ピエロの身体がコンクリートに叩きつけられる。
いつもと変わらない後ろ姿に、少しだけ泣きたくなった。
File.42 ユートピア(Ⅳ)
まず、自分が死んでいないかをおそるおそる確認してから、犯人が気絶しているかどうかも厳重にチェックしたあと、トウコはようやくその場にへたりこんだ。
「い、生きてる。セーフ」
「ぎりぎりだったけどな。到着したのは君がドアを開ける直前だ」
と、安室は今しがた自分が飛びだしてきたばかりの鉄扉を顎で指した。
まじか、と今更ながら寒気に襲われたトウコは、鳥肌のたつ両腕を擦りあわせた。思っていた以上に間一髪だったらしい。
安室が間に合うかどうかは賭けだった。本当にドアの向こう側に彼が到着しているのか、開けてみるまでは彼女にだって確信はなかったのだ。
「『ヘンゼル、追って』―― 君のサングラスが壁の前に落ちているのを見て、最初は“小石”を辿らせるつもりかと思ったんだけど、僕の身体じゃあの隙間には入れなくてね。その程度のことがわからない君じゃないだろう、ってことで別の可能性を考えてみたのさ。ヘンゼル『を』追うんじゃない。ヘンゼル『が』追うんじゃないかって」
ヘンゼルはグレーテルの弟ではなく兄。追ってもらう側ではなく、追う側。
守られる側ではなく、守ってやる側だったのだ。
トウコは顔を上げ、あえてわかっていることを訊いた。
「白い小石―― 白い羽根が犯人の目をくらますカモフラージュだったとして、安室さんはどうやってこの場所を知ったんです?」
「ポイントは『追う』という言葉だ。童話のなかで、ヘンゼルは白い小石やパンの切れ端を追って元の家に帰ろうとした。でもじつはそれ以外にも、彼にはもうひとつ追いかけていたものがあっただろ?」
親から見捨てられ、お腹を空かせたヘンゼルが、妹グレーテルとともに森の中を彷徨い、追い求め、ようやく見つけたもの。
それは―― 。
「“お菓子の家”。つまりここの真上ですね」
天井を指さして答えたトウコに、安室は微笑んだ。微笑みながら、容赦なく犯人を足蹴にして、ちょうどホットケーキを焼くような感じでぺたんと裏返しにする。
「お菓子の家の形をした建物はすぐに見つかったよ。電話が繋がらない時点で地上の線はなし、どこかに地下への入口があるはずだと建物内を探してみたら、ビンゴってわけさ」
そこいらに転がっているロープの切れ端の中で一番長いものを拾いあげながら、安室は説明した。
お菓子の家とこの地下通路が繋がっているかどうか、彼女にだって確証はなかった。
しかし、スタッフが行き来するための通路を、区画の中心である“お菓子の家”と離してつくる理由はない。むしろ通常はかならずそこを通るように設計されるのでは、と推測したのが今回の作戦だった。
「『ヘンゼル、追って』―― わかってもらえてよかったです」
「言葉たらずもいいところだったけどな。メッセージを送った相手が僕じゃなきゃ今ごろ死んでたぞ、君」
「あ、あはは。さすがは安室先生、ってことで」
頭を掻いたトウコを呆れたように見やってから、安室は「まあでも」と言葉を続けた。
「たった数文字で、何かを追って姿を消したという状況と、行き先の手がかりまで伝えてきたんだから、その機転についてはそれなりに評価しておくよ」
話しながらロープを結びおえた彼は、両手をパンパンとはたき合わせた。
気絶した犯人を縄縛するまでわずか台詞みっつぶん。日常的に人を縛っていなければできない芸当である。
どう暴れても解けなさそうな玄人感のある結び目を見ながら、この人はこの人でけっこう危ない性癖の持ち主なのかも、とトウコは若干引き気味に笑った。
「何?」
「いえ、人の趣味はいろいろだなあって。あ、心配しないでくださいね。梓さんには黙っておきま―― 」
アイアンクロー。以下略。
顔が変形していないかチェックしていたところに、タタタ、と軽い靴音が聞こえた。
無事でよかった、と撫で下ろした胸に小さな身体が弾丸のように飛びこんできた。
「トウコ、あのまま死んじゃうかと思った……!」
さっきの勇敢さはどこへやら、ヤマトは顔じゅうぐしゃぐしゃにして、今にも泣きだしそうな声で言った。
「あいつの気をひいてくれてありがとう。おかげで助かったよ」
「たすかったよ、じゃないよ。もー!心配したんだからね!」
