File.37 冬のどなた(Ⅲ)
とん、とん、と一定のリズムで聞こえる音。
指先がテーブルに当たるごくごく微かなその音も、人のいないレファレンスゾーンではいやに大きく聞こえてしまう。
人の少ない夕方の図書館のなかでも、ひときわ人のいない奥まったスペースで、安室は白いテーブルを挟んでトウコと向きあっていた。
いや、向きあわされていた。
「犯行状況はこうです。まず、あなたはトイレに立った隙を見て私の財布から学生証を抜きとりました。そして、私が店を去ったあと、あたかも『私が落としていった』というふうにふたたびテーブルの下に戻したんです」
取調官・トウコはこれみよがしに、テーブルの端に置かれた証拠品に視線をやった。出会い頭に押収された学生証である。
「あえて梓さんに学生証を拾わせたのは確実なアリバイ作りのため。そしてあなたは『わざわざ忘れものを届けてあげる親切な喫茶店員』を装って、堂々とストーカー行為に及んだんです。間違いありませんね?」
とん、とん、とトウコの指先が神経質にテーブルを叩く。向かいあう相手を心理的に圧迫する、シンプルだが効果的な手だ。
安室はテーブルに向かって俯いた。
「僕はやってません」
「カバンのなかにね、学生証と一緒に入れてあったんですよ」
宙を見ながら、トウコは世間話をするような和やかさで話しはじめた。
「―― 持ち運び用のICカードリーダー。ちょうど名刺入れと同じサイズの、目立たなくてかわいい子なんですけど」
「カードリーダー?」
「はい。普通のカードリーダーってICカードが接触すると光ったり音が鳴ったりしますよね。なので今回も例のごとく、あらかじめちょっとだけ手を加えてあったわけです。カードが接触したら、じゃなくて、カードが離れたら、反応するように。たとえば―― 対象のICカードがカバンから取り出されたとき、とか」
ぎくりとした安室をしり目にトウコは「うふふ」と怪しげな声を出した。
「安室さんならもうおわかりですよね。カードリーダーのログを見れば、私のカバンから学生証がなくなった時刻は簡単にわかるってことです。私が会計を済ませた時刻は15時50分。今回の件が自然発生的なものなら、学生証を紛失した時刻と会計をした時刻はほぼ一致するはずです。私は今日、会計以外では財布を取り出していませんから」
穏やかに宙を見ていた視線が、突如ぐるりと安室を射抜いた。
「なーのーにーィ?」
狂人のような言動に安室はおもわず身を引いた。そんな彼の目の前に、ばん、と音をたてて携帯電話が置かれる。
携帯の画面にはカードリーダーの履歴一覧が表示されていた。トウコの指がとある一箇所を指し示す。
『最終読取時刻:15時24分』
テーブルから身を乗り出したトウコは、真っ黒い目をかっぴらき「あれれー、おかしいぞォー」と安室の顔を覗きこんだ。顔を傾けた拍子に、黒髪がホラーな感じで頬に垂れる。
かつてないほどトラウマティックな「あれれー」と、目の前にずらりと並ぶ決定的な証拠。今の彼は、崖の端に片手だけで掴まるサスペンスの犯人も同然だった。
つい怯んでしまいそうになった安室だったが、彼もまた数々の修羅場を乗りこえてきた玄人である。
ここまできて諦めるわけにはいかない、と彼は腹の底に力を入れた。
絶対に逃げきれ、安室透。崖から落ちそうになって、片手の力だけで這いあがったことなんて数えきれないくらいあるじゃないか。物理的に。
生きのびろ。たとえ、どんな手を使っててでも。
腹をくくった彼は、持ちうるすべてのベビーフェイスをかき集め、起死回生の一撃を放った。
人さし指を顎に当て、こてんと首をかしげる。
「ん、んーとぉ。僕、ふつうの喫茶店のお兄さんだからわかんなーい」
どうだ、と目だけで正面をうかがう。
その瞬間、彼は悟った。
