赤い唇が囁く。
「貴女は何にも似ていないわ。この世にいるどんな犬にも」
目を見開いた彼女の耳元に、妖艶な吐息がかかる。
「でもそうね。どうしてもと言うなら……黒犬の亡霊。その身体は夜の霧、その吠え声は幽谷の風、その瞳は煉獄の熾火。そう、たとえばモーザ・ドゥーグ。ヘアリー・ジャック。それから、かの有名なバスカヴィルの犬」
胸をつかれたように、息が止まる。からからに乾いた眼球に、まぶたが張りついている。
どうして、そんなこと。
喉の奥からようやく絞りだした言葉は、掠れきって、声にすらならなかった。
低く捩れたそれは、まるで野犬の唸り声。
女は哀れむように言った。
「だって貴女、生きていないんだもの」
File.39 ユートピア(Ⅰ)
ピンポン、というチャイム音に、トウコははっと目を開けた。荒い息とともにベッドから飛びおき、時計を見る。
午前四時半。
もう春とはいえ、外はいまだ薄明だった。
ひやりと冷たい寝間着の感触に、トウコはようやくひどい汗をかいていたことに気づいた。髪先までもうっすらと湿って、重い。
姿見を覗きこむと、亡者のようなひどい顔をした女が立っていた。
おそるおそる首筋に手をあてる。汗ばんだ肌はひどく冷えていて、彼女はどこかぞっとした気持ちに襲われた。
祈るような思いでじっと手を押し当てつづけるうち、指先がたしかな脈を感じ取りはじめた。
とくん、とくん。
温かく、力強いそれにトウコはほっと息を吐いた。
そのとき、ピンポンピンポンピンポン、とせっかちなチャイム音が響いた。滅多に鳴らない、というより今日まで一度も鳴ったことのなかったそれに、トウコはようやく来訪者の存在を思い出した。
まずい。
念のため室内モニターで確認すると、やはり例の人である。当然ながら、今日こんな時間に約束をした記憶はない。それどころか、どうして今日にかぎってチャイムなんて鳴らすんだ、とトウコはちょっとパニックになった。いつもは鍵をかけてあっても勝手に入ってくるくせに。
突然の来訪に対する動揺が三割、待たせたことへの恐怖が七割、プラスアルファ、叩き起こされたモヤっと感が少々。裸足に慌ただしくスリッパを引っかけたトウコは、それなりに壮絶な形相でドタドタと玄関まで走りでた。
ドアを開けるとすぐ目の前に、見慣れた長身が立っていた。案の定、待たされたことにおかんむりらしく、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、にこりともしない。
いや、いい意味でにっこりしてもらったことなんて、まだ一度もないんだけれども。
「お、おはようございます……?」
「遅い」
何分待たせるつもりだ、と高い位置からの視線がトウコのつむじを容赦なくつき刺した。無言のプレッシャーが痛い。待たせるつもりも何も、そもそも約束していないし、時間が時間である。
何言ってんだこの人、と呆れながらもトウコはあくまで穏便に応対した。
「ほ、ほら。今まで安室さんがチャイムを鳴らすことなんてなかったじゃないですか。だから、本当に安室さんなのかなー、怪しい人だったらやだなー、ってほんのり警戒したというか」
「僕なりの配慮だったんだけど。さすがに寝ているところに入っていくのはどうかと思って」
あえて言葉を濁したトウコの心づかいを無碍にして、『正義は是に在り』と言わんばかりの態度である。
こんな時間にアポなしでチャイムを連打する人間のどこに配慮があるというのか。そもそも訪問時にチャイムを鳴らすのは、配慮ではなく常識である。
と、喉まで上がってきたツッコミを、トウコはかなり頑張って飲みこんだ。
「それでええっと、ご用件は?」
「遠出するぞ」
トウコの返事など、はじめから聞く気はゼロらしい。彼は指を三本立てて、どこぞの国民的アニメ映画の大佐のように宣告した。
「三分間待ってやる」
助手席のウインドウに映る自分を見ながら、トウコは「危なかった……」と魂が抜けでるような息を吐いた。
ぎりぎりである。
黙ってロープを準備しはじめていたあたり、強制執行されるまであと数秒の猶予もなかったといえる。
