低い天井、古いパイプが無数に走る壁、廃棄建材が転がる打ちっぱなしのコンクリート。
 巧妙に隠された縦穴は、いちばん下で薄暗い迷路のような場所に繋がっていた。

 もとは従業員通路だったのかもしれないその場所は、すでに荒れ果て、長らく使われてはいないように見える。
 携帯を確認すると、やはり圏外になっていた。

 遊園地の地下にこんなところがあったのか、という驚きとともに、トウコは自分の直感が正しかったことを悟った。

 この件、やっぱり普通じゃない。

 静まりかえった通路に、水の滴る音が聞こえる。
 地上の喧騒から切り離された、地下深く。水音は、複雑に分岐した道のあちらこちらから響いてくるようだった。

 はやく見つけないと。
 深呼吸をして、一歩踏みだした。



Chapter.3 モディ・ドゥは理想郷の夢を見るか?

File.41 ユートピア(Ⅲ)


 どれくらい歩いただろうか。

 いくつもの分岐をこえ、かなり奥まった場所まできたころ、途切れなく響いていた水音に、別の音が混じった。
 軽い靴音である。
 音のするほうへ行くと、ちらりと小さな後ろ姿が見えた。

「ちょっと待っ―― 」 

 なるべく刺激しないよう声をかけたつもりだったのだが、案の定、子どもはその場で飛びあがった。慌てて逃げだそうとするのになんとか追いついて、腕を掴む。
 少年は野生のイタチのように小さな悲鳴をあげた。

「はっ、はなしてよ!」
「助けにきたの」

 確証があったわけではなかった。
 しかし、少年は逃げるのをやめ、こちらを振りかえった。大きく目を見開いて、泣きそうな顔でトウコを見上げている。
 彼は、何かを言おうとして口を開き、何も言えずに閉じる、ということを繰り返していた。その様子に、トウコは奥歯を噛みしめた。

「嫌なことは言わなくていいよ」

 しゃがみ込み、身体を抱きしめる。体温をわけ与えるように手のひらでゆっくりと頭をなでると、子どもは堰を切ったようにしゃくりあげはじめた。

「ここに……こないっ、とっ。ダメって。ほかの人、に言ったら……おかあさんっ、にっ、いたいこと、するっ……て」

 わんわん泣いてもかまわないのに、少年はトウコの肩に顔を押しつけて静かに身体を震わせた。

「もう大丈夫だから。おうちに帰ろう?」

 凍えた身体をもう一度、抱きしめる。小さな頭が、腕のなかで何度も何度も頷いた。

   

 イチノセ、ヤマト。
 と、少年は名乗った。

「ヤマトくんは何歳?」
「ろくさい」
「ってことは、もうすぐ一年生?」
「うん。いまは、ようちえんのクマ組」

 トウコの手のひらにしっかりとしがみつきながらも、ヤマトはたしかな様子で頷いた。
 年齢のわりに落ちついている、とトウコは、いまだ手指のふくふくとした少年を見つめた。幼いながらも理性的で、責任感がある。

 こういう子ほど、狙われやすい。
 トウコはツバを吐き捨てたいような、ひどく苦い気持ちになった。

 すれ違った男に、あの壁の隙間からここに来るように囁かれた。ヤマトの口から断片的に語られた内容を繋ぎあわせると、だいたいそういう話になる。

 誰にも言わずにひとりでおいで。そうでないと、ママに痛いことをするよ。
 そういう脅迫めいた言葉とともに、その男はヤマトをここに誘いだしたという。

 六歳ともなれば、ある程度は大人の話も理解できる。だが、従わなければ家族に危害を加える、という交換条件の不当さに疑問を持つほどいろいろなことがわかっているわけではない。

 幼い子どもにとって、大人は絶対的な存在だ。大人の言うことは無条件に信じようとするし、言われたことは守らなければならないと思う。

 誘拐犯はそこにつけこみ、あくまでも証拠が残らないかたちで彼を連れだそうとしたのだ。
 腹わたが煮えくりかえるほど、卑劣で狡悪なやり口だった。

 もと来た地下通路を歩きながら、トウコはもう何度目になるかわからない息を吐いた。
 間にあってよかった、本当に。
 もしもこのまま犯人と接触していたら、そのあとに待っていたのはきっと、さらに胸糞悪い出来事だったろうから。

