「どちらさまですか?」

 一瞬、めまいのような感覚に囚われた。
 冗談を言っているわけではないというのは、声を聞いた瞬間にわかった。

 髪の色、目の形、声調。こちらを見上げる頬の輪郭、ワンピースの袖や裾からのびる手足。どれも記憶にあるものと寸分も違わない。
 違わないにもかかわらず、彼女はそんな言葉を口にしている。いつもと異なるのは、その黒い瞳にかつて見たことのない感情が浮かんでいることくらいだった。

 強い不審感と警戒心。
 嫌悪にすら近いそれらはまっすぐに安室に向けられている。
 安室との間に見えない深い溝を引くように、彼女は言った。

「私、貴方のことなんて知りませんけど」



Chapter.4 ゴースト・ハント

File.46 消失


 心臓に氷の針を差しこまれたような、痛みさえ伴う沈黙だった。
 だがしばらくして、安室は息を吸いこみ、己を押し留めるようにしずかに吐きだした。

 違う、彼女じゃない。

 現実から逃避するためにそんなことを考えたのかというと、もちろん違う。実際に、別人だとわかったのである。

 安室は目の前にいる女を、あらためてよく観察した。
 見れば見るほど、トウコそのものである。しかしよくできた間違いさがしのように、たったひとつだけ異なる部分があるのだ。同じの存在に違いが生じるとすれば、それは後天的なものにほかならない。

 ワンピースの袖からのぞくその腕には、いつぞや見た火傷の痕がなかった。

 安室はこのときようやく、トウコに妹がいたということに思い至っていた。神奈川の大学に通っていて、たしか顔がそっくりだという。
 この世にふたつとない遺伝子の組み合わせ。その完全な一致をみる例は、クローンをのぞけばひとつしかない。

 双子だったのか。

 納得と安堵の混ざった、深い息を吐きだした。
 トウコの妹と対面してから、その結論にたどりつくまで、実際にはほんの数秒。しかし、ひどく長い思索に耽っていたような感覚が身体の底に残っていた。