かろうじて時間内に身じたくを済ませることができたのは、寝る前に翌日の服とカバンを枕元に用意しておくという日頃の習慣の賜物だった。あとはまあ、まだそれほど厚化粧が必要ない若さのおかげだろうか。
跳ねちらかしていた髪は、車に乗ってからドアミラーを見つつそれっぽくまとめておいた。最近はポニーテールひとつとってもルーズな感じにするのが流行っているからまじまじと見られなければ、誤魔化せるはずだ。たぶん。
『あと一分五十五秒』とか『三十五秒をきった』とか玄関前でわざわざ小刻みなカウントダウンをしてくれた男は、今はすっかり上機嫌で愛車のハンドルを駆っている。
早朝の高速道路に車影は少ない。
エンジンが高く唸るたび、薄靄のかかる白っぽい景色が飛ぶような速さで後ろへ流れていった。
まさか今になって乗せてもらえるとは思わなかった。
と、トウコは味わうようにタイトな革のシートに背を預けた。タイヤから伝わる微細な振動が心地よく身体を包む。
遡ること十五分前、てっきりいつもと同じく電車か何かで行くものと信じこんでいたトウコは、マンションの地下駐車場に停められた白いFDを少なくとも三度見はした。
『く、車ですか?』
『遠出するって言っただろ』
言いながら、彼はトウコの目の前で助手席のドアを開けた。
どうぞレディ?という言葉を期待しなかったのは大正解だった。首根っこをひっつかまれたかと思うと、そのままシートの上に荷物のように放り投げられたからだ。
スーパーの買い物袋のほうがまだ紳士的な扱いを受けられるにちがいない、と恨めしい気持ちになったのも仕方のないことだった。
ただ、いきなり車に押しこまれたせいで、さすがの彼女も少々動転してしまった。『ちょっ』とか『待って』とか『心の準備がっ』とかなんとか、おもわず断片的な悲鳴をあげてしまったのだが、運転席の男は、そんな助手席に面倒くさそうな視線を送ったかと思うと、物騒極まりないセリフを口走ったのだった。
『ねじ込まれたくなかったら静かにしろ』
どこから取り出したのか、ガムテープをちらつかせながらである。これにはトウコも内心「ぎええ」と目を剥いた。ガムテープは貼るものであって、ねじ込むものでは断じてない。
新品のガムテープひと巻きをそのまま口に突っこまれる惨状を想像して、おもわず口を押さえたトウコは、泣く泣くシートベルトを着用し、大人しく助手席の犬になることを決めたのだった。
「ほんっとに、やることがあまりにも」
「何か言った?」
「言ってません」
ひとり暮らしの女の家に押しかけて、脅迫まがいの口上で叩き起こしたあげく、車に押しこんで行き先も告げずに高速を爆走。世間ではこれを拉致誘拐という。
事前通告、それかせめて半時間くらいでも時間をくれれば―― と、そこまで考えて、トウコは「ま、いっか」と思考を放り投げた。
仕方がない。こういうのはもう、仕方がない。
彼のことだ、どうしても今日のこの時間にトウコを連れださなければならない事情があったのだろうし、それを前もって知らせることのできない事情もまたあったにちがいない。
多少バタバタはしたものの、結局こうして快適なドライブの同伴にあずかっているのだ。プラマイゼロどころかむしろプラスだろう。うん、そういうことにしておこう。
遮音壁帯に入り周囲の景色が見えなくなったので、トウコはドアウインドウから運転席へと視線を移した。
リラックスした様子で革巻きのハンドルをつかむ彼は、ジーンズに淡色シャツのラフな格好である。捲くられた袖から覗く腕は、優男風の容姿が与えるイメージよりも、たっぷりひとまわりは太くて筋肉質だ。
うまく表現できないが、車に乗っているときの安室は、安室であって安室でない。姿形には何の違いもないというのに、なんとなくそんなふうに感じる。
きつめのカーブに差しかかり、肘のあたりの筋肉がわずかに隆起したのが見えた。男性特有の力強いステアリングで、スピードを落とさないまま曲がりきる。たいしてGが掛からなかったのは、さすがとしかいいようがない。
「どうした?」
トウコの視線に気付いた安室が、前を向いたまま声をかけてきた。
「いやあ、私じゃこうはいかないなって」
「君もそれほど下手じゃないと思うけど」
『うまい』でなく『下手じゃない』と表現するあたりが彼らしい、とトウコは心のなかでちょっと笑った。
