『赤羽雪枝』という名前からは、現時点ではこれ以上の情報は出てきそうにない。
 安室はとりあえず、そう結論づけた。
 なにせ十五年近くも前に海外で死亡した人間だ。国内にいながら、その死の真相を明らかにするのは容易ではない。少なくとも探偵・安室透には不可能だと言っていい。

 となれば次に調べるべきは、トウコの残したもうひとつの痕跡―― ハイツ・アサヒである。



Chapter.4 ゴースト・ハント

File.49 二〇四号室(Ⅰ)


 探偵は足が命、とはいうものの。
 とりあえず現場に行けば事件が解決するのかというと、答えはもちろんノーである。

『外に出ないと調べられないこともたくさんある、っていうのは探偵の安室さんだったらよくご存知でしょう』

 と、どこかの女が言っていたような気もするが、逆もまた真なり、だ。現場でしかわからないこともあれば、現場では絶対に調べられないこともある。

 安室は昨日に引き続き、例のマンションの一室にどっかりと腰を下ろしていた。
 目の前にはもちろんノートパソコン。

「まずはハイツ・アサヒ自体について」

 建物について調べる最も手っ取り早い方法は、不動産登記簿に記載された登記事項を確認することだ。

 不動産登記簿―― 建物についての概要が記された公的資料であり、『不動産の戸籍』とも呼ばれるものだ。
 分かるのは、建物の用途と大きさ、所有者の氏名と住所など。過去に売買や移譲がおこなわれていた場合には、以前の所有者に遡って確認することも可能だ。

 人間の戸籍とは違って、不動産登記簿は、内容が公開されている。閲覧の手続きはそう難しくない。管轄の法務局へ行き、申請用紙に調べたい建物の家屋番号など必要事項を記入するだけだ。
 多少の手数料とひきかえに、誰でもその建物の情報を知ることができる―― のだが。

「今はどこもかしこもデジタル化、データベース化、クラウド化だからね」

 安室はぽんぽんとご機嫌にリンクを辿り、お目当てのページを開いた。
 登記情報オンライン提供サービス。
 不動産登記などをインターネット上で確認できるシステムだ。
 わざわざ法務局まで出向かずとも登記情報を閲覧できるため、調査を生業にする者には大変重宝だ。良い時代になったものだ。

 というわけで、さっそくハイツ・アサヒの情報を得ようと情報提供の申請をおこなった安室だったが、結論からいえば、モニターに表示された文言は、彼の期待に沿うものではなかった。

「未登記か」

 安室は眉をひそめた。

 新しく建物を建てた場合、通常は管轄の法務局へその建物についての情報―― たとえば所在地、建物の構造、用途、所有者の氏名や住所などを届け出なければならないことになっている。
 これがいわゆる『登記』と呼ばれる行為であり、その集積の結果が先ほどの不動産登記簿だ。登記を行うことで所有者が誰であるかが明確になり、所有権を巡るトラブルを回避できるというわけだ。

 しかしさまざまな理由・事情により、まれにその登記自体がなされていないことがある。
 このような状態になっている物件を、未登記建物という。

 古い建物にはたまにあることだ。まったく予想していなかったわけではないのだが。
 彼はノートパソコンを閉じて頬杖をついた。

「楽はさせてもらえないな」

 探偵は足が命。

◇◇◇

 数日ぶりに訪れたハイツ・アサヒは、朝の陽光の下で、あいかわらず安っぽい白色に光っていた。

 以前、青田が言っていたように、一階の住人は改装工事のためにすでに全員が退去済だ。
 無人の一階は無視して、階段をのぼる。
 二階の廊下に立った彼は、四つのドアに目をやった。

 掲げられた名前は奥側から順に、
 宇多川(二〇一)、
 山崎(二〇二)、
 青田(二〇三)、
 それから前回同様、二〇四号室には表札なし。

 二〇二号室と二〇三号室の間で、耳をすませた。どちらの部屋からも物音はしない。念のためノックもしてみたが、人の気配は感じられなかった。
 青田は先日に引き続き外出中、山崎はおそらく仕事中。
 山崎の職場はシフト制だろう、というのが安室の予想だった。一年前も二日前も、すれ違ったのは妙な時間帯だった。

 青田はともかく、山崎のほうはうまくいけば会えるかも、と思っていただけに、少々出鼻をくじかれた感はある。
 しかし安室はグズグズすることなく、次の行動に移った。

 まだ一度も会ったことのない二〇一号室の住人、宇多川。
 二〇一号室は二階にある部屋のうち唯一、かつてのトウコのトリックに関係のなかった部屋だ。当時も『宇多川』の表札があがっていたのは記憶にあるが、それ以上のことはさすがに覚えていない。

