『赤羽入絵にはたしかに、同日に生まれた姉が存在します。名前は赤羽雪枝―― 今から十五年前に死亡の確定している人物です』
File.48 ドッペルゲンガー(Ⅱ)
「死因は?」
『焼死です。火災に巻きこまれたようですが、詳しい状況は不明です』
この部下にしては珍しく要領を得ない報告だった。
彼は眉根を寄せた。
「状況がわからない?」
『死亡地が国外になっているんです。海外旅行中の事故だったらしく、提出されている死亡診断書は、海外で発行された死亡証明書に拠るものでした。火葬は海外で行われ、国内に戻ってきたのは遺骨のみです。よほど、遺体の損傷が激しかったのでしょう』
風見はかぎりなく事実に近いと思われる推察を淡々と述べた。
海外で邦人が死亡した場合、とくに理由がないかぎり、防腐処理を施してまずは国内へと遺体を移送するのが一般的だ。
荼毘に付すなら生まれた場所で、という心情的な理由もあるが、現実問題として国外で邦人の埋火葬を行うのはそう簡単ではないためだ。
身も蓋もない説明をすれば、埋火葬許可書の発行に時間がかかり、その間に遺体が傷んでしまうのである。
諸処の事情をおしてわざわざ海外で火葬したということは、とても保存して移送する気になれないような状態だった可能性が高い。
彼はふと、トウコの腕にあった火傷の痕を思い出した。
―― 炎で焼かれてなお、この世に残りつづける亡霊。
『どうかされましたか』
「いや、何でもない。報告は以上か?」
はい、と抑えた声が答えた。
一連の手続きは現地の警察と在外公館、外務省および遺族の間でのみ行われる。
遺体の状態で戻ってきたのならまだしも、海外ですべて終わらせてしまったとなると、手の届くところに、ろくな記録は残っていないだろう。
『この件については、今後も続けて調査を―― 』
「大丈夫だ、あとはこっちでやる。お前はもう休んでいい」
『犯した失態の埋め合わせ程度しか、私は役に立ちませんか』
頑なな声に、内心苦笑した。
どうやらかなり落ちこんでいる。
業務報告時と同じ、熱を感じさせない物言いの裏に、だが実際には強い自責の念が込められている。
顔が見えずとも、それくらいのことはわかるものだ。昨日今日の付き合いではないのである。
どこまでも職務に真摯なこの男は、最初の身元調査で戸籍の偽りを見抜けなかったことを、自分の手落ちだと責めつづけているらしい。
「指示どおりに動いて上手くいかなかったのなら、それは指示を下した者の責任だ。それとも、わざわざ自分からそんなことを言いだすあたり、手抜きをした覚えがあるのか?」
『い、いえ、それだけは絶対に』
「だったらもう気にするな。お前は良くやってる」
電話の向こうで驚愕する気配を感じて、彼は少々複雑な気持ちになった。
普段、自分はそれほど叱責一辺倒なのだろうか。
上役として不名誉な思いになった彼は、どうしたものかと考えて、せっかくだから互いの名前すら出せないこの不自由な電話を利用してやることにした。
軽く咳払いして、声のトーンを変える。
「『君の上司』はそんなこと、毛頭考えていないと思うけど。一介の探偵には戸籍調査なんてできないから、そのぶんの仕事が君のところにまわっただけさ」
「……え?」
さっきとはべつの驚きが返ってくる。彼は苦笑しながら続けた。
「『僕』は君と同じく、慌ただしい彼を陰から一生懸命支える身でね。普段の献身を顧みてたまには僕の頼みも聞いてくれ、って泣きついてみたんだ。そしたら、使える部下をひとり貸してやる。ただし用が終わったらすぐに返せ”ってさ」
数秒おいて、電話の向こうで堪えきれず噴きだす音が聞こえた。きわめて珍しいことに、あははと声をあげて笑っている。さすがの彼もこれには少々度肝を抜かれて、携帯をまじまじと見つめてしまった。
『ご存知かもしれませんが、俺は、なんでもできるあの人とは違って不器用なタイプなんです』
ひとしきり笑ったあと、まだ余韻を残す声で、風見はそんなことを言いだした。
『だからこういう不自由な連絡方法も、本当はあまり好きではなかったんですよ。うっかり口を滑らせて、言ってはいけないことを言ってしまいそうで。でもこんなに面白いものが聞けるならそう悪くはありませんね』