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、彼は珍しくこんなことを言った。
「僕の技量ばかりじゃないよ」
彼の手が誇るようにハンドルの表面を撫でる。
FD3S型RX-7。
Rの頭文字が示す通り、ロータリーエンジンの搭載を最大の特徴とする車両である。加速性能は国産車トップクラス。十五年以上も前に生産が終了している車種だが、美しい低重心の車体と上質なフィーリングにはいまだファンが多い。
ハンドルに触れるその手を眺めながら、わかっていることをわざわざ訊ねてみた。
「車、好きですか?」
「相棒だよ」
何を今更、という空気になるかと思ったが、彼は意外にも真面目な調子で答えをくれた。短い言葉のなかにも、込められた感情がある。
トウコはなんだか嬉しくなって、ぽんぽんと革のシートを軽くたたいた。適度な弾性を備えたクッションが優雅に弾む。
「これだけの美人だったら、出し惜しみしたくもなりますね」
へえ、と感心したような声が返ってくる。
「なかなか見る目があるじゃないか」
「ただし、ちょっと大食いですね。この子は」
「それについては、弁護できないな」
そう苦笑しながらも、彼は勾配の手前で景気よくアクセルを踏みこんだ。エンジンが気持ちの良い高音を奏ではじめる。
管楽器のような特有の美しいロータリーサウンド。彼が音楽をかけたがらない理由もわかるというものだ。
音に耳を傾けながら、ほう、とトウコは満たされた息を吐いた。
価格やスピードばかりが、車の価値を決めるわけではない。
隅々まで愛されて、必要とされていること。良い車の要件とはそういうものだと思う。
だから、トウコは車が好きだ。
目を閉じてシートにもたれていると、彼がぽつりと問うてきた。
「君は?」
「私も好きです」
「そっか」
出した甲斐があったよ、と彼はまんざらでもなさそうな独り言をつぶやいた。
しばらく走ったあと、安室はサービスエリアに寄った。
トウコを連れて車を降りた彼は、自動販売機の前まで行って千円札を一枚飲みこませた。ブラックコーヒーをキメるんだとばかり思っていたら、意外にも彼のチョイスはとろりと白っぽいカフェラテだった。成分の半分くらいが果糖ぶどう糖液糖でできていそうなヤツだ。
五百円玉が一枚、百円玉が三枚、五十円玉が一枚。
ぼんやりと釣り銭の払い戻し枚数を暗算していたトウコの前で、彼はそのままひとつの動作のようにホットレモンティーのボタンを押した。やかましい音とともにミニボトルが転がりでてくる。
「ん」
と、安室は当たり前のようにそれをトウコの胸に押しつけた。
「あ、ありがとうございます。でも、どうしてこれだってわかったんですか?」
トウコは少しびっくりして目を瞬かせた。それはまさに彼女が買おうと決めていたものだったからである。
「そういう眉毛だった」
「眉毛ェ?」
いつもの理路整然とした推理はいずこへ。眉毛ってなんだ、眉毛って。
心の声が聞こえたはずはないのに、ちらりと目だけ動かしてトウコの顔を見下ろした安室は、飲みかけていたカフェラテから口を離し、無造作に手を伸ばしてきた。
太い親指が、眉間をうりうりと揉み広げてくる。
「いつもの推理はどこへ、って?」
「そんなに顔に出てますか?」
「おもに眉毛にね」
ひとしきり眉間の皺をほぐしてから、安室はトウコの顔から手を離した。あいかわらず何を考えているのかよくわからないが、機嫌は決して悪くない。
訊くなら今だ。
立ち座り用のテーブルに身体を寄せながら、トウコは「そういえば」とおそるおそる問いかけた。
「差し支えなければ、なんですけど。今日はどんな感じの予定なんでしょうか」
その途端、ぴく、と眉を動かした安室に、トウコは「ふ、ふわっとした感じで!無理なら大丈夫です!」と慌ててバッファをもたせた。
だがトウコの焦りをよそに、彼はとくに渋ることなく答えを開示した。
「ある場所で人に会うことになっている。僕ひとりだと少々目立つ場所でね」
「ひとりだと目立つ場所?」
おもわずオウム返しをした彼女に、彼はカフェラテをちゃぷんと揺らし、いたずらっぽい笑みをうかべた。
「みんな大好き、夢の国さ」