ポアロの場合、春休みだからといって客が増えるわけではない。
File.44 ハイツ・アサヒ(Ⅱ)
安室は、皿を拭きふき、いつもと何ら変わりのない店内を見回した。スーツ姿のサラリーマンがひとり。オフィスカジュアルな恰好をしたOLがひとり。
ポアロの客は主に社会人だ。
ロケーションがビジネス街の一角であるということ、店構えがどちらかといえば若者向けでないということ、客層に関する理由をあげるとすればその二点になる。
例外はこのビルの関係者、具体的にはポアロとその従業員、および毛利探偵事務所の面々と、さらにその家族・友人だった。
ポアロがそのいささかレトロな見た目に反して、今なお活気にあふれた場所であり続けられる理由は、彼らが頻繁に顔を出してくれるから―― かもしれない。
なお最近は女子学生の集団客も増加傾向にあるのだが、そちらについての分析は、まあ控えておくことにする。
「いらっしゃいませ」
またひとりスーツの客が入ってくる。今日はもう学生の来客はないだろう。
学生たちがポアロに顔を出すのは放課後、平日の夕方と相場が決まっている。おしゃべりに買い物、恋愛と日々多忙な彼らが、気持ちよく晴れた春の休日にわざわざ喫茶店に入りびたることはないのである。
見知った顔はきっとどれも、今ごろは友人や恋人と連れだって、ショッピングモールやテーマパークで若者らしい余暇を過ごしているにちがいない。
友人や恋人、ね。
それ以上、何かを思うことはなく、安室は静かな店内でひとり食器を磨きつづけた。
コチ、コチ。
柱時計が緩やかに時を刻む。
こんなとき、話し相手になるのは決まってもうひとりの同僚・梓だったが、彼女もまた今日一日は休みだった。昨日聞いたところによると、友人とピクニックに出かけるらしい。
『東京では、今週に入ってから各所で桜の開花が見られ、いよいよ花見のシーズンに―― 』
今朝のニュースキャスターの声が脳内で寸分たがわず再生された。
今年は例年よりかなり開花が早い。ショーウインドーの向こうに覗く空が真っ青に澄んでいることを考えあわせても、明日はきっと、さまざまな方面から楽しい土産話が舞いこんでくることだろう。
コチ、コチ。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
ランチ客のひとりが席を立った。ひとり、またひとりと客が少なくなっていく。
安室は指紋ひとつなく磨きおえた金属のポットを前にして、息を吐いた。
ランチで入店した客が去り、新しく入ってくる客はほぼいない時間帯、手持ち無沙汰といえば手持ち無沙汰である。
だが、いつからだろう。その手持ち無沙汰が、嫌なものではなくなったのは。
休みとなれば居ても立ってもいられなかった昔に比べ、身も心もずいぶんと落ちついたように思う。
なにせ、どんなに若く見られようとも、もう三十手前である。平穏な日常というものがどれほどを貴重なものであるかを、今の彼は身に染みて理解していた。
この機会に普段あまり使わないティーセットも磨いておこう、と棚の上段に手をのばしたときだった。
何かの気配を察知して、彼は耳をそばだてた。
来る。
一瞬後、予想のとおりにカランカラン、とけたたましくドアベルが揺れた。小さな影が弾丸のように走りこんでくる。
「こんにちはー!」
「あっ、安室の兄ちゃんだ!」
「安室さんだ!」
三人とも静かにしなさい、と言ういつもの声は聞こえなかった。
光彦の入店を最後にドアが閉まる。安室が何かを言うより前に、三人は我先にと報告を始めた。
「博士は遅刻です!」
「来る途中にね、車が止まっちゃったの」
「なおしてから来るって言うもんだから、ここまで歩いてきたんだぜ……うう、ハラへって死にそう」
元太がげっそりとした顔で壁に寄りかかる。
安室は「それは大変だったね」と苦笑しながら、その背を押して彼らをいつもの席まで案内した。