 部屋の中には人の気配があった。
 もう十時過ぎだ。寝坊な人間もそろそろ起き出す時間だろう。

 チャイムを鳴らすと、しばらくして慌ただしい足音とともにドアが開いた。
 顔を覗かせたのは、髪を金色に脱色した大学生らしき青年だった。宅配便か何かだと思っていたのだろう、宇多川は皺だらけのタンクトップとスウェットというだらしない格好のまま、ぽかんと安室を見た。

「えーっと。新聞もエネーチケーもいりません……?」

 宅配業者の次の候補として、新聞の巡回営業員を思い浮かべたようだったが、明らかにそれらしくない安室の風貌を見て、語尾には疑問符が添加された。
 安室はにこやかな表情を作って話しかけた。

「残念ながら、新聞契約のご案内はできそうにないですね。私、月刊情報誌『東都STYLE』で専属ライターをしております、安室と申します。不躾な訪問、申し訳ございません。今度雑誌に掲載する特集の件で、ぜひ取材協力をお願いしたく存じまして」

 雑誌の記者だと聞いた途端に、面倒臭そうにすがめられていた目がぱちくりと興味を示した。予想どおりの反応だ。

「特集ってどんな?」
「『都内のレトロアパート十選』です。取材といってもアンケートのようなもので、十分分程度お時間をいただければ充分なのですが」

 へえ、と言って、宇多川はそろりと廊下へはみ出してきた。エネーチケーは要らなくても、取材を受けるのはやぶさかではないらしい。

 人間は、教えを請う者には口が軽くなる。とくにそれが、社会的な影響力を持っていそうな相手となれば。
 自分の話が有名な雑誌に掲載され、大勢の人の目に触れるかもしれない。脚光を浴びることなく生きてきた人間ほど、そういった自己肯定欲の満たされそうな話に、不用心に食いついてくる。

 どのような人間であれ、心のどこかでは自分の意見を認めてほしいと願っている。
 SNSで自分のなにげない投稿が拡散されると、おそろしい反面、どこかワクワクするような気持ちになる。もっともっとほしいと思う。次も期待してしまう。
 以前、声をかけた女がそんなことを言っていた。彼にはまったく理解できない心理だが。

 安室は俄然乗り気になっている宇多川に対し、あらかじめ準備しておいたどうでもいい質問をいくつかしてから、本題に入った。

「では次に。ここの大家はどのような方ですか?」
「んー、知らないッス」
「知らない?」

 安室は眉をひそめた。

「会ったことないんスよね。電話も知らないし。ややこしいのはマンション屋さん的な人がやってくれたし」

 マンション屋さん的な人、とあまりの言い草におもわず頬が引き攣った。

「か、管理者の連絡先をご存知なければ、何かトラブルがあった際に困るのでは……」
「そういうのはトラブルが起こってから考えればいいかなって。『AI:BO』の人も言ってるじゃないスか。事件は現場で起こってるんだぜ!って」

 満面の笑みを見せる真っ金金の稲穂頭。
 そのおめでたい色の髪の毛を一本残らず毟りとってやれば、多少は脳みその風通しも良くなるのでは、と安室は自分の髪色を棚にあげて、わりと真面目に考えた。

「だいたい――
「ん?だいたい?」

 だいたい、その台詞は『AI:BO』じゃなくて、レインボーブリッジを封鎖するほうだ、バカモノ。これだから人生を舐めたクソガキは。

「ごほん、何でもありません。では次に、住人についてわかる範囲でおしえていただければと思います。近ごろ、とくに女子大学生の間でレトロなアパートに住むのがブームになってきているのですが、こちらの物件にもそういった例はありますか」

 女子大生?と青年は眉根を寄せた。

「ここにはたぶん、いないんじゃないっスかね。見たことないし」
「では過去には?」

 うーん、と宇多川は両腕を組んで考えこんだ。相手の様子を見ながら、もうひと押しする。

「一年くらい前、こちらのアパートに女子大生が入居していたという話を聞いたことがあるんです。真偽のほどは定かではありませんが、もしご存知でしたらどういった方だったのかお話を伺いたいと思いまして。ああ、もちろんプライバシーに関わる内容についてはきちんと伏せさせていただきますから」

 ご心配なく、と笑顔でつけくわえると、宇多川は「ふーん」と顎に手を当てた。

「オレ、ここに入ってきたのがちょうど去年の春なんスよね。一年前だったら、んー、ビミョー。すれ違いになってるかも。でもさあここって、レトロっていうか、ただのボロアパートじゃないッスか。トイレはボットンだし、夏は虫だらけだし。よっぽどお金に困ってなけりゃ、女の子が住むとは思えないッスけど。ちなみにそれって何号室の話?」
「二〇四号室です」

 できるだけさりげなく、核心に触れた。しかしやはりその途端、相手は怯んだような顔になった。
 二〇四、若い女性、とひとりでボソボソつぶやく青年に、安室は穏やかな表情を保ちながらも、一歩詰め寄った。