 気を取りなおして、頭を掻いてみせた。

「申し遅れました。僕はトウコさんの友人の安室と申します。はじめから、ちゃんとお名前でお呼びすればよかったですね。申し訳ありません」

 前半部は妹に、後半部は弟に向けて告げる。

『なるほど、そうだったんですね』

 という言葉とともに、納得顔でぽんと手を打つ。安室が彼らに期待した対応はそういう類のものだった―― が。

「姉のことをおっしゃっていたわけではないんですか?」

 トウコの弟は、隣の姉と顔を見あわせ、困惑したように安室を見上げた。

「いえ、そのとおりなんですけれど……」

 今度は安室が首をかしげる番だった。彼は確認の意味を込めて表札の方向に手のひらを差しむけた。

「錠前屋の赤羽さんは、この付近ではこちらのお家だけですよね。ええっと、おふたりのお名前は――
赤羽たくみと、赤羽入絵いりえです」

 青年が、戸惑いながらもふたり分の名を告げる。
 ところが一方の姉は、そんな弟を睨みつけ、責めるような声で耳打ちした。

「どうして自分から言うのよ。変な人だったらどうするの」
「だって」

 眉を下げた弟にため息をついて、入絵と呼ばれた彼女は、今度は安室を睨みあげた。

「錠前屋の赤羽はたしかにうちだけですが。何の御用ですか?」

 不審感を隠しもしない、刺々しい声だった。
 トウコから一度もされたことのないことを、トウコとまったく同じ姿でやられて、安室はおもわず口をつぐんだ。

 さすがに見ていられなくなったのだろう、姉・入絵の態度を取りつくろうように、弟の巧が訊ねてきた。

「差し支えなければ、お探しの方のお名前をもう一度おしえてもらえませんか。このあたりは同じ姓が多いですし、何か勘違いをされているのかも」
トウコ、です」

 知ってる?というふうに入絵を見た巧だったが、彼女の答えはにべもなかった。

「知らない」

 嫌な汗が首に伝う。
 入絵の言葉を取りつぎながら、巧は申し訳なさそうに告げた。

「すみません。俺も人違いだと思います。うちにも、うちの親戚にも『トウコ』だなんて名前の人間はいませんから」

 うすら寒い何かが、さっきからひっきりなしに背に這いあがってきていた。
 おかしい。
 何かが―― いや、何もかもが、おかしい。

 唾を飲みこみ、トウコと同じ顔の女に向きあった。冷静を装ったつもりだったが、実際に口から出てきたのは、喘ぐような掠れ声だった。

「じゃあ、貴女にそっくりな、双子のお姉さんは今どこにいるんですか?」

 『トウコ』は偽名かもしれない。そんな仮説に一縷の希望を託して、彼は女の顔を見つめた。
 だが、現実が彼の期待に応えることなど、やはりありはしないのだった。

「そっくり……?」

 入絵の顔にぞっとしたような色が浮かぶ。安室はこの瞬間、彼女がこれから口にするひと言が、彼にとって致命的なものになるであろうことを悟ったのだった。

「私に姉妹は、いません。あなたはいったい誰のことを言っているんですか?」

◇◇◇

 スピードメーターも見ずにアクセルを踏みつづける。

 それでも東京に帰りついたころにはすでに夕方になっていて、橙と紺が溶けあう薄闇のなか、彼はいつものマンションの前に車を滑りこませた。
 エレベーターホールに駆けこみ、黒塗りのドアにカードキーをかざす。こちらの気持ちなどまるで知らず鈍重に動くエレベーター。焦れに焦れた彼は、目的の階に停まった途端、ドアの隙間を突き広げるようにして廊下に飛びだした。
 ドアを蹴破らん勢いで、玄関に入る。
 靴も脱がずに廊下を歩き、リビングに続くドアを開け放った。

 夕暮れに沈む部屋。
 そこにはもう、何も残ってはいなかった。

 完全に『元通り』だった。
 その空間は、彼女がはじめて足を踏みいれた、まさにその直前に寸分の狂いなくぴたりと巻き戻されていた。

 空っぽの家具だけが並ぶがらんどうの部屋。
 ここにいる見えない誰かが、彼女の存在した時間だけをカッターナイフで切り落とし、残った部分をふたたび精密に繋げなおしたような、いっそ異様ともいえる違和感のなさだった。

 肌が粟立った。

 デスクの周りにところ狭しを置かれていたパソコンも周辺機器も、コンセントに挿しっぱなしだった携帯の充電器も、本棚いっぱいに立てられていたボロボロの参考書も、テレビの脇にあったまだ背の低いサンスベリアも、商店街の抽選会で当たったやけに大判なカレンダーも、淡い色をしたピローケースも、ペン先でうっかり汚した壁紙も、コーヒーカップを落としたときのフローリングの傷も。

 彼女がここに持ちこんだものは、全部が全部、いっさいがっさい、何の痕跡もなく消失していた。

 振りかえってクローゼットを開ける。几帳面に並べ掛けられていた衣服はすべてなくなり、最後に安室が洗濯を任せた白いシャツだけが孤独な背中を見せてぶら下がっていた。
 台所の冷蔵庫には、安室が買いこんだ炭酸水が数本転がっているだけで、作りかけの氷ひとつ残っていない。
 風呂場を覗いてみたところで、髪の毛はおろかタオルの繊維のひと筋すら、落ちてはいなかった。

 執念さえ感じる徹底ぶりだった。

 この瞬間、彼はスイッチを切り替えるように、この件に関する認識を改めた。上着の内ポケットから、折りたたまれた薄い携帯電話を取りだす。
 それはトウコとの連絡用とは別の、普段は使うことのないもうひとつの電話だった。

 アドレス帳を開くと、数百件を超える電話番号の一覧が表示された。
 大量に登録されたそれらの中で目的の相手に繋がる本物はひとつだけである。その他はすべてダミー番号であり、発信した途端に発信元が逆探・特定されるようになっている。
 一度でも履歴が残れば使い捨てる、緊急用の携帯だった。

