐな人だ」

 淀みなく梓の良いところを語る安室に、トウコはおそるおそる確認した。

「まさかそれ、本人の前で言ったりしてないですよね?」
「言ったけど」

 てらいもせずに答えた安室に、トウコはおもわず半目になった。

「うげえ……そのあとしばらく距離をおかれたでしょ……」
「なんで君がそれを知ってる」

 安室はじろりとトウコを見下ろしながら、白い歯でレタスを噛みちぎった。

「知ってるも何も、当たり前ですよ。面と向かってそんなことを言われたら、梓さんにかぎらず普通の女性はぎょっとします。良くも悪くも。相手が安室さんだとなおさらね」
「なんで他の奴は良くて、僕だとダメなわけ?」

 彼はムスッと眉根を寄せた。ほかの人間にできて自分にできないなんておかしい、とエベレストなプライドがいたく傷つけられたときの顔である。

 自己評価の高さを斜め上のベクトルで発揮してきた彼に、トウコはしばらく返答の内容を思案してみたが、結局面倒くさくなって穏やかに首を振るにとどめた。ノーコメントで。

「僕は本当のことを言ってるだけなんだけどな。女の子の考えることって、ときどきよくわからないよね」

 ほんの少し拗ねた口ぶりで言ったあと、彼は味噌汁を飲みほした。彼は決して冗談で言っているわけではない。最近になってトウコにも、がわかるようになってきた。

「何か言いたそうな顔だね」
「いいえ。生まれつきです」
「屁理屈ばかりこねてないで、さっさと食べろ。行儀が悪いぞ」

 言いながら、安室はしつけのよい小学生のようなしぐさでポテトを口に運んだ。

 トウコが見つけた彼の秘密その一。
 彼は根っこの部分が、ものすごく、それはもうものすごく―― 汚い言葉を使うなら―― クソ真面目なのだ。

 彼の場合はもちろん、物事の先を読むだけの頭があるため、生真面目ではあっても杓子定規ではない。むしろ非常に気の利く男として知られているし、それについてはトウコも一も二もなく頷くところである。

 ところが、仕事と関係のない私的な話になった途端、「うーん、たしかにそうなんだけど、そうじゃないんだ、そうじゃ!」とオーディエンス(とくに女性)を歯噛みさせるような反応をすることがある。

 仕事となればハニートラップもお手のもの、女性の心を掴んで掴んで離さないホスト裸足の色男。なのにいざプライベートなことになると、どうしてこんなにニブいのか。
 この不可解な現象について考察した結果、トウコはひとつの結論に至っていた。

「安室さんってじつは、めちゃくちゃ“凝り性”ですよね。職人気質といいますか」

 そんなチャラついた見た目なのに、というひと言は飲みこんでおく。口に出せば機嫌を損ねること間違いなしである。
 ぴくりと眉を動かした彼だったが、意外にも「否定はできないな」と肩を竦めた。

「仕事の役に立つならなんだってやるからね、僕は。料理だってもともとは、手を動かしながら考えをまとめるために始めたものだし。そういう意味では、いわゆる女性の料理上手とはベクトルが違うわけだけれど」

 ハンバーグを几帳面に切りわけながら、いかにも女性受けしなさそうなことをペラペラ喋る。耳を傾けながら、トウコは内心「そう、これだよこれ」と手を打った。

 彼の秘密その二。
 スマートな見た目に反して、そのじつ、ゴリゴリの職人肌。

 彼は、職務のためなら泥臭く自分を追いこむことも厭わない、ストイックな仕事人なのだ。
 仕事だと思えば不可能はない、いや、不可能であっても可能にする、恐るべき職務遂行マシン。仕事スイッチがオンになったが最後、その並外れた責任感とプライドにより、女性の籠絡だろうが何だろうがドン引きするくらいのパーフェクトさでやり遂げてしまう。

 どこの世界にも『いうほどイケメンでもないのに、なぜか女に事欠かないヤツ』がいるものだが、彼はある意味、それとは対極の存在かもしれない。
 計算され尽くした、アン・ナチュラルボーン・ジゴロ。彼は元来、色恋よりも自己鍛錬を好むタイプだ。

 だからこそ『お仕事アンテナ』が反応していないときの彼は、結構「あれ?」な挙動が目立ったりする。
 トウコに対ししばしば投下されるデリカシー皆無な発言もじつはわざとではないのかも、と思ったり思わなかったりする今日このごろである。

「何が手に負えないって、無理できるだけの容姿と能力が備わってしまってることですよ。得手も不得手もスペックで押しきるモンスターマシン……業が深い……南無」
「食事中にブツブツ念仏を唱えるな。そんなんだから、いい歳して手を繋ぐ相手もいないんだろ。今どき高校生でも彼氏のひとりくらいいるぞ」

 いい歳していい歳していい歳して――
 華麗なフォームで投擲された、唐突かつ謂れなき誹謗中傷。こっちに向かってまっすぐに飛んできたそれは、そのまま綺麗にUターンして金髪アラサーのつむじに突き刺さった。ナイス・ブーメラン。

 同じ攻撃を食らっても、アラサーとアラツーではまるでダメージが違うのだが、トウコはあえて何も言わず、その一部始終をやさしく見守るに留めた。知らぬは本人ばかりなり。合掌。