「何かご存知で?」
「い、いやあ、もの好きな人もいるんだなあって思って。まあ、ここ安いし。あー、オレ午前中にレポート出さなきゃなんで、もうそろそろ――

 急に態度を変えて、宇多川はヤドカリのように玄関に引っこもうとした。
 が、当然、却下だ。
 ドアが閉まりきる前に安室は足を出し、ガッ、と腿を挟みこんだ。

「おっと失礼、足が勝手に。二〇四号室の話、ご存知のようですね。おしえていただけません?」

 好青年風の爽やかな笑みを浮かべながらも、手のほうはスチールノブを握りつぶさんばかりにビキビキと青筋を立てている。優男の仮面を脱ぎすてた安室に、宇多川は「ぴえ」とネズミが鳴くような声をあげた。

「待っ、ちょっ、ゴメッ、ちがった、サーセンッ」
「サーセン?あはは、最近よく聞きますけど、どこの国の挨拶なんですかねそれは」

 じりじりと開かれていくドアに、彼はとうとう音をあげた。

「こ、これ、人に聞いた話なんスけど!」

 叫ぶように自白を始める。少し力を緩めてやると、「あざす……」と目に見えてほっとした顔になった。

「ま、前置きしておくと、この話、オレ自身も信じてるわけじゃないッスから。シンギノホドはサダコではないんで、あらかじめゴリョウショーってことで」

 宇田川を肩を小さくして、ドアの隙間から二〇四号室の方向をちらりと見た。

「いや、そのせいでアパート全体がめちゃ安なのはたしかなんスけど。いや、ほんと、信じてるわけじゃなくって。マジで」

 その瞳には、安室に対するそれとはまた違う、たしかな怯えの色があった。

「つまり?」

 端的な催促に、宇多川は唾を飲みこみ勇気を振りしぼるようにして言った。

「こ、ここの二〇四は、若い女の人のユーレイが出るって、センパイが」
「事故物件ということですよね。死因はご存知ですか」
「し、しいん……」

 ノータイムで問いかえした安室に、宇多川はますます青くなった。ドアの向こうからおそるおそる安室を見あげるその顔には、『この人、実はヤバイ人なんじゃないの』とでも言いたげな表情が貼りついている。
 民間人には少々ショッキングな言葉だったかもしれない、と安室は咳払いして言いなおした。

「事故物件だと仮定しまして。あの部屋で起こった事件がどういうものかはご存知ですか」
「……自殺、らしいッス。若い女の人が遺言を残して」

 宇多川は息だけを使って囁いた。まるで、このアパートに棲む何かに、聞かれることをおそれるように。

「私が死んだら、桜の木の下に埋めてください、って」

 ―― 花の下にて春死なむ。

 女の声がよみがえる。
 狂ったような花の吹雪が瞼の裏に散った。

◇◇◇

 ハイツ・アサヒ。
 自殺事件。
 二〇四号室。
 インクで黒く汚れた指先を擦り合わせて、ぺらり、と大判なページをめくる。

 ここにもなし、と。
 調べおわった古い新聞を元の場所に片づける。平日の昼間の図書館、人のいないソファをまるまるひとつ占拠しながら、安室は大きく伸びをした。

 ハイツ・アサヒにまつわる過去の記事をさがすという、かぎりなく地道な作業である。ネットの新聞記事アーカイブでは、それらしいものが一件もヒットしなかったのだ。
 この程度、降谷零としての彼なら指先ひとつ、指示ひとつで調べのつくことだった。
 降谷零にできて、安室透にできないこと。そんな例は数えるのも馬鹿らしくなるくらいたくさんある。

「大変だな、探偵ってやつは」

 自分へのねぎらいなのか、それとも探偵全般へのコメントなのか、どちらともつかない言い方で、安室はひとり呟いた。

 時計の針がぐるぐるとまわる。
 時間のかかる作業を、それでも持ち前の情報処能力により、人の数倍の速度で進めていく。

 安室透はずっとひとりだった。
 部下を持たず、何でも自分でやってきた。細々とした下調べも、退屈で地味な調査も全部。
 それがこんなに面倒なものになってしまったのは、いったい誰のせいだろう。

 指の腹が我慢ならないほど真っ黒になってきたころ、安室は新聞をめくる手を止めた。
 ハイツ・アサヒの記事だった。
 ただし、見出しにも本文にも『自殺』という言葉はない。彼の目が釘付けにされたのは、三面ではなく地元面だ。

 細かくブロック分けされた地元面の一番端、ほんの小さく掲載されたそこには『入居者募集』の文字があった。
 記事の日付は約八年前。
 安室は食い入るように文字を追った。

『ハイツ・アサヒ。駅近。家賃二万円(応相談)。募集は一名、入居希望者多数の場合、面談により決定します』

 記事を押さえる手に、力がこもる。

「ご連絡は同アパート二〇四号室在・大家、佐神トウコ、まで」


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