 ひどく静かに醒めていく。頭も心も。
 彼はもう、完全に冷静だった。

 彼だけが記憶している本物の番号を選択し、スピーカーを耳に当てた。深夜にもかかわらず、ぴったりワンコールの後に男の声が応じた。

「中にいます」
「外だ。大至急、頼みたいことがある。ここ一年で、うちから漏洩した情報がないか調べろ。それから――

 いつもの癖で続けそうになって、彼は逡巡した。
 情報が盗みだされた可能性。これは明確に降谷零の受けもちだ。
 だが、ここから先は?
 本来、対等になることなどありえない二者の判断が、ひとりの中でせめぎあっていた。どちらに拠るかで過程も結果もまったく異なるものになる。

 時間にして、わずかゼロコンマ一秒の攻防。口を開いたのは、『彼』のほうだった。

「『別件』で、調べてほしいことがある。以前、身元調査を頼んだ若い女がいただろう。家族、親類関係までもう一度、徹底的に洗いなおしてくれ。こちらも早急にだ」

◇◇◇

 マンションから出て真っ先に向かったのは、ハイツ・アサヒだった。

 すでに人の寝しずまった深夜である。寂れた門前にも、狭いエントランスにも住人の姿はない。門扉に手をかけ、敷地に入りこんだ。
 エントランスホールの片隅では、蛍光灯が瀕死の生き物のように浅い瞬きを繰り返していた。弱光が明滅するたび、陰鬱に浮びあがる羽虫の死骸のシルエット。
 アパートは、白い棺桶のように静まりかえっていた。

 階段を上がり、二〇四号室の前で立ち止まる。塗りの剥げた玄関ドアは、ちゃちで安っぽい鍵穴をひとつ備えるのみである。
 ディスクシリンダー錠。一昔前に圧倒的普及率を誇った住宅用の錠は、ピッキングにきわめて弱く、近年ではほとんど使用されなくなった。その手の心得のある者からすれば、ないも同然のセキュリティである。

 正当な行為だとは思わない。
 だが、不当な行為だとも思わなかった。

 持参した道具をポケットから取りだし、作業を始める。
 解錠し終えるまで三十秒とかからなかった。

 キイ、と古い蝶番を軋ませながら、ドアを開ける。黄色く濁った外廊下の電灯に照らされて、のっぺりとした濃い影が二〇四号室の廊下に貼りついた。身長よりはるかに長く伸びたそれは、つきあたりのリビングまで夜道のように続いている。

 廊下の最奥にわだかまる闇。
 そこにあるのは、暗夜そのものを煮溶かしたような粘度のある暗闇だった。
 前を見つめたまま、彼は後ろ手でドアを閉めた。
 廊下の影が消える。わずかな輪郭さえ失われ、今度こそ完全な暗闇が彼の身体を取り囲んだ。

 手さぐりで懐中電灯の電源を入れると、チカリと光が闇を裂いた。
 ライト部分を薄紙で覆って光量を大幅に抑えてあるものだったが、暗順応した目には針を刺すようにきつい。
 目が慣れるまで待ってから、彼は廊下にあがりこんだ。

 一歩ごとに、床板が不愉快に軋む。
 細く弱々しいその音は、人の―― 女の泣く声のようにも聞こえた。
 最奥に辿りついた彼は、懐中電灯をまっすぐ持ちあげ、部屋の中を照らした。

 そこには今度こそ、本当に、何もなかった。

 あるのは床と壁と天井と、その間を埋める夜の空気だけ。
 正方形に切り取られたがらんどうの部屋は、総毛立つほどに荒涼とした空間だった。

 壁に沿って電灯の光を当てる。
 シミだらけの壁紙はあちこちがめくれ、削れ、破れていた。穴が開いたところは、幼児向け雑誌の付録のようなちゃちなシールで補修されている。
 明るいピンク色をしたそれは、桜の花びらを象ったものだった。

