「サクラサク」
呟くと、カウンターの向こうで食器を洗っていた安室がちらりと目だけでこちらを見た。
「もうそんな季節か」
もうそんな季節ですよ、とトウコはカウンターに顎を載せたまま、手の中でチョコレートの箱を転がした。
File.38 サクラサクマデ
二月に入ったばかりの、まだまだ寒い平日。
商品名が験担ぎにぴったりな赤いチョコレート製品のパッケージには、この季節になると、華やかなピンク色をした桜のイラストとともにかならずそういったコピーがつく。
「きっと勝つんです」
「定番のゴロ合わせだね」
ポアロの店内には彼と彼女のふたりだけだった。
空の色はいまだ青くも、時計の針は昼から夕に移りつつある凪のような時間である。サラリーマンは会社で過ごし、主婦たちは夕食の準備にとりかかり、女子高生たちはいまだ教室でうとうとしている。
皆の意識からこの店の存在が消える、ほんのひととき。それは唯一、トウコがこの店内で彼と向き合うことを許される時間だった。
「知り合いに受験生でもいるの?」
「友達のいとこが。去年の夏あたりから大学受験の家庭教師を頼まれてたんです」
安室は怪訝な顔をした。
「その友達っていうのも同じ大学だろ。どうして君がわざわざ?」
「際限なく甘やかしちゃうからだそうです」
「年下の親類あるあるだな」
洗いおわった食器を手際よく片づけた安室は、コップに冷水を注いでから、ふう、とカウンターの向こうに腰を下ろした。
「ちょっと休憩」
「おつかれさまです」
透明なグラスを傾け、水を喉へ流しこむ。ふう、ともういちど息をついてから彼はコップを置いた。そのまま何気なく腕をのばし、トウコの手からチョコレートの箱を取りあげる。
「サクラサク。一番有名な合格電報だね」
「たしか実際には、大学によって内容に差があったんですよね」
「東大なら『アカモンヒラク』、東北大なら『アオバモユル』、静岡大なんかは面白くて、合格なら『フジサンチョウヲセイフクス』、不合格なら『スルガワン イマダナミタカシ』なんてのが届いたみたいだよ」
安室は資料でも読みあげるように、さらさらと諳んじた。
「富士山頂を征服す。駿河湾未だ波高し。ザ・静岡って感じですね」
「あとは三重大の『イセエビタイリョウ』とか」
「イ、イセエビ」
待ちに待って届いた合格通知が『イセエビ』だったら嬉しい反面、少々戸惑ってしまうかもしれない。
「ユーモアがあって素敵なのは間違いないですけど……それにしても安室さん、相変わらずどんなことでもお詳しいですね」
「一般常識だよ」
どこのクイズ王ですか、とトウコは半目になった。一般常識についての常識がなさすぎる。
実際のところ、安室透はじつに博識な男である。彼の辞書に『知らない』という言葉はない。
彼がもしも『知らない』と口にしたら、それは『(知識がなくて)わからない』ではなく、『(いろいろ面倒くさいからお前には)おしえない』の意である。
「探偵を名乗るなら、これくらいは当たり前だよ。単なるひらめきだけじゃ推理なんて到底できない」
赤いパッケージをコトコトと振りながら、安室はすまし顔をした。
「そうはいっても、ここまで多分野にわたる知識となるとなあ。どうやって身につけたんです?」
「どうやって、ってそりゃ地道にだよ。たいした勉強もせず何でも知ってるなんて気持ち悪すぎだろ」
トウコは視線を上げた。
「熱心な受験生だったこともあるってことですか?」
「ないとは言わない」
ちゃんと答えてくれるとは思っていなかったので、トウコはちょっと目を丸くした。
「『必勝』のハチマキを巻いてガリガリやってるところはまるで想像できないですけど」
「ハチマキを巻いて勉強したことはないよ。だって普通に邪魔だろアレ」
真面目な回答をくれた彼に、ようやくトウコの中でのイメージが固まった。このひと、絶対、コソ勉派だ。
『テスト範囲終わった?』『まあ一応な』とか興味なさそうに言うくせに、実際には出題範囲の復習を三周くらいはパーフェクトに完了している裏切者。
各クラスのやんちゃグループに潜んでいることが多く、チャラい見た目のわりにとめはねのしっかりした几帳面な字を書くのが特徴だ。