 考えたくもないそれをつい頭の隅で想像してしまって、トウコは本当に少し気分が悪くなった。

「おねえちゃん、大丈夫……?もしかして、オレのせい?」

 こげ茶色の瞳が不安そうに見あげてくる。まだ小さいのに人の気持ちのよくわかる子だ。
 トウコは知らず知らずのうちに強張っていた頬から力を抜いた。

「ヤマトくんのせいじゃないよ。心配させてごめんね」
「そっか」

 ほっと肩の力を抜いた少年に、トウコは自信ありげに胸を叩いてみせた。

「大丈夫、私に任せておいて。頼りなさそうにみえて、意外とすごいんだから。『バレ太郎』とか独自開発しちゃってるもんね」
「バレたろう?」
「そ、私の相棒。『バレ太郎』と一緒に、地獄のパツキン店員エガオ・ウサンクサイナーと熾烈な戦いを繰りひろげたのはまだ記憶に新しいね」
「ウサンクサイナーって何に出てくる敵?現逮戦隊パクルンジャー?」

 ヤマトは首をかしげて、日曜朝に放映中の特撮番組のタイトルをあげた。

「おもに私の日常にあらわれる敵かな。テレビのこっち側はパクルンジャーの管轄じゃないから、なかなか捕まえてもらえないんだよ」
「そいつって、どれくらい悪いヤツなの?」
「……知りたい?」

 突如、目が据わったトウコに、ヤマトはびくっと肩を揺らした。だが好奇心には抗えなかったらしく、少年は最終的に怖いものみたさで首を縦に振った。

「これはッ、公的には抹消されたッ、残虐行為の記録であるッ!」

 かっと目を見ひらき、トウコはおどろおどろしい声で叫んだ。

「すべてのはじまりは二〇××年春――

 子どもには刺激が強すぎると思われる部分にはモザイクと伏せ字で規制をかけながら、トウコはこれまでの虐待遍歴をつまびらかにした。あんなことやこんなこと、あげくの果てにはそんなことまで。

 あっけにとられていたヤマトだったが、小さな顎に手をあてたかと思うと、ちょっと考えるふうにして「話はわかった」と言った。

「ずいぶんひどいめにあってるんだね、おねえちゃん」

 そして、少年はトウコを見あげ、輝く笑顔で言ったのだった。

「じゃあオレがそいつをつかまえてあげるよ。オレ、大人になったらケーサツカンになるからさ」

 ずぎゅん。
 天使の矢が心臓を貫く古典的なシーンが、トウコの脳内で不可避的に再生された。

 な、な、なんだって?

「そいつ、悪いヤツなんでしょ。だったらオレがタイホしてあげる」

 またしても男前な発言をして、少年ははにかむように笑った。

 し、心臓がモキモキするぞ。と、トウコは右手で胸のあたりをがしりと掴んだ。
 六歳にして、すでにイケメンの風格がある。いや、ぶっちゃけると中身だけではないのだが。
 色素薄めのサラサラヘアー、目元は涼しげな二重、幼いながらも通った鼻筋と輪郭。
 これは将来有望だ、と繋いでいないほうの手におもわず力が入ってしまった。変な趣味に目覚めたらどうしよう。

 トウコは、荒ぶるトウコを抑えつつ、「あ、ありがとう」と慎重に礼を言った。

「ウサンクサイナーに正義が執行される日を心待ちにしてるよ」
「まかせておいて。おねえちゃんはいじめられなくなるし、町は平和になるし、オレはショーシンできる。いいこといっぱいだね」
「しょ、昇進……」

 少々大人の事情に詳しすぎるクマ組さんである。
 それについて、とある可能性に思い至ったトウコはすこし真面目に質問した。

「ヤマトくんは、もしかしてお父さんやお母さんが警察官だったりするの?」
「うん、父さんがケイシチョーではたらいてるんだ。ふつうのケーサツカンだから、あんまりえらくはないけどね」

 えらくない、と言いつつも、彼は大変誇らしげだった。

「道理で何でもよく知ってるわけだ。ってことは、ヤマトくんもいつか警視庁に入りたいんだね。夢は刑事さん?」
「ううん。俺はしっかり勉強して、東大に入って、ケーサツカンリョーになるつもり。だからホンチョーじゃなくてサッチョーのほうだね」

 ブフ、とまたしても変な声が出た。
 おマセなどという次元を超越した、六歳児にして完成されすぎている人生設計である。
 日本の未来は安泰だなあ、とまぶたを押さえたトウコに、少年は飽きたらず二度目の爆弾を投下した。

「オレ、トウコのこと気に入ったからさ、そうなったらお嫁さんにしてあげてもいいよ。一生、ラクさせてあげる」

 お嫁さんお嫁さんお嫁さん――
 普段の生活で著しく不足している成分が、トウコの脳内で炸裂した。

「これなんていう乙女ゲー?」
「おとめげえ?」
「ごめんね、今のは忘れて」
「わかった」

 混乱のあまり、夢と現実の境目があやふやになりはじめたトウコに、『正気に戻るのだトウコちゃん、このままだと性犯罪者まっしぐらなのだ!へけ!』と脳内のバレたろさんがわりと深刻なアドバイスをくれた。思考回路はショート寸前である。

トウコ、大丈夫?」

 心配そうに見あげてくるヤマト。さりげなく呼び捨てになってるあたり、タラシの素質はMAX―― じゃなくて!