「目の上のたんこぶがいないとわかった途端よく喋るね。『彼』に対しても普段からそんなふうに対してみたらどうだい」
『まさか、とんでもない』
笑いまじりに応じてから、風見はぴしりと背筋を正すように、整った声調に切り替えた。
『では、あの人にはこうお伝えください。“お気遣いありがとうございます。ですが、こちらにはいくらでも備えがあります”、と。いつでもどこへでも飛んでいって、どんなことでもやります。ご命令とあらば』
「……出し惜しみするだけあって優秀な部下だよ。まったく」
安室もまた電話のこちら側で笑った。
この件について、これまで風見に頼んだ調査は本来は最初の身元調査で判明するはずだった内容だけである。さっき風見本人が言ったとおり、埋め合わせの範疇を出るものについては、ほぼ触れさせていない。
現状、トウコは彼らに敵対していない。であれば、ただでさえ忙しい部下の手を、これ以上この件で煩わせるのは本意ではなかった。
「だから、ここからは、僕がやるべき仕事だ」
彼は電話を切り、そのままポケットに突っこんだ。携帯と入れかえるように、ポケットの中に入っていたものをひっぱり出す。
ボロボロになった、桜のストラップ。
この件の『処理』を望んだ降谷と、『解決』を願った安室。
二者の葛藤を崩した最後のひと押しは、論破や説得というよりも、もはや嘆願に等しいものだった。
安室は、降谷にこう泣きついてやったのだった。
「安室透はこれまでさんざん降谷零を助けてきた。だったら、一度くらい逆があってもいいんじゃないか、ってね」
コーヒーを片手に、安室はトウコのデスクだった場所に座った。
「赤羽トウコ」
それはまさしくトウコが彼に対して名乗っていた名前だった。
名乗っていた、というと語弊があるかもしれない。正確には、彼女はたしかに『赤羽トウコ』だったのだ。
今回の件は、単に偽名を自称していたのとは根本的に事情が異なる。
彼女は『赤羽トウコ』の免許証を持っていた。
直に触ってみたこともあるが、まちがいなく正式な手続きを踏んで発行された本物だった。学生証や保険証も同様である。
これらの証明書類は、本人確認書類のなかでもとくに真正性の高いものだ。本人以外が本物を発行することは非常に難しい。
「だが、彼女は本人じゃない」
本人ではない彼女が本人にしか手に入れられないものを所有していた、となれば、彼女が偽ったものとは何だったのか。
たとえば、だ。
会員登録、クレジットカード加入、ローン契約、入学、就職、免許取得。
手続きが公的になればなるほど、より高次の本人証明が必要とされる。
図書館の利用登録には学生証が、学生証の発行には住民票が。
そうして、その証明の糸を上へ上へと辿っていった、その根元。
この国において『本人であること』を最も確かに証明する根資料。
それは、戸籍である。
トウコは、『赤羽トウコ』という名前の正真正銘本物の戸籍を持つことによって、本当の『赤羽トウコ』になったのだ。
本人証明の根っこをおさえていたのだから、証明書類も発行し放題だったわけである。
しかし。
「それは本来 、不可能だ」
詐欺や替え玉、なりすまし。
身分詐称が昨今これほど横行していても、戸籍の改ざんが『よくある犯罪』にならない理由。
それは非常に簡単なことである。
できないからだ。
やろうと思っても、戸籍を改ざんすることはできない。戸籍の原本は厳重に管理され一般人の目に触れる機会はない。
したがって、すり替えや書き換えのチャンスもない。
一般的に言われる戸籍の偽造というのは、ほとんどの場合、原本自体をどうこう、というものではなく、写しである戸籍謄本や戸籍抄本のニセモノをつくった、改ざんした、という意味だ。
しかし当然のことながら、そんなものでは、隣人は騙せても、国家の目は欺けない。
警察を含む国家機関には、『本人や血縁者以外には戸籍謄本・抄本の取得ができない』という大原則を超え、必要に応じて戸籍の記載事項を確認する権限がある。
彼らが本気になって身元調査をおこなえば、どんなウソもまるで意味をなさない。
だから、本来であれば、トウコの正体は最初の身元調査の時点で明らかになっていたはずだった。