ぴょんぴょんぴょん、と順番に小さな身体がソファに飛び乗る。
「今日もパフェかい?」
うん!という返答は予想済み、安室の小脇にはすでにデザートメニューが準備されている。
パフェのページを開いてやると、押し合いいへし合いしながら、三対のかがやく瞳がカラフルな紙面を覗きこんだ。
「僕はこの、春限定のブルーブロッサムパフェにします」
「歩美もブルー、ブ、ブラッ、ブロッ―― 光彦くんと同じので!」
「俺はチョコマウンテンひとすじだぜ!あ、ソース多めで」
本人たちはいたって真面目にやっているのだが、こちらとしては見ているだけでつい口角が上がってしまう。
子供の無邪気さは平和の証、と安室は小さなお客のオーダーを満たすため、鼻歌まじりに厨房へとUターンした。
注文の品を予定時間内に仕上げて席へ戻ると、彼らは小学生にはまだ高すぎるソファの上で両足をぶらぶらさせながら、大人しくパフェのできあがりを待っていた。
『待ち時間は静かににするんじゃぞ!絶対、絶ぇーっ対!』と、あのメガネの天才博士に口を酸っぱくして言いふくめられたにちがいない。
「お待たせしました。こぼさないように気をつけてね」
「やったあ!」
安室のウインクとほぼ同時に、子どもたちが歓声をあげる。
彼は「しい」と慌てて人指し指を立てた。パフェを作っている間に新たな客が何人か席についている。
子どもたちが声のトーンを落としたのを聞きとどけて、安室は息をついた。
『待ち時間は』ではなく『待ち時間も』、と言っておいてもらえればベストだったかも。
三人の小学生が揃ってパフェに夢中になっている光景に、そういえば前にも似たようなものを見たな、と安室は過去の記憶を掘りだした。
ちょうど一年前、彼女とはじめて会った日のことだ。
同じことを考えていたわけではないだろうが、パフェを掻きこみつつ、元太が首をかしげた。
「そういや今日はトウコねえちゃんはいねえのか?」
「えっとたしか、一週間ほど実家に帰るとか」
「じっかぁ?」
「うん。僕も詳しくは知らないんだけどね」
給仕のトレイを腹にかかえたまま、安室は顔色ひとつ変えずにすっとぼけた。
歩美が元気よく手を挙げる。
「歩美も知ってるよ、その話!トウコおねえちゃんのお家、すっごく田舎で、夜になると動物の鳴き声が聞こえるんだって」
「それって本物のキツネやタヌキが出るってことですよね?イ、イノシシとかもいるんでしょうか」
「イノシシはうまいって父ちゃんが言ってたぞ。いいなあ、トウコねえちゃん。俺もイノシシ食いてえなあ」
「イ、イノシシなんて食べたらお腹壊しちゃいますよ、元太くん!」
光彦がぎょっとしたように元太を見る。
都会っ子の彼らには野生の動物は縁遠いものらしく、まるで妖怪やUMAのような扱いだった。たしかに東京にいれば、動物園以外でそういった生き物を見かける機会は皆無かもしれない。
この時代の子どもたちを取りかこむのは、自然ではなく文明だ。
スマートフォン、パソコン、エトセトラ。
良くないことだと断ずる気はさらさらない。それもまた社会環境に適応した新しい子どものあり方なのだろう。
スプーンで慎重にプリンをすくい取りながら、歩美が言った。
「遠いところに帰ったんだね、トウコおねえちゃんは。もうお家には着いたのかな」
「たぶんね。夜の間に帰ると言っていたから」
夜行バスを使ったなら、今朝には到着しているだろう。狐狸跋扈する山間の故郷に。
「あー!うまいもん食いてー!イーノーシシー!」
イノシシへの思いが捨てきれないのか、八つ当たりのように残りのパフェを一気に平らげた元太は、今度は隣に座る光彦の手元に照準を合わせた。
「あんまりじっと見ないでくださいよ、元太くん。パフェが溶けちゃいそうです。だいたい、博士とはひとりひとつの約束だったじゃないですか」
「ち、ちげーよ。かっけー色だから見てただけだって。ほら、青い色!」
「ブルーブロッサムパフェなんだから、青色に決まってます」