 トウコはぶんぶんと頭を振って煩悩を断ちきった。

「大丈夫、ちょっと感きわまっちゃってね。『そういえば私って女の子だったんだなあ。コンガじゃなくって』みたいな。嬉しいこと言ってくれてありがとう。ヤマトくんは本当に将来有望だね」
「ショーライユーボウか。ほめられてるのはわかるよ。こちらこそありがとう」

 そう言って、ヤマトは礼儀正しく頭を下げた。どこぞのウサンクサイナーに爪のアカを煎じて飲ませてやりたい。見ならえ、この人間力を。日本の宝を。

『子供は、大人が守るものだから』

 ふといつか聞いた大事な声がよみがえった。
 そう、だから。
 トウコは少年のつむじを見おろした。

「何があってもお父さんとお母さんのところに帰すからね。ここはどんとトウコ印の大船に乗ったつもりで」
「そういうことは、助かってから言うもんでしょ?」

 答えたのは、少年のソプラノとは違う、金属的な響きを持った不快な男声だった。

「あーあ、フラグ立てちゃダメじゃん。ベタだなぁ」

 帰り道を塞ぐようなかたちで、通路に誰かが立っていた。白く塗りたくったメイクと、カラフルな衣装。

 ピエロ、いや、ピエロの格好をした別のに、ヤマトが悲鳴をあげた。

「あ、あいつ!」

 言い終えるより早く、トウコは少年を抱えてその場を駆けだしていた。

 一瞬、見えた。
 ピエロの手にぎらつく何かが握られていたのを。

トウコ、あいつ!あいつだよ!」
「わかってる……!」

 失敗した、とヤマトには見えないように唇を噛んだ。地下通路を戻るあいだ、奥側には絶えず意識を向けていた。
 まさか、入り口のほうに回りこまれるなんて。

 後ろから、足音と笑い声が追いかけてくる。

「逃げてもムーダ。ここはボクのお菓子のお家だからね。ほらほらしっかり逃げないと悪い魔女に捕まっちゃうよ?迷子のヘンゼルとグレーテルちゃん」

 低い天井に反響したそれは、複数人がぺちゃくちゃ下品に喋りあっているような煩わしさをともなって、トウコの肌を粟立たせた。

 眉間に皺を寄せて、盛大に舌打ちをかます。
 ザ・サイコパスな台詞をどうもありがとう。これだから児童誘拐犯は嫌いなんだ。

 走りながら携帯を確認したが、やはり圏外のままだった。
 簡易無線を持ってくるべきだった、とトウコは過去の自分を引っ叩きたくなった。

 もと来たルートを辿って通路を駆けぬける。
 知らない分かれ道に入れば、どこで行き止まりになるかわからない。とにかく今は距離を稼がなければ。
 険しい顔になったトウコを、ヤマトが引っぱった。

「あっちにドアがあるよ!」
「ドア?」

 指さす先には、たしかに小さな鉄扉があった。
 スチールドアの中をのぞいたトウコは、息も絶え絶えながら、精一杯の笑顔で少年に向かって人さし指を立てた。

「ねえ、ヤマトくん。職業体験してみない?」

◇◇◇

「今までいろいろな『仕事』にチャレンジしてきたんだけど、どれもすぐに飽きちゃってさぁ。そういうときにこのバイトの話を聞いたわけ。子供ひとり連れてきたら、ピー万円。夢の国で子ども連れ去るとか超クールでウケるじゃん、って思ったんだけど、まさか初っ端からアクシデント発生なんて。ああヤダヤダ」

 スタッフに紛れこむためか、ピエロのような格好をした誘拐犯は、いかにも面倒くさそうに言った。

 片手でくるくると器用にナイフを回しているものの、目は胡乱げで、どこを見ているかも判然としない。
 が、ガラス玉のようなその目は、じつのところ、一挙手一投足逃さずにこちらの様子をうかがっているのだった。
 イカれているのに頭はまわる、一番厄介で危険なタイプだ。