しかし、実際にはそうならなかった。
いつしかコーヒーは空になっていた。わずかな残りを飲みほして、持参していたノートパソコンの電源を入れた。
戸籍自体の偽『造』は難しい。
「が、偽『装』はできる」
パソコンが立ちあがるまでの間に、安室は冷蔵庫にコーヒーを取りに立った。
冷えた缶のプルタブをひき、一気に半分ほど流しこむ。腔内に残る苦味が脳を鮮烈に刺激した。
そう、書きかえずとも、戸籍を偽ることは可能なのだ。
人間に合わせて戸籍を改ざんすることができないのなら、逆に戸籍の記述のとおりに、人間が合わせればいいだけなのだから。
空いた戸籍を買いとる―― トウコが選んだのはその方法だった。
たとえば、該当するのは行方不明者の戸籍だ。
死亡届こそ出されていないものの実際にはもう存在しない、もしくは存在しても何らかの事情で本人を名乗ることができない。そんな人物や一家を見つけては、その戸籍を売買する者がいる。
戸籍を買った者は、元の名前を捨てて、その戸籍に書かれた名前を名乗る。出生年月日も、記載された年齢と実年齢の差が見てわかるほどでなければバレはしない。
戸籍に顔写真はない。DNAの情報も、指紋もない。
本来の持ち主が現れないかぎり、いや万が一現れたとしても、より本人らしく本人として振る舞いつづけるかぎり、誰にも見分けはつかない。
これを、彼らの言葉で背乗りという。
たとえば外国の工作員が現地人になりすます際によく使われる手口である。
『私のミスです』
あのとき、風見はそう言った。
だがあの男にかぎって、そんなことはありえない。風見は間違いなくその部分の裏づけをとったうえで―― たとえば、現地に人を派遣し、戸籍に書かれた内容と家族の実態が一致しているかどうかの確認をしたうえで―― 彼に『問題なし』との報告を上げたはずだ。
だから、そこにはきっと何らかの仕掛けがあった。
彼らの調査をすり抜けるための、巧妙だが単純な、そして、彼女だけに許されたトリックが。
飲み干した缶をゴミ箱に投げいれて、安室はパソコン上でブラウザを起動した。キーワードを入れて検索する。
『赤羽錠前店』の会社概要ページ。
企業代表者の欄に記載されている名前は『赤羽正岳』。
これは赤羽入絵の父親の名前でもある。
一方、現在確認できている、赤羽トウコの戸籍上の父親の名前は『赤羽隆二』。
本来一致しなければならないはずのそれはやはり、異なっていた。
姓は同じだが、下の名前が違う。
トウコの戸籍が正しいものなら、記載された『赤羽錠前店』代表者の名前はトウコの父の名である『赤羽隆二』でなければならない。にもかかわらず、実際の表記は赤羽入絵の父である『赤羽正岳』になっている。
彼女が調査の目をまんまと欺いた仕掛けを、安室はあの田舎町にいる間ずっと考えていた。
同じ姓の表札が並ぶ通りを歩きながら、ふと思いついたのが、この『赤羽』姓のトリックだった。
子どもは、生まれると同時に自動的に親の戸籍に入る。
そして、『養子縁組』『死亡』、そして『結婚』のどれかに行きあたるまで、その家族の一員として同じ戸籍を使いつづける。
したがって、未成年や未婚の人間になりすましたいなら、必然的に家族を丸ごと買いとることになる。
たとえば借金を負って夜逃げしたあと、そのまま全員が行方不明になっているような一家だ。
戸籍を買った本人は、そのなかで今の自分に一番近い人物を選び、なりすます。
実際にはひとりしかいない『五人』家族―― そんな虚構を演じつづけるのだ。
しかし人員の不在は、同時に偽造発覚の穴にもなりやすい。実態のない家族であることは、近隣住民への聞きこみなどで簡単にバレてしまう。
だから、トウコは戸籍を厳選した。
具体的には、実在の『赤羽正岳』一家と、姓・家族構成・本籍地の三つが偶然にも似かよった空き戸籍を探し、買いとった。
それこそが『赤羽トウコ』の一家の戸籍だったというわけだ。
トウコは実際に存在する家族に、実際には存在しない家族を重ねあわせ、まるで架空の赤羽一家が実在しているように見せかけたのだ。
たとえば。
自分には祖父、両親、妹弟がいる。両親は錠前屋を営んでいる。
