ポアロからの帰り道、ふと寄ってみる気になった。
ただなんとなく、桜が見られたらいい、とたったそれだけの、あとから思えばとても珍しい気まぐれだった。
File.43 ハイツ・アサヒ(Ⅰ)
ところどころ割れた石畳に、塗りの剥げた門扉。強力な薬剤でバシバシに漂白された雑巾のような、白っぽくて粗末な壁。直射日光で色落ちするのと雨風で汚れるのを交互に繰りかえしたら、こんな色になるのかもしれない。
化石のようなボロアパートには、これまた同じくらい古臭くてくたびれた看板があがっていた。
ハイツ・アサヒ。
かつてトウコが居を構えていた場所である。
安室はとくにためらいもせず、敷地の内部に進みいった。
勝手知ったる家のごとく。文字どおり。
本来入ってはいけない場所に無断で立ちいるのはもう何回と繰りかえしてきたことだった。侵入した先での自然なふるまい方も当然、身についている。
どんな場所に入りこもうとも、彼は誰にも疑われない。
ただ唯一、足を踏みいれた瞬間に湧きあがる、わずかばかりの罪悪感と居心地の悪さだけは、いまだに如何ともしがたいものがあったが。
もはや生理現象のようなそれも、いつもと同様、数歩も進めばすぐに気にならなくなった。
鈍ったく曇った銀色のポスト群を通りすぎた先、中庭の奥で彼を待ちかまえていたのは、例の古い桜だった。
ずっしりとした面持ちの古樹は、招かれざる客に動じるどころか、むしろ好きなだけ見ていけとでも言わんばかりに、咲きそうでまだ咲かない白いつぼみを悠々と風になびかせていた。
たとえば、だが。
『わーっ、大人の余裕、って感じですね!さっすが古強者!』
と、嬉しそうに手を打つ。
前触れなく再生された女の声とイメージに、彼は眉をひそめてしまった。
最近こういうことが少なくない。マンションを占領するだけでは飽きたらず、図々しくも彼の脳内にまで棲家を広げはじめた居候である。
安室は桜の木に意識を戻した。
幹の中央から、まっすぐ上へ。それから、大きく広がる枝先までいったあと、さらに視線をすべらせ、そのままアパートの二階部分を見た。
左端から順に、二〇一、二〇二の、二〇三、二〇四、と四つのドアが並んでいる。ペンキの刷毛の痕まで見えそうな、ちゃちなスチールドアである。
あいかわらず防犯意識のかけらもない面がまえの部屋は、空き巣からすればどうやって押しいってやろうか、考えるだに楽しい物件にちがいなかった。
玄関ドアにはそれぞれ、住人の名前の書かれたプレートが掲げられているが、トウコの住んでいた二〇四号室の前だけは空白のままだった。
彼女が彼のマンションに引越して以来、まだ次の入居者が現れていないのだろう。
「そういえば、もう一年か」
懐かしいな、と思いかけて、彼は自分の思考回路を引っぱたいてやりたくなった。
懐かしくない。断じて懐かしくない。
一年前、この場所でどんな目に遭わされたか忘れたのか。
今の仕事についてから、死にかかる・殺されかかるは日常茶飯事、心身ともに常人とは次元の違うタフさを備えた彼である。
しかしあの件はさすがに『斜め上』すぎた。いろいろと。精神的な疲労度ならば、正直いって、近年の五指に数えてもいいくらいの事件である。
当時を思い出してげんなりした彼に、
『いやあ、悪いとは思ったんですが、あんまり良い金づるだったので、つい手が出ちゃったといいますか』
と、頭の中に住まうトウコが反省しているのかいないのかわからない様子で頭を掻いた。
ため息をつく。
「たった一年なのにな」
たった一年。だが決して薄っぺらではない一年だった。
遊園地でのあれこれ、犬さがし等々、この一年を遡れば、ふたりで協力して解決した案件はいくらでもある。
探偵、それも毛利小五郎の一番弟子を名乗っていれば、どうやっても依頼は舞いこんでくる。毛利の下請けになることもあれば、うわさを聞きつけたポアロの客から直接頼まれることもある。依頼数自体は多くなく、内容もそう難しいものではないのだが、『本業』と重なってしまった場合には、スケジュール的に辛いものがあるのも事実で。
そういうとき、わざわざ細かな指示を出さずとも一から十まで勝手に下準備してくれるトウコは、『安室透』にとって、今やどうしようもなく重宝な存在に成り果てているのだった。
「だって、便利だもんなあ」
彼はしみじみした気持ちになって、春の空を見上げた。