 ドアの前に立ちはだかるトウコに、ピエロは歪んだ笑みを向けた。

「とゆーことで、今回グレーテルおねーさんはお呼びじゃないのよ。あのかわいいヘンゼルくん、その扉の中に隠しちゃったんでしょ。どーしてそうムダなことばっかりするかな」

 トウコは無視を決めこんだが、男はかまわず話しつづけた。

「かまってもらえないからってお返事しないのはダメだぞっ、ぷんぷん。ま、おねーさんのほうもギリギリ売り物にはなりそうだし『若い女ひとり、ピー万円』なときにまたよろしくっ……なーんてね。顔を見られちゃった以上、もうお家には帰せません。ほら、こんなイケメン、一度見たら忘れられないっしょ?」

 聞くに堪えないことを口走りながら、男は自分の顔を指さした。

 比較的整った色白の顔立ちである。だが人にあるべき温かみがかけらもなく、トウコには何の魅力も感じられなかった。
 これだったら、へのへのもへじの案山子のほうがよほど男前だ。

「さばいて、刻んで、鍋に入れて食べちゃうぞ、ってね。かわいそうなヘンゼルとグレーテル。せっかくお菓子の家にたどり着いたのに、お姉ちゃんのグレーテルは、悪い魔女に脅されて、かわいい弟のヘンゼルを自分のかわりにオーブンに放りこんじゃうのです。ぽい!」

 ピエロはトウコの後ろのドアを指さした。

「さしずめ、その小部屋がオーブンってところかな。ヘンゼルくんを囮にして、自分はここから全力で逃走!とかだったら、サイッコーにクールなんだけどな。ねえねえ、薄情なグレーテルおねーさん。お名前おしえてくんない?『おねーさん』って呼ぶの長くて疲れるんだよね」
「うるさい人ですね。蝿並みに」

 トウコはドアの前で腕組みをしたまま吐き捨てた。

「下劣な誘拐犯の分際で、気安く話しかけないでくれませんか」
「こわっ、高飛車っ!ヘンゼルくんにはあんなに優しかったのに、もしかしてそっちが本性なの?」

 男が大げさに怯えてみせる。トウコは嫌悪を隠す気にもなれず、あからさまなため息をついた。

「『沈黙は金』って言葉、知ってます?」
「知ってるよぉ。雄弁は銀、ってやつでしょ。いいじゃんシルバーかっこいい!戦隊モノでもシルバーは陰のあるイケメンって相場が決まってるもんね」

 それからピエロは、目を細めてトウコを見た。

「バカにしないでよね、おねーさん。ボクはこう見えてもけっこう賢いんだ。だからぜんぶ知ってる。そうやっておねーさんが時間稼ぎをしていることも」

 ぴくり、とおもわず頬が動いた。

「絵本によるとぉ、ヘンゼルとグレーテルは無事におうちに帰るため、道みちに小石を置いていきました。おねーさんの場合は小石じゃなかったみたいだけどね」

 男は手に持っていた白い物―― 天使の翼の残骸を彼女の足元に投げすてた。パラパラと白い羽根が散る。

「一枚一枚、羽根をちぎって、目立たないように入口から置いてきてたんだねえ。涙ぐましい努力だねえ」

 道化のパントマイムのように、目元を擦って泣きマネをして見せる。

「自分が迷わないように、っていうんじゃないよね。だって、おねーさん自身は帰り道を完全に記憶してる。でなきゃ、あんなに迷わず逃げられるはずがないもんね。ってことは、おねーさんが考えているのはこう。『誰かがを見つけて追いかけてきてくれるかも!』」

 おどけたピエロそのままに、男は両手を広げて天井を仰いだ。

「とっても頑張りましたで賞!でもそれもぜーんぶムダでしたで賞!目印は落としたそばからボクがぜんぶ回収しちゃいました。君たちが地上から降りてきたのを、ボクははじめから知ってたんだから。ヘンゼルとグレーテルはもうおうちに帰れません!」

 ナイフがくるりとこちらを向く。蛍光灯の光でビカビカ輝く刃先は、アルミホイルで作ったおもちゃの包丁のようにひどく鮮やかな銀色をしていて、かえって現実感がなかった。

「さて。まずは、ドアにこびりついた頑固なグレーテルおねーさんを華麗なるナイフさばきで除去します。それから、ヘンゼルくんをちょちょいとスマキにして、出荷します。合計ツーステップ、かんたんだね!」