崖の縁に掴まっていたんじゃない。掴まっていたのは―― 地獄の淵だ。
視界五十センチ前方にはシベリアも真っ青の絶対零度領域が形成されていた。
安室はひょっ、と息をつめ、あとに続く予定だった「僕ちょっとトイレー」をそのまま喉の奥に封印した。
まずい。非常にまずい。氷の女王ふたたびである。学生証は禁断の領域だったらしい。せめて免許証にしとけばよかった。
「最後にもう一度だけ訊いておきます。やったのはあなたですね?」
「も、黙秘します」
学業妨害罪の被疑者・安室は、それでも頑なに供述を拒んだ。
そんな彼をじっと見つめていたトウコだったが、何を思ったか、ふとこんなことを言いだした。
「そういえば。そろそろ十八時になりますけど、お腹空いてませんか?」
「え、まあ、空いてないことはないけど」
トウコは優しげな微笑を浮かべた。
「じゃあ、晩ごはんにしましょう。おいしいカツ丼を食べさせてくれるところがあるんですよ。予約が必要なので先に電話しますね」
トウコは携帯を取りあげ、画面を操作しはじめた。番号を記憶しているのか、アドレス帳も使わずにダイヤルする。
発信先は市外局番なしの、イチ、イチ、ゼ―― 。
ちょ、待っ。
「待て待て待て待て」
「えっと『事件ですか、事故ですか』だっけ」
「待て。それはなし、それはなしだって!」
「今回の場合は盗難?それとも迷惑行為?」
「やめろ、早まるな!今すぐ通話ボタンから指を離して頭の後ろで手を組んで―― じゃなくて、ちょ、ほんとやめて、頼むから……ああもうわかった、やりましたよ、僕がやりました!」
安室は全力でトウコと携帯のあいだに割りこんだ。ゼイゼイと荒い息を吐きながら、なんとか手から携帯を取りあげる。今にも二台目の携帯を取り出してきそうなトウコに、彼はとうとう両手を着いた。
「示談で」
返事をしない相手方に、安室は言葉を改めた。
「示談で、お願いします」
「そういうことじゃなくって。まず最初に言うことがあるのでは?」
「僕の持論だけど、償いは言葉によってはなされない。ホニャララですんだら警察はいらないとも言うし、先にこういう話をしておくほうがお互いにとって―― 」
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
取調べの末、彼は絶対に言うまいと決めていた言葉をとうとう自白した。
「たったひと言で済むものをここまで意固地に引っぱって。何歳ですか」
「二十九歳です」
「冗談は顔だけにしてください」
冗談は顔だけにして。
多少意味は変われど『一生言われないと思っていたセリフ』ランキングの上位フレーズに不意打ちされ、彼は「う」と胃を押さえた。ベルモットにも言われたことないのに。
「ここ最近、なんだか怪しいと思って泳がせてみればこのありさまです。勤務時間中に勝手ばかりして、梓さんやマスターに悪いと思わないんですか。ただでさえ無断欠勤・遅刻の常習犯なのに。何歳ですか」
「二十九歳です……今度、人手が足りないときに無給で手伝いに出ます……」
「ぜひそうしてください」
言いながら、トウコは棚から分厚いハードカバーを引っぱり出し、安室の手に積んだ。
レファレンスルームからところ変わって、書棚の並んだ通路である。閉館する前に本を借りないと、ということで図書館内を歩きまわりながらのお説教と相成ったのである。
「反省してますか」
「してます」
「どれくらい?」
「こうやって君の後ろを、犬みたいについて回りたくなるくらい」
トウコはちらりと安室を見たあと、「天然なんだか人工なんだか」と眉を下げた。
「いいでしょう、今回は不起訴とします。学生証を抜きとるなんて悪質なマネ、もう絶対しちゃだめですよ」
「寛大なご配慮、痛みいります」
許すと決めたら引きずらないタイプらしく、彼女は「これにて閉廷」とばかりにひらひら片手を振った。