トウコの肩にぐりぐりと頭を押しつけるヤマト。横で見ていた安室が、口を開いた。
「短い間にずいぶん懐かれたみたいだね。出会うなり、『トウコが死んじゃう!たすけて!』って言われたよ」
走って逃げている間ずっと、トウコは地上の建物に繋がる場所を探し続けていた。だからヤマトが見つけたあの小部屋が、あのお菓子の家の真下かもしれないと思ったとき、彼女は即座にひとつの可能性を思いうかべたのだ。
どこかに昇降設備があるはずだ、と。
ドアの向こうに飛びこんだトウコは探しに探し、ついに放棄された昇降ダクトを見つけだした。
客が迷いこむのを防止するためか、ダクトの入口はガチガチに施錠されたうえ、ゴミやダンボール箱などに埋まっていた。そういうものがあると思って探さなければ到底見つからなかったにちがいない。
そうして、少年は無事に地上へと送りだされたのだった。
なおその際、トウコのカンストした不正解錠スキルが火を噴いたのは言うまでもないことである。
「地下に降りる途中でその子と鉢合わせしなかったら、もっと時間がかかっていただろうね。あのドアのある部屋に降りていくまでにも、いくつか分かれ道があったから」
「ヤマトくんに外から回りこむように言ったのは安室さんですか」
気をつけたつもりだったが、つい責めるような口調になってしまった。
安室の眉間に深い皺が刻まれる。彼はいかにも不愉快そうな声で答えた。
「心外だな。僕が子どもにあんな危険な真似をさせるって?万が一、僕と君が共倒れになったらどうなる。むしろ僕は、一刻も早くここから離れるように伝えたが」
「じゃあ、あれはヤマトくんが自分で―― 」
「当然だろ」
ぴしゃりと言い放ったあと、安室は少年を見下ろした。言いつけを守らなかったことを思い出したのか、ヤマトはうつむいて唇を噛みしめていた。
「ヤマトくん、といったかな。君にはひとつ言っておかなければならないことがある」
ハラハラしながら見守るトウコの前で、安室は静かに告げた。
「ありがとう。僕らに協力してくれて。君が時間を稼いでくれなかったら、彼女は今ここにはいなかった」
しゃがみこみ、大きな分厚い手で少年の頭をなでる。てっきり叱られるものと思っていたらしいヤマトは、安室を見あげて目をぱちぱちさせた。
「でも、全部を褒めているわけじゃないぞ。危ないことしたのは事実なんだから。いいかい、何でもひとりでやろうとしないこと。今の自分に何ができて何ができないか、それを正しく判断するのはとても大切なことなんだ」
叱るというよりも、言いふくめるような口調で、彼は少年をさとした。
「子どもだけじゃない、大人だって同じさ。無謀なやり方をして失敗すれば、大事な人を助けるどころか、逆に悲しませてしまうからね」
自分がしたことの深刻さが今になって理解できてきたらしく、ヤマトはひどく辛そうな顔で安室の話を聞いていた。
「次からは気をつけるんだよ」
「……はい」
瞳を伏せて頷いた少年に、安室は表情をゆるめた。大きな手がもう一度、念入りに頭を撫でてやる。
たとえば今回だって、ひとりで犯人のところに行く前に、誰かに助けを求めていたら、こんなに危険な目には遭わなかったかもしれない。
終わりよければすべてよし、で片づけてしまえないのが実際の世の中である。彼が今後目指していくかもしれない世界は、とくに。
「だけどまあ、一応はみんな無事で良かっ―― 」
「あっはは、めでたしめでたしハッピーエンドって?」
突如、足元から聞こえた笑い声に、三人揃って飛びずさった。
ピエロは地に伏したまま、茶化すように言った。
「ヘンゼルとグレーテルは悪い魔女をやっつけて、お菓子の家で仲良く暮らしましたとさ。あははは!ばっかみたい」
何が言いたい、とうなった安室に、犯人は歪んだ笑みを向けた。
青白い頬に、ひび割れたようなしわが浮かんでいる。よく見れば、男はけっして若くはなかった。
「この前も子供が行方不明になる事件があったでしょ?おまわりさんがめずらしく有能だったせいで無事に見つかっちゃったけど。あれもたぶん、ボクみたいな奴のしわざだよ。最近になってまた裏で流行りかけててさあ、そういうの。ひと昔前にもビッグウェーブが来たっていうじゃん?」
トウコは表情がひやりと凍てついたのを感じた。
そういうの?