そもそも、どう扱おうがまったくといっていいほど後腐れのない若い女、というのはそうでなくても役に立つものなのである。
ちょっとそばに立たせておくだけで男には入りづらい場所もフリーパスになるし、腰を抱いて頬なり首なりをそれらしく撫ででおけば、周囲はわざわざ彼らを視界に入れようとはしない。繁華街で女や客引きから声をかけられるのを防ぐ効果もある。とにかく十徳ナイフばりに使えるのである。
加えて、ついヘビーユースに走ってしまう所以がもうひとつ。
とにかくそれっぽくないのである。見るからに素人然としている、と言いかえてもいい。
まあ、トウコの場合は、特定分野の専門スキルを持っているというだけの本物の素人なので、『然』も『っぽい』もないのだが。
なんというか、ふとした言動の端々から、たわいない毎日を一生懸命に生きているのがどうしようもなく伝わってくる。
あふれだす小市民感とでも表現すべきものだろうか。
己を偽り、演ずることは、客観的であることと分かちがたく結びついている。
目の前で起こるひとつひとつに目を見ひらき、小さな心臓を揺らして、一喜一憂する。彼女がなにげなくやっているそれは、今ここに生きようとする者だけに許された行為だった。
高みから地上を見下ろす高慢ちきなロール・プレイヤーには、どう足掻いても装えない透明な衣装にちがいない。
“今ここ”を一生懸命に生きる。たったそれだけのことだ。
だが、たったそれだけのことが―― ひどく難しい。子どものころは誰でも知っていたはずのそのやり方を、人間は簡単に忘れてしまう。
利口に、狡猾に。力を手にした人間ほど、目の前の生きて動く現実から距離をおき、超越者を気取りたがる。ときには許されざる手段をもって、人を支配し、利を貪ろうとする。
日常に潜む小さな宝の探し方は、一度忘れてしまったら、きっともう思い出せはしないのだろう。
その点、自然は律儀なものだ、と安室は、今にも咲かんとはち切れそうな白いつぼみを眺めた。
一週間もすれば、また花の季節がやってくる。つい昨日交わしたばかりの会話が思い出された。
『安室さん。突然ですが、実家に帰らせていただきます』
珍しく自分から安室を呼びだしたトウコは、三つ指をつくとは言わないまでも、きわめて丁重に頭を下げた。
おもわず、え?と目を丸くした安室の前で、トウコは、
『もちろん、もらいたいのは“お暇”じゃなくて“お休み”です。あ、もしかして三行半かと思っちゃいました?』
と、舌を出したのだった。
間髪入れずにその頬をつねり上げたのは言うまでもないことである。紛らわしいうえ、こっちが捨てられる設定になっているのが釈然としない。
頬をモチのように引き伸ばされながら、彼女は『ほ、ほんの冗談だったのに』と哀れっぽく鳴いて、仔細の説明を始めた。
『じつは曽祖父が亡くなったらしくて、その葬儀に……ああ、ご心配はなさらず!実際のところ、そんなにしんみりした話じゃないんですよ。もう百歳を超えていましたし、家族一同、悲しさよりも大往生を称えたい気持ちのほうが大きいんです。そうなると田舎のお葬式なんて親戚の一大宴会イベントも同然ですし、たまにはゆっくりしてこようかなって』
そういうことであれば、安室としても引きとめる理由はなかった。どれくらいかかるかだけ訊ねると、トウコは顎に手をやって、安室を見上げた。
『そうだなあ、全部終わるまで一週間ってとこですね。それくらいにはちょうど桜の見ごろだし、余裕があればお花見の予定も入れるかもしれませんけど。あ、そうそう。留守の間にこの家使います?』
普段から入りびたっているわけでもなければ、私物を置いているわけでもない場所である。必要ない、と安室は片手を振った。
『わかりました。じゃあ、なくすと怖いので、預かっているスペアキーはいつもの金庫に入れておきますね。もしも必要があれば、そこから持っていってください』
ふたりのあいだでたまに使う、銀行の預り金庫を隠し場所にあげて、トウコは話をまとめた。
話を終えて、立ち去ろうとした安室に、だが、彼女は思い出したように付けくわえた。
『それと、夜のうちに移動するつもりなので道中もお電話にはほとんど出られないと思います。バタバタしそうだし、メールのお返事もすぐには難しいかも……ご迷惑をおかけすることになって、本当にすみません。あっ、だからといってあとからアイアンクローはダメ、ゼッタイですよ』