光彦はすまし顔でブルーハワイシロップのかかったパフェを指さした。
隣で歩美が首をかしげる。
「ブルーは青って意味だよね。じゃあブロッサムはどういう意味なの、光彦くん」
「ええっと、ブ、ブロッサムというのはですね」
光彦が助けを求めるような顔で見上げてくる。
「花だよ。ブルーブロッサムで『青い花』ってことになるね」
「―― だそうですよ、歩美ちゃん。わかりましたか?」
「へえ、『青い花』かあ。すてき!」
えっへん、と光彦はまるで自分が解決したような顔で鼻の下を擦った。
そんなふたりのやりとりには目もくれず、さっきからじっとパフェだけを見つめていた元太が、思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、オレ見ちゃったんだぜ。前にトウコねえちゃんがすげーかっこいい車に乗ってるところ。このパフェみてーな青い色でさ、博士にきいたらめちゃめちゃ高い車なんだって。もしかしてトウコねえちゃんは金持ちなのか?金持ちだったら毎日パフェおごってくれねえかなあ」
青い車、と聞いて、安室は顎に指を添わせた。おそらくは以前迎えに来たあの車だろう。
R34型GT-R。
十年以上も昔の車種にもかかわらず、平均で数百万、状態と仕様によっては一千万を超える値がつくスポーツカーである。
そんな車を都内で所有するなんて、トウコには天地がひっくり返っても無理な話だ。なにせ安アパートの家賃すら払えない極貧女である。
食うにも困る貧乏学生・トウコ。
ここだけの話、彼女のクローゼットにブランド物の服がぶら下がっているところは見たことがない。着こなしで誤魔化してはいるものの、彼女の普段着はだいたい『ユニなんとか』や『ファッションセンター・しまなんとか』あたりのセール品である。
「友達か誰かに借りていたんじゃないかな。びんぼ―― ごほん、普通の大学生にはさすがにちょっと」
「なんだあ、借りモンかあ。パフェ食べ放題のチャンスだったのによう」
元太はテーブルに顔をのせて、口を尖らせた。
「つまんねーなー。せっかくの春休みなのに遊び相手がひとり減ると」
「彼女にはよく遊んでもらっているのかい?」
つい口を滑らせてしまった。
「遊んでもらってたっていうか、遊んでやってたっていうか。トウコねえちゃん、みんなで一緒にいるときに通りがかったりすると、勝手に混ざってくるんだよなあ」
自分の知らないトウコの姿に、安室は「へえ」と素直な驚きを返した。
「でも、トウコねえちゃんがやりたがるのはボール遊びとか、鬼ごっことかそんなんばっかりでさあ。ゲームしようぜ、って言っても、『今はまだそのときではない』とかわけのわからない断り方をされるんだよな」
「たぶん、弱くて負けちゃうからやりたくないんですよ。トウコおねえさん、パソコンとか携帯電話の話になるといつもアタフタして困った顔になりますし。きっと、アナログ人間、ってやつなんだと思います」
子どもたちのあいだで繰りひろげられる会話に、安室はおもわず噴きだした。
「アナログねえ」
手先が器用で機械にめっぽう強い彼女のこと、テレビゲームにかぎって苦手なはずはないだろう。
安室に対しては引きこもりを自称して憚らない彼女も、小学生からそういう目で見られるのはさすがにごめんこうむりたいと見える。
安室はにっこり笑った。
「人には得手不得手があるからね。嫌がっているのなら、あんまりいじめちゃダメだよ」
トウコがこの場にいたら『いじめちゃダメ?どの口が言うんでしょうか』と白目を剥いただろう発言だが、子どもたちは「はあい」と素直に声を揃えた。
彼は少し考えてから、つけ加えた。
「それに……彼女はたぶん『家の中でゲームをするのも楽しいけど、遊べるときは外でめいいっぱい遊んだほうがいいよ』って言いたかったんじゃないかな」
低い視線に合わせて言うと、子どもたちは目をぱちくりさせてから、「あー!」と叫んだ。