トウコはカップの縁に唇を寄せつつ、「じゃあ安室さんは」と問うた。
「そうやって一生懸命勉強して、合格通知が届いたとき、どんなことを考えましたか?」
「―― これから東京に行く。大学にはいる」
安室は瞳を伏せて、まるで朗読するかのように語りはじめた。
「有名な学者に接触する。趣味品性の備わった学生と交際する。図書館で研究をする」
淡々と続ける。
「著作をやる。世間で喝采かっさいする。母がうれしがるというような未来をだらしなく考えて、大いに元気を回復してみると、べつに二十三ページのなかに顔を埋めている必要がなくなった」
「……ん?」
「そこでひょいと頭を上げた。すると筋向こうにいたさっきの男がまた三四郎の方を見ていた―― 夏目漱石『三四郎』」
トウコは飲んでいた紅茶を盛大に噴きだした。
「いやいやいやいや」
「なに?」
「い、いつから三四郎になったんですか!?」
「僕は三四郎じゃなくて安室透だけど。というか汚いな君。自分で拭けよ」
布巾を投げて寄越してくる。
「あ、すみません。ちゃんと拭きますから―― じゃなくってェ!なに読みあげてんですか!」
テーブルを拭き終えてから、トウコはあらためてカウンターを叩いた。覗きこめば、安室は当たり前のように手元の携帯で電子書籍を開いていた。
何が『まるで朗読するかのように』だ。普通に朗読だった。
「だから『三四郎』だって言ってるだろ。まさか知らないとか?」
「さすがに知ってますよ!ストレイシープストレイシープ!」
「じゃあ読みあげた件か。いくら有名な作品だからって一言一句覚えてるはずないだろ。君はバカなのか?」
安室は心底見下げきった顔で肩を竦めた。
くうう、このやろう。トウコは深呼吸して、心を落ちつけた。
「いいですか。私はね、日常会話の途中に出典が明示されるという異常事態について問いただしているんですよ」
「なるほど」
安室は顎に手をやったあと、口を開いた。
「たしかに死後五十年が経過した時点で著作権法による保護はなくなるよ?でも、混乱を避けるために、どんな場合でも出典や引用元ははっきりさせておくべきだ。ちなみに著作権侵害の罰則は『十年以下の懲役』または『一千万円以下の罰金』だから他人の著作物を引用する場合はよく気をつけて―― 」
トウコは悟りを開いた僧侶モードで右耳と左耳を直結させた。御託がすうっと右から左に通り抜けていく。
そうやってすぐ解説する。バカな相手にはとりあえずペラペラしとけば勝てると思ってるだろ。まあそのとおりなんだけれども。
「不満そうな顔だね。まあ、君の出方次第では話してあげないこともないけど。どうする?」
カウンターに肘をつき、くすぐるように問いかけてくる。かつてない提案にトウコはさっきまでプンスカしていたことも忘れて「きっ、聞かせてください」とお願いした。
彼は鷹揚に頷いて、どこか艶のある、吐息の混じった声で話しはじめた。
「『今度は三四郎のほうでもこの男を見返し―― 」
「三四郎ォー!」
トウコはおもわずテーブルにデコをぶつけた。
「はい、やると思った!絶ー対ッ、やると思った!」
「僕の話をするなんてひと言も言ってないからね。いい声でサービスしてあげたんだからもっと感謝してよ」
「真っ昼間から官能小説みたいな三四郎なんて聞きたくありませんよう。期待して聞いていたのに二回も人を裏切って。すぐそうやって人をおもちゃにするっ」
「この程度で?世間知らずだね」
えっ、と固まったトウコに、安室は怪しげな笑みを向けた。
「本当におもちゃになるって、どういうことかわかってる?」
「な、なにを―― 」
底の見えない瞳がトウコを絡めとる。身を乗り出す男と、魅入られたように動きを止めた女。見えない力で引き寄せられるように、瞳と瞳の距離が近づく。
そして、「ブブッ」という情けない噴出音とともに、両者はカウンターに撃沈したのだった。
「ちょ、その顔、プッ、はははっ」
「自分から仕掛けといて先に笑わないでくださいよ!私だって一生懸命堪えてたんですからね」
「だって眉毛がさあ」
カウンターに額をつけたまま、彼らはしばらくプスプスと腹を抱えた。
「はあ、だめだ。全力で疲れました……ツッコミ疲れ……」