「ちなみに、いつから気づいてたの?」
「最初からですよ」
これでよく公―― 以下略。彼はちょっと切なくなった。
「あなたのせいじゃないですけどね。取り巻きがあそこまで賑やかだったら、さすがの私も気づきます」
酔っぱらった毛利と少年探偵団の子どもたち。
思い浮かんだ顔に安室はおもわず苦笑した。
さて、と時計を見てから、トウコはふたたび本の物色をはじめた。勝手知ったる近所の路地をゆくように、黒いつむじが通路をすり抜けていく。
本棚のならぶ通路は、古くせまく、ほこりっぽい。電灯がところどころで息をするようについたり消えたりしている。
通路を移動するたび天井の隅に視線をやっていると、彼女は前を向いたまま言った。
「気になるなら、帽子とメガネ、持ってますよ」
彼女はさきほどからじょうずに防犯カメラを避けていた。後ろをついていく彼の姿が他者の視線に晒されないように。さっきいたレファレンスルームでも同様だった。
口では何と言っていても、トウコが本当の意味で彼を困らせたことは一度もない。彼女は何があろうと、線を越えない。
彼は前を行く女の背中から目を逸らした。
「いいよべつに。どうせ誰も見てないから」
閉館が近いからなのか、廊下にも通路にも人の気配はまったくない。
音の消えた図書館は、まるで森のようだった。
立ちならぶ背の高い木々のあいだを、しずかに、だがどこか跳ねるような足取りで歩いていくトウコ。あちこちに寄り道しながら、すこしずつ本を集めるさまは食べ物をさがす動物のようでもあった。
文字を読むことは一番大事な趣味のひとつなのだと、いつだったか、彼女は安室に言った。
「大学の図書館は使わないの。君の学校ならだいたいの本は揃ってるだろ」
「大きくてきれいな図書館も好きですが、そうじゃない図書館も好きなんです」
トウコは、薄暗く静まりかえった通路を見ながら言った。
「この時間になると、ほとんど人がいなくなるんですよ。考えごとをしたいときのお気にいりの場所です」
「秘密基地みたいだもんね、ここ」
「でしょでしょ」
トウコはいかにも嬉しそうに頷いた。
「そこの本、取ってもらえます?」
「これ?」
「いえ、そのとなりです」
一番上の棚から示された本を取りだす。埃をかぶったハードカバーだった。
十六世紀の人文主義者トマス・モア。そのなかでももっとも有名な著作。
「レポートの資料?」
「そういうわけじゃないんですけど……たまに読みたくなるんです」
日本の文芸書ばかりが積まれた山の上に、安室はぽんとそれを置いた。
「ねえ。訊きたいことがあるんだけど」
「いつその話題を振ってくるのかと思って、さっきからずっと待ってました」
「だったら自分から言えよ。君ってそういうところあるよな」
彼は眉を寄せたあと、観念したように言った。
「見たんだけど。ノート」
「ノート?」
「ノート、というより日記かな」
その瞬間、さっとトウコの顔色が変わった。
「まさか、読んだんですか?」
「あー、僕というか、梓さんが、だけど。不測かつ突発的に一行だけ」
一行と聞いて、トウコはほっと肩の力を抜いた。
「ぜんぶ読まれたのかと思いました」
「読まれて困ることでも書いてあるの?」
すかさず問うた安室に、彼女はちょっと残念そうな顔になった。
「まさか。モテない女子大生の小市民的日常が延々と綴られているだけですよ。ただ、不特定多数の人に読まれるとなると話はちょっと違ってくるというか……そういう前提では書いていないので心の準備がですね」
トウコはモソモソと人さし指を突きあわせた。
「まあ、この話はいったんおいておきましょう。で、犯行のきっかけになったその一行とは?」
安室は例の一文を諳んじた。
「背が高くて、スーツが似合って、仕事ができそうで。ぶっきらぼうに見えるけれど、本当はとても優し―― おい、言い終わる前に笑うなよ」