騙したい相手に、あらかじめそんなふうにキーワードを伝えておく。戸籍を調べればまったくそのとおりの家族構成であることがわかる。そして、実際に現地に赴けばそのとおりの家族が暮らしている。
その光景は、そのまま真正性の証明書となるだろう。
赤羽姓は総人口の約五十パーセントが長野県に集中する土着姓であり、錠前店のある辺りはとくに赤羽姓の密集している地区だった。同姓同名の人物や同姓で名前の読みが同じ人物などが多数存在し、ただでさえ本人確認が容易でない。
安室はふたたびパソコンの画面に目をやった。
『赤羽正岳』と『赤羽隆二』。
たしかに、なりすましを見抜くヒント自体は至るところにあった。
姓と家族構成は同じでも、個々人の名前は異なっているから、家族のメンバーひとりひとりについて詳細な身元調査をおこなっていれば、偽装は早々に発覚していただろう。
しかしトウコは、正式な『協力者』ではなかった。
彼女に対しての調査は犯罪歴の有無、その他明らかに不審な点がないかの確認程度に留まっていた、というのが実際のところだ。
「そして、赤羽入絵」
安室は長野で隠し撮りをした、赤羽入絵の写真に視線を落とした。
揃いも揃ってこのからくりを見抜けなかった最大の要因は、彼女の存在にあった。
以前、トウコが高校時代の写真を見せてきたことがある。
制服を着て、友人たちと並んでいる女子高生。
安室がトウコ本人だと思いこんだその人物こそが、まさしく赤羽入絵だったのだ。
今から思えば、トウコはひと言もそれが自分の写真だとは言わなかった。
何の嘘もつかず、たった一枚の写真を見せただけで、トウコは安室にいつわりの過去を刷りこんだ。
自分を調べようとする者の視線を、自分ではなく、たしかな身分と実態をもった赤羽入絵へと強力にミスリードする―― 彼女の作戦は終始そのようなものだった。
一見しただけでは見分けのつかないもうひとりのトウコ。
同じ顔をした別人。
どういった機関によってどの程度の調査が入るかまで予測したうえでの、ぎりぎりの『仕掛け』だった。
「やってくれる」
安室はパソコンを閉じ、目を閉じた。
彼女のことを見落としたのにはさまざまな理由がある。
しかし、根底にあったのは何よりも彼の認識だった。
一番近くで見てきた彼が、彼女を不審だと思わなかった。だから、徹底した調査を指示しなかった。
「見落としたのは風見じゃない」
剥き出しのベッドに寝転び、天井を見た。
風見の報告によれば、実在の赤羽家に『トウコ』という名の女児が生まれた記録はない。
雪枝、入絵、巧。
戸籍に出てくる子どもの名はその三つだけだ。そして、あの妹弟の顔を見るかぎり、トウコがあの家の子どもであることは疑いようがない。
トウコは間違いなく、死亡したはずの『赤羽雪枝』本人だ。
「わからないことだらけだな」
なぜ、死んだ『赤羽雪枝』が生きているのか。
なぜ今になって、別の人間として生きはじめたのか。
なぜ、また姿を消したのか。
赤羽入絵との別れぎわ、告げられた言葉をふと思い出した。
『お父さんもお母さんもやっと乗りこえたの。だからもう、そっとしておいて。私たちの家族を壊さないで』
消えいりそうな声で、眉を下げたその表情を見て、はじめて安室は彼女のなかに、よく知る女の影を見たのだ。
天井から顔を背け、剥き出しのベッドマットに頬を押しつけた。
消毒したように何のにおいもないそれ―― だが、彼にはたしかに嗅ぎとれた。生きた人間のにおいが。
何ひとつ残さず透明にかき消えたその場所には、だがしかし、うっすらとした足跡が残っている。
残っているはずなのだ。
とくん、といつか感じたトウコの脈動が、手のうちに灯った。
トウコは、戸籍を偽るためだけに赤羽姓を選んだわけではない。
たとえば、以前、トウコが口ずさんだふるさとの歌。
はにかむように語られた『家族』の話。
おぼろげだった輪郭が、たしかな質感をともなって、しだいに浮きあがってくる。
「人間は、消えない」
人であるかぎり、完全に透明にはなれない。
彼の手はいまだ、あの白い首のたしかな脈動を覚えている。
トウコは、どこかにいる。
何らかのからくりでその身を透明にすかして。