身体の自由を失い、これから人生の自由も喪うであろう彼は、しかしむしろ愉悦に満ちた顔で、あらゆるものを嘲笑した。
「終わらないよ。誰が何をどんなに頑張ってもね」
前に出ようとした安室を押しとどめて、トウコは代わりに男の前にしゃがみこんだ。おだやかな声で語りかける。
「物知りなんですね」
「あはっ、ボクは何でも知ってるよ」
「じゃあここがどこだかご存知ですか?」
トウコは自分のいる場所を指した。
「おねーさんは意味のわからない質問が好きだなあ。ここは現実を忘れるための、仮初の世界。時間がきたらシャッターが下りて追いだされる、ステキなステキな夢の国だよ」
「そう、正解。魔法にかけられて夢をみるんです。ガラスの靴を履いて、かぼちゃの馬車に乗って」
トウコはそれこそ夢をみているように、うっとりと言った。
「だから貴方にも魔法をかけてあげますね。ただし貴方みたいな人にビビディ、バビディだなんて素敵な呪文はもったいないですから」
言葉をきった彼女は、とっておきの魔法の杖―― 結局、最後まで手放さなかった鈍重なリリカルステッキを掲げた。
え?と目を丸くした犯人を見下ろし、トウコはにこやかにほほえんだ。
―― ハッピーエンドにふさわしい、それはそれは素敵な笑顔で。
「沈黙は金。黙って寝てろ」
ゴン、とビール瓶をフローリングに落としたような、鈍くて生々しい音がした。とっさに少年の目元を覆った安室だったが、残念ながら間に合わなかった。
「一名様、夢の国にご案内しました」
白目を剥いたピエロを、ゴミか何かのように端まで蹴り転がしたトウコは、リリカルステッキ―― たった今、名実ともにリリカル鈍器になった代物―― を小粋に血振るいして、安室を見上げた。
「いやあ、安室さんはムダなことをしないなあって心底思いました。持たせてもらっておいて本当によかったです」
呪文不要の魔法の杖を颯爽と肩にかけたトウコを見て、ヤマトがうっとりと呟いた。
「トウコ、超かっこいい」
安室がぎょっと目を剥いた。アブナイ魅力に取りつかれている幼稚園児の両肩をつかみ、彼はわりと深刻な顔でこう告げたのだった。
「良い子は絶対に真似しちゃだめだからね」
安室とともにマンションのソファに飛びこんだのは、夜も更けてからだった。
大事になると思われた事後処理は、結論からいうと驚くほど簡単に片がついてしまった。
通報を受けてやってきたのは警察官二、三人。プロフィールとおおまかな顛末を話し、少年が両親のもとに帰るのを見とどけたら、ハイさようならである。徹夜聴取も覚悟していただけに、拍子抜けもいいところだった。
こんなことってある?と遠まわしに探りをいれたところ、さすがの彼も黙っているのは無理があると思ったらしく、
『警察に知人がいてね。今日はもう遅いから、くわしくはまた明日以降ってことにしてもらったよ。幸いにも人死はなかったことだし』
という、驚くべき返事をくれた。
言われてみれば、警察が来るより前、どこかへコソコソ電話をかけていた気がする。
おそろしや、毛利小五郎の一番弟子。顔が広すぎる。
というわけで、なんとか日付をまたぐ前に帰りついたものの、大変な一日だったことには変わりがなく、もうまともに座る力すらなくなっていたトウコは、床にへたってソファの座面に顔からつっ伏したのだった。
そしてその状態のまま、帰りの車の中で結局いえずじまいだったひと言をつぶやいた。
「ごめんなさい」
「ごめんで済んだら警察はいらない」
ソファで足を組みつつ、彼は即答した。冷蔵庫から取りだしたばかりの炭酸水のボトルが、大きな手の中で不機嫌そうにパキリと鳴った。
「それでも、ごめんなさい」
「反省すべき点を述べろ。話はそれからだ」