 へらへらと笑う男を睨みながらも、トウコはなお黙ってドアの前に立ちつづけた。

「ねー、おねーさん。もっとコミュニケーションをさあ」
「たしかに、ヘンゼルはこの中にいます」

 男から目を離さずにつぶやく。

「でしょでしょ。だって、この通路は行きどまり。ほかに行き場はないもんね。ボクは何でも知ってるんだよ」
「じゃあこういうのはご存知ですか」

 トウコはイカれたピエロをじっと見つめ、少し考えてから問いかけた。

「ヘンゼルはグレーテルの弟じゃない。本当は『兄』だって」
「兄?言われてみればそうだった気もするけど。それがいまさらどうしたっていうのさ」

 間違いを指摘され、ピエロはむっとしたようにトウコを見た。

「べつにたいした理由はありません。しいていえば、あなたのが知りたかっただけです」
「何?意味がわかんないんだけど」
「わからなければそれでいいです」
「なにそれ。ぜんぜんわかんない。くっそ、意味わかんないこと言うなよ……あー」

 男は神経質に自分の髪を引っきまわしたあと、突然ガクッと動きを止めた。

「飽きた」

 さっきまでの饒舌が嘘のような、抑揚のない声だった。
 場の雰囲気が、変わる。
 あともうすこし、そう思っていたトウコは、冷たい手で心臓をわしづかみにされたような気分になった。

「もういいや、アンタ。なんか話してるのも面倒になってきたし」
「私が死ねば、知り合いに自動的に連絡がいくようになってます。そうなれば確実に警察が――
「それが?」

 刃物のように冷たい声が、トウコの喉を切り裂いた。どんなに抑えようとしても、声が震える。

「だ、だから、警察が、貴方を――
「警察が来ることと、アンタが今ここで死ぬことと、何の関係があるの?」

 ピエロが嗤う。喉から生まれた震えはもはや全身に広がっていた。足が動かない。

 ダメだ、何か言わないと。
 何か喋って時間を――

「はい、時間切れ」

 ナイフの切っ先が、ぴたりとこちらの喉に向く。

「じゃあさよなら、おねーさん」

 ダメか。冷たい汗のにじんだ手を握りこんだときだった。

「やーい、大人のくせに女の人いじめてやんの!だっさー!」

 どこからか子どもの声が飛んできた。ピエロが振りむいた先を見て、トウコもまた目を見開いた。

 そこには、いるはずのない少年の姿があった。
 小さなかかとを踏み鳴らしながら、ヤマトはからかうように叫んだ。

「そんなふうにしないと女の人と話もできないんだ?カノジョいなさそー!」
「なんでガキがここに!?」

 小部屋に隠れているはずの子どもが、ありえない方向から現れる。想定外の事態に、ピエロは目に見えて動揺した。

「この通路にはほかに迂回路も隠れる場所もないんだぞ!どうやって移動した!?」
「『会話のキャッチボールができないヤツはモテないぞ』って父さんが言ってたー!ごにょごにょ言ってないで、早くおいかけておいでよ。もしかしてかけっこもおそいの?」

 きゃっきゃと笑って言いのこすと、ヤマトは入口のほうに向かって駆けだした。

「クソガキ……!」

 さんざんコケにされた男は、いまさらトウコのことなど目にも入らないようだった。ナイフを振りかざし、少年のほうへと駆けだそうとする。

 だめだ、時間が足りない。まだ準備ができていない。

『子どもは、大人が守るものだから』

 こうなったらイチかバチかだ、とトウコは息を吸いこんだ。ヤマトを追って走り出そうとした男の背中に向かって、引きとめるように声をかける。

「どうやらご理解いただけていないようですので!もう一度言いますね!ヘンゼルはグレーテルのお兄ちゃんなんです!」
「アア?それはもういいって――
「だから、ヘンゼル『を』追うんじゃない。ヘンゼル『が』追ってくるんです。わかります?悪い魔女を気取るなら、童話のとおり『背後に注意』ってことですよ」

 動きを止めたピエロに向かって、トウコはにっこり笑顔で付けくわえた。

「うちのヘンゼルはゴリ―― ごほん、体育家系ですので」

 そう言って、トウコは背後のドアを思いきり開けはなった。誰もいないと思われたはずの小部屋から、人かげが躍りでてくる。
 唖然として固まっているピエロに向かって、容赦のないボディブロー。続けて、目にも留まらぬ右ストレート。
 ピエロの生白い身体が、比喩でなく吹っとんだ。

「現着だ」

 ばきり、と拳が鳴る。


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