「そういえば、そんなことも言ってた!」
「安室さんもそう言うなら仕方ないですね」
「また帰ってきたら遊んでやろーぜ!」
めいめい好き勝手なことを言う子どもたち。トウコが彼らからどんな評価を受けようが知ったことではないのだが、まあ、まったくの他人というわけでもなし、多少のフォローはサービスだ。
見知った気配にふと顔を上げると、ウインドウの外に汗まみれで走ってくる白衣の姿が見えた。
保護者の到着を知った彼は、静かにその場を辞して、ふたたび皿みがきに戻ったのだった。
「あーあ。トウコねえちゃん、早く帰ってこないかなあ!」
夜営業が終了したあと、彼は本来の帰り道とは違う方向に足を向けた。
なんとなく、引っかかる。
昨日あのアパートで聞いた話についてである。たいしたことでないのはわかっているのだが、喉でささくれる魚の小骨のように、どうにもすっきりしないのだ。
とはいえ、忙しい相手にわざわざ電話をかけて訊くほどのことではないし、羽を伸ばせと大仰な口を叩いた手前、さっそく自分で破るのも癪な話で。
青田から聞いた話なのだから青田本人に確認するのが一番手っ取り早いだろう。
と、最終的にはそういった結論に至ったわけである。
早足で歩いていくと、目的の場所にはすぐに辿りついた。
ハイツ・アサヒ。
夜の底にぼうっと浮かぶ白壁のアパートには、昼間とは打って変わって、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
二階に上がり、二〇三号室のドアをノックする。しばらく待っても、返事はなかった。
「青田さんは外出中だと思いますけど」
カンカンカン、と階段を上がる音とともに男の声が聞こえた。
振りかえった先にいたのは、声の印象どおり三十代かそこらの男だった。
黒い短髪にラフな格好、手荷物はリュックサックひとつ。容姿においてこれといった特徴はない。
どこかで見た顔だ、と直観した次の瞬間には、彼の脳みそは正確な情報を手繰りよせていた。
二〇二号室の住人。名前はたしか、山崎。
「青田さん、今日はきっと帰ってきませんよ」
夜更けに訪ねてきた部外者を上から下まで眺めまわして、山崎は怪訝そうに眉をひそめた。
「よくご存知なんですね」
「ご存知っていうか……まあ、あの人はいつもそんな感じですから」
青田とは反対に用心深い性質らしい山崎は、安室から目を離さないようにしながら、ぼそりと問うた。
「どなたか知りませんが、このアパートに何か用でも?」
「このアパート?どうしてそんなふうに思われるんです?」
「たしか前にもすれ違ったことがありましたから。ここで」
意外な記憶力に、安室は「ほう」と素直に驚いた。
「一年も前のことなのに、よく覚えていらっしゃるんですね」
「いや、女の子が一緒だったから印象に残っているだけです」
山崎はつっけんどんに答えた。その言い方が、張っていた糸にピンとひっかかった。
無愛想な口調ではなく、その内容が、である。
山崎の目を覗きこむようにして、安室はいかにも不思議そうに肩をすくめてみせた。
「おや、てっきり顔見知りだと思っていたのですけれど。彼女はこのアパートの元住人ですよ」
「あの女の子が?」
「はい。ちょうど一年くらい前まで、ここの二〇四号室に住んでいたと聞いていますが」
その瞬間、山崎の顔色がさっと変わったのがわかった。虫でも飲みこんでしまったような、ぞっとした青さである。
「二〇四号室に?いやいや、妙な冗談はやめてほしいな」
「それは、どういう意味ですか」
安室はすかさず問いかえした。それはきっと、今ここで訊いておかなければならないことだった。
そうでなければ。
そうでなければ―― どうなる?
「俺はここに五年以上住んでるし、長期で留守にしたこともない。だから断言できる」
山崎は二〇四号室のドアにちらりと視線をやって、言った。
「あの部屋には、はじめからずっと、誰も住んでいない」