トウコは自分の失態をひとつずつ、小さな声であげつらっていった。
「ひとつめ。命令をすっぽかして、持ち場を離れました」
次、とうながされる。
「ふたつめ。報告が不十分で、あなたの手をわずらわせました」
次。
「みっつめ……あなたを危険に巻きこみました」
次、という声はなかった。しばらくして代わりにかえってきたのは、めったに聞けないような深いため息だった。
「もう一度だけチャンスをやる。最初から言いなおせ」
トウコは眉毛を下げて、言われたとおりにした。
「ひとつめ、命令をすっぽかして持ち場を離れました。ふたつめ、報告が不十分で、あなたの手をわずらわせました。みっつめ……」
やはりそこで、詰まってしまった。
トウコが伝えたい答えと、彼が求めている答えの間に差があってはいけなかった。
とくに彼女の答えが、彼の答え以上のものになることだけは絶対に。
目の前で突きつけられてしまったら、いったいどれほど、みじめな気持ちになるだろう。
彼女は実際のところ、とても臆病な人間なのだった。
「みっつめ……」
おもえばおもうほど、喉の底のほうで、言葉がイヤイヤと駄々をこねた。
だが、そういうときにかぎって彼はかならず、いつもより意地悪になるのだった。
「三つ目は?」
居ても立ってもいられないような視線が、トウコの首筋をつつき立てた。
答えるまで、きっと許してくれない。
彼女はとうとう消えいりそうな声で答えた。
「みっつめ。あなたに心配をかけました」
たぶん、と言い訳のようにつけ加える。そしてすぐに、『たぶん』ではなく、『もしかすると』と『かもしれない』のセットを使えばよかった、と強く後悔した。
せめてもの救いは、うつむくのを許されていることだった。
ますますソファの座面に顔を押しつけたトウコだったが、宣告は無慈悲だった。
「顔を上げろ」
トウコはこの世の終わりのような気持ちで、言われたとおりに顔を上げた。眉毛はハの字をすぎて、もうただの縦線二本になっているかもしれない。
彼はソファの上から手を伸ばし、親指で眉をなぞるように、彼女の目元に触れた。そして、とても深いため息を落とした。
「わかってるならいい」
呆れたような困ったような、絹で触れるような婉曲な響きをもった声だった。
トウコは呆然と目を見開いたあと、込みあげてくるものを押しこめるように、まぶたを強く閉じた。
いざ叶ってみれば、本当にどうしようもない気持ちだった。何と返していいかわからず、くちびるを無為に開いたり閉じたりした。
とてもなさけないことに、大事なときにかぎって彼女はいつもこうなのだった。
そうしているうちに、眉に触れていた手がそろりと下がってきた。
目元からこめかみをなぞり、頬に触れ、首筋へ。
そして大きくぶあつく傷の多い手は、ほんの少しのためらいのあと、まるで犬にやるような熱くて荒っぽいやり方で、床に座る彼女の首元を掻きなでたのだった。
触れては放し、なぞってはつかみ、何度も何度も確認するように。
熱い手が、冷えた首に、熱を与える。
それが無性に気持ちよく、ますますどうしようもない気持ちになった彼女は、ついに我慢しきれなくなって、その手のひらに頬を擦りよせた。
「反省してます」
「どのくらい?」
「あなたの顔をまともに見られないくらい」
肩を落としたトウコは、ソファの座面にぺたりと頰をつけた。ちょうど安室の太腿が視界に入る。
ジーンズに覆われた太く逞しい腿は、脈打つ血管が肌で感じられるほど、なまなましく鮮烈な、生のにおいがした。
「僕が間に合わない可能性は、あった」
熱を帯びた手が意趣返しのように動き、今度はむきだしの喉を覆った。微かな脈動を感じとろうとするかのように、意思を持って押しつけられる。