「まあたしかに『良いお嫁さんになれそうだね』だなんて言ってもらったことはないですけど。別の内容なら言われたことありますよ」
「なんて?」
「良いハッカーになれそうだね、って」
「ちょっと反応しづらいんだけど」

 何ともいえない感じで肩を竦めた安室は、ちょうど最後のひと口を食べ終えたところだった。
 箸を置いた彼は、テーブルに頬づえをついてトウコを見やった。

「前々から訊こうと思ってたんだけどさ。君のって、どうやって身につけたんだ?学校に通って勉強したわけじゃないんだろ」
「うーん、なかなか難しい質問ですね。気づいたらできるようになっていたというか」

 トウコは幼い時分を思い出しながら、とつとつと答えた。

「きっと、生まれつきそういうのが得意なんでしょうね。ほら、代々錠前屋をやってるような家ですから基本的に手先が器用なんです。システムやパソコン関係は母親のほうの血じゃないかと思ってますけど」

 いつからかと言われれば、きっとはじめからそうだったのだ。
 鍵でも道具でも簡単な仕組みのものは見ただけでなんとなく理解できた。複雑なものが、簡単なものの組み合わせでできているとわかってからは、技術はとんとん拍子で身についた。

 それを何のために使うか、ということは最後までおいてけぼりで。

「機械いじりも鍵あけも、やりはじめると止まらなくて。誰かに何かを教わる前に、勝手に覚えていったんです」
「そういうのを、才能っていうんだろうな」

 さらりと返されたひと言に、トウコはびっくりして、おもわず目の前の瞳を覗きこんだ。
 そこに映っていたのは、皮肉や嫌味とはかけ離れた、ただただ純粋で率直な心のうちだった。

 本当のことを言っただけ。ひと筋の気おくれも怖じもなく、彼の目はそう語っていた。受けとりようによって自賛の類とも思われかねない言葉も、この人にとっては、それはただそれだけのことでしかない。
 トウコは尊崇の念さえ抱いて、彼を見た。

 性格も性別も立場も職業も年齢も関係ない。
 ただ、彼にとって価値があるか、の一点だけ。

 周囲の人間に価値を見いだすのも、自分に価値を見いだすのも、すべては彼自身が決めること。だから彼は迷わない。己を卑しめることもなく、他人におもねることもなく、誰に何を言われようとも価値があると判断した道を進んでいく。
 それはおそらく、滅私の果ての到達点だった。

 昂ぶるような震えがぞくりと腰から背中へかけあがった。力の入らない手でワンピースの膝をくしゃりと握り、トウコは言葉を紡いだ。

「光栄ですね。それこそ才能なんてよりどりみどりのあなたに、そんなことを言ってもらえるなんて」
「僕のは才能なんかじゃない」

 彼ははっきりとそう言った。いっそ吐き捨てるような断定的な口調だった。
 だが、それもまたやはり卑下とは無縁の言葉なのだった。

「必要があるから身につけただけだ。才能と能力は違う」
「才能と、能力?」

 生まれてはじめて聞く話だった。

「生まれながらに手にしているものが才能だとしたら、それには目的も方向性もない。能力は、望んで手に入れるものだ。至るところは同じかもしれないが、明確な意志に導かれるぶん、後者のほうが結果は出やすい」

 強い光を放ち、見るものをあまねく惹きつける瞳。だが、取りこまれれば最後、骨も残さず焼きつくされてしまう。
 熱く燃えるような息とともに、彼は言った。

「だが、それだけだ。最後の一歩が―― 届かない」

 噛みつくような激しさで発された声は、だが、実際にはその望みを果たせずに、ふたりの間で空虚に失速した。トウコの耳まで届いたものは、身のうちから迸る何かに全身を引き裂かれる、掠れた呻き声だけだった。

 トウコはこのとき、ようやく悟った。
 彼は過去のどこかにおいて、彼の評価に値しなかったことが、ある。

 時間と労力を費やし、あらゆる努力と準備をしたうえで、それでも届かないものがあったとしたら、人はその理由を何に、どこに求めるのだろう。

 彼はトウコを見つめて、力なくほほえんだ。

「どんなときも、持つ者ほどその価値に無頓着だよ」

 皮肉でも軽蔑でもない。誰を責めているわけでもない。だが、声なき声は鈍い刃となって、彼女の身を裂いた。それはどこまでいっても彼女自身の問題だった。
 だから、トウコはいっそう明るい声で返事をした。

「そうかもしれませんね。でも、このハンバーグは私の心にしっかり届きましたよ。あと、胃袋にもね」

 安室は虚をつかれたような顔になり、それからようやくいつもの笑みを見せた。

「じゃあ、料理の才能はあるってことだね。喫茶店員・安室透は最良の選択だったわけだ」
「だから活かさにゃソンソンですよ。また気が向いたらごちそうしてください。そしたら仕事の能率が三十パーセントは上がります」
「たったの三十パーセントか。気合でなんとかなる数値だな。却下」
「ザ・脳筋――

 げんこつ。

「だから、そういうところですよ、そういうところ」

 ぽかりとやられた頭をおさえ、抗議する。そのどさくさにまぎれて、彼女はおもわず口にしてしまいそうになった言葉を心のうちにそっと隠した。

 目的も方向性もない、無色透明の力の原石。
 じゃあ、私のそれは何のためにあったのでしょうか。


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