「寝不足のときってたまにスイッチ入っちゃうよね」
「テスト前あるあるです」
外から見えないようにトウコをうまく壁にしながら、安室はカウンターにぺたりと顎を置いた。
「受験生かあ。そういう自分はどうだったのさ。まあ、おしえてもらわなくても机にかじりついてる姿が目に浮かぶようだけど」
「写真ありますよ。見ます?」
安室のまつげが一瞬動いた。
「君にしては珍しい申し出だね」
「芋女の過去なんて、見るも無惨な暗黒時代と相場が決まってますからね。あなたみたいな名実ともにキラッキラな輩には想像もつかない世界でしょうが……ま、たまにはいいでしょう」
「暗黒時代ねえ。それってそこから脱した子が言うセリフだよね?」
「うるせいやい」
トウコは携帯のフォルダを漁って、写真を一枚取りだした。
場所は古い校舎の前、下駄箱をバックにして黒いセーラー服が数人分並んでいる。
そのうちのひとりは、トウコと同じ顔をした黒髪の少女だった。しぶしぶといった表情でカメラに向かって指を二本立てている。
安室はしばらく見つめたあと、「なんだ」と放るように言った。
「どんなのが出てくるかと思えば、今とほとんど同じだな。あ、これ褒めてないからね」
「……ひと言が余計すぎる」
小声で反抗すると、カウンターの向こうからにゅっと右手が伸びてきて、そのまま頬をつかまれタコ顔にされた。
安室はカウンターの上に頬づえをついて、写真に対する所見を述べた。
「委員長っていうほどやる気のあるタイプじゃないけど、一番か二番に登校してひとりで読書してる優等生。いかにも学校大好きっ子って感じだな」
「いいえ」
投げられた視線を外すように、トウコは紅茶のカップに口をつけた。
「今の学校に入る前はあんまり好きじゃなかったですよ。たいして真面目でもなかったし」
「……ふうん。意外だね」
「だって暗黒時代ですから」
「それは今もだろ」
「あなたって人は!いいですか、私にだっていつか春は来ます!」
「はいはい、誰にだって春は来るさ。具体的にはあと二ヶ月くらいしたら」
「ああいえばこういう、こういえばああいう」
トウコはため息をついた。
「もういいです。私は今からマイワールドに入りますから。安室さんはそこでひとり寂しく休憩しててください」
カバンからばさばさと雑誌を出す。
安室は邪魔するなと言ったことなど丸無視で、眼の前で雑誌のタイトルを読みあげはじめた。
「『都内のお花見』『桜の名所五十選』『春は鎌倉に行こう』。ぜんぶ去年のだね」
「今年のはまだ出てないんですよ。個人的にはこのくらいの時期から特集してもいいと思うんですけど」
「どうして?」
「桜にもいろいろな種類がありますからね。四月より早く咲く桜もあります。たとえば鎌倉浄智寺の―― 」
「そういえばさ。どうしてそんなに桜が好きなの?」
トウコはじろりと安室を見た。
話が長くなりそうだからって質問をかぶせてくるな。訊いてきたのはそっちだろう。
ため息のあとに、トウコもまた頬づえをついた。
「昔ね、家族でお花見に行ったことがあるんですよ。まだほんの小さなときだったので、はっきりした記憶はないんですけど」
ぼんやりとショウウインドーから街の通りを見る。コートを着こんだ人たちが一生懸命早足で歩いている。
「それだけ?」
「はい」
安室もまた通りをながめながら、ふうん、と言った。
「好き嫌いなんて、案外そういうものかもね」
「……安室さんにもあります?」
「さあ、どうだったかな」
彼は伸びをして、立ちあがった。柱時計はすでに夕刻に差しかかっている。ドアの前を行き交う人影を見つつ、彼はコーヒーの準備をはじめた。
「過去や思い出は素晴らしいものだろうさ。でも、どこの大学を出ただとか、どんな高校生活を送っただとか、そんなことは僕にはあまり関係がない。安室透にとっていちばん大事なことは、今この瞬間、目の前にある仕事をどれだけ完璧にこなせるか。それだけ」
「仕事?」
「勤務や勉強が終わってお疲れのお客様に、とびっきりのコーヒーをお淹れすること」
カラン、とドアベルが鳴る。
コポコポとコーヒーが沸く。
サクラ咲くまでまだもうすこし。