皮膚の細胞ひとつひとつでその手のひらの肌ざわりを味わいながら、トウコは答えた。
「もしドアを開けた先にあなたがいなかったら、はったりで動揺している隙につき倒して逃げようと思っていました。持っている道具を使えば、少しは動きが鈍っただろうし」
「君の力で大人の男を押しのけようって?バカも休みやすみ言うんだな。前に使ったADSだって、本来は部隊の戦意を削ぐ目的で使われるものだ。ああいう手合で、しかも激昂しているとなれば、効果はかぎりなく薄い」
それくらいのことはわかっていただろう、と視線が問いつめてくる。
そうだ、言われなくたってわかっている。自分がどれくらい非力で無力かなんて、世界の誰よりも自分自身がいちばん知っているのだ。そうでなければ、わざわざ手間と時間をかけて、身を守るための道具をつくったりはしない。
情けない抗弁が顔に出ていたらしい。彼はトウコを見下ろしながら、こめかみに若干の青筋を立てた。
「この際だから言っておくけどな、僕が君を評価している一番の理由は『何があっても死ななさそうなところ』だ。僕が知っている人間のなかでも、君より遁走の要領がいい奴はそうそういない」
冗談を言っているのかと思って、おもわず顔を覗きこんだが、本人はいたって真面目だった。
「あ、ありがとうございます……?」
「褒めてない。話の流れを考えろよ。飛ばないブタはブタ以下だって言ってるんだ」
名台詞の改変もいいところだったが、今回にかぎっては言いえて妙だった。
飛ばないブタ、あらためブタ以下のトウコは、ぶひ、とおとなしく肩を落とした。
そんなトウコを見ながら、彼は逸れかけていた話を正確に元の場所に戻した。
「そんな君が、あの子を先駆けて地上に送った動機を、僕は知っている」
それ以上は言わないでくれ、とトウコは心の底から願った。
だが、そういうときにかぎって、彼はやはり許してはくれないのだった。
「僕を呼んできてくれ―― 君は実際のところ、あの子にひと言だってそんなことを頼みはしなかった。あの子が僕を味方と信じて加勢を求めたのは、彼自身の判断によるものだ。君が彼を先に行かせたのは、助けがほしかったからじゃない。もっと単純な動機だ。バカみたいに考えなしで、打算や計算とは無縁の」
それが何であるかを、彼はあえて口にしなかった。トウコは眉を下げたまま、観念して口を開いた。
「私の力じゃ、ひとつしか選べなかったので」
「知ってる。だから、俺は君に言わなければならないことがある」
ソファから顔を上げたトウコに、彼はまっすぐな視線をそそいだ。
その手と同様、熱く滾るような瞳。
安室ではない『誰か』は、有無を言わせぬ強い声で告げた。
「自分を守ることの重要性を知る君が、そう決断した。だったらほかに言うことはない。君がいなければあの子は助けられなかった」
そして彼は、彼女の頭に手を乗せて、愛おしむように、尊ぶように、言ったのだった。
「お手柄だ、トウコ」
その瞬間、彼女は目を見開き、全身の動きをとめた。
表情を忘れ、息すらできず、まるで生きた死体のようにその場で硬直する。
そして、彼の言ったことがようやく最奥まで到達したとき、彼女はこれまでの人生のすべてを吐きだすような、深い深い息を吐いたのだった。
ああ、もう大丈夫。
それは、彼女にとって、天啓にもひとしいものだった。この言葉を聞くために生きてきたのかもしれない、と思いさえした。
「ありがとう、ございます」
応じる言葉は擦りきれて、大した声にはならなかった。ただひたすら、言われた言葉の味を、何度も何度も反芻する。
そしてそのあと、彼女はそれを心の中の一番大切な部分にしまったのだった。
カチリ。