 最後に奥の壁付近にライトを向けて、彼は息を飲んだ。
 光のなか、床の上にぽつんとひとつ置かれてあったのは、携帯電話だった。本体から伸びているのは―― 桜のストラップ。

 彼は冷えきった指で携帯電話を拾いあげた。画面の電源を入れた途端、視界いっぱいに強烈な白光が広がる。
 周囲に合わせて自動で調光され、ようやく直視できるくらいの明るさになった画面には、不在着信の通知がずらりと並んでいた。アドレス帳の中身はすでに抹消され、今となっては単なる数字の羅列にすぎない。

 着信は、すべて同じ番号からだった。
 彼は自分の携帯を取りだし、もう一度だけ電話をかけた。少し遅れて、手のうちで桜のストラップが震える。
 通話を切ると同時にバイブレーションも止み、画面には新しくひとつ不在着信の通知が増えた。

 名前のない番号。
 以前はたしか『店長』という名称で登録されていたそれ。

 もう疑いようはなかった。

 たび重なる着信のせいで、バッテリー残量はかなり少なくなっていたが、安室はその場で携帯の中身を調べた。

 メールボックスも画像フォルダも空っぽで、設定も初期化されていた。桜のストラップに仕込まれていた種々の機能も取り除かれ、どんなに入念に調べてもいまや何の仕掛けもない。
 ストラップ以外、いっさいの個別性と識別性を失ってしまったそれはもはや、『彼女の』携帯と呼ぶべきものではなくなっていた。

 ブーン、とそのとき、バイブ音がした。

 咄嗟にトウコの携帯を覗きこんだが、画面には何の変化も見られない。着信しているのは自分の携帯だと気づいて、彼はふたたび上着のポケットに手をつっこんだ。

 着信画面には、登録名のない番号が表示されていた。
 だが、その着信が誰からのものなのか、彼にはすでにわかっていた。

 通話ボタンを押し、いつもどおり符牒を示しあう。
 互いに確認がとれたあと、彼の部下は生真面目な声で早々に本題を切りだしてきた。

『例の件、調べがつきました』

 今回の件における最大の懸念事項―― トウコによって情報が盗みだされた可能性。

 電話の向こうの声は、淡々とその結果を述べた。

『調べられるものはすべて調べましたが、そのような痕跡は確認できませんでした。情報の漏洩はないものと』

 この半日、ずっと腹の底にへばりついてたまらなかった塊を、彼はようやく吐息として身体の外に吐きだした。
 張っていた肩からいくぶんか力が抜ける。

「……そうか」
『漏れたものがあるとすれば、せいぜい貴方の顔と声くらいのものでしょう』

 冗談なのか皮肉なのかよくわからないひと言―― いや、この男のことだから、いたって真面目に事実を述べているだけかもしれないが―― を付け加えながらも、風見の声は、いまだひどくこわばっていた。

 問いただすまでもなく、その理由は知れた。

 二つ目の件です、と呟くような早口で言ったあと、風見は息を吸いこみ、覚悟を決めたように続けた。

『例の女性の身元ですが、本人を除き、戸主以下その家族の全員に住民票が存在しませんでした。本籍地の住所は、実際に足を運ばせてみたところ、住宅地ではなく山間部の用水池の一部になっています』

 次にどんな言葉が来るかを悟り、彼は知らず奥歯を噛みしめた。

『偽造戸籍です』

 叱責を受けるべきは電話の向こうの部下ではない。
 わかっていたが、舌打ちを止めることはできなかった。

「偽造だと……?」
『私のミスです。申し訳ありませんでした』

 うなだれたような声が返ってくる。
 彼は息を吸いこみ、すぐに冷静さを取りもどした。

「いや、軽く見ていたこちらの落ち度だ。背乗りで間違いないな」
『はい』

 赤の他人による戸籍の乗っ取りとなりすまし―― 背乗り。

 しばらく沈黙が続いたたあと、風見はどこか憚るように、だが、表面上は淀みなく、こう断言した。

『彼女は存在しない人物です。この世のどこにも』

 こうして、トウコは完全に消失した。

 まるではじめから、いなかったように。


error: