『彼女は存在しない人物です。この世のどこにも』

 その言葉が、今も耳から離れない。



Chapter.4 ゴースト・ハント

File.47 ドッペルゲンガー(Ⅰ)


 黒塗りのマンションに戻ってくるなり、彼は剥き出しのベッドの上に携帯を投げだした。

 トウコは情報を盗んではいなかった。
 ひとまずは降谷と安室の両方にそれぞれ別種の安堵をもたらした報告だったが、実際のところ、そう驚くに値しない内容ではあった。

 過去に一度、トウコの普段の人間関係について個人的に洗いなおしたことがある。
 去年の夏、彼女がバーボンを追っていたあのころである。
 その結果、わかったことがふたつあった。

 まず、トウコの友人の中に、『トウコの知人としての安室透』を知っている人間はひとりもいなかったということ。
 仕事の内容はいうに及ばず、彼との間に何らかの関係があると匂わせたことすらなかったようで、トウコが新しく始めた『仕事』の中身を具体的に知る者は、少なくとも彼女の身辺には存在しなかった。

 そしてもうひとつは、トウコの日々の交友関係がきわめて正常なものであったということ。
 安室の前でわざわざ口にすることがなかっただけで、彼女には仲の良い友人が大勢いた。それら友人たちに対しては、安室に関連する事柄を除き、大きな隠しごともなく何でも気軽に打ち開けていたようである。
 その際に話したとされる内容もまた、安室の知るトウコの人物像と何ら矛盾しないものだった。

 後暗い事情を持つ者ほど、日常の交友関係は表面的なものになる。そのうえでも親しく付きあっている相手がいるとすれば、その相手は当人から何らかの秘密の気配を感じとっている場合が多い。

 たとえば。
 定期的に留守にするが、行き先はおしえてくれない。
 電話はしょっちゅうかかってくるが、人前で電話に出るのは見たことがない。
 通常行かないような場所や施設に出入りしている。
 知らない人物と街を歩いているのを見たことがある、等々。

 しかしトウコに関して、そういった話はまったくといっていいほど耳に入ってこなかった。

 彼女の背後に怪しげな人物の影がちらついたことは一度もなかったし、反対に秘密主義を仄めかすような行動もなかった。
 ときどき予定をドタキャンする、という声もあったが、調べてみれば、それをやった日はすべて安室が急な呼びだしをおこなった日だった。むしろ『友達との予定をキャンセルして来た』という台詞の裏づけが取れたかたちである。

 トウコという女に、何らかの後ろ暗さを感じていた人物はただのひとりもいなかった。
 大学でもポアロでも、トウコは完全にただの大学生で、ただの客だった。

「そうでなければ、気づいていたさ」

 他の誰でもなく、彼自身が真っ先に。

 奥歯がぎりりと鳴る。
 これほど近くにいて何も感じとれなかったのだ。
 持って生まれた観察眼と知性、危険な任務につくうち身についた嗅覚。嘘や悪意があったなら、見落としたはずはなかった。

 悪意も意図もない、無垢なる大衆のうちのひとり。
 だからこそ、彼女は彼にはできないことができた。
 トウコは彼の思惑どおり、誰にも怪しまれないまま後ろ暗い者たちの腹を探り、何も知らないまま彼に利をもたらした。
 彼女から企みのにおいがしたことは、一度もなかった。

 どうするべきか、と自身に問いかけた。

 夜雲の裾には、未成熟なレモンのような形の月がぽかりとひとつ浮かんでいる。正円に満ちるまで、あと数日といったところだろう。

 物事には優先順位がある。
 戸籍の偽りは紛れもなく犯罪である。しかしその罪に手錠をかけるのは彼の『管轄』ではない。
 彼の負う責務は、目の前の犯罪を取り締まることではなく、この国を脅かす危機の芽を察知し、未然に摘みとることだ。

 奪われた情報はひとつもない。悪意ある思惑も嗅ぎとれない。
 であるなら、降谷零にとって彼女はただ消えただけだ。

 追う必要はない。
 追うことはできない。

 降谷は自身の判断に基づき、独自に動くことが許されている。が、それは彼の意思決定自体が自由であることと同義ではない。
 緊急性と危険性、費やす時間と労力に見合う結果。彼が動くに値すると判断できてはじめて、彼は行動を起こすことができる。

 降谷には義務があり、責務があり、使命がある。
 彼の身は彼のものであって、彼のものではない。

で、調べてほしいことがある』

 なのに、あのとき、彼はわざわざそんな言葉を使った。

 情報漏洩の疑惑とトウコという人物を結びつけた状態で調査に当たらせる―― 義務と責務と使命に拠るならば、それが最良の判断だったはずだ。
 優先されるべきは危険か否か。事情や動機、場合によっては白か黒かの判断さえも後回しでいい。
 権力、武力、使えるものはすべて使って危険因子を排除する。

 それが彼の『やるべきこと』だ。
 そういう存在であり続けることを、彼は己に課している。

 判断を鈍らせたのは、彼のなかに存在する安室もうひとりだった。

『古今東西、名探偵には器用貧乏な助手がつきものだからね』

 トウコは安室の部下だった。であれば、異状を見落とした責任もまた自分が負うべきだ、とあのとき安室は主張したのだ。

 彼女はたしかに危険な存在かもしれない。だがそうでない可能性もまた同様に存在する。
 降谷が危険と断じた時点で、彼女の社会的立場は失われる。降谷が腰を上げれば、即座に彼女は『追われる者』になる。
 白か黒か、そのどちらかに転ぶまでは、降谷は動くべきではない。

 切り捨てるには、まだ早い。
 そんな多分に曖昧で自己判断的な主張が、彼に結論を先延ばしにさせた。遅いか早いかの違いでしかない、悪あがきにも等しい行為であるにもかかわらず。

 降谷の支援に徹するべき安室が、反対に判断に割りこんでくる。
 それは本来あってはならない葛藤だった。

 舌打ちをしたあと、彼はさまよい出るように部屋をあとにした。

 かざしたカードキーに反応して、黒塗りのエレベーターが勝手に動きだす。一階を過ぎて、さらにワンフロア、ツーフロア。
 最下層の駐車場に降りたった彼は、白い愛車がパレットに乗って運ばれてくるのを待ちながら、手元に残った桜のストラップを眺めた。

 『安室透』が生まれた意味。
 あのときも、あれからも、彼はずっと苛立っている。

◇◇◇

 日付が変わってから東京を出て、まだ薄暗いうちに長野に着いた。
 距離にして約二百キロメートル。車が少ないのをいいことに、遠慮なしにエンジンをふかした結果である。

 悲しいくらいにガラガラに空いた駐車場に入り、車を停める。
 まさか二日と経たずに東京と長野を往復することになるとは思わなかった、と彼は運転で凝った肩をほぐした。
 車を労ってやりたい気持ちはあったが、今はそうも言っていられない。
 ボンネットを撫でてから、田舎の道を辿りはじめた。

 見渡すかぎり、穏やかな里山の風景である。
 いつか聞いた『故郷』の歌を思い出した。

「そういえば、作詞者の出身地も長野だっけ」

 山は青く、水は清い。そう唱いたくなるのも当然の、うつくしい場所だった。
 豊葦原、中つの国の原風景。

 まあ、今の季節に限っては『山は青』くないが、と彼は眼前にそびえる山々を見上げた。
 すこし前までは歌詞のとおり、青々とつやめいていただろう山腹は今や本格的に薄紅色に染まりはじめている。もう数日もすれば桜が吹雪く満開の時期を迎えるだろう。

 それはきっと忘れがたき、ふるさとの景色だ。

 時間の調整も兼ねながら、ゆっくりとした歩調でしばらく歩いた。

 早朝を過ぎ、朝の時間になったころ、目的の場所が見えてきた。
 すでに一度訪れたことのあるその家は、まだ朝から誰も外出していないようで、内側からピタリと門が閉じられていた。
 葬儀が行われてから一日しか経っていない。数日は宴会状態が続くという赤羽巧の言葉が正しければ、きっとまだこちらにいるはずだ。

 門から離れた目立たない場所に立ち、彼はじっと待った。
 人の活動時刻になり、近所のあちらこちらから犬の吠え声や自転車の音が聞こえはじめても、彼は電信柱のように身動きひとつせず張りこみを続けた。

 そしてようやく、ターゲットである赤羽家に変化があった。

 カタン、と木戸の閂が外されて、黒髪の女がひとり、外出の装いをして表に出てくる。
 早足で歩いていこうとするその背をひそかに追い、人気のない路地に入ったところで声をかけた。