止まっていた時計の針が、動きだす。
床から立ちあがって、トウコはぴょんとソファに飛びのった。そして笑って安室に話しかけた。
「そういえば知ってます?ヤマトくんの将来の夢は警察官なんですって」
「へえ。目指すは警視庁の刑事かい?」
「ところがどっこい、『俺はしっかり勉強して、東大に入って、警察官僚になるつもり。だから警視庁じゃなくて警察庁のほうだね』とのことです」
安室が危うく炭酸水を噴きだしかけた。
「ずいぶんと先の見えてる子だね」
「そしてそのあかつきには、私をお嫁さんにしてくれるそうで」
ブッ、と安室が今度こそ本当に噴きだした。気管に入ったのか、盛大にむせている。背中を撫でてやると、大丈夫だ、というハンドサインが返ってきた。
「ったく、とんだ六歳児だな」
「ゆくゆくは、警察組織のトップエリート。私のごとき一般人は一生かかってもお近づきになれないアッパークラスですよ。もしかしてワンチャンあります?光源氏プロジェクト始動?」
「六歳児を性的な目で見るんじゃない。毛利先生に対してといい、この前のイケメン刑事の件といい、どこまでだらしのないストライクゾーンなんだ。そのうち別の意味で警察とお近づきになるぞ」
「じょ、冗談ですよう。夢と現実の区別ははっきりついてます」
「べつに子どもに夢をかけなくても、って言ってるんだよ。今の大学にいれば、そういう奴と縁ができる機会だってゼロじゃないだろ」
安室は案外、真面目な顔でトウコを見ていた。
まさか安室がそんなことを言ってくるとは、それこそ夢にも思っていなかった彼女はおもわず目を丸くした。
そして、思いきり吹きだしたのだった。
「まさかまさか、私にかぎってありえませんよ。容姿・能力・財力・人脈エトセトラ、安室さんの言うとおり、たしかにうちの大学にはそういうのをフルコンしたステキな殿方がこれでもかと生息していますよ?でもほら、彼らにも相手を選ぶ自由があるというか。むしろ、持っているものが多ければ多いほど選びたくなくとも選ばざるをえないというか。私の言っていること、全面的に心当たりありますよね?」
安室がなんとも言えない顔になる。あるだろう。ありまくりに決まっている。
トウコは目の前の『フルコンしたステキな』イケメンにこんこんと言って聞かせた。
「いいですか、何ごともフィット感が大切なんです。フィット感。あるべき場所にあるべき人間が収まってこそ、世界はくるくるご機嫌に回るんです。考えてもみてください。私の隣にフルコンイケメンがフィットするのか!?というか、それ以前に私という人間にラブい話がフィットするのか!?」
トウコは「ノン!」と鼻息荒く身を乗りだした。
「なにせ、こちとら、自他ともに認めるインドア派のハイエンドにして、『学校に通うのが趣味』と公言してはばからない生粋のガリ勉オタク!『地味』という一点にかけては他の追随を許さないスーパーエリートです!」
どうだっ!と自信満々に胸を叩いたトウコに、安室は「胸を張る場所が異次元……」と半目になった。
トウコは腕を組んで、にやりと笑ってみせた。
「だいたいね、あまりにも完成しすぎていると現実味がないんです。いろいろな意味で。たとえばですね。あなたがその頭おかしいぐらいのスペックのわりに、いうほどモテないのも同じ理由かと思われ―― いだだだだ!ギブ、ギブ!」
わりと手加減のないチョークスリーパーに、腕を叩いて即降参する。安室は何事もなかったかのように、「それで?」と続けた。
「ようするに、現実感は大切、ってことです。現実は現実、夢は夢」
でもね、とトウコは安室を見上げた。
「こんな他愛ない夢をみられること自体が、とっても幸せだって思うんです。もういい大人なのにね」