「だ、だって。安室さんともあろう人が真面目な顔して『ぶっきらぼうに見えるけれど、本当はとても優しい』って……ぷーっ、あはは、ダメだお腹いたい」
「原文ママだろうが。自分で書いた文章にセルフでうけるんじゃない」
「そんなこと言われても。朗読される前提で書いてませんもん」
ひとしきり笑ったトウコは、咳払いをしてタネ明かしをはじめた。
「あれは雪もちらつきはじめた、十二月十日のことでした」
トウコはその日も公園を散歩していた。
十二月になって、授業によっては早い冬休みに入りはじめた時期である。もはやメールを打つ時間すら惜しいのか、今月に入ってから安室のほうからは完全に音沙汰なしの状態が続いていた。
大学と家を往復するだけの生活では豚まっしぐら。
といつか言った記憶があるが、大学に行くことはおろか、仕事で外に出ることすらなくなれば豚化は不可避だ。
ということで、トウコは天気のいい日にはせっせと外を歩くことに決めたのだった。
都内にある、とある公園。
中央には大きな池があって、ときおりぽちゃんと魚が跳ねる。どこからかボールで遊ぶ子どもたちの歓声が聞こえてくる。女子高生のスカートはぎりぎりまで短い。
池のそばの青いベンチに、池を背にして座ったトウコは、平和だなあ、と目の前の景色をながめた。
街なかに出れば、赤と緑のネオンがちらつき、赤と白のサンタクロースがティッシュを配る季節である。陽気なジングル・ベルに祝福されて、恋人たちはコートの下で隠れるように手を繋ぐ。
そういう景色を見るのは、まあ、じつはそんなに嫌いではないのだった。
恋人が―― とマフラーのなかで囁くように口ずさむ。すぐ後ろに別の散歩客が座っているので、大きな声では歌えない。
背中合わせで座っているのをいいことに、彼女は上半身で小さくリズムをとった。
曲の合間に魚がぽちゃり。小学生らしき男の子がまっさらなボールでドリブルをしながら道の端を走っていく。
「背の高い―― 」
サビに入って少し経ったときだった。地面の凹凸に引っかかったのか、少年の蹴ったボールがぽおん、と予想もしない方向に転がった。
池に向かってまっすぐ転がっていくボール。慌ててそれを追う小学生。ボール以外は目に入っていないのか、足を止める気配はない。
まるでドラマのワンシーンのようなシチュエーション。
その思った瞬間にはもう、トウコは走りだしていた。
「あぶない!止まって!」
ぎりぎりで追いついて、子どもの手を掴む。
タイミングとしては間に合った―― が、靴が悪かった。安物の茶色いムートンブーツは何のふんばりもきかず、池の縁でうかつにすべった。
こんな時期に水に落ちたら。
それこそ冷水に浸けられたように、心臓がひやりと縮んだ。
そのとき、大きな手がトウコを腕を掴んだ。
「大丈夫か!?」
もう片方の手で近くの木を掴んだ『彼』は、今にも落ちかけていたトウコを腕の力だけで岸へ引っぱりあげた。
木を掴んだせいで手がささくれているのもかまわず、男はトウコと少年の無事を見て、ほっと息をついた。
そして咳払いをしたあと、わざわざ厳しい表情をつくって、こう言ったのだった。
「子どもが無茶をするんじゃない」
「それが十二月十日の、あの一文に込められたエピソードです」
トウコはうっとりしたように息を吐いた。
「そして、彼は寒さに震える私を見て、石焼き芋を買ってくれたのでした」
「ホォー、石焼き芋を。それで?」
「それで、とは」
「続きだよ、続き。まさかそれで終わりってわけじゃないだろ。芋まで買ってもらって」
「いえ、それだけですが」
安室はおもわず「へ?」と似合わない声を出してしまった。
「ほら、いろいろあるだろ。クリスマス前だし」
「クリスマス前だと何があるんですか?」
彼女は心底不思議そうに首をかしげた。
