切れるように冷たい風が頬の上を吹きとおっていった。
熱いコーヒー缶を手のうちで転がしながら、ベンチに座る。
『今年は過去にない冷えこみが予想されます。気温は例年の二月並み』云々。今朝のニュースキャスターの予言である。
昼間とはいえ木の座面は冷えきっていて、ジーンズごしにも太ももが凍りつくようだった。分厚いデニムでもこれなのだから、オールシーズンのスラックスでは相当堪えるにちがいない。
そう思ってちらりと後ろに意識をやるも、背後の男は銅像のように不動だった。
彼らの仕事において、すべてに勝る要件は忍耐力である。異常気象だろうがなんだろうか顔色ひとつ変えず、じっと耐える。耐えつづける。
部下として接してはいるものの、一組織人としては先輩にあたるその男は、寒がる様子などかけらも見せず、ひたりとベンチに座っていた。
まさに文字どおり、背中で語る一徹者。
学ぶ点は多いな、と彼は手の中のホットコーヒーを見つめながら、マフラーの内側で小さく笑った。
「寒いな」
「……もう十二月ですから」
背中合わせに座った風見は、あいかわらず生真面目な声で答えた。
File.36 冬のどなた(Ⅱ)
ぱちゃ、と鯉の跳ねる音がした。どこからか子どもの騒ぐ声がする。
都内にある、とある公園のとあるベンチ。
決まった日、決まった時間になると、彼らはそこに居合わせる。
「状況は?」
「とくに変わりはありません」
「それは何よりだ」
『会う』というのでも、『話す』というのでもない。かたや池を見ながら、かたや公園の景色を見ながら、めいめい独り言をつぶやく。背中合わせに座った誰かは、たまたまそれを耳にしただけ。
会ったという事実も、話したという事実も残らない、具合のいいやり方だった。
「もうひとつのほうも順調です」
「そうか」
口にする言葉は、できるだけ一般的な単語を組みあわせて、簡潔に。
どこの世界でもそうだが、仰々しい言葉を並べたがる人間にできる者はいない。そうでないからこそ、躍起になってできるフリをする。少なくとも彼はそういうふうに考えていた。
彼らはしばらくして、『独り言』を言い終えた。
ちゃぽん、と魚の跳ねる音。
ボールで遊ぶ子どもたちの歓声。
彼はぼそりと言った。
「ベンチの右端を見ろ。できるだけ自然に」
唐突な命令にもかかわらず、素直に従う気配がした。
ゴソゴソという紙袋の音のあと、「あ」と本当に小さな声が聞こえた。
「これは……クリームサンド?」
「今朝の余りだ。どうせ今日も昼飯抜きだろ」
「コ、コーヒーまで。お気遣いありがとうございます」
「食いながらでかまわない。むしろいいカモフラージュになる」
「では、お言葉に甘えて」
喉が乾いていたのだろう、風見はさっそくプシュ、とホットコーヒーのプルタブを倒した。つづいて、ラップを剥がし、かじりつく音。
しばらくして小さな声が返ってきた。
「とてもおいしいです」
「そうか」
ちゃぽん、と魚の跳ねる音。
高校生らしき男女がすこし離れた場所でにぎやかに笑いあっている。少女のほうは元気なもので、冬曇りの空の下でも、スカートの丈はぎりぎりまで短い。
彼はふと問うた。
「お前、彼女いるのか」
ブッ、と食事中にあるまじき噴出音が聞こえた。飲んでいたコーヒーを気管に吸いこんだらしく、ひどく苦しそうに咳きこんでいる。
「そんなに驚かなくても」
「い、いや、あまりに唐突だったもので」
「ことはいつだって唐突に起こる。で、どうなんだ。いるのかいないのか」
風見は咳ばらいをしてから、ごく小さな声で答えた。
「……い、いませんが」
「出会いは?」
「ありません」
今度は即答だった。
「そこだけはっきり言うなよ。責められてるような気持ちになるだろ」
「べつに責めているわけでは……」
「おい」
遮るように呼びかけると、風見はびくりと背筋を伸ばした。彼は前を向いたまま、神妙な声で言った。
「頬にクリームついてるぞ」
一瞬、固まってから風見は慌てたようにポケットを探った。やっと見つけたティッシュで口元を拭う。
「違う。右側だ」
「は、はい」
「『背中合わせに座っているのになぜわかったんだ』―― だなんてくだらないことを考えてるんじゃないだろうな」
背後の男がぎくりとした。
「そのクリームサンド、誰がつくったと思ってる。どこからクリームがはみ出て、どこに付着するかくらいは予想済みだ。その程度のこと、考えるまでもなく察しろ」
「は、はい」
「そして考えるまでもないことがもうひとつ。『クリームついてる』―― 正直、僕じゃなくて女の子に言われたかったって思っただろ」
ブボォ、と今度こそ聞くに堪えない音が聞こえた。
「お、思ってません」