トウコは言いながらも照れくさくなって、えへへ、と眉を下げた。
その様子を黙って見つめていた安室だったが、しばらくしておもむろに口を開いた。
「前にも言っただろ」
「え?」
「大人も子どもも同じさ。遅すぎることも早すぎることもない。見たい夢を見ればいい。道はいつだって目の前にある」
そして目を細めた彼は、まるで自分がそういう顔をしていると気づいていないかのように、やわらかくほほえんだのだった。
「君には君の人生と未来があるんだから」
出会ったころに聞いたのとまったく同じそれは、今や正反対とさえいえる響きをともなって、トウコの耳朶をうった。
彼の顔を見て、彼女がひどく驚いたのは当然のことだった。あの日、知りたくてたまらなかった瞳が、すぐそこにあったのだから。
そして、もっと驚いたことに、その目のうちにはちゃんと彼女の姿が映っているのだった。
ぽかんと眺めていた彼女は、しばらくして、とろけるように目元をゆるめた。
そして、今度はカメラを使わずに、カシャリと一枚。
彼女以外には見えないその写真を、彼女はこのうえなく幸福な気持ちでそっと胸の引きだしにしまったのだった。
さて、と安室が立ち上がった。
「そろそろいい時間だね。僕はこのへんで。明日は今日の件の後始末に追われそうだし」
「わ、私も一緒に警察に行ったほうがいいですよね?」
「明日は授業だろ。こっちでなんとかやるさ」
ひらりと手を振って部屋を出ていこうとする彼に、彼女は慌ててソファから立ちあがった。
「あ、あ、安室さん!」
気づいたときには、いつもより大きな声で呼びとめてしまっていた。長身の背中が振りかえる。
あの、その、と意味をなさない指示語をこぼしたあと、彼女はようやくひと言だけ絞りだした。
「……ありがとう」
それはずっと言いたくて、でもずっとちゃんと言えなかった言葉だった。
彼はすこし驚いたような顔になったあと、口元をゆるめた。
「礼を言われるようなことじゃない。事件を解決するのが探偵の仕事さ。そしてたまには後始末も。そうだろ?」
予想していた答えだったのに、いざそう言われると何と返していいかわからない。トウコはあたふたと取りつくろうように言った。
「はっ、はい。でもほら、事情聴取とかって大変だって聞きますし」
「大丈夫、慣れてるよ」
今度こそ、彼は振りかえらなかった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
いつの間にか日常の一部になった夜のあいさつを最後に、彼は部屋から立ち去っていった。
「これでよし」
ひどく夜遅くになって日記を書きおえた彼女は、そっとペンをおいた。
書きあげた内容は、夢の国での冒険について。イケメンの卵にプロポーズされたくだりは、とくに強調してある。
「ほんとに、楽しかったなあ」
夢の国で過ごした時間はけっして短くはなかったが、彼女にとっては、またたきをすれば終わってしまうような、あっという間の出来事だった。
『ここは現実を忘れるための、仮初の世界。時間がきたらシャッターが下りて追いだされる、夢の国』
理想郷。イギリスの思想家トマス・モアが同名の著書にて描いた理想国家の名称である。
日本語では、無何有郷とも呼ばれる。
どちらの語義も―― 『どこにもない場所』。
お腹を空かせたヘンゼルとグレーテルは、ふたりだけの夢の国をさがし、お菓子の家にたどりついた。求める者にひとときの甘い夢を見せる、ユートピア。それは、触れれば消える美しい蜃気楼だ。
黒犬は、薄紅の郷の幻を見た。
夢みる魔法に、彼女は夢を叶えてもらった。
だから、もう時間だ。
「私には、私の人生と未来がある」
彼女は最後のページを閉じ、すべてを終えた。