わかってるよ、と彼は肩をすくめた。そして、ふとこんな蛇足を加えたのだった。
―― たまにはゆっくりしてきなよ。普段、頑張っていることだし。
彼女は見ている前でみるみるアーモンド型の目をまん丸くした。そして、最後には柔らかく頬を緩ませたのだった。
『はい、ありがとうございます』
控えめな、だが、心のうちを隠しきれないその笑顔は、こちらの言葉ひとつに一喜一憂する、どこにでもいる女の子のものだった。
その表情を思い出すと、彼は今でも、なんともいえない不思議な気持ちになる。
よくわからない。
よくわからない、のだが。
『ありがとうございます』
そういえば、彼女が挨拶や感謝の言葉を欠かしたことは一度もないな、と彼は思考を横にすべらせた。
誰に対しても礼儀正しく、勤勉。準備が良く、細かいところにもよく気がつく。温厚かつ寛容で、悪くいえば押しに弱く、良くいえば面倒見がいい。ひと言多いのも、それがコミュニケーションの一環だと理解している相手に対してのみである。
あれ?普通に良い子だな、と安室は眉を上げた。
性格に問題があるどころか、むしろなかなか高水準にまとまっている。なのにどうして自分はあんなに彼女の頭をポカポカやってしまうのだろう。
もしかすると、あの眉毛のせいだろうか。と、出会ったときからお気に入りの、あの素敵な下がり眉を思い浮かべた。
何かにつけぴこぴこ上がったり下がったりする柔らかな毛流れは、彼女の心のバロメーターだ。犬の尻尾みたいに。
春の陽気に包まれて、そんな平和ボケしたことを考えていると、二階部分でドアの開く音がした。
鼻歌を歌いながら、初老の男が部屋から出てくる。
髪の毛はぼさぼさ、皺だらけの白衣に身を包んだ二〇三号室の住人は、裸足に便所スリッパを引っかけた格好のまま、手すりにもたれて桜を眺めはじめた。
はじめて会う人間だった。
だが、まったく知らない相手というわけでもない。トウコがすり替えた二〇三号室の本当の住人―― たしか名前を青田といったか。
男は手にコーヒーカップを持って、今もご機嫌に鼻歌を歌っている。中庭の安室にはまるで気づいていない様子である。
メガネの奥の眠たげな目が弾むように見つめているのは、咲きかけた桜のつぼみ。
彼はこのためにここに住んでいるのかもしれない、と安室が珍しく根拠のないことを考えてしまうくらいに、青田は満ちたりて幸せそうな顔をしていた。
桜の間を吹きとおって、春風が軽やかに流れてくる。
気分の良さもあいまって、安室はつい声をかけてしまった。
「立派な桜ですね。今年の春は日本にいらっしゃるんですか?」
青田は目をぱちぱちとさせ、ようやく安室を見下ろした。誰だったかな、という疑問がそのまま顔に書いてある。
「直接のお知り合いではありません。知人を通して貴方のことを聞いたことがあるだけです。よく長期の出張をされていると」
「ああ、研究職をしていてね。ちょっと待っててくれ、今降りるから」
つづいて、カンカンと機嫌よく鉄階段を降りてくる音が聞こえた。目的の知れない部外者に対し、警戒心のかけらもない。
トウコのターゲットにされてしまったのも仕方のないことかもしれない、と彼は内心苦笑した。このとぼけた先生は、留守の間に隣人に部屋を乗っ取られていたなどとは想像すらしていないはずだ。
降りてきた男は、青田です、と間延びした声で自己紹介をした。
それに対し、安室のほうはフルネームで名乗りかえしたが、相手がそれに反応することはなかった。当然のことではあるが、探偵・安室透の知名度は師のそれとは比べるべくもない。
安室としては『ここで何をやっているのか』と訊かれた際の予防線が張れればそれで良かったのだが、実際のところ、青田は安室が誰であり、今ここで何をしているかということについては、まったく興味がないようだった。
コーヒー片手に日光浴をしながら、青田はのんびりと桜を見上げた。
「もうすぐ咲きそうだねえ。あと一週間ってところかな。今年はなかなか立派な花をつけそうな感じだけど、見物人が少なくて残念だ」
「と、おっしゃるのはあの一階の状態のことですか」
安室は桜の右手に並ぶ、一階部分の四部屋を指さした。