「おはようございます、赤羽入絵さん」

 名前を呼ばれて反射的に振りかえった彼女は、こちらを見て大きく目を見開いた。
 逃げるか叫ぶか逡巡したその一瞬の隙を逃さず、彼は回りこむように距離をつめた。

「これからお出かけですか?」

 安室の問いには答えず、彼女は警戒するように一歩下がった。

「貴方、昨日の――
「安室と申します。覚えていてくださったんですね」
「覚えているも、何も」

 馬鹿にしているのか、という声が今にも聞こえてきそうな、刺々しい視線だった。

「何の用ですか」

 噛みつくような早口で、二の句が飛んでくる。昨日の時点で把握はできていたが、赤羽入絵はやはり人一倍警戒心が強く、頑なな性格のようだった。
 こういうタイプの女には時間をかけた懐柔策が最善手だが、当然のことながら今の彼にそんな余裕はない。

「そんなに怖がらないでください。取って食べたりはしませんよ」

 彼女の逃走を防ぎ、かつ通りからの視線を遮る立ち位置を選びながら、彼は微笑んだ。
 その笑みの下にあるものを敏感に感じとったのか、入絵は強い声で威嚇した。

「近づかないで」

 トウコと同じ形の目が、仇を見るように睨みあげてくる。

「これ以上つきまとうなら、警察を呼びますよ」
「そうしたいのならお好きにどうぞ。ただし、この程度のことで駆けつけてくれるかどうか。彼らも忙しいですから」

 口元に手をやって、わざとらしく首を傾げてみせる。
 切り札のひと言を受け流されて露骨に動揺する入絵に対し、安室は悠々と話題を切りだした。

「なに、たいした話ではないんです。昨日の件について、他に知っていることがあれば教えていただきたくて」

 言いながら、さらに距離をつめる。入絵はよろけるように後じさりながら、それでも気丈に言い返した。

「何度言ったらわかるんですか。私は『トウコ』だなんて名前の人は知りません。名前も知らない人のことなんて、知るわけないじゃないですか」

 女はトウコとまったく同じ顔と声で、トウコとはまったく正反対のことを言った。
 その様子をじっと見つめていた安室だったが、しばらくして「ふうん」と顎に手を当てた。

「なるほど、そういう名前の人間『は』知らないと」
「ええ、そうです。何度もそう言って――
「では、どんな名前の方ならご存知で?」

 びくりと入絵の肩が震えた。警戒心と不審感が、別の感情に塗り変えられていく。
 怯えと恐怖。
 目の前の男から逃れようと必死になって距離を取る女を、彼は黙って観察した。
 彼からすれば、まるで無意味な行為だった。

 見ている間に、小さな背が、とん、とブロック塀にぶつかる。
 あ、と焦って目を見開いた女に対し、安室は待ち受けていたように微笑んでみせた。

「さて、気は済みましたか?」

 その瞬間、しぶとく残っていた最後の気丈さが、面白いように砕けた。黒い瞳が今度こそ完全に恐怖に染まる。
 ここまでくれば、あとはもうひと押し。それで落ちる。
 何もかも、退屈なくらいに彼の思うままだった。

「やっ、やめ、て……」

 懇願する首筋に手をのばし、上を向かせる。ひくりと震えた喉の感触すら、同じだった。

「私には、関係ない!な、何も知らないんだって!」

 こんなに同じなのに、こんなに、違う。

 そのとき彼はふと、自分はなぜこんなことをしているのだろう、と思った。
 わざわざ時間をかけてこんな場所にきて、どうということのない女を詰問して。
 それで?

 緊急性と危険性、時間と労力。『これ』によって得られるものは、費やしたものに見合うのだろうか。
 害がないのなら捨ておく。これは明らかにそうしていい、いや、そうすべき事柄だった。なぜなら彼の身は、彼のものであって彼のものではないからだ。

 彼には義務があり、責務があり、使命がある。
 物事には優先順位がある。

 だが、くつがえしようもないその事実に向かって、今もなお、彼の中で抵抗を続ける男がいる。

 ―― 事件の『処理』ではなく、『解決』を。

 つまらない悪あがきだと断じてよかった。多分に曖昧で、自己判断的な。
 だが、そんなつまらない悪あがきが、彼をして、今ここに立たしめている。
 目の前の女を見下ろしながら、彼は今になってその事実を理解した。