「何がって、こういう場合って『それがふたりが出会ったきっかけでした』みたいなセリフが続くんじゃないの、普通」
トウコは怪訝そうな顔で安室を見た。
「『きっかけ』もなにも、あとにも先にも会ったのはその日だけですよ」
「芋まで買ってもらったのに?じゃあ、クリスマスは?」
「どんだけ芋とクリスマスに執着あるんですか……さては思いっきり睡眠不足ですね、安室さん」
彼女は、腕組みをして「はあ」とため息をついた。
「日記というのはその日の出来事を書くものです。そういうことがあったから、事実をそのまま書いただけですよ。そりゃあ、かっこよくて素敵だったのはたしかですけど、私よりもかなり年上っぽかったし、彼女や奥さんのひとりやふたりはいるにちがいありません。泥棒猫なんて絶対にごめんです」
「ようするに?」
「ただのにわかファンです。特別な感情はありません」
トウコははっきりと言いきった。
なんだよそれえ、とシラけた安室に、彼女は人さし指を立てた。
「私にとって、彼はヒーローとかアイドルとかそういう類のものなんです。ポアロに来るJKたちだって気軽に『あむぴー!好きー!抱いてー!』って言うじゃないですか。あれと同じです。べつに彼女たちだって本気であむぴとのラブロマンスを目指してるわけじゃないでしょう」
「言うとおりにしたら逮捕されるからね。主に僕が」
余計な茶々を入れるなとばかりに、トウコはじろりと彼を見上げた。
「とにかく、あむぴにしろ何にしろ、『ステキ』という感情はかならずしもリアリティと比例しないってことです。むしろ手の届かないところにあるからこそ、いっそう素晴らしく見えたりするんですよ。サンタクロースだって同じでしょう?」
なぜだかわからないが、その笑顔はとある印象を伴って、彼の心に残った。
安室は少し考えてから、トウコの顔を覗きこんだ。
「えっと。言いたければ、君も言っていいんだよ?」
「何を?」
「『あむ―― 」
ぴ、は押しつけられた手のひらで封印された。反射的にやってしまったらしく、やったほうの彼女もなんともいえない顔になっていた。
「す、すみません。つい」
「ひどいな。せっかく慰めてあげようと思ったのに」
引っこめようとした手首をつかみ、そのままふっと吐息を這わせる。トウコは明らかに焦った顔になり、視線を右へ左へと動揺させた。
「き、気持ちはありがたいですが、そういう物理的な慰めはちょっと」
「何か困ることでも?」
誘うように言うと、トウコはごくりと唾をのみ、決意したように答えた。
「こ、今月はもうお金がなくて!安室さんを指名した場合は六十分おいくら―― って、いだだだだ!折れる、骨折れる!」
「君も懲りないよね」
「ウソです、ステキな冗談だってわかってます、冗談!」
「僕も君がそう思ってることくらい知ってるよ。けどやる」
本の山を片手で支えながら、彼はトウコの手首を気持ちよくミシミシいわせたのだった。
そうしているうちに閉館時刻がやってきた。
「まったく、たいした骨折り損だったよ。弱みを握ってさらに使いやすくする予定だったのに」
「骨が折れそうになったのは私ですけどね」
「何か言った?」
「言ってません」
貸出カウンターへ向かいながら、安室は肩を回した。外へは別々に出る予定のため、本の山はすでに彼女の腕に移されている。
「ま、私だってもう大人ですしね。いくら格好良くたって知らない人にまとわりついたりはしませんよ。それこそストーカーじゃないですか」
それに、と声をひそめる。
「そういうことをされると、とくに困る人だろうし」
「どういう意味?」
「あくまでそんな気がした、って程度なんですけど。あのひとたぶん警察官です」
意外な単語に、彼はちらりとトウコを見た。
「そう思った理由は?」
「私たちを助けたすぐあと、とっさに腕時計を見たんですよね。すぐ近くに公園の時計があったのにわざわざ。あの状況で真っ先に正確な時刻を確認する習慣、そんなものが当たり前に身につく職種といえばそう多くはありません。それに……」
自分の手のひらを見おろしたトウコだったが、結局「やっぱり何でもないです」と首を横に振った。
「安室さんはどう思います?」
「現場を見ていないから断言はできないけど、可能性はそれなりに高いだろうね。非常時に動けるのは、普段から訓練されている人間だけだ」
「やっぱり本当に刑事さんだったんでしょうか。左京さんみたいな!」
にわかにテンションを上げたトウコに、彼は鼻を鳴らした。
「ドラマの観すぎだね。言っとくけど刑事なんてろくなもんじゃないよ。なわばり意識強いし、プライド高いし、融通利かないし、ムサいし」
「あなた、刑事に親でも殺されたんですか……」
カウンターの近くまで来て、トウコは「さて」と安室に振りむいた。
「このへんで別れましょう。そろそろ家に帰って宿題しないと」
「君、大学生だろ。宿題なんてあるの?」
「もちろんですよ。冬休みってことで、それはもうとんでもない量の課題を出されていて。そのことを考えるだけで、朝から晩までため息が止まらないんです。はあ……」
それだったか、と安室はちょっと遠い目になった。
「ん、どうしました?」
「なんでもない」
事の元凶だった「はあ……」の理由がわかって、すっきりしたような、すっきりしないような気持ちになった安室だった。
「ま、適度にがんばれよ」
「ありがとうございます。とはいえ、気分転換もちゃんとしてますから、ね、よいしょ。少々お待ちを」
本の山をいったん下に置いたトウコは、カバンから何やら資料のようなものを取りだした。
「はいこれ。息抜きに作ったものですが、もしよかったら使ってください」
ぴらりと表に返して、安室はその場で絶句した。
「こ、これ」
「ポアロの十二月の客層レポートと、売れ筋メニューのリストです。過去三年に遡って常連のお客さんやSNSなどから情報を集めてみました。他のお店の動向も巻末にくっつけてます」
トウコは人差し指を立て、利発に瞳をきらめかせた。
「今年は安室さんがメニューを考案するんでしょう。少しでも時短になればと思って。ちょっと早いですが、私からのクリスマスプレゼントです」
屈託ない笑顔のトウコに、安室は膝から崩れおちそうになった。
「何歳ですか、って罵ってくれないかい」
「あはは、どちらさまですか。寝不足が極まりすぎて別人になってますよ。今日は早く寝て、元の安室さんに戻ってください。私がやってもいいことなら、いつでも手伝いますから」
メリー・クリスマス、安室さん。
そう言って、トウコは颯爽と去っていった。
消えていくグレーコートの背中。
一瞬、それが別のものに見えて、彼はごしごしと目を擦った。
「というか、隈やばいな」
図書館のウインドウに映った姿を見て、ようやく自分が深刻なレベルの睡眠不足であることに気づいた彼は、そのまま家に帰って布団に飛びこんだのだった。
薄れゆく意識の中、瞼の裏にさっきの光景が浮かんだ。
「本人がサンタクロース……」
灰色なら、まあ許す。
ぱちゃ、と鯉の跳ねる音。どこからか子どもの騒ぐ声がする。
「報告は以上です」
「そうか。重畳だ」
『独り言』を終えて、黙りこむ男。今回も大きなトラブルはなく、報告事項は少なかった。他に話すこともないので、彼はすぐに立ちあがった。
何ごともなかったかのようにベンチから離れ、歩きだす。すぐ近くを子どもたちが元気に走り抜けていく。
その姿を追うようなフリで、元いた場所を振りかえった。
風見はまだ同じ場所に座っていた。
銅像のような後ろ姿に、彼はふと、例のフレーズを思いだした。
背が高くて、スーツが似合って、仕事ができそうで。
「まさかな」