というのも、不思議なことに、それらのドアにはどれも表札があがっていないのである。去年ここに来たときには、それぞれ住人がいたように思ったが。
「ここも老朽化が進んでいてね、耐震工事が必要になったとか何とかで、一階の住人は去年のうちに退去したんだって。さいわい、それぞれ就職やら転勤やらの節目で、退去はスムーズだったみたいだけどね」
「二階もそのうちやるんですか?」
「さあ、どうだろう。今のところは何も聞いてはいないけど」
青田は桜を見上げながら、夢を見ているような感じでつぶやいた。
「ここの桜はね、本当に綺麗なんだ。これが見たくて住んでいた人も多いと思うよ」
「彼女も、きっとそうだったんでしょう」
おだやかな声で応じた安室に、青田は不思議そうに首をかしげた。
「僕に青田さんを紹介してくれた女性です。前にここに住んでいた方で」
「ここに?」
くもったレンズの向こうで茶褐色の小さな瞳が動いた。レンズの内側を眺めるようにぼうっと前を見ていた青田だったが、安室に焦点を合わせたかと思うと、こんな質問をした。
「安室さん、だっけ。その人が住んでいたのって一階?」
「いえ、二〇四号室です。青田さんの隣の」
それはよくある、何の問題にもならない受け答えのはずだった。
だが、その言葉を聞いた途端、青田はまとう空気を一変させた。メガネの奥に意図の読めない光が宿る。
青田は安室を見つめて、質問を重ねた。
「前に住んでいた、というのはいつ?」
「ちょうど一年くらい前です」
青田の瞳の奥に、ほんの一瞬、何かがよぎった。
精細を欠いた角膜に隠されて、曖昧にぼやけた心の水面。安堵とも悲しみともつかない複雑な感情のかけら。
青田の変化に気づかないふりをして、安室は慎重に会話を続けた。
「二〇四号室に、何か問題でも?」
「……幽霊がいるんだよ」
二〇四号室のドアを見つめる、老いて疲れた横顔。
そこに宿るものの正体を、安室はやはり解きあかすことができなかった。
しばらくして、こちらにふたたび向きなおったときにはもう、メガネの向こうにはさっきまでと変わりない眠たげな目があるだけだったから。
青田は何ごともなかったかのように話を戻した。
「つまり、彼女は最近の人なんだね。ここ数年は留守にすることがほとんどだったから、そんな女性がいたなんて今の今まで知らなかったよ。僕はこのアパートで一番古い住人なんだけど」
青田は恥ずかしそうにメガネをずりあげて、へへへ、と笑った。
「まさかここまで抜けてるなんてね。そのうち空き巣にでも入られるかもしれないな」
青田の言いざまに、安室も苦笑した。心配しなくてももう入られている。
「で、その彼女が僕のことを?」
「ええ。出張が多くてほとんど戻ってこない人だって。あと、不在郵便でポストがいつもいっぱいだと」
手紙でいっぱいになったポストのイメージは、今も安室の中に鮮明に残っていた。
青田は「参ったな」と頭を掻くにちがいない―― という安室の予想に反し、彼はきょとんとした顔になった。
「僕の不在の間に郵便物が届いていたのかい?」
「ええ。それは山のように」
青田は眉を寄せ、「おかしいな」と左手を顎に当てた。
「どうしました?」
「いや、留守の間の郵便はここには届かないことになってるんだよ。大事な手紙がポストの中でぐちゃぐちゃになったら困るだろう?だから、長く家を空けるときは大学のデスクに転送することにしてるんだ」
今度は安室が首をかしげる番だった。それはつまり―― 。
「まあでも、昔から笑っちゃうくらい抜けてるからなあ。僕ってやつは。届け出を忘れていたときもあったのかな。管理人さんに確認するよ。おしえてくれてありがとう」
と、青田は今度こそ「参ったな」と頭を掻きながら、いそいそと自室に戻っていった。
ひとり中庭に取り残された安室は、釈然としない気持ちのまま、二〇三号室のドアに視線をやった。
あのとき、あふれていたのは二〇四号室のポストだった。だが、それはトウコのトリックによってポストの中身が入れかえられていたがゆえの光景である。
あの大量の郵便物が本来の居場所は、二〇三のポストの中であり、またその持ち主はあの青田だったはずだ。
振りかえり、エントランスに並ぶポストを見る。今となってはそのどれにも、はみ出した不在郵便は見当たらなかった。
―― 青田は、嘘をついてはいなかった。
立ち尽くすように桜を見上げたあと、安室はその場をあとにした。