 安室と降谷は、同じ顔をした別人ドッペルゲンガーなどではない。互いを敵視することもなければ、主導権をめぐって相争うこともない。
 彼らはただ『彼』という多面体をそれぞれ違う方向から見た、その側面の表現にすぎないのだ。

 精神構造、行動規範、趣味嗜好。流動的で表面的なそれら。
 自分で作り変えられる部分に、大切はものは存在しない。

 もしも『本当の自分』などといったものが存在するのだとしたら。
 それはきっと、変えたくても変えられず、なくしたくてもなくせない、そんな何かを指すのだろう。

 結局のところ、安室も降谷もその同じ『何か』を共有する同一人物でしかないのだった。

 彼には義務があり、責務があり、使命がある。
 同時に、意志があり、感情があり、思いがある。

 身体はひとつ。頭脳もひとつ。
 そして、心もひとつ。

 腹の底にひそむ、そのたったひとつが望むものを、ここに至り、彼はようやく理解した。

 ああそうか、とくすぶりつづけていた苛立ちが、溶けるように消えていった。
 女の首から手が離れる。
 解放された入絵はよろよろと壁に手をつき、困惑と怯えに満ちた目で彼を見上げた。
 安室はその瞳をまっすぐに見つめ、告げた。

「目を逸らさないで」

 彼女はひゅっと息を吸いこみ、動きを止めた。感情の色が、また塗りかわる。
 怯えと恐怖のかわりに、その瞳を染めたのは驚愕だった。

「目を、逸らさないで」
「なんでそんなことを、貴方が」

 呆然と目を見開く入絵に、彼はかぶりを振り、掠れた声で言った。

「いいえ、知りません。僕は何も知りません」

 トウコという名の彼女について、自分は何も知らない。何も知らずに通りすぎてきてしまった。
 今度は彼が懇願する番だった。

「だから、僕はここに来たんです。どうか、お願いします。貴女の知っていることを教えてください」

 誰かから贈られたのだろうバッグを手に提げ、美しく着飾った女。見知らぬ男に迫られて、怯えて、驚いて、目を潤ませる、そんなどこにでもいる、当たり前の。

「ほんの少しでいいんです」

 彼は心の底から、願った。
 ほんの少しでいい。『それ』をわけてやってほしい、と。

「いまさら、そんなこと」
「姉ちゃん!」

 入絵が苦しそうに俯いたとき、駆けてくる足音とともに、背後から声がかかった。
 ふたりのそばまで来た赤羽巧は、姉に近付く男が顔見知りだと知って、びくりと立ちどまった。

「たしか、安室さん、でしたよね」

 巧は複雑な面持ちで、男の顔と姉の顔を交互に見やった。不審者だと思って慌てて駆けつけてきたものの、事情ありげな状況に、どう対処したものかと困惑しているようだ
 自分よりも体格の良い大人の男を前にして、怯えの混じった戸惑いを見せながらも、しかし、巧は姉の手を引っぱって自分の背中に隠した。

「話があるなら俺が聞きますから、これ以上いじめないでやってください。これでも、俺にはひとりしかいない姉貴なんです」

 はっと入絵が顔を上げた。眼前にある弟の背を見つめ、入絵はどこか泣きそうな顔になった。
 そして、彼女はそっと弟の肩を押した。

「家に入っていなさい、巧。私なら大丈夫」
「でも、姉ちゃん」
「この人にしないといけない、大事な話を思い出したの。お父さんやお母さんは呼ばないで。すぐ終わるから」

 巧は納得のいかない顔をしつつも、しぶしぶ頷いた。後ろ髪を引かれるように、こちらを振りかえりながら去っていく。
 その背中が完全に消えたのを見届けて、入絵は口を開いた。

「今から言うことは、あの子がまだ知らない話です。決して他言しないこと、そしてもう二度と私たちに近づかないこと。それを約束してくれるなら」

 黙って頷いた安室に、入絵はようやっと決意の息を吐きだした。

トウコという名前の女性は知りません。これは本当です。でも別の名前なら、ひとつだけ心当たりがあります」

 その瞳によぎった感情は本人以外には決して読みとけない、かすかで複雑なものだった。

赤羽雪枝ゆきえ。ずっと昔に死んだ、私の双子の姉です」


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