「正直に吐け。思っただろ」
「思ってませんよ!本当です、むしろあなたで良かったです」
それはそれで心配になる返事だと彼はベンチのこちら側で少々複雑な気持ちになった。
「まあいい、冗談だ。仕事に支障が出ないかぎり、お前がプライベートで誰とどうなろうが口を挟む気はない。安心しろ」
「ありがとうございます」
かちりとした声が返ってくる。人のことは言えないが、この男もかなりのクソ真面目である。特殊な職務に就いているからといって、個人の自由がゼロになるわけではない。
なにも、自分のような人間の真似をする必要はないのだが。
「ま、今年に関しては良しとする。これ以上サンタクロースは見たくない」
「サンタクロース?」
「気にするな。独り言だ」
さて、また別の日。
彼は考えた。
すでに二度も尾行に失敗している。不運が重なったとはいえ、そろそろプライドの限界である。次こそは何があろうと絶対に成功させなければ。
追いこまれた彼は、とうとう最後の手段に出た。
「あれ、何か落ちてますね」
テーブルを拭いていた梓が、「なんだろう」と身を屈めた。ティータイムが過ぎ、客もまばらになった時間帯である。
起きあがった梓の手には、薄っぺらいカードが一枚乗っていた。
表返して、彼女は悲鳴をあげた。
「わっ、学生証!」
「どなたのですか?」
近づいていった安室に、梓は慌ててカードを見せた。
顔写真の人物は、真面目くさった黒髪の女・トウコだった。
安室はいつもどおり、至極落ち着いた声で答えた。
「さっきまでここに座っていらっしゃいましたもんね。きっと、財布を出したときに落とされたんでしょう」
「大学生は学生証がないとすごく困りますよね。ええっと、携帯の番号は書いてないから、学校に電話して連絡を取ってもらって。あれ、でももう冬休みなんだっけ」
「大丈夫です、梓さん。僕が追いかけて届けてきます」
「たしかにそれが一番早い―― って、ええ!?」
ぎょっとした梓に、安室は平然と柱時計を指した。
現在時刻、十五時五十六分。
「今日のシフトはさいわいあと数分で終わりですし」
「そ、そういうことではなく……!もう五分も前に店を出てるんですよ。追いかけるって言ったって、どっちへ行ったかもわからないのに」
安室は金色の髪をさらりと揺らして、ここぞとばかりに微笑んだ。
「ご心配なく。僕が誰かをお忘れですか?」
そして約五分後、安室はポアロの外に立っていた。
通りに人がいないのを確認してから―― ほくそえむ。
計画通り。
トイレに立った隙に学生証を抜きとり、あとからこっそり現場に落としておく。その程度のこと、彼にとっては朝飯前である。
安室は、停めてあった愛車に乗り、トウコを追いはじめた。
彼女が店を出てからすでに十分が経過している。バカ正直に追っても追いつけない。
安室は過去二回の尾行のデータを活かし、彼女が降車するバス停まで先回りすることにした。
十分ほどして目的のバス停が近づいたあたりでようやく、彼はバスから降りるトウコを発見した。
すこし離れた路地で車を降りる。つづいて、できるだけ怪しくないように、周囲を確認する。
敵影なし。
安室は胸を撫でおろした。少年探偵団もとい誤認逮捕ちびポリスたちは、今日は別の場所で遊んでいるようだ。
さっそく先を歩くグレーのコートを尾行しはじめた彼だったが、はじまったばかりのそれは、実際には数分も経たずに終わった。
トウコはバス停からひとつふたつ角を折れたかと思うと、そのままつきあたりにある敷地の中に入っていったのである。
門前に辿りついた安室は、敷地の中の建物を見上げた。
「ここは……」
ガラス張りの正面玄関。駐輪場は子どもの自転車でいっぱい。いかにも平和な面構えをしたその施設は―― 。
「図書館?」
今まさにあくびをしようとしていた警備員が、安室を見て慌てて口を閉じた。背筋を伸ばし、それらしい顔に戻る。
規模は中くらい、どこにでもある公営の図書館だった。
ここがいわゆる『背が高くて、スーツが似合って、仕事ができそうで。ぶっきらぼうに見えるけれど、本当はとても優しいサンタクロース』との合流場所なのだろうか。
彼は敷地に入りながら推理を始めた。
図書館でスーツ、となると職員か学校教員。もしくは図書館への出入り業者。
「いや、何かを調べている会社員という可能性も―― 」
「あはは。いったい何を調べてるんでしょうね」
門扉の陰から声が聞こえた。
ゆっくりと首を横に向けると、見知った女がこちらを見つめてほほえんでいた。
「こんなところで奇遇ですね、安室さん」
笑っているのに、ぜんぜん笑っていない顔のまま、トウコは「やあ」と片手を上げた。